綾になす

 何処からともなく、声が聞こえた。
 牛蛙が腹の底から搾り出した雄叫びにも聞こえるし、潰れた蟇蛙の断末魔にも聞こえる不気味なその声は、微かに耳覚えがあるようで、ないような、兎も角良く分からないものだった。
 夏目はゆるりと首を巡らせた。だがそれらしき影は近くには見当たらない。頬を撫でる風は西から吹いており、どうやらそれに乗って響いてきたらしい。
 目に入る前髪を脇へ払い、彼は目を凝らした。
「なんだろう」
 長閑な田園風景が広がる中に、一本の楠が枝を広げていた。冬でも落ちることのない緑の葉を大いに繁らせて、涼しげな木陰を人々に提供している。
 昔はそこで弁当を広げ、休憩を取る農民も大勢いたのだろう。
 伸びるに任せた枝ぶりを仰ぎながら、夏目は背の低い雑草を踏みしめて大楠に歩み寄った。樹齢がどれくらいは分からないがかなり立派で、太い幹には注連縄が回されていた。
 紙垂は風雨に晒された影響で跡形も無いし、注連縄自体もかなり草臥れている。だが人々がこの楠に対し、厳かな気持ちを抱いていたというのは、痛いくらい伝わって来た。
 根元には小さな祠が祀られており、手前にはお神酒のつもりだろうか、透明なカップに水が半分捧げられていた。
「へえ……」
 近付くに連れて、空気が澄んでいく。夏目は感嘆の息を漏らし、広い日陰に爪先を伸ばした。
 先ほどの不気味な声については、すっかり頭から消えていた。
 斑からは散々、余計な事には首を突っ込むなと言われていた。
 用心棒を名乗っているあの不細工な猫は、本来の姿は巨大な白い獣の妖だ。夏目の祖母であるレイコと旧知の間柄であり、その縁で今、夏目の傍で暮らしている。
「凄いな」
 こんな場所があったとは知らなくて、素直に感動しながら夏目はごつごつした幹に手を伸ばした。掌で触れようとして、
「ふおぉぉぉぉぉぉ!」
「っ!」
 先ほど耳にした、どうにも覚えがある絶叫が突如、頭上から降って来た。
 ビクッとして慌てて手を引っ込める。ついでに仰け反って楠から離れた瞬間、天から巨大な丸いものが一直線に落ちてきた。
 誰にも受け止めてもらえぬまま、張り巡らされた木の根の隙間にズボッと嵌ったそれは、苦しいのがモガモガいいながら短い足をじたばたさせた。だが空気を蹴り飛ばすばかりで、まるで意味を成していない。
 身構えたまま顔を引き攣らせ、夏目は足元に落ちてきた奇妙な物体に見入った。
 ドッチボールくらいの胴体に、テニスボールくらいの丸い尻尾。背中には朱と朽葉色の二色の模様が浮かび上がり、見え隠れする後ろ足には魅力的な肉球が。
 まったくもって見覚えがありすぎる形状にくらりと来た彼に合わせるかのように、大楠の枝から数枚の木の葉が舞い落ちてきた。
「先生……」
 饅頭をふたつ並べて耳と尾を付け足したような形状をした猫もどきに肩を落とし、夏目は盛大な溜息を零した。呆れてものも言えないとは、まさにこういう時の事を言うのだろう。
「ぐがー、ふがが、んがー!」
 ニャンコ先生、もとい斑は夏目の存在を気取っているのかいないのか、意味不明の声をあげて依然じたばた暴れていた。頭がすっぽり木の根の隙間にはまり込んでいるので、なかなか脱出出来ないでいる。
 なかなか面白い光景だが、黙って見ていたと知れたら後が五月蝿い。仕方なく夏目は膝を折り、太く短い後ろ足をぎゅむっと握りしめた。
「ふぎゃ!」
「こら、暴れるなって」
