僅少

 余程疲れていたのだろう。満腹になった途端に眠ってしまった彼に肩を竦め、綱吉は微笑んだ。
 腰を下ろした椅子を掴み、左右に広げた脚をぶらぶらさせて、そうっと様子を窺い見る。あまり近付きすぎると気配で起きてしまうかもしれなくて、息を殺し、注意深く身を乗り出す。
「ん……」
「う」
 聞こえて来た微かな寝息にビクリとして、慌てて退くと、今度は椅子がガタガタ言った。思いも寄らぬところからの騒音に慌てて、綱吉は肝を冷やした。
 掴んでいたものを放して背筋を伸ばし、恐る恐る前に向き直る。バジルは相変わらず、健やかな眠りについていた。
 彼に変化が無いのに安堵して、綱吉はホッと胸を撫で下ろした。
 地下に建造された建物というのもあって、ボンゴレのアジトの気密性はかなりのものがあった。一旦ドアを閉じてしまうと、廊下や隣室の物音も殆ど聞こえてこない。
 これが並盛町の自宅や学校だったなら、自分が起こさずとも誰かの騒ぐ声や、風に煽られた樹木がざわめく音が聞こえて来ただろう。しかし人工物に囲まれたこの空間には、それが無い。
 不自然なくらいに静かな台所の天井を見上げ、綱吉はそっと目を閉じた。
 耳を澄ませば、落ち着いたバジルの寝息が聞こえる。リズムは安定していて、穏やかだった。
 心和む柔らかな呼吸音に目尻を下げて、彼は背中を丸め、バジルが枕にしている机に寄りかかった。
 気持ち良さそうに眠っている彼に手を伸ばし、額に掛かる髪の毛を脇へ流してやる。肌を掠めた毛先が擽ったかったのか、彼はちょっとだけむずがったけれど、瞼は固く閉ざされたままで、宝石よりも綺麗な瞳との対面は果たせなかった。
 緊張の糸が切れたのだろう、とリボーンは言っていた。綱吉が大勢の仲間に囲まれていた頃、彼はたったひとり、十年後の異国を旅しなければならなかったのだから、それも当然だ。
 色々と話したいことはあった。けれどバジルは寝てしまったし、なにより巧く内容を纏められる自信がなくて、綱吉は結局、他愛もない挨拶程度しか出来なかった。
 たっぷり食べて、たっぷり休んで。近況を報告しあうのはそれからでも遅くないと言って、仲間達はそれぞれの部屋に戻っていった。
 綱吉は、彼が目覚めた時に部屋に案内する役目を自ら買って出て、台所に残った。
 京子たちが片付けたキッチン兼食道は、綺麗に磨かれてピカピカだった。大型の冷蔵庫の片隅には、ジャガイモの入った麻袋がふたつ、仲良く並んで置かれていた。
 時々地鳴りのように響く低音は、換気扇だ。
 空気の循環は、地下アジトにとって命綱でもある。この機能が万が一停止しようものなら、綱吉たちは此処で窒息死するしかない。
 唸り声をあげる換気口に目をやって、彼は再び、バジルへと視線を戻した。
 当分目覚めそうにない雰囲気に、自分も眠ってしまいたい誘惑に駆られた。だが彼が起きた時に綱吉が寝ていたら、本末転倒過ぎる。
 ひとり台所に取り残された自分を想像して首を振り、彼は落ちてきた眠気を追い払おうと机を押して身を起こした。
「うぅ……」
 震動が伝わって、バジルが僅かに顔を顰めて唸った。眉間に浅く皺が寄っているのを見て、綱吉は急ぎ両手で口を塞ぎ、椅子を引いて机から距離を取った。
 そうしたらまたもや椅子の足が床を削る音を発して、ちっとも静かに過ごせていないと痛感する。
「うー」
 奥歯を噛んで鼻を膨らませて、彼はただでさえ跳ね放題の頭をぐしゃぐしゃに掻き回し、もっと酷い髪型に作り変えた。
 早く目覚めないだろうか。だがぐっすり寝かせてやりたい。ならば一旦起こして、もっと寝心地の良いベッドに案内してやるべきか。けれどここで揺り起こすのはやはり悪い。
