銘記

 返却された答案用紙、その右上に記された数字は、どれだけ睨んだところで増えたりはしなかった。
「……ぐ、うぅぅ」
 これで三教科目だと、三十点に満たなかった点数にがっくり頭を垂れる。項垂れている彼の横を、女生徒が朗らかな笑顔と共に通り過ぎて行った。
 恐らくは、思っていた以上に良い結果だったのだろう。彼女とは正反対の顔をして、綱吉は深々と溜息をついた。
 出席番号最後の生徒の名前が呼ばれて、教室のざわめきは一気に最高潮に達した。
 チャイムが鳴って、授業が終わる。早速席を立ったクラスメイトが、友人や仲間に点数を確認しようと声を高くした。
「ツーナ」
 山本もそのひとりで、彼は白い答案用紙を丸めて持ち、項垂れていた親友の後頭部を叩いた。
 にこやかな笑顔に、悪意はない。彼は点が良かろうと、悪かろうと、いつだって呑気に笑っている。
「どうだった?」
「ほんっと、最悪」
 それが分かっているのに、どうしても態度が悪くなってしまう。吐き捨てた綱吉に彼は「おや」と目を丸くして、握り潰していた自分のテストを広げてみせた。
 名前の欄の横に書かれていた数字は、お世辞にも良いものではなかった。
 が、赤点はぎりぎり回避している。つまりは綱吉よりも上だ。
 正直言って、羨ましい。
「うぅ……」
「え、まさか」
「うん」
 今回は楽勝だったな、と言うつもりでいた山本は、用意していた台詞を飲み込んで声を上擦らせた。
 範囲も狭かったし、問題だって割と簡単だった。これくらいなら綱吉だって、四十点台に到達できると踏んでいただけに、山本自身もショックを受けた顔をした。
 頷いてそのまま下向いて、彼は唇を噛み締めた。
 これで春休みは、リボーンの死ぬ気の特訓が決定だ。三つ以上赤点を取った場合、一学期から全部おさらいをする、というのがあの鬼家庭教師の出した条件だった。
 盛大に溜息をついて机に突っ伏して、綱吉は悔し涙を飲んだ。
 あまりの落ち込み具合にかける言葉が見付からず、山本は空笑いを浮かべて手を振った。あまり余計な事を言わないほうが良いと判断して、蟹歩きで遠ざかる。
 親友にも見放されて、綱吉は恨めしげな眼差しを遠くに投げた。
 向いた先には、ひとり涼しげな顔をして座る男子生徒がいた。
 彼はきっと、こんな辛い思いをした事が無いに違いない。綱吉とは違って成績優秀で、授業に出ずとも毎回テストで満点を取ってしまえる頭脳の持ち主なのだから。
 爪の垢でも貰って置けばよかったか。そんな事を考えていたら、視線に気付いたらしく、獄寺が顔を上げた。
 頬杖を解き、振り返る。が、目が合う前に次の授業のチャイムが鳴って、ふたりの間にクラスメイトの身体が紛れ込んだ。
 綱吉は身を起こし、深呼吸した。まだ返却されていないテストが幾つかある。ひとつでも挽回できるものがあるかもしれないと期待するが、結果は見事に惨敗だった。
「十代目」
 全教科のテストが返却されて、計算した結果、平均点は三十点台。
 こんな数字、とてもではないがリボーンに見せられない。
 家に帰りたくないと放課後も教室でモタモタしていた綱吉は、横から声をかけられて物憂げに顔を上げた。
 西日を浴びて、銀髪が眩しいくらいに輝いていた。縁のない眼鏡をかけて、理知的な眼差しを一層強めている
 彼が誰であるかを把握する前に、綱吉はぶすっと頬を膨らませた。
「お帰りにならないのですか?」
