薬石

 その日は日曜日で、大事な練習試合のある日だった。
 天気は快晴、雲ひとつない。最高気温は二十度オーバーが予報されて、既に初夏を思わせる陽気だった。
 桜は全部散ってしまった。後には青々とした葉が沢山生い茂り、これから来るだろう季節を思わせるに充分足りた。砂っぽいグラウンドには水が撒かれ、整備もすべて終わり、ひっそりと静まり返っていた。
 小一時間ほど前まで、そこには大勢の人が詰め掛けていた。
 たかが練習試合とはいえ、今後のチーム編成において重要な位置を示す試合だ。この日の成績如何で、レギュラーの入れ替えも起きかねない。
 新入生に対しても、上級生の実力を示す場だった。
 だというのに、なんたる体たらくだろう。
 試合後のミーティングでも監督にこってり絞られて、山本は疲れ切った身体をベンチに投げ出し、汗臭いタオルを顔に被せた。
「あー……」
 最低だった。
 低い声で呻き、ごろりと寝返りを打つ。そうしたら目の前に床が迫るのが見えて、慌てて仰け反ってベンチ中央に戻った。
 自分の居場所をすっかり忘れていた。汗と土と、なんだか分からないものの臭いで溢れ返った野球部の部室の壁には、びっしりと古めかしいロッカーが並べられていた。
 着替えで大勢が詰めている時はかなり狭いが、今は山本ひとりしかいないのもあり、さほど窮屈さを感じなかった。
 彼はタオルを抓んで身を起こすと、気を取り直すべく首を振り、乱暴に頬を叩いた。
 乾いた音をひとつ響かせて、長い時間をかけて息を吐く。だが陰鬱と胸に積もった感情は、なかなか消えてくれなかった。
 もうじきリーグも始まるというのに、なっていない。監督には頭ごなしに怒られた。チームメイトからは同情めいた眼差しを貰った。調子が悪い時など、誰にだってあると、そう言って肩を叩かれた。
 そんなわけが無かった。今朝起きて、グラウンドにきて、試合が始まる直前までの山本は、確かに絶好調だった。
 いつも以上に張り切っていたし、絶対に誰よりも活躍して見せると意気込んでいた。初回の打撃はピッチャーの頭を越える二塁打だったし、守備ではヒット確実の打球を捕ってゲッツーに貢献したりもした。
 ところが、だ。
「くそっ」
 思い出すだけで悔しさが蘇ってくる。柔らかなタオルを真ん中で握り締めて、山本は残る手で頭を掻き毟った。
 短い髪の毛は汗を含み、少しだけ濡れていた。
 約束したのだ、応援に来ると。絶対に、活躍するところを見に行くからと、そう言っていたのに。
 なかなか現れない姿を探し、三回の辺りから気もそぞろになり始めた。今に来る、もうじき来る。そう自分に言い聞かせて打席に立つが、応援席の観客が気になって、集中できなかった。
 強打すればホームランだって夢ではない甘いボールさえ逃して、あえなく見送り三振。しかもその後、矢張りグラウンドの外に気を取られて、普段ではありえないような失態をした。ぼてぼてのゴロをトンネルなど、今までの野球人生で初めてだ。
 結局、集中できていないというのを理由に、七回を待たずに交替させられてしまった。チームはなんとか勝ったけれど、本当ならもっと点差が開いてしかるべき試合だった。
 格下相手に手間取らされたのも、山本の凡ミスが足を引っ張ったからだ。
「なんだって、俺は」
 チームにも、仲間にも迷惑をかけてしまった。落ち込むには充分で、ミーティングが終わっても山本は暫く動けなかった。着替えようと上着を脱いだところで手が止まってしまって、以後ずっとそのままだ。
 ただ流石に、ちょっと冷えて来た。試合も後半はベンチからの応援だけで、身体に溜まっていた熱もすべて放出されてしまった。
「ちっくしょ」
