斟酌

 ひっそりと静まり返った空間は、濃い闇に満ちてすべてのものの輪郭をあやふやにしていた。
 生命の息吹さえまるで感じられず、小さな虫達も息を殺して夜が過ぎるのを待っている。なにか目に見えない、黒々しい嫌なものが人知れず徘徊しているような恐怖を抱かされて、どうにも落ち着かない。
 心鎮めようと吐息を零し、硬い石畳の通路を抜けて、四角く切り取られたスペースを埋める扉へと手を伸ばす。使い込まれて一部が磨り減っている円形の取っ手を掴んで軽く押すと、錆び付いた蝶番が軋む、キィィ、という嫌な音が耳朶を打った。
「っ」
 久方ぶりに聞いた、自分の呼吸や心臓以外の音にビクついて、綱吉は頬を強張らせた。何もないと知りつつ振り返ってしまい、一秒前と一秒後とで、景色になんら変化が無いのにあからさまに安堵する。
 胸を撫で下ろして息を吐き、跳ね上がっていた肩を落として力を抜く。抜きすぎて膝が折れそうになって慌てて叱咤して、彼は開けたばかりの扉を大急ぎで潜った。
 中も真っ暗だ。通路は窓からさす月光があった分、まだ幾らか明るかったのだと思い知る。
「ええと、……どこだ」
 部屋の電気をつけようと、入って直ぐの壁を手探りで探す。冷え切った壁材に指先が痺れそうになった頃、ようやく中指が硬いものに触れた。 
 迷う事無く押して、首を竦めて目を閉じる。壁に並んだブランケットライトが一斉に点灯して、場を埋め尽くしていた闇を一瞬で追い払った。
 明度の変化についていけず、軽い眩暈を覚えた綱吉は首を振った。右手で頭を支え、人間が生活する上で必要な明るさを得てホッと息を吐く。肩に掛けたカーディガンの裾が、動きに合わせて蝶のように揺らめいた。
 その下は、パジャマだった。
 素足に革靴を引っ掛けているので、取り合わせはなんとも妙だ。が、幾らなんでもスリッパでうろつくわけにはいかない。此処は一応、格式高いボンゴレの居城なのだから。
 だから本当なら、こんな服装で出歩くのさえ憚られた。
 今や自宅といっても過言ではない場所なのだから、もっとラフな格好で歩き回っても、本当は構わないのだろう。けれど妙に格式ばった建造物である事や、今の綱吉の立場からして、あまりに砕けた服装は遠慮願う、という無言の威圧があるのは間違いない。
 目出度くも十代目となったのだから、相応の外見をしていなければならない。特にお年を召した方々からは、直接言葉では貰わないものの、そういう意味合いの痛い視線を度々頂いた。
 シャツの裾がちょっとはみ出ているだけでも、なっていないと怒られる。
 ネクタイの結びが甘かったり、曲がっていたりするだけでも、気合が足りないと叱られる。
 お陰で気楽に構えられるのは、執務室奥にあるプライベート空間だけだ。
「冷えるな」
 それなりに昼の気温も高い季節に入っているに関わらず、日が落ちてしまうと一気に空気が冷たくなった。カーディガンの上から腕を撫で、綱吉はほう、と息を吐いた。
 流石に白く濁りはしないが、熱を含む呼気は暫くの間そこに留まり、ゆっくり沈んでいくように感じられた。
 いい加減目も明るさに慣れて、綱吉は二度、三度と瞬きをしてゆるり首を巡らせた。
 そこは台所だった。
 城自体は建設された当時の外見そのままに、厳しくもある風体を保っているが、内部はあれこれと改装され、改築され、近代的な設備が凡そ取り入れられていた。
 昔は料理をするにも薪が用いられていたそうだが、流石に二十一世紀にも入ってそれはない。竃があったところにはオーブンが設置されて、水がめが置かれていたところには水道が引かれていた。
 コンロも、電子レンジだってちゃんとある。日本の、生まれ育ったあの家に並んでいたものと、殆ど同じだ。
