「うぅぅ~~」
地底から響くような低い唸り声に、雲雀は盛大に溜息をついた。
ベッドに腰を半分預けて座り、右手を伸ばす。辛そうにしている額に触れて前髪を掻き上げてやれば、露わになった琥珀の瞳が恨めしげに彼を見た。
眩いばかりの輝きを放つ双眸も、今は頭に響く激痛に苦しめられて暗く濁っていた。鼻を愚図らせて奥歯を噛み締めて、こみ上げる吐き気を必死になって堪えている。
血の気を失った肌を指の背で擽り、雲雀は利き手を引っ込めた。もうひとつ嘆息して肩を落とし、並べた足の間に転がす。
「だから言ったのに」
「だってぇぇぇ……」
呆れ混じりに呟けば、即座に反論が返って来た。だがそこから先が続かず、声は尻すぼみに小さくなった。
ひっく、としゃくり上げて喉をヒクつかせ、唇を噛み締めている。薄茶色の髪の毛をベッドに花開かせて、そう長くも無い脚を投げ出しに大の字に寝転がっている人物は、これでも一応、歴史に名を連ねるマフィア、ボンゴレの次期後継者だった。
上着を脱ぎ、ベスト姿で仰向けに、身を横たえている。呼吸は乱れ、時折詰まらせていかにも苦しそうだ。
「知っているかい。人間が持つ、アルコールを分解できる酵素の型は、生まれた時から決まっているって」
雲雀は囁くように呟いて、立ち上がった。枕元のチェストに歩み寄り、透明なガラスの水差しを持ち上げる。注ぎ口に引っ掛けられていたグラスを天地正しく持ち、冷たい水を半分ほど注いで、腰を捻る。
ボンゴレ十代目なる人物は大きな枕を引き寄せて、そこに顔を埋めていた。
伸ばしていた膝も軽く曲げて、右を下にした体勢を取っていた。もう少し背中を丸めて丸くなれば、さながら母胎に眠る胎児だ。
跳ね放題の髪の毛も、本人の精神状態を受けたのか、萎びて垂れ下がっていた。鼻から吸った空気を口から吐き出して、絶えず脳を襲う激痛に耐えて唇を戦慄かせている。
痛みに耐え忍ぶ姿は、見る側に否応無しの同情を抱かせた。
但し、こうなった事情を知る人間は、別だ。
「ほら」
肩を竦め、雲雀はベッド際へ戻った。天井からの弱い光を反射するグラスを差し出し、飲むように言い聞かせる。
ボンゴレ十代目こと沢田綱吉は、硬く閉ざしていた瞼をふるりと震わせ、潤んだ瞳を前方に投げた。
雲雀の手の中で揺れるグラスをぼんやり見詰め、熱を帯びた息を吐く。虚空を彷徨う眼差しは、焦点が定まっていない。見えていないのかと困惑して、雲雀は右手を引いた。
ぴちゃん、と狭い空間に閉じ込められた水が跳ねた。
「起きられる?」
心持ち優しげに問いかけて、状態を確認する。斜め下から覗き込もうとするが、綱吉は逃げるように顔を伏した。
枕を抱き締めた彼に呆れた顔をして、雲雀は不要になってしまったグラスの水を高く掲げた。
頭にかけてやろうかと一瞬考えて、大人気ないと止める。仕方なく自分の口に運んで飲み干し、喉の渇きを潤したところで、ベッドの上の塊がもぞりと動いた。
「……のむ」
「遅い」
うつ伏せになって、首だけを持ち上げてボソリと言う。だが時既に遅く、彼の為に注がれた水は、とっくに雲雀の胃の中だ。
チェスト上の水差しにはまだ二杯分に相当する量が残っているのだが、突っ伏している綱吉にはそれが見えない。素っ気無く告げられたひと言と、雲雀の手に握られた水滴だけが残るグラスだけが、すべてだった。
湿った唇を舐めた黒髪の青年を見上げて、綱吉はショックを受けたのか、呆然と目を見開いた。
「おみず」
「ちょっと待ちなよ」
「ひばりさんが、のんだ」
新たに注ぎ足すべく、踵を返そうとした雲雀の背中に、たどたどしい言葉が飛ぶ。舌足らずの、どことなく幼い口調で苦情を言われ、彼はやや剣呑な目つきで後ろを振り返った。
綱吉が力の入らない腕を伸ばし、雲雀を掴もうと足掻いていた。
顔は、笑っているような、怒っているような、良く分からない表情を作っていた。子供、というよりは赤子だろうか。まだ自力で立つのもままならない乳児が、母を求めて這いずっている姿に似ている。
「小動物」
「おー、みー、ずー」
戸惑って呼びかけるが綱吉は聞かず、駄々を捏ねて喚き、ベッドサイドを両手で殴った。
ベッドに対して身体を斜めにして、足もじたばたさせて埃を立てる。思わず手を翳して顔を背けた雲雀は、膨れ面をして拗ねている、もう二十歳をとっくに過ぎている青年にやれやれと肩を落とし、疲れた様子で項垂れた。