 手にしたタオルで乱暴に肌を拭い、残っていた汗をこそぎ落としていく。しかしそれが終わるとまた溜息しか出なくなり、指一本動かすのさえ億劫だった。
 風邪をひくだとか、そういう事も考えられなかった。
 ひたすら自分に向かって悪態をつき、そして集中力を切らす原因になった存在を思い出す。
 むかむかすると同時に遣る瀬無さと寂しさが同時に襲って来て、彼は強く奥歯を噛み締めた。
「なんでだよ、ツナ!」
 来ると言っていたではないか。今日は特別だから、絶対に行くと、そう約束してくれたではないか。
 だというのに彼は、最後まで現れなかった。
 ドジでおっちょこちょいの彼だから、もしかしたら日付を覚え間違えているのだろうか。だとしても、今日は二十四日だ。絶対に、彼なら忘れないと信じていたのに。
 叫び、山本は脱力すると同時に天を仰いだ。汚らしい天井に、蛍光灯が申し訳無さそうに張り付いている。スイッチは入っておらず、部室は薄暗かった。
 小さな窓も閉ざされており、空気は循環しない。饐えた臭いが鼻につくが、最早慣れてしまってどうとも思わなかった。
 何故綱吉は約束を破ったのだろう。だが今となっては、来てくれなくてよかったのかもしれない。あんなみっともなく、情けないところを見られずに済んだのだから。
「ツナ」
 かすれるような小声で呼んでも、返事はない。山本はもう一発、今度はより力を込めて、自分の右頬を叩いた。
 痺れるような痛みが、頭の中に響き渡った。
 どうして来てくれなかったのか、そればかりが脳内を埋め尽くしていた。
 試合の反省をしようとしても、あの琥珀色の瞳が思考を掠める。蜂蜜色の髪、柔らかな林檎色の頬、楽しそうに笑う声もが意識のあちこちに散らばって、ちっとも集中できない。
 鼻の奥がツンと来て、山本は慌ててかぶりを振った。両手で顔を覆い、まだじんじんする頬に爪を立てる。
 指の隙間から息を吐く。少しだけ落ち着いて過去を振り返れるようになった途端、昨日の、そしてそれよりも前の出来事が不意に蘇った。
「そういや」
 此処のところ、綱吉は変に山本に余所余所しかった。
 昼休みなど、いつもは我先にと駆けよって来るのに、此処一週間は大人しかった。いつも獄寺と肩を並べて、なにやら一緒に本を読んで秘密のお喋りに興じていた。
 気になって後ろから話しかけたら、慌てて本を隠された。何をしていたのか聞いても、誤魔化されて明確な返事は得られなかった。
 隠し事をされていると感じて、哀しかった。
 そう露骨でもなかったから当時は気にしないようにしていたが、矢張りあれは避けられていたのだろうか。
 話しかけても上の空のことが多く、直ぐに切り上げて離れていってしまう。後ろから飛びついた時、あられもない悲鳴をあげて逃げていかれたのを思い出して、山本はただでさえ気落ちしている心をよりどんよりも曇らせた。
 空の掌を額に翳し、視界を遮る。それでも眩しいばかりの笑顔は、瞼の裏から消えてくれなかった。
「ツナ」
 呼びかけても虚しいばかりで、振り払おうと彼は首を振った。悶々としたものは依然腹の奥底に燻って、なにかひとつきっかけがあれば、瞬く間に劫火となってすべてを燃やし尽くしてしまいそうだった。
 短く区切って息を吐き、下唇を痛いくらいに噛み締める。
 行き場のない憤りを持て余し、彼はタオルを丸めて遠くへ投げ捨てた。
 だが所詮、元は細長い一枚の布。空中でふわりと花咲くように広がったそれは、狙ったほど遠くへはいかず、呆気ないほど簡単に足元に落ちた。
 沈殿する心の澱のようだ。惨めな気持ちになって、山本は乱暴にベンチを殴った。
「わっ」
 その大音に驚いて、ある筈のない声が響いた。
 それは夢にまでみた、愛らしい少年の声だった。