 違うところといえば炊飯器が無くて、パスタを茹でるための鍋が大量に壁に並べられている事くらいか。
 そんなどうでもいいところを見比べながら、綱吉は無人の空間に一歩足を踏み出した。
 扉をしっかりと閉め、乾いた唇を舐める。不安を抱かせる闇が遠ざかったのもあるのだろう、踏み出す足の幅はかなり大胆だった。
 キシキシと軋む床板を踏みしめて、先ずは流し台へ。蛇口を捻って流水に左手を浸すと、突き刺さるような痛みを覚えた。
「ちめたっ」
 悲鳴のような声をあげ、慌てて手を引っ込める。だが恐る恐る右手で触れた時にはもう、先ほどのような鋭さは感じられなかった。
 なにをビクつくことがあるのかと、怯えて竦んでいる己を鼓舞して手を洗う。その後で、手拭き用のタオルがないことに気がついた。
 しまった、と後悔するが既に遅い。彼はぐるりと周囲を見回してから、諦めて絹のパジャマに両手を擦りつけた。
「何やってんだ、もう」
 これでは洗った意味が無いと愚痴を零し、天を仰ぐ。だが起きてしまった事をとやかく言ったところで始まらず、溜息ひとつで気持ちを切り替えると、此処へ来た本当の目的を果たすべく、彼は戸棚へと歩み寄った。
 キッチン自体はそう広くも無いが、よく整理されて、綺麗だった。
 城で暮らす人間はボンゴレの関係者以外にも、小間使いなどを含めるとかなり多い。彼らの為に三食提供するには、この広さでは些か心許ない。
 此処は、ボンゴレの幹部クラスの面々が好き勝手出来るよう設けられた小規模なキッチンだった。
 食堂に隣接する厨房とは違い、常に誰かが詰めて何かを作っているわけではない。例えば綱吉が仕事の合間に小腹が空いたと言ったときなどに、ちょっとしたものを作るために利用される。
 ただ、綱吉自身が此処に足を向ける機会は少なかった。
 こういう設備があるのは知っていたし、入ったこともあるが、使った経験は片手で足りるくらいだ。大体の場合、綱吉が自分でやらずとも、周囲が勝手に気遣って茶だったり、茶菓子だったりを用意してくれるからだ。
 これくらい自分でやる、と綱吉は言い張るのだが、毎回のように説き伏せられて、結局任せてしまう。しかも淹れてもらったお茶の方がずっと美味しいから、始末が悪い。
 イタリアに来て益々怠け者になった気がして、綱吉は上唇を噛んだ。
「これと、これ……で」
 胸に抱いた小さなもやもやを押し潰し、棚を空けて茶器を取り出す。カップ、ソーサー、そしてポット。色柄を揃えてテーブルに集め、彼は次に湯を沸かすべくヤカンを手に取った。
 蓋が外されて逆さを向いていたケトルを天地正しくして、水道の水を半分ほど注いでコンロへと。どうやって火をつけるのか分からずに右往左往した後、試しに捻ったスイッチに反応して、青白い炎がポッと灯った。
「あとは、と」
 火が簡単に消えないのを確認して、綱吉はくるりと反転した。
 キッチンタイマーも兼ねている時計は、深夜の二時手前を指し示していた。こんな時間、普通ならもうベッドに入り、夢の中にいて可笑しくない。
 だが今日に限って目が冴えてしまって、なかなか寝付けなかった。
 気分を変えようにも、限度がある。テレビを見る気にもなれず、かといって遣り残した仕事に手を出すのも嫌だ。部屋にある本はすべて事業に関わる難しいものばかりで、読んでいるうちに睡魔が降りてくると分かっていても、ページを捲りたくなかった。
 となれば、此処はひとつ温かい飲み物でも飲んでリラックスすべき。
 そんな思考の連鎖の末に、綱吉はカーディガンを一枚羽織って此処へ来たのだった。
 湯が沸くまで、まだ時間がある。その間にやるべきことを考えて、綱吉は茶葉を探して首を右に巡らせた。
 別に白湯でも構わないのだけれど、どうせなら味がある方がいい。そしてその味も、以前バジルが持って来てくれた、あの甘い香りのハーブティーがいい。