 唐突に足首を掴まれたものだから、斑は全身に緊張を走らせて抗い始めた。左手を振り解かれて、挙句蹴られ、夏目は苦々しい面持ちで怒鳴り、右腕に力を込めた。
 かなり乱暴に引き抜けば、勢い余って夏目の身体まで後ろに倒れそうになった。咄嗟に手を離してバランスを取れば、後方でぐしゃ、と重いものが潰れる音がした。
「あ……」
 聞いてから、右手が空なのに気付いて冷や汗を流す。
 首を竦めて振り返り、恐る恐る様子を窺うと、斑は四本の足を空に向かって突き出して、仰向けで畦に嵌っていた。
「ぬがー!」
「あちゃぁ……」
 どうにも怒っているらしい声に苦笑を浮かべ、夏目は首の後ろを引っ掻いた。まさかこうも見事にすっぽ抜けるとは思っていなかった。勿論わざとではないのだが、あの斑がそういう言い訳を聞いてくれるわけがない。
 後で羊羹の一本でも与えて、機嫌を取らなければ。
 財布の残高を思い浮かべて苦笑していたら、またもはらはらと、瑞々しい緑の若葉が降って来た。
 風もないのに奇妙なことと、夏目は視線を浮かせた。頭に落ちた一枚を抓んで揺らし、なにかいるのだろうかと木漏れ日に目を凝らす。
 黒い影がサッと動いた気がした。
「なーつーめー!」
「うわっ」
 だが気配を追いかける前に、どうにか天地を正しくするのに成功した斑が、物々しい形相と雄叫びでもって夏目に飛びかかってきた。
 爪を出して威嚇しながら突っ込んでこられて、思わず避けてしまう。またもずべしゃ、と地面に落ちた巨大猫は、ただでさえ面白い顔をもっと可笑しな状態にして、半べそをかきながら背中を丸めた。
「おのれ。おのれ、夏目のくせに!」
「なんだよ、それ」
 癇癪をぶつけられて、足を引っかかれた夏目は肩を竦めて首を振った。
 真面目に相手をするだけ、疲れる。いい加減にするよう叱って抱き上げようと手を伸ばせば、また不自然に楠の葉が彼の頭上に降りかかった。
 そもそも斑は、何故落ちてきたのだろう。普通に考えて木の上にいたとみるべきだが。
「足でも滑らせたか、先生」
「失敬な。私を誰だと思っておる!」
 一応外見は猫なのだから、高い場所から落ちてもきちんと四本足で着地して欲しい。
 もっともこの図体では無理な相談か、と呆れ混じりに呟けば、斑はこめかみに青筋を立てて煙を吐いた。
 一頻り憤慨して気が済んだのか、夏目に抱きかかえられた斑は最後にふんっ、と鼻を鳴らして偉そうに踏ん反り返った。やおら右前脚で楠を指差して、夏目の視線を誘導する。
 ガサガサと、これまでにないくらいに楠の枝が揺れて、大量の葉っぱがひとりと一匹に襲い掛かった。
「わっ」
「きゃ!」
 反射的に右手で顔を覆った夏目の耳に、甲高い悲鳴が紛れ込んだ。
 こちらも、どこかで聞いた覚えがあった。思春期の少女らしい、可愛らしい声に目を見開き、夏目は抱えていたものを放り投げて太い幹に駆け寄った。
 足が見えた。
「きゃ、わわっ、きゃあ!」
 高い位置にある太い枝から、絹のような白い肌が垂れ下がっていた。黒い革靴と、踝までの白いソックスで覆われた足が、丁度夏目の目の高さで心許なげに揺れていた。
 立て続けに聞こえた悲鳴に息を飲み、顔を上に向ける。
 途端、夏目の額に固いものが当たった。
「上向いちゃダメ!」
 一緒になって飛んできた絶叫にたたらを踏み、彼は仰け反って後退した。幹から一メートル弱離れ、改めて斜め上へと視線を流す。
 よく知った顔が、泣きそうになりながら楠にしがみ付いていた。
「ああ、なるほど……」