 春の健やかな風を思わせる柔らかな音色に目を見張り、山本は拳を固くしたまま眼だけを戸口に向けた。視界に入った光景が幻である錯覚を抱き、慌てて瞬きを五度も繰り返す。
 それでも尚、そこに佇む少年は消えなかった。
「ツナ……」
「ごめん、山本。ノックしたんだけど」
 勝手に部室に入った事をまず詫びて、綱吉は申し訳無さそうに頭を垂れた。綿毛のような髪の毛がふわふわ泳いで、山本の視界を縦に揺れ動いた。
 顔を上げた彼の眼は、不安に揺れ動いていた。
 試合が終わってしまっているのには、流石に気付いているのだろう。単なる遅刻にしては、重役出勤過ぎて笑う気にもなれない。
「なんだよ、ツナ。今頃」
「っ、ごめん」
 右手で黒髪を掻き上げ、腰を捻って顔を彼の方に向ける。なにも身につけない上半身を見せ付けられて、綱吉は慌てたように両手で目を覆った。
 何を今更、恥ずかしがることがあるのか。同じ男であろうに、と虚弱で脆弱な彼を思い出し、喉の奥で笑う。
 どうやら尖ってしまった声には気付かれなかったようだ。そこにちょっとだけ安堵して、山本はゆるり、立ち上がった。
 ベンチが軋んだ音で我に返り、綱吉が両手を下ろして背中に隠した。持っていた袋が前後左右に大きく振れて、細いしなやかな脚に当たっては跳ね返った。
 鞠のような布袋を一瞥して、山本は彼の視界を塞いだ。
「遅かったんだな」
「う、あ……っと。ごめん。ホントは、間に合うはずだったんだ、けど」
 上から圧し掛かるように問いかけると、綱吉は尻すぼみに声を小さくして俯いた。閉じたドアに右手をついて、山本は綱吉を見下ろした。棘だらけに見える髪の毛の下には、絹のように白い項が覗いていた。
 少しだけ汗ばんでいる。そういえば綱吉は、若干息を乱して弾ませていた。
 ここまで走って来たのだろう。だが、彼の家から学校まで、そう遠くはない。
 試合が始まって、終わるまでに二時間ほどの猶予があった。それよりも長い間、彼はいったい、どこを彷徨い歩いていたのか。
 心がささくれ立って、捲れた瘡蓋からは血が止まらない。
 此処数日の綱吉の行動も同時に思い起こされて、ようやく見つけた激憤のやり場に、彼は獣の咆哮を上げた。
「来なかったじゃないか!」
「っ!」
 鼓膜が破れそうな怒号に怯み、綱吉はビクリと肩を強張らせた。恐る恐る顔を上げれば、暗がりの中で阿修羅の如き形相が見えた。それが山本本人だと気付くのに二秒近くかかってしまって、彼は頬を引き攣らせ、本能的に覚えた恐怖に後ずさった。
 だが十センチも行かぬうちに、踵がドアに当たった。それ以上下がれないと知り、驚愕に目を見張った彼を、山本が嗤った。
「なあ、ツナ。約束したよな、来るって。応援に来るって、そう約束したよなあ!」
 喋っているうちに感情が昂ぶって、堪えきれず山本は怒鳴った。扉を殴りつけ、人を怯えさせる騒音を立て続けに響かせる。
 頭の真横で唸る風に、少年は顔を青褪めさせ、上唇を噛んだ。
「や、やまも……」
「守れないくらいなら約束なんかすんなよ!」
 期待して、裏切られて、絶望して。
 挙句周囲からは責められて、蔑まれて、見下された。
 失望のどん底にある彼を見上げ、綱吉ははっと琥珀の瞳を揺らめかせた。静かな湖面が不意に波立つように、波紋が広がっていく。
「ごめん」
 他に告げるべき言葉が思い浮かばなくて、綱吉は同じ台詞を繰り返した。
「ごめん。約束破るつもりは、なかったんだ。でも、……ごめん」
 視線を泳がせ、遠くを見ながら呟く。消え入りそうなその謝罪が気に入らなくて、山本は益々憤り、声を荒げた。
「サイッテーだ。最悪だよ。なんで、なんだってこんな……」