 堂々巡りの思考は袋小路に突入し、出口を見失ってドツボに嵌ってしまった。結論が出ないまま時間ばかりが過ぎて行く。ひとり挙動不審に動き回る彼を他所に、バジルは夢でも見ているのか、幸せそうに微笑んだ。
「もう食べられませ……むにゃ」
 腕枕の隙間から漏れ出た寝言にハッとして、綱吉は頭を抱えていた手を下ろした。椅子の上で畏まって、恐る恐る様子を確かめる。
 呑気に寝ているバジルに安堵として、同じくらいがっかりして、彼は下唇を突き出した。
「バジルくーん」
 小声で呼びかけるが、声は届いていないらしく、返事はなかった。
 反応が無いと面白くない。バジルが悪いわけではないのに不貞腐れた顔をして、綱吉はほんの少しだけボリュームを上げ、もう一度彼を呼んだ。
 身動ぎはしたものの、彼はまだ目覚めなかった。
「むぅ」
 肩を怒らせて窄めた口から息を吐き、綱吉はぐーっと伸びをしてから背中を丸めて小さくなった。椅子に左脚を乗せ、膝を胸に寄せて抱き締める。その体勢のまま身を乗り出して首を横倒しにした彼は、折角退けてやった麦の穂色の前髪が、元の位置に戻っているのに眉を顰めた。
 バジルの髪は、記憶の最後にある彼よりも幾らか伸びていた。
 ミルフィオーレとの激戦を潜り抜け、遥々海を渡って日本までやって来た彼だ。旅路を急ぐあまりに、身だしなみを気にする余裕はなかったのだろう。
 見れば手も、傷だらけだ。服もあちこち綻びて、糸が飛び出ている。
「ん?」
 ズボンの裾は擦り切れて、靴もボロボロ。着替えもそっちのけで食後の睡眠に入ってしまったバジルを改めて観察するうちに、綱吉はとある事に思い至った。
 眉根を寄せたまま口を尖らせて、椅子から立ち上がって傍らへと歩み寄る。そして膝を折って屈んだ彼は、テーブルの下に潜り込んでいるバジルの足元に顔を近づけた。
 少しばかり饐えた臭いがするのは我慢して、戦闘の影響を多大に受けている靴、及びその足首に注目する。
「曲げてるから、だよね」
 しゃがんだ後で視線を上向けて呟いて、彼は薄暗い中で目を凝らした。
 バジルのズボンの裾が、かなり短いのだ。
 服のサイズが違うのかと思ったが、バジルが身につけているものは、以前にも見たことのあるものだった。
 ヴァリアーたちとの戦いに備え、綱吉の特訓に付き合ってくれていた彼が着ていた着衣は、彼の体格にあわせて過不足ないよう仕立てられていた。
 伸縮性のない布地は、膝を曲げるとその分引っ張られて、裾が持ち上がる。
「むぐぐぐ……」
 けれど見る限り、ズボンの丈はそれだけの理由で短くなっているわけではなさそうだった。
 大きく鼻を膨らませて、綱吉は琥珀の目を限界まで見開いた。解れた糸が鼻息で揺れるのも構わず、身を低くして眉間に皺を寄せる。
 みんなと居る時は全く気にならなかった。山本や獄寺に、了平もいたので、彼らに囲まれてしまうと、綱吉同様、バジルは埋もれがちだ。
 ザンザスとの指輪争奪戦終結後、並盛町を去る彼を見送った時から、さほど時間は経っていないと思っていた。しかし突きつけられた現実は、なんとも残酷だった。
「も、し、か、し、て」
 山篭りにつきあってくれたバジルと綱吉の間に、体格差は殆どなかった。綱吉の服を彼が着ても、その逆でも、なんら問題はなかったというのに。
「もしかして、バジル君って」
 声に出す都度実感が強まって、彼は冷や汗を流した。ゴクリと唾を飲んで緊張に顔を強張らせ、じりじりと後退する。
 しゃがんだまま数センチ距離を広げ、綱吉は震える拳を握り締めた。
「バジル君って、背ぇ、伸びっ……でぇ!」