 とてもいい匂いがして、気持ちが落ち着けた。以来彼は、綱吉が仕事に行き詰るたびに茶を淹れて持って来てくれた。
 その茶葉は、きっと此処にあるはず。
「どこだろう」
 ぼそりと呟くが、呼んだところで返事をしてくれるわけがない。彼は当たりをつけて、食器棚の下にある戸を開いた。
 だが出て来たのは小麦粉だったり、砂糖だったりの袋だった。
 未開封のものが右側に、使いかけが左側に。湿気が入らないようしっかりと口が閉ざされた袋が複数個、行儀良く並んでいた。
 フェルトペンで書かれている数字は、開封した日付だろうか。そういった几帳面な仕事をする人物は、綱吉の知る限りひとりしか考えられない。
「凄いな」
 綱吉だったら絶対に真似できない。獄寺もあれこれ細かい割に、こういうところはなんとも大雑把だ。山本や了平、ランボは言わずもがな。
 矢張り彼に来てもらって正解だったと、こんなところで感心しながら、綱吉は茶箱がそこに無いのを確かめて扉を閉めた。
 膝を伸ばして立ち上がり、続けて食器棚の扉を開ける。茶器が入っていた一角に砂糖壷があるのを見つけたからだが、手にとって蓋を開けてみれば、中は空だった。
 下の棚を見れば、卵型をした砂糖壷がもうひとつ、片隅に小ぢんまりと置かれていた。
「なんだって、こんなに沢山」
 口をついて出た愚痴は、最後まで行かずに消えた。
 棚には食器も多種多様、大量に並べられていた。ティーカップにしても、五つひと組のものがザッと見ただけで六セットもある。表に出ている分だけがすべてだとは思えないので、別室の棚を漁ればきっともっと出て来るだろう。
 無駄遣い、という単語が頭に浮かんだ。
 とはいえ、これらは綱吉が買ったものではない。十代を数えるボンゴレの礎たちが、こつこつと収集したものだ。
 一概に悪い、とはいえない。思い直し、綱吉は空の砂糖壷を元の場所に戻した。
「さて、どこだー?」
 ヤカンの方はと目をやると、注ぎ口からうっすら湯気が立ち上り始めていた。だがまだ温いと判断して、彼は火力も調整せずに茶葉を探す作業に戻った。
 次に目指したのは流し台の下の収納スペース。だが此処にあったのは使い込まれたフライパンや、深鍋の類ばかりだった。
 そもそもこんな水に近い場所に、湿気全般が天敵の茶葉を置くわけがない。冷静に考えたら分かることに後から気付き、彼は薄茶色の頭をがしがし掻き毟った。
 気持ちを落ち着かせるべく茶を淹れに来たのに、苛々が増して行く。
「どこだー?」
 バジルのことだから、分かり辛いところに隠すとは考え難い。あの青い炎を宿す笑顔の朗らかな青年を思い浮かべ、綱吉は爪先で床を蹴った。
 あと探していない場所は、と改めてぐるりと部屋を見回し、横幅のある食器棚の上に目を付ける。そこにも四角い化粧箱が幾つか、几帳面に積み上げられていた。
 中身は分からないが、食器辺りか。それとも。
「んー」
 綱吉は首を上向けたまま後ろに下がり、花柄のティーカップを置いたテーブルに腰からぶつかっていった。激突した衝撃で茶器が擦れあい、カチャン、と可愛らしい音を立てた。
「おっと」
 慌てて無事かどうかを確かめて、陶器のどこにも欠けが出来ていないのに安堵する。
 こういうものは、一式揃ってこそ価値があるのだと、いつだったかどこかで耳にした覚えがある。
 自分の不注意で傷をつけ、汚点を残すようなことになってしまったら、折角美しくこの世に生まれて来た茶器たちが可哀想ではないか。
 愁眉を開いて頬を緩め、綱吉はしゅわしゅわ言い始めたヤカンに目をやった。少しだけ焦りを覚えた顔をして、慌てて高い位置にある棚の上辺に焦点を定める。