 記念すべき自分の誕生日が、これまでの短くも長い人生の中で最悪の日になってしまった。悔しさとやりきれなさが入り混じった表情で零し、歯を食い縛っている彼を見上げ、綱吉は身を捩った。
 試合の応援に行くと言いながら果たせなかったのだから、どうであれ自分が悪い。一方的に責められるのも仕方が無いという諦めの気持ちと、事情があったのだからちゃんと聞いて欲しいという思いとが交錯して、胸が苦しかった。
 せめてこんなにも遅れてしまった理由を説明したいのだが、山本はまだ激しい怒りを抱えており、とても落ち着いて話が出来る状態にはなかった。
 これも自業自得かと悔やみ、綱吉は後ろにやっていた布袋を前に回し、ぎゅっと強く抱き締めた。
 七分丈のシャツから、白く細い腕が覗いていた。十本ある小枝のような指のほぼすべてにテーピングがなされていると気付き、山本は怪訝に眉を顰めた。
 横向いて責め苦に耐えている綱吉の首筋にも、よく見れば肌色のテープがきつく貼り付けられていた。
「ツナ?」
 彼はあまり、運動をしない。足は遅いし、反射神経は鈍いし、腕力だってからきしだ。
 何もないところで良く転び、膝や肘を擦りむいている。絆創膏が手放せないと、心配する山本にそう言って笑っていた。
「ツナ、お前」
 ハッと短く息を吐き、山本は目を瞬いた。急に目の前が明るくなって、頭に登っていた血が一斉に、サーっと音立てておちて身体中に散っていった。湯が沸きそうなくらいの熱も霧散して、あれだけ蟠っていた怒りの感情が見事に消えてなくなった。
 幾らか冷静さが戻った声に目を見開き、綱吉が恐々首を上向かせた。だが山本は彼の手元にばかり意識を向けて、やがて焦れていきなり手を伸ばした。
「うわひゃ!」
 突然、何も言わずに着ていたシャツを捲りあげられて、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
 二枚重ねていた分が両方とも持ち上げられて、やや黴臭い湿った空気が薄い腹筋を撫でた。遅れて山本の、素振りのしすぎで出来た胼胝のある手が直接触れてきた。
 断りもなしに弄られて、綱吉は飛び出しそうな心臓を必死に飲みこみ、目を白黒させた。
「ひゃあ、あの、あの、や、やまも、もっ」
 心の準備も何も出来ていないのに、とぐるぐるする頭で碌でもない事を考えて赤くなっていたら、山本の指がピタリと止まった。
 素肌に直接貼り付けられたものを爪で掻き毟られて、それで綱吉も気がついた。
「お前、怪我、したのか」
 淡々と刻まれた音は、けれど微かに震えていた。
 指先から伝わる振動を受け止めて、綱吉は目を丸くした。山本は俯いており、表情はまるで見えない。だがその広い背中がいつになく小さく感じられて、綱吉はうっかり笑ってしまった。
 噴き出した彼に弾かれたように顔を上げ、山本は牙を剥いた。
「ツナ!」
 怒鳴られたが、それは先ほどまでの、彼を責めるものとは少し違っていた。
「違うよ。んと、まあ……なんていうか」
「違わねーよ、こんなテーピングだらけで。痛めたのか。まだ新しいってことは、――まさか」
 スポーツをやっている山本にはおなじみのテーピングが、綱吉の脇腹や、肩や、腕に大量に巻きつけられていた。
 筋肉の動きを補助し、或いは痛めた筋をサポートして治りを早くする役目を持つそれらが、運動とまるで縁が無い少年の身体を覆っている。となれば、どこかで転ぶなりして怪我をしたとしか考えられない。
 みるみる青褪めていく山本が何を考えているか、綱吉には手に取るように分かった。
「だから、違うってば」
 試合の観戦に来られなかったのは、病院に担ぎ込まれていたから。そんな風に推測した親友に笑みを浮かべ、彼は緩々首を振った。