「この酔っ払い」
「はー、やー、くー!」
小声で悪態をつくが、小声過ぎて綱吉には聞こえていない。短く切った前髪をクシャリと握り潰し、雲雀はグラスを掴む右手を緩めた。
もう少しで割ってしまうところだった。飛び散った破片で怪我をされても困ると自分に言い聞かせ、彼は空のグラスをチェストに置いた。
「まー、だー?」
どうして逐一、語尾を伸ばして喋るのだろう。
聞き取り辛いので止めてほしいのだが、今言ったところでどうせ聞き届けてはもらえまい。諦めの境地に突入して、雲雀は水差しを取ろうと右手を前に運んだ。
その手が空を切り、別のものを掴んだ。
「……なに?」
酷く素っ気無いひと言を、ポケットから引き抜いた携帯電話に投げつける。こんな時間に寄越される連絡は、どれもろくなものではない。仏頂面で応対している雲雀を見上げ、綱吉は柔らかい枕を徐に持ち上げた。
頭痛も忘れて身を起こし、振りかぶって投げる。
「ちょっと」
いきなりぶつけてこられた雲雀は、話中であるのも忘れて酔っ払いを睨んだ。
電話口の向こうから、何があったのかと問う声がする。日本語で、男だ。
草壁ではない。あの男は先ほどまで雲雀と一緒に居て、今頃は荒れ果てている宴会場の片付けに勤しんでいるはずだ。
時差を考えない本国からの電話、と思って間違い無い。もしかしたら大事な用件かもしれないのだが、脳細胞の半分近くが活動を停止している綱吉には、その辺の判断が出来なかった。
他に投げるものはないかとシーツに手を這わせている彼の目は、据わっていた。
「後にして」
呆れ気味に短く告げて、雲雀は通話を切った。はっきりと室内に響く声に、綱吉はハッと息を飲んだ。
雲雀が誰に向けて言ったのか、正しく理解出来ない。自分に向けて発せられたものと勝手に勘違いして、彼は震え上がった。
「むぎー!」
「なっ」
唐突に甲高い雄叫びを上げた彼に、雲雀は吃驚して仰け反った。
通話が切れたばかりの携帯電話を握り締めて、発作的に身構える。警戒心を露わにした彼を見て、ベッドの真ん中にいた青年は益々金切り声を上げた。
両手を振り上げて太鼓を叩く玩具があったように思うが、あれに動きが似ている。腕を上下左右に振り回し、空気をポカスカ殴ってひとり暴れまわっている。
いったい彼は何と闘っているのか。酔っ払いのやる事は分からないと、雲雀は額に手を翳した。
「なんなの」
「ひばりさんが、つめ、たいっ!」
急に癇癪を爆発させて、いったい何が気に障ったのか。
電話だって直ぐ切ったし、水だって入れてやろうとしていた。雲雀本人は己の行動に、何の落ち度も無かったと信じている。
だというのに「冷たい」という評価を下されて、甚だ不本意だった。
足元に転がっていた枕を拾い、ベッド際へと戻る。綱吉に渡すと、彼は掴んで即座に投げてきた。
難なく受け止めて、もう一度同じ事を繰り返す。最終的に雲雀は返却を諦め、取り戻そうと伸びてきた手を避けて頭よりも高い位置に掲げた。
「むあー」
「弱い癖にどうして呑むの、君は」
「かー、えー、せー」
玩具を取り上げられた幼児ではなかろうに、届かないと知りながら手を伸ばすのを止めない。
いつまで続くかと呆れ半分に観察していたら、そのうちに綱吉はしゃくり上げ、鼻を愚図らせ始めた。
うんうん唸るほどに酷かった頭痛は、どこかへ行ってしまったらしい。青白かった肌も今は艶やかな紅色をしていたが、潤んだ瞳は未だ蕩けていた。
酔いが冷めたわけではない。むしろ、頭に蔓延し尽くしたとみるべきだ。
「……だから言ってるのに」
どれだけ呑んでも酔えない人間もいれば、ひと舐めしただけでも酔える人間まで、世の中は色々だ。
前者である雲雀にしてみれば、後者の綱吉が時々羨ましくなる。コストが限りなく安い中で、アルコールの恩恵を最大限受けられるのだから。
もっとも、それにも限度というものはある。いったいどれくらい呑んだのかと、草壁を伴って訪れた先で見た死屍累々を思い出して、彼は深く長い溜息をついた。
あの場には獄寺も、山本もいたのに、彼らはいったい何をしていたのだろう。
どうして止めてやらなかったのかと、考えるだけで頭が痛い。
「ぐずっ」