 椅子を使って背伸びをすれば、なんとか届くだろうか。
 天井すれすれのところまで積み上げられている箱は古いものと新しいものが混在して、目印もないので何が入っているかはまるで未知数だ。
 壊れ物が混じっている可能性は非常に高く、綱吉は一寸だけ尻込みして椅子の背凭れを掴んだ。
 銀色のヤカンは白い湯気を吐き、早く火を止めろと嗾けてくる。そちらにもちらりと目を向けて、彼は下唇を浅く噛んだ。
「ええい」
 勇気を出して一歩を踏み出さなければ、運命は何も変えられない。
 ご大層な事を言って己を鼓舞し、綱吉は意を決して椅子を引っ張った。四本足で床を削り、夜中に関わらず迷惑な騒音を立てて棚の前へと戻る。
 靴を脱いで、本来は腰を下ろすべき場所に爪先を乗せた彼は、一気に高い位置に移動して、ガラスに写る自分の姿に苦笑した。
 こんなところ、誰かに見られでもしたら大変だ。早く用事を済ませてしまうことにして、綱吉は目標を定め、一番手前にあるこげ茶色をした紙箱に手を伸ばした。
 それだけが棚の天板に、他と分けて置かれていたからだ。
「よい、……っしょ」
 最近載せられたばかりと思われる紙箱を持ち上げようとすると、それなりに重い。両腕にずっしりと来て、彼は箱の側面に添えるだけだった両手に力を込め直した。
 爪先立ちのままなので、どうにも安定が悪い。左右揃えていた足に少しだけ幅を持たせようとして、もぞもぞと腰を捻るうちに、棚の上から箱が頭半分ほど飛び出して来た。
 周囲に積もっていた埃が巻き上がって、綱吉の視界を濁らせた。空気と一緒に鼻から入った微粒子が、粘膜の敏感な部分をからかうように擽った。
「ふぁ、ひあっ」
 途端にくしゃみがしたくなって、彼は大きく口をあけた。ヤカンがしゅわしゅわと、ひと際高く鳴いて早くしろと急かす。安定の悪い狭い場所で屹立を強いられる爪先が、疼くような痺れを訴えた。
 閉じたはずの扉が、風にでも誘われたのかキィィ、と鳴いた。
「誰かいるのですか?」
 昼の明るさに染まった室内に、夜の闇が忍び寄る。窺うように問いかけた声にはっとした瞬間、綱吉は我慢していた諸々を一斉に吐き出した。
「ぶえっしゅ!」
 堪え切れなかったくしゃみを零し、勢いに負けた上体がぐらりと揺れた。背伸びをして、つま先だけで支えていたのだから当然踏ん張りなど利かない。掴んだ箱を引きずりながら、彼の身体は椅子ごと後ろに傾いでいった。
 あ、と思う暇もなく天井が見えた。吹き飛んだ箱の蓋の向こうから、いかにも重そうな鉄製のトースターがひょっこり顔を出す。
「沢田殿!」
 悲鳴のような声が響いて、綱吉はそちらに首を向けようとした。だが叶わず、天高く登っていく真っ白い湯気の柱が視界を横切っていった。
 ごんっ、と椅子が倒れる音が先に轟いた。続けて背骨と腰に強烈な痛みが走り、最後にぶつけた後頭部に意識が飛びかけた。
 星が数個、散った。羽織っていただけのカーディガンが最後に、散る桜のようにひらひらと風を受けて落ちてきた。
 喉に空気が詰まり、息が出来ない。肋骨を越えて内臓まで直に襲って来た衝撃に苦悶の表情を浮かべ、綱吉は奥歯をきつく噛み締めた。
「沢田殿、大丈夫ですか」
 駆け寄って来た影が、甘いアルトの声で叫んだ。心配そうに覗き込んでこられて、彼はどうにか右の瞼だけを薄く持ち上げた。
 淡い麦の穂色の髪は毛足が長く、肩にかかって下を向いていた。前髪の隙間から覗く瞳はサファイアの冴えた色合いの中に不安が紛れ込み、薄い唇は無音で何度か開閉し、最後に噛み締められた。
 良く知っている顔だったが名前が直ぐに思い出せなくて、綱吉は横倒しになった椅子の隣に寝そべりながら、不思議そうに琥珀を瞬かせた。
 反応が鈍いのに余計不安が募り、バジルは邪魔になる長い髪を掻き上げて後ろに流した。