 先走ってばかりの山本を手で制し、肩を竦める。胸を押され、興奮気味に前屈みになっていた彼は目を瞬き、不思議そうに綱吉を見詰めた。
 切れ長の目が真ん丸く見開かれているのが面白くて、また笑ってしまう。声を殺そうと頑張るが、頬の筋肉が緩むのは防げなかった。
「ツナ」
 語気を強めた山本に首を振り、胸元まで捲れ上がっていたシャツを急ぎ下ろす。慌しく身なりを整える彼を見て、山本は自分がしでかした事に関わらず、カーッと赤くなった。
「ごめっ」
 今頃謝って、意味もなく手を蠢かせる。その間に綱吉は裾をズボンの中に押し込んで、一寸やそっとでは脱げないように形を作った。
 慌てている友人に苦笑して、鞄を抱え直した彼は座ってよいか訊ねた。野球部の部室の真ん中には、何処から持って来たか分からないベンチがひとつ、置かれていた。
 背凭れもないので、四方から座れる。ひとりなら楽に寝転がれる広さと長さだ。
 山本は振り返って緩慢に頷き、急いで乱雑に摘まれていた野球雑誌と、自分の上着を退かせた。
 急場しのぎで作られた空間に腰を下ろして、綱吉は右手の中指に巻かれていたテープをゆっくり剥がした。息を殺して待つ山本の目の前で、傷ひとつない指先が露わになった。
「ね?」
「……」
 筋を痛めたわけでもないと、握って、開いてみせる。他の指も同様で、なにより綱吉が痛がる様子も無かった。
 では何故と眼で問うと、彼は決まりが悪い顔をして頭を掻いた。
「その。まあ、なんていうか。練習台がいなかったから」
「練習?」
「そう」
 なんの、と聞こうとして、山本は言葉を止めた。ここで敢えて声に出すのも無粋な気がして、首肯した綱吉の真意を探ろうと真っ直ぐに見詰める。
 照れ臭そうに首を竦め、薄茶色の髪の少年は小さく舌を出した。
「だって山本、レギュラーだしさ。毎日練習で大変そうだったから、ちょっとでも役に立てばいいなって、思って」
 そう言って、彼は持って来た鞄の口を広げた。中から出て来たものに驚愕して、山本は絶句した。
 表紙の色には覚えがあった。前に教室で、綱吉が獄寺と一緒に読んでいたものにそっくりだ。
 あの時、後ろから覗き込もうとしたら慌てて隠された。強い疎外感を覚え、悔しくて寂しかったのが昨日のことのように思い出される。
 胸がちくりと痛んだ。彼が抱いた切なさを知らず、綱吉は表紙が良く見えるよう、顔の横に本を掲げた。
 胴着やユニフォームを着た若者の写真が散りばめられて、その上に大きく、テーピング入門、という文字が踊っていた。
「獄寺君にも頼んで、実験台になってもらってたんだけど、よく分かんなくてさ。ランボとかに頼むのも無理だから、自分で……。で、ちょっと、ね。やりすぎちゃって」
 本を下ろした綱吉が、テープの所為で少し赤くなっている指を掻いた。
 言い難そうに言葉を濁し、首を竦めて照れ笑いを浮かべる。何故そんな表情をするのかが分からなくて、山本は座りもせず、綱吉をじっと見詰めた。
 沈黙に耐えかねた少年は、もじもじしながら再び鞄を引き寄せた。
「練習で、その。……テープ、使い過ぎちゃったんだ」
 言いながら、中に収められていたものを取り出す。白い紙製の袋に記された店名は、並盛町の隣の、そのまた隣の町にあるものだった。
 バスを乗り継いで、二十分ほどかかる。山本でも数回しか足を向けたことのない、縁遠い町だ。
 いったいそんな町に何故、と思う間もなく、紙袋からテーピング用のテープが出て来た。太さが違うものが合計、三本。まだ包装すら解かれていない、新品だ。
 端が破れているベンチに転がったテープがひとつ、勢い余って床に落ちた。綱吉が手を伸ばすより先に山本は膝を折って拾い、珍しいものでもないのに不思議そうな顔をした。