 自分が此処に至る数分前になにがあったのかが、ありありと想像できた。夏目はひとり納得して頷いて、投げ捨てられた腹いせに蹴ってきた斑の首根っこを掴んで引っ張り上げた。
 散々地面にぶつけたからだろう、猫の癖に広い額が赤く染まっていた。
「おにょれ、放せ、夏目」
「タキ」
「だから、見ちゃダメ!」
 じたばた暴れる斑を無視して呼びかけると、またもや木の実らしきものが飛んできて、夏目の眉間にぐっさり突き刺さった。
 足場も悪い中、ナイスコントロールである。奇妙な器用さを発揮した友人に唖然としながら、彼は左手を広げて顔を覆った。斑には指差しながら笑われて、悔しかったのでそのまま地面に落としてやった。
 尻から沈んだ丸太のような猫は放置して、するする枝の上に引っ込んでいった白い足から慌てて目を逸らす。
 木の上にいる少女は、スカートだった。
「も、もう。あんまり見ないで」
 恥ずかしそうに顔を赤らめて、多軌は声を上擦らせて怒鳴った。落ちないように両手でしっかり枝を抱き締めて、腹這い状態で枝にしがみついている。
 推測でしかないが、斑を見かけて追いかけたのだろう。木の上に逃げられて、後先考えず、服装のことも忘れてよじ登った。恐らくは、そんなところだ。
 そうして斑が地面に落ちて、彼女だけが取り残された。
「見ないよ。それより、早く降りて来いよ」
 ふわふわのスカートは、太い枝から四方に伸びる細い枝に引っかかり、裾が大きく広がっていた。足を下に垂れ下げようものなら、もれなく太腿が丸見えになってしまう。
 女子なのに木登りなんて、はしたない。
 口から出そうになった言葉を飲み込んで、夏目は降り止まない木の葉を掌で受け止めた。
 可愛いものを見ると見境が無くなる多軌だから、楠に登るくらいなんてことはないのだろう。お転婆な少女の笑顔を思い浮かべて苦笑して、夏目は彼女が地面に降りてくるのを待った。
 けれど一分経っても、三分経っても、なんの変化もなかった。
「タキ?」
「だから、見ないでってばー!」
 流石に不審に感じて、夏目は振り返った。途端、手痛い飛礫が彼の右目すぐ横を襲った。
 まさか構えていたのではなかろうか。あまりの反応の良さに言葉すら出なくて、夏目は両手で顔を覆って蹲った。
 彼女は依然、枝の上にいた。蛇のように這い蹲って、スカートが捲れ上がらないよう懸命に押さえつけていた。頬を真っ赤に染めて、今にも泣き出しそうなくらいに目を潤ませて。
 ふとした疑念が湧き起こって、夏目は目を瞬いた。
「あのさ、タキ……いてっ」
「夏目君の、変態!」
「誰が変態だ! って、そうじゃなくて」
 嫌な汗をひとつ流し、声を大にして大楠を仰ぐ。刹那、懲りずに多軌が木の実を投げつけて来て、彼は咄嗟に大声を張り上げて地団太を踏んだ。
 そんなにスカートの中身を見られたくないのなら、見えるような場所に上らなければいいのだ。もっともそんな事を言ったところで今更で、夏目は含み笑いを零している斑をひと睨みして、なるべく彼女を見ないようにしながら楠に近付いた。
 具体的には背中を向けて、足元ばかり見詰めながら移動する。
 色の薄い髪に覆われた彼の頭を真上から見下ろして、多軌は鼻を愚図らせた。
「その、さ。……降りられないんだろ」
「そうよ!」
 確認のために問えば、逆ギレされてしまった。
 大声で怒鳴りつけられて、夏目は首を竦めた。
「そうよ、恐くて降りられないのよ。大体、どうやって登ったのかも覚えてないんだもの。折角追い詰めたのに、猫ちゃんは逃げちゃうし。酷いんだから」