「沢田殿」
 畏まった口調で呼ばれて、それで綱吉はやっと記憶と意識が一致した。
「バジ……ったぁ」
「寝ていてください。いったい何をして」
 遠くの方では、綱吉が投げ捨てたトースターが天地を逆にして、箱の一部を押し潰して沈んでいた。ヤカンが吐く蒸気の音が嫌に大きく台所に響き、呆れ口調で顔を上げたバジルに、綱吉は苦笑いを浮かべるのがやっとだった。
 起き上がろうとしたら激痛が走って、爪先が痺れた。
 左の脛までこむら返りに襲われて、声さえ出ないでのた打ち回る。僅かに潤んだ瞳を見詰めて嘆息し、バジルは両膝をついて綱吉の為に手を差し伸べた。
 起き上がるのを手伝ってもらって、彼はようやく人心地ついたと息を吐いた。長く肺に残っていた二酸化炭素を、じんじん来る痛みや熱と混ぜて外へと追い出す。
 新鮮な酸素を身体中に送り出してやれば、その分苦痛も遠ざかった。
「いって、てて」
「こんな時間に、何をしておいでですか」
 それでもまだ背中が痛い。きっと日が昇るころには青黒い痣になっているに違いなくて、パジャマの上から撫でた綱吉へ、バジルが咎めるような口調で言った。
 彼にしては珍しく、怒っているらしい。綱吉はばつが悪い顔をして、転がっているトースターから湯気立てるヤカンへと目をやった。
 同じものを見たバジルが、しゃがみ込んでいる彼を置いて立ち上がった。寝転がったままの椅子を起こしてテーブルの上にあるものを認め、大股に進んでコンロのスイッチを切る。
 それでもヤカンは名残惜しげに吐息を零し、バジルの長い前髪を揺らした。
「その」
「こんな時間に明かりが漏れているので、様子を見に来たのですが」
「それって」
 もう深夜の、丑三つ時と言ってもいい時間だ。そんな夜更けに活動する人間は、特殊な職業にある人か、それとも単に寝付けないだけの夜更かしか。
 見ればバジルは、綱吉と違って糊の利いたシャツに袖を通し、ネクタイこそしていないがある程度フォーマルな出で立ちだった。日中の、綱吉の執務室で忙しくしている時と大差ない。
 床に投げ出されていた足を引き寄せた彼を振り返り、バジルは鬱陶しげに前髪を脇へ払った。
「バジル君の仕事は」
「え? ああ、違います。沢田殿からお願いされていた分は、夕方までにすべて」
 頼んでいた手伝いは、今日の分は既に終わっていたはずだ。それともまだ残っていたのを、彼が隠していたのか。
 跪いた状態で身を乗り出した綱吉に首を振り、バジルは照れ臭そうに微笑んだ。
 嘘を言っている顔ではない。だが真実を告げているのでもない。左右に振れる天秤は、やがて右の方に傾いて停止した。
「門外顧問の?」
「ええと、まあ、……」
 いぶかしむ綱吉に、彼は若干言い難そうに口篭もった。半端なところで言葉を切って、視線を横に流して彷徨わせる。
 目をあわせようとしない態度からも、綱吉の指摘が図星であるのはみえみえだった。
 バジルは元々、綱吉の父である家光の部下だった。彼は門外顧問という、ボンゴレの外からボンゴレを見張る組織に所属している。本当ならこの城に気楽に立ち入れる身分でもない。
 だが少年期から交流があり、バジル自身も望んだというのもあって、綱吉は彼の身柄を一時的に借り受けるという形で、ボンゴレの中に招き入れた。
 十代目に就任してからあまり間がなく、仕事をひとりでこなすのも大変な綱吉を見かねて、手助けを買って出てくれたのだ。守護者とはまた異なる視線であれこれと意見を言ってくれるのは有り難いし、デスクワークに不向きな人間が多いというのもあって、バジルの存在は非常に助かっている。
 だけれど彼は、今でも門外顧問のメンバーなのだ。
「……ごめん」
「謝らないでください。拙者の手が遅いのが悪いのですから」
