余香

 空耳かと思ったノックがもう三回繰り返されて、彼はようやく来訪者に気付いて顔を上げた。
 忙しく動かしていた右手を休め、灰ばかりになった煙草を口から引き抜く。山盛りの灰皿の、殆どないに等しい隙間を見つけ出して捻じ込んで火を消して、脂性の髪の毛を掻き毟ったところでまたひとつ、これまでにない大きさでドアが叩かれた。
 堪え性のない奴だと肩を竦め、扉の向こうにいるのは男だと判断する。このまま無視を決め込んでも構わなかったのだが、扉を蹴り破られるのも後々の事を思うと、面倒だ。
 揺れる天秤を脳内に描き出し、彼は仕方なく鉛色の溜息を吐き出した。
「どーぞー」
 やる気のない声で入室を許可し、さして厚くも無い扉越しに呼びかける。椅子を軋ませて身体半分振り返った彼の前で、一呼吸分の時間を挟み、けたたましい勢いでドアが右に滑っていった。
 あまり立て付けが宜しくない扉が、反対側の壁にぶつかって猛スピードで戻って来た。凄まじい音に驚いた彼が目を剥く中、二本走るレールを踏んだ少年が、Uターンしたドアを足の裏で受け止めた。
 無愛想に輪をかけてムスッとした顔をして、入ってくるなり人の顔を睨みつける。
「足で開けてんじゃねえ」
「手が塞がってるんだから、仕方ないだろ」
 童顔で、女顔で、目も大きいのであまり迫力はないのだけれど、機嫌が悪いというのは十二分に伝わって来た。行儀が悪いという指摘にも平然と口答えをして、両手に抱えた荷物を崩れない程度に上下に揺らしてみせる。
 確かに高さ十五センチはあろう書類の束を持ったまま、ドアを手で開けるのは難しい。
 分かるけれど、他に方法はなかったのか。右の耳に小指を突き立てて穴を穿り、シャマルは小さく舌打ちした。
 何度も聞こえたノックも、足で蹴ったのだろう。どうりで音が大きかったわけだ。
 保健室の壁際と、入り口とで向かい合ったふたりは暫くその状態で睨み合い、結局沈黙に耐えられなくなった少年が痺れを切らし、レールの上から足を浮かせた。
 またしても足でドアを閉めてシャマルを不快にさせるが、それも嫌がらせの一環だろう。
 たかだか返事が遅れただけで、ここまでされるのは面白くない。シャマルは奥歯を軋ませて口を尖らせると、重い紙の束を運んで来た少年に礼も言わず、顎をしゃくって置き場を指示した。
「お前、保健委員かなんかだったか」
「違うよ」
 少年も気付いてムッとしたが、言い返そうと開いた口から吸い込んだ空気があまりにも煙草臭くて、飲み込むのを躊躇する。その間にちょっとした質問が投げかけられて、彼は言われた通りに脇机の隙間に持って来たものを置き、肩を回しながら首を振った。
 換気扇は動いているものの、あまり役に立っているとは言い難い。窓が締め切られた空間は熱気が篭もっており、快適さとは無縁の場と化していた。
 しかも猛烈に煙草の煙が立ちこめており、臭い。制服に染み付いてしまいそうで嫌で、彼は顔の前で手を振ると、ハンカチを探してポケットに両手を押し込んだ。
 だが目当てのものは見付からず、代わりに校則違反のガムが一枚出て来た。
 勉学に無関係なものを学校内に持ち込むのは、禁止されている。弁当以外の飲食物も、無論だ。
 風紀委員に見付かったらひと悶着起こりそうな代物を顔の前で揺らし、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「くれんのか?」
「あげないよ、馬鹿」
 返事は分かりきっていたが、茶化すつもりで訊けば、案の定の返答があって、シャマルは呵々と肩を揺らした。
 声も高らかに、さも愉快そうに笑う彼を苦々しい思いで見詰め、蜂蜜色の髪をした少年は不満げに鼻を膨らませた。
「臭い」
 濛々と立ち込める煙は一寸やそっとでは消えてくれない。手を振り回して空気を攪拌するが効果は乏しく、苦い味つきの酸素を吸うのを嫌がり、彼は左手で鼻を抓んだ。
 しかし呼吸はしなければ生きていけない。口が集める空気も所詮は部屋の中にあるものなので、彼がやったことは嗅覚が刺激されるか否か、の違いしかなかった。
 くぐもった声で呟いた彼を尻目に、保健室全体を包む悪臭の発生源を手に取った男は、新たな一本に火を灯そうと箱から一本引き抜いた。
 税率が上がった云々と言われているけれども、彼の喫煙率には何の影響も及ぼさなかった。
 成長期の中学生が日中の多くを過ごす学校において、その健康を著しく阻害しかねない煙草を愛用するシャマルをねめつけ、少年は深々と溜息をついた。