「……だってさ、先生」
「ふんだっ。私を捕まえようとする方が悪いのだ」
 斜めになっている枝の上で、落ちない程度に拳を上下させた多軌に苦笑して、足元の斑に話を振る。夏目の視線を受けて、こうなったもともとの原因たる存在は、関係ないといわんばかりにそっぽを向いた。
 羊羹を貢ぐ案は、夏目の中であっという間に撤廃された。
 ともあれ、目下最優先させるべきは多軌の救出だ。このまま放っておくわけにもいかないし、脚立を貸してくれそうな家屋も近くにはない。
 彼女が自力で飛び降りてくれるのが一番手っ取り早いのだが、この様子では期待できそうに無かった。となれば、下で夏目が受け止めるより他に術が無い。
「きゃっ」
「タキ!」
「いー、やぁ!」
 色々と救出方法を考えているうちに、甲高い悲鳴が轟いた。発作的に振り返れば、大量の木の葉や木屑と一緒に、多軌の履いていた靴まで落ちてきた。
 顔面に踵部分がめり込んで、夏目は意識が飛びそうになった。
 多軌の体力には限界がある。枝を抱いて身体を支える腕にも、もう力が入らなくなっているのだろう。
 必死にしがみ付いているが、いつ落ちてもおかしくなかった。夏目は彼女の右足の靴を地面に下ろすと、なるべく下半身は見ないようにして、半歩後退した。
「タキ、飛び降りろ」
「無理よ。夏目君じゃ、折れちゃう」
 両手を広げて、下で受け止めると態度で示すが、彼女は首を振ると同時になんとも言い難い発言をしてくれた。
 咄嗟に返す言葉が見付からず、彼は愕然としたまま自分を客観的に見つめた。
 確かに知り合いや、そうでない存在からも、度々線の細さを指摘されて来ている。マッチ棒と表現されたことまである。
 祖母の生き写しとまで言われるくらいだから、顔が若干女性に近いのは認めざるを得まい。だが体格については、一応これでも人並みに、育っているつもりでいた。
 こうも露骨に頼りないと宣言されるのは些かショックで、夏目は軽く落ち込んだ。
 両手で顔を覆って俯いた彼の頭上では、相変わらず多軌がひとりわーきゃー騒ぎ、足をばたばたさせていた。
 全く別々の方向を見ている彼らに呆れ、斑は小さく嘆息した。
 そしてもう帰ろうと踵を返して、後ろ足をむんずと掴まれた。
「分かったよ。俺で不満なら、先生に受け止めてもらえばいいだろ」
「なぬ!」
 突如槍玉に挙げられて、斑が素っ頓狂な声をあげた。ふくふくした顔からサッと血の気が引いてく。
 思わぬ形で巻き込まれた丸々とした猫に目を見開き、多軌は一瞬歓喜の表情を浮かべ、すぐに不安げに頬を強張らせた。
「でも」
「先生、元の姿に戻ってくれ。そうしたら、タキくらい背中で受け止められるだろ」
 長い尾を持つ獣が、斑の本性だ。鋭い牙と爪を持ち、全身は純白の毛で覆われている。
 その強さは、夏目が知る妖の中でもトップクラスだ。だが如何せん性格がいい加減なのと、酒を飲むと気が緩みすぎるというのもあって、時に格下にさえ翻弄される事がある。
「放せ、夏目。何故私が、あんな小娘のために」
「元はといえば、先生がタキをあそこに置き去りにしたんだろ」
 まさか可憐な少女が木によじ登ってまで追いかけてくるとは、斑だって予想していなかった。その点は彼に責任があるとは言えないが、この際構っていられない。
 頭ごなしに説教されて、斑は渋い顔をした。逆さまの状態から上を見上げて、枝に引っかかっている多軌と目が合ってこめかみをピクピクさせる。