 本業を疎かにするわけにはいかないが、日中は綱吉の補助で手一杯。だからこんな時間になっても、彼は布団に入るどころか、寝間着に着替える暇さえ持てずにいる。
 まるで気付かなかった現実に打ちひしがれる綱吉に首を振り、バジルは春の日差しを思わせる柔らかな笑顔を浮かべた。
 だが椅子から落ちる失態をしでかした直後の彼の心は暗く沈み、なかなか水面上に顔を出そうとしなかった。
 目に見えて落ち込んでいる綱吉に肩を竦め、バジルは放置されたままのカーディガンを拾った。薄水色の襟を広げ、肩に掛けてやる。
「けど」
 バジルの仕事が決して遅くないのは、綱吉も知っている。むしろ早いくらいだ。こちらがもたもたしているうちに、彼は三つ、四つと書類を片付けてしまっている。
 だからこそ家光は、大切な部下であるバジルを側用人としておくよう、綱吉に進言した。
 上唇を噛んでいる彼に苦笑し、バジルは仰向けになっている古びたトースターを拾い上げた。角が潰れている箱にしまうのは諦めて、テーブルの空きスペースに並べる。
 高い位置から落とされたのを詫びるように、優しい手つきで表面を撫でている彼に視線を遣って、綱吉はようやく痛みが引いた脛を軽く揉んだ。
 椅子を助けに立ち上がって、ふらつく足で床を蹴る。落ちそうになったカーディガンを掴んで袖を通すと、背筋をしゃんと伸ばしたバジルがはにかんだ。
「沢田殿は、……お茶、ですか?」
 並べられたカップ、ソーサー、ポットの三点セットを指差して、訊ねる。語尾はあがり気味だったが、向けられた眼差しには確信が宿っていた。
 嫌なところを見られたと、綱吉は心の中で愚痴を零した。
「まぁ、そんなところ」
「でも何故、あんな場所を?」
 トースターの箱があった場所を見上げた彼の言葉は、殆ど独白だった。
 綱吉は答えず無言を貫き、役目を終えた椅子をテーブルの下に押し込んだ。
 彼の態度から、あそこに茶葉が無いのは明白だった。そもそもバジルの背丈でも、棚の上には台座を使わなければ手が届かない。そんな不便な場所に、使用頻度の高いものを置く馬鹿が何処にいる。
 冷静に考えれば直ぐに分かることも、深夜特有の陽気とでもいおうか、奇妙なテンションでは思い至れなかった。
「ぐむ」
 喉の奥で呻き声を零し、綱吉はもうひとつ、床を蹴った。
 素足なので、冷たい。爪先から冷気が登ってきて、身体全体の熱を奪って行く。彼は視線を床に這わすと、並べておいていた革靴に右から足を突っ込んでいった。
 慌しく動き出した現上司にクスリと笑みを零し、バジルはまだ熱いヤカンの表面を、トントン、と温度を確かめるように二度小突いた。
「バジル君?」
 綱吉が怪訝にして、何をしているのかと問いかける。そんな自分から火傷をしに行くような真似をして、と些か憤然としていたら、バジルはたおやかな笑みを深め、目尻を下げた。
 ゆるゆる首を振り、怪我をするつもりは最初からないと告げる。実際、振れた時間はほんの僅かだ。
「ご心配、痛み入ります」
「むぅ」
 畏まって感謝を告げられて、綱吉は頬を膨らませた。
 なんだか馬鹿にされたような気がしたからだが、バジルは意に介さない。先ほど綱吉がしたように蛇口を捻って手を洗うと、ポケットから抜き取ったハンカチで湿り気を拭い、やおら冷蔵庫の扉を開けた。
 冷たいものでも飲むのか、と思いきや、戸を閉めた彼の手に握られていたのは丸っこい缶だった。
 湿気が入らないようしっかりと封がされているそれにきょとんとして、綱吉は首を右に倒した。不思議そうにしている彼に苦笑して、バジルはテーブルに置いた缶の蓋を開けた。
 中には茶色の、乾燥した葉っぱが入っていた。
「え」
「沢田殿がお探しでしたのは、もしやこれですか?」