 毎日飽きもせずぷかぷかと煙をくゆらせて、ただでさえ訪問者の少ない保健室を、余計に生徒らから遠ざけている。治療は女子しか受け付けないという彼だが、その女子は、彼の煙草臭さと手癖の悪さを嫌い、余程の大怪我や体調不良でない限り、此処に近付こうとしなかった。
 だから彼がアンケートの回収を任され、挙句持って行くよう頼まれたわけだが。
 全校生徒合わせて数百人単位の並盛中学校において、保健室に最も出入りが激しいのが、彼だった。
「ちょっとは減らしたらどうなのさ」
 ただ槍玉に挙げられた少年だって、なにも好き好んで保健室に足を向けているわけではない。こんな脂臭いだけの部屋、本当なら頼まれたって願い下げだ。
 京子の依頼でなかったら、絶対に引き受けなかった。
 全学年分のアンケート用紙をちらりと見やり、肩を回して苦労を労って、綱吉はさも美味そうに煙草を燻らせている男に拳を向けた。
 もっとも、本当に殴るわけではない。距離があるので手も届かず、煙の影響か少し濁った空気を掻き回しただけに終わった。
 窓を開けてやりたい。が、外は結構な風が吹いている。薄汚れたガラス窓を一瞥して肩を落とし、彼は壁時計にも目をやって、上履きで床を蹴った。
「ご苦労さん」
「はいはい、どうも」
 ガムをポケットに戻した彼の背中に笑いかけ、シャマルが嘘臭い慰労の言葉をくれた。
 ちっとも嬉しくなくて、綱吉は適当に相槌を打ってやり過ごすと、立ち去る間際に少しやり返してやろうと決めて、ドアに向かわんとした爪先を窓際のシャマルの方へ方向転換した。
「どうした、ボンゴレ」
「って、その呼び方止めてよね」
 急に近づいて来た彼に目を瞬かせ、シャマルが怪訝に眉を寄せた。煙草を咥えたまま器用に喋りかけられて、綱吉はムッとし、素っ気無く吐き捨てた。
 真正面まで来ておいてそっぽを向かれたシャマルは肩を竦めて苦笑し、長くなった灰を、灰皿の上に叩いて落とした。
 沢田綱吉、並盛中学校二年生。どこにでもいそうな平々凡々とした少年は、しかしその実、イタリア社会を震撼させるマフィア、ボンゴレファミリーの次期後継者候補だった。
 もっとも本人はそれを良しとせず、隙あらば断ろうと必死だ。周囲がどれだけお膳立てしようとも、平和ボケした島国で生まれ育ったこの少年は、頑として自分の血筋を認めようとしなかった。
 とはいえ、それはシャマルにとって、別段利になる話でもなかった。親しくしておいて損はないけれど、かといって得になるかと言われたら、どうだろう。
 綱吉が立派にボス業に勤めている将来図が想像できなくて、彼は口角を歪めて笑い、鼻先を掠めた違和感に眉根を寄せた。
 不遜な表情が一瞬にして怪訝なものに切り替わって、雰囲気の変化を察した綱吉も小首を傾げて黙った。
「なに」
 足でも蹴ってやろうと思っていたのに出鼻を挫かれて、無視して立ち去るのも癪だったのでつい訊ねてしまう。
 ぶすっとした顔の彼を上から下まで眺めて、シャマルは皺だらけの白衣を揺らめかせた。
 クン、と鼻を鳴らし、邪魔な煙草を灰皿に預ける。今にも倒れてしまいそうなのにそうならない、絶妙なバランスで火の点いた煙草を手放した彼は、短く切った爪で顎の無精髭を掻き、口をヘの字に曲げた。
 不機嫌とも取れる顔つきでじっと見詰められて、流石の綱吉も少し不安になった。
「な、なんだよ。俺、忙しいんだから」
「坊主、お前、なんかつけてるか?」
 居心地の悪さを覚えて身を捩り、この場から離れようと足を引く。踵を浮かせた彼に小さめの目を向けて、シャマルは徐に言った。
 ボンゴレ、と呼ばれた時とはまた違う不快感を胸に抱き、綱吉は無意識に拳を握り締めた。
 シャマルは大人で、綱吉の倍以上の歳月を生きていて、経験や知識も豊富で、いつだって余裕綽々としている。毎日がいっぱいいっぱいの綱吉など、彼から見たら子供、ガキ、小僧……、兎に角そういった語彙に集約されるちっぽけな存在だ。
 分かっている。だけれど妙に悔しくて、彼は返事をするのも忘れてつーん、とそっぽを向いた。
 不貞腐れた横顔に嘆息し、シャマルは椅子を軋ませて頬杖をついた。
「ガキが色気づきやがって」
「なんだよ。悪い?」
 ボソッと吐き捨てられた言葉が聞こえて、綱吉はついムキになって怒鳴った。
 振り翳した拳を自分の膝に叩きつけ、頬を膨らませてから不意にふっ、と鼻を鳴らす。急に人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた彼に眉根を寄せて、シャマルは背中を一段と丸めて顎をしゃくった。
 煙草の匂いに紛れて分かり辛いが、綱吉本人からも、微かに軽やかな香りが漂っていた。