 ハリセンボンと化した彼に気も止めず、獄寺は右手を差し出して問うた。彼はたまにとても鋭いくせに、たまにとても鈍い。綱吉の機嫌が悪い理由や、帰宅を渋る原因も、直ぐに気付いて良さそうなものを。
 あまりの鈍感さに腹を立てて、綱吉はにこやかに微笑む彼から目を逸らした。
「あっ」
 ぷいっ、とされて、彼は吃驚したように声を上げた。宙に浮いていた手を泳がせて、此処に至ってようやく綱吉の不機嫌さに目を見張る。
「どうか、なさいましたか」
「いいよね、獄寺君は」
 だが依然、何故拗ねているのかについては、気付こうとしない。
 彼にはなんの落ち度もないのに苛立ちが募って、綱吉は低い声で吐き捨てて、爪先で前の席の椅子を蹴った。
 思わぬところからガタゴト音がして、獄寺は慄いて半歩後退した。それで視界に、お世辞にも長いとは言えないが入って、原因を知ってホッと安堵の息を吐く。
 それから再び綱吉に向き直って、朗らかに微笑んだ。
 あまりにも無邪気な笑顔に毒気が抜かれた。綱吉は、自分がひとり怒っている現実にも不満を抱き、下膨れた顔をして背中を丸めた。
「俺が、どうかしましたか」
「だって、どうせ百点ばっかりだったんでしょ」
「え? あー……、ああ」
 自分を指差した彼を上目遣いに見詰め、ボソボソ言う。ようやく合点がいったようで、獄寺はポン、と手を打った。
 彼は人に説明するのが極端に下手だが、理解力はある方だ。教科書をひと読みすれば、大抵のことは覚えてしまう。記憶力も半端ない。
 彼の脳みそは、きっと綱吉のものよりも詰まっていて重いのだ。
「リボーンさんに、何か言われてたんですか?」
 綱吉の家庭教師役を自認している赤ん坊と彼とは、面識がある。不機嫌の根底にあるものもあっさり見抜かれて、綱吉は息を詰まらせ、もぞもぞしてそっぽを向いた。
 分かり易い態度に苦笑して、獄寺は両手を腰に当てた。
「言ってくだされば、俺が」
「だって獄寺君の説明って、分かり辛いんだもん」
「ガーン!」
 大袈裟にショックを受けた顔をして、獄寺が更に半歩、退いた。
 擬音を自分で言った彼にうっかり笑ってしまって、綱吉は幾分気持ちが落ち着いたのを自覚した。
「はは」
 頬を緩めて笑って、八つ当たりしてしまったのを目で詫びる。思いが伝わったのか、獄寺は直ぐに気を取り直してしまりのない顔をした。
「でも、ホント凄いね。獄寺君は」
「なにがです?」
「だって、頭いいし。君の十分の一くらい、俺にも記憶力があればなー」
 言って机を押し、椅子の前脚を浮かせて身体をブラブラ揺らす。今にも崩れそうな絶妙なバランスの上に立っている彼を見て、獄寺はちょっと心配そうにしながら、肩を竦めた。
「そう、いいことばかりでもないですよ」
 いくらか自嘲気味に呟いて、彼は隣の席に腰を預けた。
 浅く座った彼を見て、綱吉は椅子を真っ直ぐに戻した。腰を引いて僅かに角度を持たせ、不思議そうに彼を見詰める。
 眩い太陽を思わせる琥珀の瞳に照れて、彼は赤くなった頬を掻いた。
「いいじゃん」
「さあ、どうでしょう」
 綱吉が僅かに身を乗り出した。届かないと知りつつ肘で小突く仕草をして、茶化す。獄寺は曖昧に笑って言葉を濁すに済ませた。
 反応が面白くない。不満を顔に出した彼に目を細め、獄寺はふっと真顔に戻って遠くを見た。
 綱吉も同じ方向に顔を向けたが、際立って目立つものはなにもなかった。消し残しが目立つ黒板の前に教卓があって、沢山の机が理路整然と並んでいるだけだ。
 怪訝にしていたら、獄寺がぷっ、と噴き出した。
「獄寺君?」
「いえ、なんでも」