 直後否定すべく首を振って立ち上がろうとして、彼はあろう事か、真上にあった机の角に後頭部を思い切りぶつけた。
 目玉が飛び出しそうになって、慌てて両手で塞いで膝をつく。衝撃で持ち上がった机がガタゴトと姦しい音を響かせて、巨大なタンコブから煙を吐いた彼は、あまりにも馬鹿らしい自分の行動に消えてしまいたくなった。
 当たり前だが、ぶつけたところが激しく痛い。熱を持ってズキズキする場所に指を這わせ、彼はふと、視線を感じて涙目を持ち上げた。
 後ろを振り返ろうとして、さっきまで横にあったものが消えている事に気付く。
「え……」
 バジルの脚が、そこになかった。
 薄ら寒いものを覚えて生唾を飲んだ彼の視界に、ひょっこり生首が現れた。
「ぎゃっ」
 無論それが幽霊やお化けの類でないのは、綱吉だって分かっている。だが吃驚させられて、悲鳴をあげた彼は尻餅をついてテーブルの脚に肩をぶつけた。
 ガタゴト五月蠅い机の下で身じろぐ彼を見詰め、まだ少し眠そうな眼をしたバジルは不思議そうに首を傾げた。
「沢田殿?」
「うあ、あは。あはは。おはよ、う」
「あ、はい。おはようございます」
 怪訝に名前を呼ばれて、綱吉は頬を引き攣らせた。ぎこちない、たどたどしい挨拶にバジルはきょとんとしてから、座っていた椅子を降りて床に腰を沈め、深々と頭を下げた。
 正座をしての丁寧な挨拶に背中がこそばゆくなって、綱吉は手を振って彼を退かし、机の下から這い出た。
 流石にあれだけ机が揺れたのだ、バジルが起きないわけがない。迂闊すぎる自分を呪って後頭部を気にしていたら、手を伸ばしたバジルがあやすように撫でてくれた。
 それだけで痛みが引いていく気がした。
「ありがと」
「沢田殿は、どうしてあのような場所に?」
「ぐ」
 礼を言って身を引き、先ほどまで座っていた椅子を引き寄せる。しかしバジルは席に戻らず、誰もが抱くべき疑問を率直に言葉にした。
 出来るなら忘れていて欲しかった直前の自分を思い浮かべ、綱吉は顔を背けて唸った。
 まさかバジルのズボン丈を気にしていたなど、本人は夢にも思うまい。彼は下に何か落ちているのかと屈んで、綱吉が居た場所を頻りに気にしていた。
 そうではないのだが、いっそ嘘をついて誤魔化してしまおうか。複雑な胸中を抱えて首を掻いた彼は、何も落ちていないと判断したバジルが立ち上がるのを待って、ちょっとだけ背伸びをした。
 自分を大きく見せようという綱吉の無意識の行動に首を捻り、バジルは怪訝に眉を顰めた。
「沢田殿?」
「へ? あ、ああ。いや」
 まだ頭が痛いのかと、てんで見当違いな事を口に出した彼に首を振り、気にしないでくれと頼む。それでやっと踵を下ろした綱吉は、顎を引いて上目遣いにバジルを見詰めた。
 並んで立つだけでは、違うかどうか分からない。伸びているのか、いないのか。目線の高さは、ほぼ同じに思われた。
「伸びてるの、かなぁ」
「なにがです?」
 綱吉も、バジルも、勿論獄寺達だって、成長期真っ只中だ。むしろ伸びないほうが可笑しい。だが綱吉は、自分の身体に劇的な変化が訪れているとは、とても思えなかった。
 声変わりだってまだだ。山本も獄寺も済んだ後なので、同年代で経験していないのは、バジルだけ。
 彼にだけは先を越されるものか、と心の中で密かに思っていた。
 彼だけは自分を置いて先に大人にならないと、勝手に決め付けていた。
「あの、さ」
「はい」
 優しい目をしたバジルに嘘をつくのは、辛い。偏狭な自分が嫌になって、綱吉は唇を舐め、思い切って顔を上げた。
 続きを待つ涼やかな瞳に一瞬臆して、彼はもぞもぞと身を捩った。