 絶句する綱吉の横顔を窺い、バジルが確信めいたものを抱いて問いかける。だが彼は今度も返事をせず、ただ呆然と立ち尽くした。
 いったい自分は何をやっていたのだろう。あんな痛い思いをしたのに、馬鹿らしくてならない。
 色の悪い唇を戦慄かせる彼にこっそり嘆息して、バジルはティーポットの蓋を外した。
「うぅぅ」
 奥歯を擦り合わせて呻き、綱吉は顔を赤くした。
 バジルが手際よく、缶の中にあったスプーンを使って分量を量っていく。その次にまだ充分熱い湯をヤカンから注いで、ポットに蓋をして、待つ。
「言ってくだされば良かったのに」
 何処からともなく砂時計を取り出した彼に言われて、綱吉はいよいよ風船のように頬を丸くした。盛大に拗ねてそっぽを向かれて、バジルは静かな湖面を思わせる青い瞳を細めた。
 砂時計の頭を軽く叩いて、食器棚へ向かう。
 綱吉はテーブルに寄りかかり、右足を前に蹴りだした。
「だって、君に雑用をさせるために、来てもらってるんじゃないし」
 ボンゴレ預かりの門外顧問員に、時間外のお茶出しまで強要できない。次に左足を前に踏み出して、彼は歩幅の分だけテーブルを離れた。
 揃いのティーカップを出して来たバジルが、意外そうな顔をして目を瞬いた。
「なに」
 そういう表情は心外だと、綱吉はむくれた。子供じみた反応にバジルは二秒置いて相好を崩し、カップをふたつ並べると、ポットを両手で大事に抱えた。
 いとおしむように丸みを帯びた胴を撫でて、注ぎ口を傾ける。
 当初望んだハーブティーとは違うが、鮮やかな飴色の液体が音もなくカップへと注がれた。
 いかにも慣れた手つきだ。そうなるくらいに彼に茶を供してもらっていたのかと、意識してこなかった事実に綱吉は愕然とした。
 ひとりショックを受けている彼を他所に、バジルは温かな湯気を放つ紅茶を軽く押した。波立てて零さぬよう注意しながら、綱吉に差し出す。
 微かに香る甘い香りに、彼は今頃になって喉の渇きを思い出した。
「でも」
「拙者も丁度飲みたいと思っていたところです。沢田殿が湯を沸かしておいてくれたので、助かりました」
 嘘だと分かる台詞をさらりと告げて、バジルは口篭もる綱吉に微笑んだ。自分もカップを掬い上げて、まだ熱い液体にそっと息を吹きかける。
 綱吉も両手で大事に抱え、彼を真似て口を窄ませた。
 表面を少しだけ冷まし、唇を寄せて少しだけ咥内に含む。砂糖もミルクも入れていないので、紅茶本来の味が静かに口の中に広がった。
 砂糖を入れずとも充分甘い。そしてなにより、香りがいい。
 独特の苦味を嫌って、昔から大量に砂糖を入れて飲む習慣が出来ていただけに、これは新鮮な驚きだった。
「どうですか?」
「美味しい」
 目を丸くしている綱吉を感じ取り、バジルが横から問うた。その声が誰のものかも忘れて、綱吉は半ば呆然としながら呟いた。
 途端に彼は嬉しそうに、そして照れ臭そうに首を竦めた。
「それは、頑張った甲斐があります」
「え?」
「沢田殿には、少しでも美味しいものを飲んでいただきたいですから」
 こっそり練習したのだと事も無げに言って、彼は綱吉をまたも絶句させた。飄々と紅茶を啜り、飲み干したカップをテーブルに戻す。
 綱吉は半分以上残ったカップをじいっと見詰めて、上唇をきつく噛み締めた。
 辛そうな横顔を見せられて、バジルは「おや?」と首を傾げた。数秒の沈黙を挟み、やがて得心が行ったのか、嗚呼と感慨深そうに頷いた。
「拙者が勝手に思って、勝手に決めたことです。沢田殿が責任を感じる必要など、何処にもありませんよ」
「けど」
 それでバジルの睡眠時間が減ったところで、自業自得だ。綱吉が胸を痛める必要性は、存在しない。