 思い出し笑いなのだろうが、何を振り返ったのかまでは、綱吉には分からない。教えて欲しかったのに答えてももらえなくて、むっとしていたらまた笑われた。
 顔の前で手を振って、獄寺は苦しそうに喉を引き攣らせた。
「獄寺君」
「十代目は、そんなに記憶力が欲しいんですか?」
「うん!」
 笑いを噛み殺しながら問いかけられて、綱吉は迷わず頷いた。
 元気の有り余った返事に相好を崩し、彼は目尻を下げた。
 綱吉は兎に角、物覚えが悪かった。昨日習ったことは、翌日には綺麗さっぱり忘れている。そんなだから一夜漬けで勉強したところで無駄と、本人が既に諦めてしまっていた。
 そして忘れるのは、なにも勉強だけではなかった。
 嫌な記憶も、辛い思い出も、哀しい出来事も、少し時間を置けばすべて忘れてしまう。
 無論完全に消すなど不可能で、たまに急に蘇って嫌な気分になったりもするけれど、それだって一時的だ。
「俺はむしろ十代目が、羨ましいです」
「え?」
 だというのに、思いがけない事を言われた。しんみり呟いた彼に目を瞬き、綱吉は呆気に取られて口をぽかんと開いた。
 間抜け顔を笑いもせず、獄寺は冴えた瞳で彼を見詰めた。
 表情に、嘘や冗談を言っている雰囲気はない。真剣に、心の底から思っている顔だった。
「でも」
 綱吉のようなちっぽけな脳みそでは、出来ることは限られている。大事なことですら簡単に忘れてしまう頼りない記憶力を欲しがるなど、獄寺は頭でもぶつけたのだろうか。
 疑念を抱いた綱吉の眼差しに、彼は肩を震わせた。
「覚えてるってことは、忘れないって事でもあるんですよ」
「ああ、うん」
 当たり前の事を言われて、綱吉は頷いた。
 今更そんな事、確認されるまでもない。しかし獄寺はゆるゆる首を振り、同じ台詞をもう一度、繰り返した。
「覚えているという事は、忘れられない、という意味です」
 先程よりもゆっくり、はっきりと告げた彼に眉目を顰め、綱吉は口を尖らせた。
 こんなにも重ねて告げるという事は、重要な意味を持つのだろう。だが、分からない。
 膨れ面になった彼に呆れ混じりの笑顔を浮かべ、獄寺は他人の机に深く座りなおし、爪先を蹴り上げた。
「十代目は、昨日の夜、何をしていましたか」
「え? 普通にゲームして、お風呂入って寝たけど」
「では一年前の日の夜は? 五年前は?」
「えー……?」
 両手を膝に重ねた彼の質問に、綱吉は視線を泳がせた。
 いきなりそんな事を聞かれても、覚えていない。五年前といえばまだ綱吉は八歳で、ランドセルを背負っていた頃だ。
 母と一緒に夕食を取って、テレビを見て、遅くならない頃に布団に入って寝た。推測を交えて答えたら、今度は夕食の献立を聞かれた。
「そんなの、わかんないよ」
 覚えてもないのに、答えられるわけがない。意地悪な獄寺に反発して噛み付くが、彼は涼しい顔をして、優しく微笑むだけだった。
 一寸した憶測が頭を過ぎって、綱吉は言いかけた言葉を止めた。
「……もしかして」
「俺は覚えてます。五年前はまだイタリアの城に居て、夕飯の前にピアノのレッスンがありました。夕食のメニューも、ちょっと時間が掛かりますが、多分全部言えます」
 白い歯を覗かせてはにかんだ彼の言葉が信じられなくて、綱吉は目を見張った。
 零れ落ちそうなくらいに見開かれた瞳に照れ臭そうにして、獄寺は艶やかな銀髪を掻き回した。
 眼鏡を外し、蔓の部分を持ってゆらゆらと揺らす。穏やかに見えるその横顔の裏で、彼の頭の中にどれだけの記憶が渦巻いているのか、まるで想像がつかなかった。