 しかし断れば夏目の拳骨が待っており、彼は非常に嫌そうに首を縦に振って、夏目の手から抜け出した。
 ぼふんっと空気が膨れて爆発して、砂煙が巻き起こった。顔を背けて咳込んだ夏目の脇を、滑らかな白い毛が通り過ぎて行った。
「ね、猫ちゃん?」
 突然斑の姿が見えなくなって、多軌がうろたえた。不安定な中できょろきょろして、バランスを崩して枝から滑り落ちそうになる。
「タキ、大丈夫だから」
 辛うじて踏み止まるのに成功した彼女に肝を冷やし、夏目は正体を現した斑の背中を撫でた。
 今の斑なら、多軌を咥えて地面に下ろすのだって容易かろう。だがこの妖は、そこまでお人よしではない。
 クッション代わりを果たしてくれるだけでも儲けものと妥協して、夏目は白い肌を晒す少女から慌てて目をそらした。
「居るの? 居てくれてるの?」
「ちゃんと居るから。避けないよう掴んでおくから」
 パタパタ動いている尻尾ばかりを見詰め、夏目は艶やかな毛の何本かを握った。引っ張られて、斑が迷惑そうに顔を顰める。
 その表情の変化も、多軌には見えない。これだけ大きな獣も、彼女の瞳は映し取らない。
 夏目と多軌の見る景色は同じなのに、違う。
「ホント? ほんとにホント? 信じていい?」
 くどいくらいに何度も念押しして、その都度夏目から大丈夫の答えを引き出す。しかし多軌は一向に、枝から降りようとしなかった。
 本人の意志で降りるが先か、腕力が尽きて滑り落ちるが先か。
 一刻も争う状況にありながら躊躇しているのは、単純に、彼女に妖を見る能力が無いためだ。
 居ると分かっていても、実際眼に見えないと人は不安になる。夏目がいかに問題ないと繰り返そうとも、確証が持てない。
 切羽詰っているからこそ余計に、彼女は臆病になった。いつもの多軌なら、こんなにも怯えたりしないのに。
「タキ、大丈夫。心配しないで」
「ほ、ほんとなんだよね。嘘だったらいやだからね」
 涙ぐみ、多軌は最後の力を振り絞って枝の上で上体を浮かせた。スカートを引き寄せて、枝を跨いで座る。
 ぽとんと落ちてきたものがあって、何かと思えば彼女の靴だった。
 斑の背中を伝って滑り、コトン、と裏を上にして落ちた。そちらに意識が向いて、夏目が気を逸らしている間に、多軌は覚悟を決めて右足を引き、左足の方へ移動させた。
 間違って落ちないよう慎重に、膝を枝に押し当ててタイミングを計る。ぐぐぐ、と奥歯を噛み締めて腹に力をこめており、眉間の皺はかなり深かった。
 夏目の手の位置から斑の現在地を凡そで推測して、ぐっ、と息を飲む。下手をすれば地面に激突して、骨の一本くらい折れるだろう。
 目を閉じて、恐怖を打ち消す。まるっとした猫の姿を思い出して、絶対に大丈夫だと自分に言い聞かせる。
 ドクドク言う心臓を押さえて荒く息を吐く。
 下を見る。
 待ち構える夏目と目が合った。
「……きゃあ!」
「タキ!」
 踏ん張りきれなかった多軌が、枝に置いていた足をずるりと滑らせた。
 短い悲鳴にハッとして、夏目が上を向く。ふわりと舞い上がったスカートにぎょっとしたのは一瞬だけで、斜めに落ちてくる彼女の姿に、彼は咄嗟に、両手を前に突き出した。
「ふぎゃ!」
 尻尾を踏まれた斑が見苦しい絶叫をあげたが、誰ひとりとして気にかけなかった。
 恐怖に竦んだのか、多軌はきゅっと身体を丸めて縮こまっていた。声すら出ないらしく、顔のパーツを真ん中に集めて顰め面を作っている。息さえ止めて、衝突の衝撃に構えている様子だった。
