奇妙なところにいると、最初はそう思ってしまった。
公園の、花壇の傍。茶色い煉瓦を並べて作られた小さな、けれど色鮮やかなその場所のすぐ隣に、鹿目まどかは膝を折り、しゃがんでいた。
友達思いで心優しい彼女のことだから、見事に咲き誇る花を愛でていたところでなんら不思議ではない。最初に胸に抱いた感想を即座に消去して、暁美ほむらは緩く首を振った。
彼女が彼処に居たって、なんら不自然な事は無い筈だ。違和感を覚える自分こそが、恐らくは一番この世界で違和感を持たれるべき存在であるというのに。
「鹿目さん」
タイルが敷き詰められた公園の遊歩道は、踏みしめるとざり、と砂を食むような音がした。どこから飛んで来たのか、灰色の小石がひとつ、寂しげに転がっているのが見えた。
ほむらは意図的にそれを蹴り飛ばし、視界から追い払った。呼び掛けると同時に歩を進め、屈んでいる少女の元へ近付く。
心持ち早足になってしまうのを、どうしても止められなかった。
「ほむらちゃん」
まどかが顔を上げた。何故此処にいるのかと、戸惑いをあからさまに露わにして小首を傾げる。彼女のうす桃色の髪の毛が、風に靡く柳のようにゆらゆらと揺れた。
長い黒髪を背に流し、ほむらは彼女の手前、丁度五十センチのところで足を止めた。
「なにをしているの」
「え、……と」
この公園で出会う過去はあったけれど、まどかが花壇の前で膝を折っている時間は今まで存在しなかった。
明朗快活を絵に描いたようだった少女は、今は自分に自信がない、控えめで臆病な性格になってしまっていた。
はきはき喋っていたのが嘘のようだ。遠い、もういつだったかも思い出せない記憶に歯を食い縛り、ほむらは辛抱強く彼女の返事を待った。
まどかがほむらを見たのは一瞬だけで、視線は直ぐにまた足許の花へ向けられてしまった。
それが悔しいだとか、寂しいだとか思う気持ちは、ほむらには無かった。事務的に、そうするようプログラムされた機械人形のように、表情の一切を消してただひたすら、待ち続けた。
彼女が立ち去るつもりが無いとようやく悟ったのか、まどかは小さく溜息をついた。どこか悲しげに眉を寄せ、照れ笑いとも取れる微笑みを口元に浮かべて、やおら右手を伸ばした。
そうっと、傷つけぬように彼女が触れたのは、花壇に咲く花だった。
「それは」
「……うん」
ほむらも今になって気付いて、目を見張った。
煉瓦積みの花壇の端に咲いた花が何輪か、無残に踏み潰されていた。
「誰かが、間違って踏んじゃったのかなぁ、って」
時間が経っているだろうに、足形ははっきりと残されていた。大きさからして、まずもってまどかではない。大人の、男の足だ。
それが数メートルの距離を置いて、遠くまで続いていた。
花壇の全ての花を踏み潰す勇気が無い代わりに、人の目に気付かれにくい端の方を一寸ずつ、荒らしていったのだ。もしかしたら酔っ払いが道を行く中で足を踏み外し、意図せず花を潰してしまった可能性もあるが、真実はほむらにも、まどかにも分からない。
分かるのは、誰かの足の裏に押されて哀れにも茎が折れ、花弁を散らしてしまった花が存在している、という事だけ。
まどかはそのうちの、花は綺麗に残っていながらも、茎が中程でぽきりと折れてしまっているものを労るように撫でた。
細い茎を支え持ち、立たせてやろうとするけれど、花の重みの所為でどうやっても真っ直ぐにならない。手を離した途端にそれは、くたりと力尽きて荒れた地面に横たわった。
もう良いから放っておいてと、そう呟いているようにすら見えた。
「……っ」
鮮やかなオレンジ色の花の陰に自分の姿を見て、ほむらはぞっとする寒気を覚えて己を抱き締めた。握り締めていた学校の鞄を取り落とし、情けなくも動揺を表に出して顔を引き攣らせる。
「ほむらちゃん?」
物音に気付いたまどかが再び顔を上げた。オレンジのガーベラが、まどかの指の間からするりと零れ落ちた。
倒れた衝撃で、花弁が踊った。砕け散るところまではいかないけれど、仰向けに天を睨み、二度と動かない。
「なんでもないわ」