 朗らかに告げられても、それでも綱吉は未だ納得でいなかった。不甲斐ないと己を心で罵り、折角淹れてくれた紅茶に二口目をつけようとしない。
 細かく震動している水面を睨むように見詰める彼に、バジルは肩を竦めた。
「沢田殿」
「わっ」
 そうしてやおら手を伸ばし、片方は綱吉の持つカップを上から押さえ、もう片手は無防備極まりなかった彼の顎を取った。
 無理矢理首をぐりん、と回されて、一変した視界に彼は目を丸くした。息が触れる距離から見詰められて、言葉も出ない。惚けている琥珀色の眼差しに意味ありげに笑いかけて、バジルはゆっくり、紅茶のカップを引き抜いた。
 落として割りでもしたら、大変だ。零さぬようテーブルに置いて、ようやく自由を得た手で綱吉の丸い頬を包む。
 バジル自身も正面に回りこんで、額をこつんとぶつけてきた。軽い衝撃だったのに脳髄まで揺れて、綱吉は勝手に赤くなる顔を持て余し、バジルの手に手をそっと重ねた。
 俯いて誤魔化したいのに、額を擦り合わせているのでそれも難しい。彷徨った瞳は最終的に足元に向けられた。バジルは敢えて咎めず、好きにさせた。
「拙者は、自分で選んで此処に来たのです」
「バジル君」
「親方様に言われずとも、いずれ自分から望んでこの地を踏んだでしょう。拙者は、沢田殿のお役に立つためにいるのです」
「だから、そういうのは」
 献身的なのは嬉しいが、同時に重い。綱吉がしたい事を好きにするように、バジルにだってそうして欲しい。
 綱吉の為に、というその前提は必要ないのだといえば、バジルはサファイアの瞳を細め、楽しそうに笑った。
 深い森に吹く、一陣の清涼な風を思わせる笑顔だった。
「拙者が一番に望むのは、沢田殿のお傍にいる事。それが叶うのであれば、他になにも要らないのです」
 あっさり、呆気なく、何てこともないように告げられて、返す言葉が見付からない。唖然としている綱吉に微笑んで、彼はちゅ、と触れるだけのキスを右頬に贈った。
 ささやかな甘い音色にハッとして、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「バジル君ってば」
「違うところが良かったですか?」
「そうじゃなくって、……って!」
 あっけらかんと言い返されて、綱吉は喋っている最中に意味に気付いて真っ赤になった。
 慌てふためく青年に破顔して、バジルは仰々しく胸の前に手をやってお辞儀をした。
「どうぞお許しになってください」
「べ、別に、許すも何も、ほっぺた、だし」
「はい?」
「あれ?」
 なにやら話がずれてしまっている気がして、バジルは素っ頓狂な声を上げた。それに反応して、綱吉が目を丸くする。
 どうやら謝罪が何に対してかについて、齟齬が生じたらしい。彼らは暫く無言で見つめあった後、どちらからともなく噴き出した。
 静かな夜に、楽しげな笑い声が木霊する。
 もう一度恭しくお辞儀をしたバジルが、芝居がかった動きで手を差し出した。寝所へ案内すると、無言で告げている彼に肩を竦め、綱吉は笑いを咬み殺した。
「俺、このままじゃバジル君なしじゃなにも出来ない奴になりそう」
「そうなってもらわないと困るんです」
「えっ」
 自分たちの将来像思い描いた綱吉のひと言に、茶器を盆に並べたバジルがあっさり認めた。
 思わず伸び上がった綱吉を振り返り、不敵に笑って目を眇める。
「拙者はこう見えて、独占欲だけは強いのですよ」
 呵々と笑って告げられて、綱吉は返事も出来ずに立ち尽くした。惚けた顔をして、やがてぱしん、と自分で頬を叩く。
 準備を終えたバジルが扉を開けて、彼を待っていた。
「尻に敷かれないよう、気をつけよう」
 独り言が聞こえたのか、麦の穂色の髪の青年が楽しげに目を細めた。

2011/04/25 脱稿