「ツナ、お前」
「まさか、駅前のお店が休みだとは思わなかったんだもん」
 どこで売っているものかも詳しく知らないから、駅近くのスポーツ用品専門店で購入したと彼は言う。ところが、いざ当日になってテープが足りないと気付いて慌てて走れば、あろう事か日曜定休でシャッターが下りていた。
 他に買える場所を探して右往左往して、獄寺にも助力を求めて調べてもらい、ふたつ隣の町に同じくスポーツ用品店があると判明した。
 が、慣れない町だ。バスを降りてから迷いに迷い、結局綱吉は、試合終了に間に合わなかった。
「なんていうか。……ごめん」
 折角喜ばせてやろうと意気込んで頑張って練習を重ねて来たのに、詰めが甘かったばかりにこんな事になってしまった。
 一連の事情を説明し終え、気落ちした様子で綱吉が俯いた。相対する山本は、あまりのことにショックを受け、言葉を失って立ち尽くした。
「ツナ……」
 彼がこんなにも自分の為に尽力し、駆け回ってくれていたのに、試合に集中出来ないのを彼の不在の所為にして、理不尽に怒鳴ってしまった。
 阻害されていたわけでもなく、避けられていたわけでもないのに、何も知らずに勝手に誤解して、決め付けて、綱吉を悪者にする事で自分を正当化しようとした。
 情けない。
 なんと、みっともない。
 綱吉は約束を、理由もなしに破るような男でないことくらい、とっくの昔に知っていたはずなのに。
 ハッと息を吐き、山本はかぶりを振った。
「ツナ、悪い。ごめん。すまねえ」
 思いつく限りの謝罪の言葉を並べ立て、彼の足元に跪く。膝の上に放り出されていた両手を取り、強く握り締める。
 唐突の熱に驚き、綱吉は顔を上げた。鮮やかな琥珀色の真ん中に自分が映るのが嬉しくて、山本は相好を崩し、はにかんだ。
「怒鳴っちまって、すまなかった。お前はなんにも、悪くねえよ。試合には、間に合わなかったけど。ちゃんと来てくれたもんな」
「山本」
「……すっげー、嬉しい」
 吃驚している綱吉に畳みかけ、最後に照れ臭そうに微笑む。白い歯を見せた彼に最初はぽかんとしていた綱吉も、時間を置くにしたがって嬉しそうに頬を緩め、顔を綻ばせた。
 そうして一分近く笑顔で見詰めあった後、思い出したように山本がテーブルの上のテープを弾いた。
「頼んでいいか?」
「あ、……でも、まだ全然巧く出来ないよ」
「いいって。実験台だと思ってさ」
 今日は途中で交替させられたので、実を言えばあまり疲れていない。だが綱吉の気持ちが嬉しくて、どうしてもこの場で受け止めたかった。
 遠慮と不安が混ざり合った眼差しに力強く頷いて、膝立ちのまま背中を向ける。利き腕を中心に頼むと告げると、綱吉は決心したのか口を真一文字に引き結び、参考書たる本を広げた。
 沢山貼り付けられている付箋を目印にページを捲り、該当箇所を見つけて端を太腿の下に挟みこむ。
 動き始めた彼に身を委ね、山本は幸せを噛み締めて目を閉じた。
 慣れない不器用な手つきで巻かれていくテープが、千々に千切れた彼の心さえも修復していく気がした。ぽっかり空いた胸の空洞を、綱吉という存在が埋めて行く。やがて綺麗な球体を取り戻して、つやつやと眩く輝く。
「ツナ」
「ん?」
「次の試合ん時も、頼むな」
「分かった」
「次も、その次も。……ずっと、な?」
 肩越しに振り返ると、集中していた少年が瞳だけを動かした。短く頷かれて、山本は調子に乗って言葉を繋げた。
 これからもずっと、ずっと。一生涯、傍に。隣に。
 山本が楽しげに笑う。
「う……んん!?」
 考えもせずに相槌を打ちかけて、綱吉ははたと気付いて真っ赤になった。

2011/04/23 脱稿