気にするなと吐き捨てて、ほむらは半歩後退した。突っ慳貪な態度を取ってしまって、後になっていつも反省するのに、どうしてもまどかの前では我を張るのを止められなかった。
先ほどまで花に触れていた手を中空に彷徨わせ、まどかは瞳を下向けた。俯いて、益々小さくなって切なそうに折れた花たちを眺める。
「可哀想だね」
本当ならもっと長い時間、此処で優雅に、楽しく咲いていられただろうに。
たったひとりの心ない行動の所為で全てを台無しにされて、哀れな死に体を晒さなければならなかった。
花に対するコメントだと分かっているのに、心が震えてしまう。なにげないまどかの呟きに大袈裟に反応する自分に、ほむらは奥歯を噛んだ。
落としてしまった鞄を拾い、軽く叩いて汚れを落とす。その最中で気持ちを落ち着かせて、彼女は大きく息を吸って吐き出した。
「あまり其処にいたら、貴方がやったって、思われるわよ」
「そんな事!」
冷たく、素っ気なく言い放つ。まどかの方を見ないようにして。
途端に彼女は叫び、勢い良く振り返った。
ほむらもまた、静かな――冷たいと表現すべきかもしれない眼差しで、彼女を見詰め返した。
沈黙がふたりの間に沈んでいく。同時にまどかの視線も下降して、最後は矢張り、折れた花へ向けられた。
「あたしじゃない」
「知っているわ」
「ほむらちゃん、酷いよ」
「私が酷いんじゃない。貴方をよく知らない他人が、そう言うかもしれないって話よ」
咎める言葉についムキになって、いつも以上に声が荒くなってしまう。だが告げてから、これでは自分は、まどかの事を良く知っている風ではないかと気づき、ほむらはハッとした。
幸いにも、彼女の危惧は杞憂に終わった。まどかは彼女の言葉の真意を気取る様子もなく、ただ静かに、寂しそうに下唇を噛んだだけだった。
「ごめんね」
やがて小さく、蚊の鳴くような声で謝罪を口にする。そうしてやおら、折れてしまったガーベラの茎を抓んだ。
筋が入ってしまっている部分を捻り、繊維を引きちぎってしまった。
「まどか」
「だって、折角咲いたのに。頑張って、綺麗に咲いてくれたのに」
これでは本当に、誰かに見られた時に言い訳が出来ない。慌てるほむらを余所に、彼女はゆっくり立ち上がった。
踏まれたというのに誇り高く、気高く花弁を広げているオレンジのガーベラ。大事に胸に抱えて、そっと、祈るように目を閉じて。
「どうするの」
花壇を踏み荒らした心ない人の代わりに、謝罪しているのだろうか。
彼女はいつだって、他人の為に自らを犠牲にしようとしていたから。誰かの為にしか、頑張れない子だったから。
ほむらの問い掛けに、彼女は長い時間を掛けて瞼を開いた。愛らしい眼を光に翳して、少し迷う素振りを見せてから、太陽にも通じるオレンジ色を愛おしげに見下ろす。
「押し花。そうしたら、ずっと綺麗なままでいられるから」
鞄を左手に、ガーベラを右手に持って、彼女は眩しい笑顔で言った。
無邪気なひと言に心を抉られた気がして、ほむらはつい、カッとなった。
「そうやってずっと、一生、枯れることも出来ずに咲き続けてろって事?」
咲いていた時の姿のまま干からびて、朽ちる事も出来ずにいる乾いた花。水も与えられず、安らぎも与えられず、永遠の孤独と戦い続けなければならない、一輪の花。
嘲り笑うように呟いたほむらに、まどかは瞠目した。
彼女の声は静かだった。だが、責めているのは明白だった。
なにがそんなに気に障ったのかは分からない。まどかは震える手で傷んだ茎を握り締め、ややしてから意を決して首を振った。
「違うよ」
「なにが」
「あの、……ね。巧くは言えないんだけど」
否定の言葉を口走り、追求されて口籠もる。目を逸らし、彼女は倒れてもなお空を仰ぎ、天に向かって手を伸ばし続けていた花がいた場所を見た。
あんなに痛めつけられても、傷ついても、それでも必死になって、諦めずに咲き続けようとしていた。
「もう、ひとりでがんばらなくったって、いいんだよって……思った、から」
尻窄みに小さくなっていく声を攫い、風が吹く。
ずっと我慢していたものが溢れそうになって、ほむらはぐっと、息を止めた。
2011/05/05 脱稿