 たった二秒にも満たない出来事だったのに、夏目にはそのすべてがスローモーションに見えた。
 逆巻いた彼女の髪が、木の葉と一緒になってくるくると宙に向かって踊っていた。
「タキ!」
 叫ぶ、その直後。
 夏目の眼前に星が散った。
 どすんと衝撃が来て、次になにか軽いものが彼の顔に覆い被さった。波が引くようにするりと下がっていくそれに気が向くより前に、腹部に襲ったとてつもない重みと痛みに呼吸さえ出来ない。
 受け止め切れなくて仰向けに倒れた彼は、後頭部を強かに打ちつけて目を回した。
 傍らで見ていた斑が呆れ顔を作った。深い溜息を鼻先に感じて目を瞬けば、漬物石よりもずっと重いものも一緒になって身じろいだ。
「う、うぅ……」
「わあっ」
 落下のショックから未だ復帰できずにいる多軌が、夏目の腹の上で呻いた。下半身を彼の顔に向けて突き出すように圧し掛かっており、瞼を開いた直後に見えた光景に、彼は慌てて首を右に倒した。
 しかし一度意識してしまうと、なかなか頭から出て行ってくれない。意外に柔らかい感触と、石鹸なのかなんなのか、兎も角仄かに甘い香りが鼻腔を擽った。
「た、タキ」
「へ? え、あわわわ!」
 胸郭が圧迫されて、喋るのも辛い。ややくぐもった声で、赤い顔を誤魔化して呼びかければ、それで我に返ったらしい彼女が素っ頓狂な声を上げた。
 慌ててスカートを押さえ込み、外向きに広がっていた分を集めて尻を庇う。そうではなく、早く退いて欲しいのだが、多軌はなかなかそこに気付いてくれなかった。
「み、みみ、見た? 見た?」
「ふ、不可抗力」
 夏目以上に赤くなって声を上擦らせる彼女に必死に言い訳をして、夏目は行き場のない手を持て余し、地面に生えていた雑草を弄った。
 彼を跨いだまま上半身を起こした多軌は、ちらりと後ろを振り返って、そっぽを向いたままの青年に苦々しい顔をした。立ち上がる動作の補助として、遠慮がちに服の上からひ弱に見える腹部に掌を押し当てる。
「あれ、硬い」
「ふわっ!」
「きゃ!」
 そうして予想外の感触に呟いた瞬間、何を思ったのか突然夏目が身を起こした。
 上に乗っている少女の事を一瞬忘れた彼により、彼女の身体は吹っ飛ばされて横倒しになった。
 柔らかな感触を今度こそ頬に感じて、多軌は何度も目をパチパチさせた。見えはしないが、斑の優しい体温がそこにある気がした。
「ごっ、ごめん。大丈夫?」
 惚けている彼女ににじり寄って、夏目が焦った顔で問うた。頬に僅かに朱を残している彼に焦点を定め、しばしの間沈黙していた彼女は、ややしてからふっ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
「え?」
「夏目君も、そういえば男の子なんだよね」
「え、えええ?」
 華奢で色白で、とても力仕事など任せられないような外見をしているけれど。同年代の男子生徒と比較すると、どうしても脆弱さが目立ってしまうけれど。
 彼も一応、男なのだ。
 仲の良い女子の友人らとうっかり同列に扱ってしまいそうになる自分に笑って言った多軌だったが、夏目の耳にはそうは響かなかったようだ。
 どこから出したかも分からない高い声をあげ、これまで以上に真っ赤になってうろたえ始める。
 なにを慌てているのか分からずきょとんと不思議そうにする多軌から急いで目をそらした彼の頭を、五月蝿がった斑が尻尾で叩いた。

2011/05/01 脱稿