 どうしても下ばかり見てしまう。薄汚れた靴の先に視点を定めていたら、気付いたバジルがサッと脚を引っ込めてしまった。
「すみません。あまり、手持ちがなくて」
 身なりを整えるだけの余裕が無かったと告げた彼の赤い顔に驚き、綱吉はそうではない、と首を横に振った。
 妙な誤解を与えてしまったのを素直に詫びて、爪先で床を叩く。
「違うんだ。あの、さ。バジル君って、なんていうか……伸びた?」
 恐る恐る問いかけた彼に目を丸くして、バジルは鼻の頭に届く長さの前髪を指で抓んだ。
 だが綱吉が首を振るので、彼は細い毛を解放し、穴が開きそうになっている靴をじっと見て、はっとした様子で綱吉に向き直った。
「……どうでしょう?」
「伸びたって、絶対」
 やっと理解した彼は、けれど自身なさげに言って、綱吉に叩かれて痛がった。
 ただ彼の言い分も、分からないではない。周囲に親しい人間がいない状況で、自分で気付くのは難しい。綱吉に指摘されて初めて、彼はズボンの丈が短くなっていると知ったようだ。
 毎日着脱しているならまだしも、着たきり雀だったのが宜しくなかったらしい。
「ちぇー。前は俺と同じくらいだったのに」
「ですが、伸びたといっても、少しですよ」
 雨後の筍ではあるまいし、いきなり十センチも大きくなることはない。悪態をついた綱吉を宥め、バジルは冷蔵庫を指差した。
 肉や魚を大量保存できる大型のそれに歩み寄って、向きを変えてぺたり、と背中を張り付かせる。そして自分の頭の位置を手で確認し、指は其処に残して横に退いた。
 右手を固定させた彼に招かれて、綱吉は若干嫌そうに、冷蔵庫に近付いた。
「あれ」
「ほらー」
 そして彼の右手の下に潜り込んで、頭頂部との間に隙間がある事実に口を尖らせた。
 大雑把な計測で、約二センチ。測定器を使えばまた違う結果が得られるかもしれないけれど、こんな地下に隠された秘密基地では、それを求めるのは無理な相談だった。
 親指と人差し指をそれくらいの幅に広げたバジルが、不貞腐れた顔をする綱吉に肩を竦めて苦笑した。
「ですが、たった二センチです。沢田殿も、直ぐに伸びますよ」
「どうだか」
「成長期なのですから」
 彼も裏切り物だった、と愚痴を零す綱吉を必死に宥め、バジルは慰めを口にして軽く膝を曲げた。屈んで目線を合わせようとする彼の無用な気遣いがまた腹立たしくて、綱吉はむっとして綺麗な顔を睨み付けた。
 たかが二センチ、されど二センチ。
 ここにリボーンがいたら、好き嫌いなく出されたものは全部食べろ、と言いそうだ。生意気な家庭教師の赤ん坊を思い浮かべていたら、目の前がふっと暗くなった。
 ハッとして視線を持ち上げると、バジルの顔がとても近くにあった。
 彼は笑っていた。どこまでも優しく、穏やかに。
 そんな表情を見せられたら、拗ねている自分の方が恥ずかしくなってきて、綱吉は手を後ろに回して指をもぞもぞさせた。
「二センチなんてあっという間ですよ」
「どうかな」
「今だって、簡単に埋められます」
「バジル君?」
 届きそうで届かない、微妙な距離。唇を掠める呼気に目を瞬き、綱吉は意地悪な微笑みを湛えた少年に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「二センチ?」
「はい。あと、二センチ」
 埋まりそうで、埋まらなさそうなぎりぎりのライン。
 どうすれば距離がゼロに近付くか、答えはとっくに出ている。
 目を眇めたバジルに口を尖らせて、綱吉は渋々、踵を浮かせて背伸びをした。

2010/10/25 脱稿