声に出して鼻を啜った綱吉を見下ろし、雲雀はいい加減肩が疲れたのもあって、枕を持つ腕を下ろした。渡してやると、綱吉は真ん中でぎゅうっと強く抱き締めた。
ひょうたん型になった枕越しに涙目で睨まれた。迫力は皆無だが、言えばまた怒るので口を噤む。
「ひばりさん、おれのこと、きらいなんだ」
「ちょっと待ちなよ」
なにがどうして、その結論に至るのか。酔っ払いの思考回路というものは支離滅裂すぎて、素面には辛すぎる。
自分の方が頭痛に襲われて、雲雀はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。一気に疲れた顔をして、顔を真っ赤にして口を尖らせている青年に肩を落とす。
これがボンゴレ十代目と言われて、そうだと納得する人間がこの世にどれくらいいるだろう。とても成人しているようには見えない童顔と、幼い行動は、アルコールの影響もあって普段の数倍酷かった。
「ひばりさんが、つめたい」
「冷たくないよ」
「つめたい。つー、めー、たー、いー!」
ムキになって言い返すが、まるで話が通じない。綱吉はバッと両手を広げると、左手に枕を掴んだまま仰向けにベッドに倒れこんだ。そうして大の字になって、またもやじたばた暴れだした。
この現場を録画して、後で見せてやろうか。
ちょっとした腹いせを思いついて、雲雀は携帯電話を彼に向けた。
それが丁度、他所に電話を掛けようとしている風に見えて、綱吉は本来の用途から激しく逸脱した目的で、枕を投げ放った。
「いたっ」
当たり所が悪く、雲雀は携帯電話を落とした。床に角をぶつけて跳ね返り、横倒しになって沈黙する。
これしきで壊れることはないだろうが、綱吉への心証はこれでかなり悪化した。
「君ね」
「ひばりさん、おれの、っこと、きら……っ」
「……」
叱ろうと目を吊り上げて睨めば、綱吉はべそをかいて声を上擦らせた。
大粒の瞳を歪め、鼻をずくずく言わせて嗚咽を漏らす。情けない風貌に一瞬でやる気を失って、雲雀は頭を抱え込んだ。
むしろこちらを、草壁に押し付けて任せてしまうべきだった。
「きらい、なん、だっ」
「誰もそんな事言ってないよ」
「きらいなんだー!」
緊張の糸がぷつりと切れて、綱吉はついに泣き出した。滝のように涙を流し、鼻水と涎も垂らして顔を汚していく。
唸ったり、怒ったり、泣いたり、なんと忙しいことだろう。せめて感情が切り替わる間隔がもう少し長ければ、こちらも対処が楽なのに。
眉間の皺を揉み解し、雲雀は泣きながら怒っている青年に一歩、歩み寄った。
ベッドに手を置いてスプリングを沈め、身を乗り出す。枕もなく、他に投げるものもない綱吉は大きく肩を震わせて、涙でいっぱいの目で雲雀を睨んだ。
「嫌いなんて言ってない」
「うそだー!」
言われた台詞に瞬時に反発して、声を荒げる。鼓膜を突き破る高い音に舌打ちして、雲雀は暴れまわる手を掴み、力技でねじ伏せた。
大人しくさせて、ずい、と顔を寄せる。
「だったら、君はどうなの」
琥珀の目を覗きこみ、逸らすのを許さずに問う。
浴びせられた熱風と、真っ直ぐな眼差しに、綱吉は凍りついた。
新しい涙が零れ落ちる。はらりと流れた透明な雫を追うように、彼は口を開いた。
「……すき」
宝箱からあふれ出した想いが、風となって彼らの間を駆け抜けて行った。
「すき。ひばりさん、すき。すき。だいすき」
未だ舌足らずな、たどたどしい口調は変わらない。同じ単語を一心に繰り返す様は傍目には滑稽だったが、雲雀は笑わなかった。
両手で頬を挟む。親指で涙を拭ってやると、綱吉は窄めた口から息を吐き、嬉しそうに笑った。
「すき。すき。ひばりさん、だいすき」
中学生の頃だって、こんなにも沢山、愛の言葉を囁いてくれなかったのに。
酔いに任せて勢い良く喋る彼に苦笑して、雲雀は額に額を押し当てた。
「そう。そんなに僕のこと、好き?」
「すき」
怒りや悲しみとは違う涙が零れ落ちた。見詰め合って笑って、雲雀はベッドに腰掛けた。
床に向けて手を伸ばし、直ぐに姿勢を正して振り向く。
「好き?」
「すきー!」
問いかけに素直に頷いて、綱吉は満面の笑みを浮かべた。
翌日。
「消してください」
「やだ」
「消して。消してー、消してえ!」
しっかり録音されていた愛の告白に真っ赤になった綱吉は、以後二度と酒は飲まないときつく心に誓った。
2011/05/02 脱稿