 絶句して、はたと我に返って、綱吉は目を瞬いた。
「す……」
 凄い、と言いかけて言葉を呑む。
 獄寺が振り返った。笑顔は心持ち、寂しげだった。
「凄い、んだよね」
「どうでしょう。俺は昔からずっと、これが当たり前でしたので」
 今更そんな評価を貰っても、実感が沸かないと言って笑う。その瞳があまりにも切なくて、綱吉は自分の失言に恥じ入りながら、拳を左胸に押し当てた。
 獄寺は覚えている。全部、忘れずに記憶している。
 綱吉が忘れてしまったことも、なにもかも。
「じゃあ」
 ハッとして、前を見る。綱吉が何に思い至ったかを知って、彼は笑顔で頷いた。
「姉貴に酷い目に遭わされた時の腹具合も、入院した十代目のお見舞いに行く途中で車に吹っ飛ばされた時の痛みも、です」
「嘘」
「俺は、十代目に嘘は言いませんよ」
 即答されて、綱吉は黙った。顎を引いて獣のように唸り、唇を噛み締める。
 睨まれても獄寺は表情を変えなかった。穏やかで、揺るがない。優しい眼差しに折れて、綱吉は自分の軽々しさを呪った。
「ごめん」
「十代目が謝る必要など、ありません」
 これは獄寺が生まれながらに得た能力であり、綱吉には一片の責任もない。
 詫びられる理由が見付からないとあっけらかんと言って、彼は顔の横で手を振った。
「どうか、顔を上げてください」
 覚えているという事は、忘れられないという事。
 彼の言葉の正しい意味が、ようやく分かった。
 辛い記憶も、哀しい思いでも、痛みも、苦しみも、なにもかも覚えているのだ。綱吉が寝て、起きた時には綺麗さっぱり無くしてしまっている嫌なことが、彼の中には永遠に、消える事無く残り続けるという事だ。
「十代目がそんな顔をしているところは、覚えていたくないんです」
 だから笑ってくれるよう頼んで、彼は机から飛び降りた。
 足音を聞いて、綱吉はかぶりを振った。両手を持ち上げて顔を覆って、袖でごしごしと擦る。
 大きく息を吸って、吐いて、乾いた唇を舐めて、背筋を伸ばす。
「へへ」
 無理矢理の笑顔は多少ぎこちなかったけれど、獄寺は嬉しそう首を竦めた。
 綱吉も椅子から立ち上がって、思い浮かんだ内容を整理しようと咳払いした。巧く言えるよう言葉を選んで、傍らまで来た獄寺をじっと見詰める。
「ねえ」
「はい」
「全部、覚えてるんだよね?」
「それは、……まあ」
 鞄をフックから外して左手に握って、綱吉は言い渋る彼に右手を伸ばした。指を絡めて緩く握れば、獄寺は吃驚したように目を見開いた。
 悪戯に成功した顔をしてケラケラ笑って、繋いだ手を振り回す。
「じゃあさ、教えてよ。俺と、君が、始めて会った日のこと」
「え?」
「後、みんなで花見をした時でしょ。山に行った時とか、雪合戦した時とか」
 綱吉がもう仔細を忘れてしまった、けれど確かにあった楽しかった日々。それらを彼が語ってくれれば、綱吉はいつだって、「そうだったね」と笑える。
 哀しかったことではなく、楽しかったことだけを思い出して、そしてその語らいあった時間が彼にとってまた楽しい記憶になれば。
 うず高く積み上げられた彼のメモリーは、幸せな色ばかりで埋め尽くされるはず。
 にこやかに笑う綱吉にしばし絶句して、獄寺は唇をぎゅっと引き結んだ。深く頷いて、指先に力を込める。
 綱吉は痛がらずに受け止めてくれた。
「そうですね。じゃあ、何から行きましょう」
 目を閉じれば鮮やかに蘇る。
 あの日の綱吉も、そういえばこんな風に笑っていた。
 

2011/05/14 脱稿