 石鹸とは明らかに違う、人工的に作り出された匂いだ。
 さっきまで不機嫌にしていたのが嘘のように顔を綻ばせた少年は、シャマルが気付いたのに嬉しそうに目を細め、自分の胸を得意げに撫でた。
「へへー。たまには悪くないと思ってね」
 右袖を鼻先へ持って行って息を吸い、心地よさそうに目尻を下げて言う。どうやら本当に、香水の類を吹き付けているらしい。
「なにがだ」
「良いじゃん。俺がなにつけようが、俺の勝手だろ」
 校則には菓子類の持ち込みは禁止と書かれていても、香水禁止とは記されていない。屁理屈を捏ねて手を振った彼は、袖口に強く残る香りを楽しみ、だらしなく微笑んだ。
 あまり強すぎず、かといって主張していないわけではない。控えめだけれど存在感はしっかりあって、立ち去った後の場に長く留まるふんわりとした残り香が、いかにも彼らしかった。
 綱吉には香水を選ぶ知識も、そもそも興味すらなかったはずだ。過去に何度か、シャマルが愛用している香水について質問して来た事はあるものの、自分も使いたい、とは一度も口にしなかった。
 ならば誰かからの贈り物、と考えてよかろう。そういえば綱吉の誕生日は、この前過ぎたばかりだ。
「ディーノさんがくれたんだ」
「チッ」
 想像を巡らせていたら、聞いてもいないのに綱吉が自ら暴露してくれた。お陰でうっかり舌打ちしてしまって、後から気付いたシャマルは、綱吉に睨まれて苛立たしげに首を振った。
「あーあ、くっせーな。なんだこりゃ、ガキ臭くてたまんねー」
 漂う甘い匂いを追い払い、口寂しさを補おうと煙草を掴む。かなり短くなったそれを堪能すべく深く息を吸った彼に目を吊り上げて、綱吉は床を強く踏み鳴らした。
 折角ディーノが彼の為に、似合いそうな匂いをわざわざ調合してくれたというのに。
 兄貴分たる青年まで馬鹿にされたのが悔しくて、彼は臭い煙を吐いたシャマルへ、今度こそ本当に拳を向けた。
 荒っぽく肩を衝かれ、彼は白く棚引く煙を揺らして口を尖らせた。
「あぶねーだろ」
「なんだよ。シャマルこそ、タバコ臭い」
「俺はいいんだよ。こいつは、大人のたしなみって奴だからな」
 不遜に言い返して、彼はしたり顔で笑った。
 どこまでも人を小馬鹿にする彼に腹立たしさを募らせて、綱吉は腕を真っ直ぐ伸ばし、袖の中に手を引っ込めた。
 獄寺や京子は、良い匂いだと褒めてくれた。綱吉も、邪魔にならないこの匂いが気に入っている。山本は最初変な顔をしたけれど、悪くないと言ってくれた。
 シャマルだけだ。
「ろくでもない大人、の間違いだろ」
 苛立ちのままに悪態をつき、そっぽを向いたら脛を蹴られた。椅子に座ったまま口角を持ち上げたシャマルを睨み付け、綱吉は彼自慢の長い足を、力いっぱい踏んでやった。
 痛がって身を捩り、逃げたシャマルを追いかけて踵で何度も床を踏む。まるでもぐら叩きだと思っていたら、距離を詰めすぎて、バランスが崩れそうになった。
「おっと」
 前に傾いだ綱吉の平らな胸を、斜め下にいたシャマルが難なく受け止めた。
 押し返されて姿勢を戻し、彼は乱れてしまったネクタイをベストから引き抜いて首に垂らした。
「くちゃい」
「トコトン失礼なガキだな」
 間近で息を吹きつけられた所為で、鼻の奥がじんじんする。喉の粘膜も刺激されたのか変な感じがして、綱吉はあまり目立たない喉仏を頻りに撫でた。
 最後の一服を楽しんで、シャマルはもう殆ど残っていなかった煙草を灰皿に捻じ込んだ。
 ふー、と息を吐いた彼から顔を背けた中学生を笑い飛ばし、白衣からはみ出た脚を組んで椅子に座り直す。
「テメーみたいなミルク臭いガキンチョは、石鹸の匂いがお似合いだな」
「馬鹿にすんなってば」
「煙草の良さもわからねえくせに?」
 一日ひと箱以上空にするシャマルは、最早中毒と言って良い。彼みたいになるくらいなら、綱吉は大人になどなりたくない、とさえ思う。
 獄寺も吸うには吸うが、彼ほど酷くはない。第一彼は、綱吉の前では極力吸わないように心がけてくれている。
 だがここで、分からないままでも良い、と突っぱねるのは、何故だか負けを認めるような気がした。
 売り言葉に買い言葉、シャマルの口車に巧く乗せられた。だが冷静さを欠いた綱吉は、それに気付けなかった。
「わ、……分かるもん!」
 香水の良し悪しだって、少しは感じられるようになって来たのだ。煙草の臭いだって、似たようなものだ。
 強がって声を張り上げた彼が見ていないところでにやりと笑い、シャマルは突如、腕を伸ばした。
「わっ」
 油断していた綱吉のネクタイを掴んで、思い切り引っ張る。首が絞まった彼は、反発すれば余計に苦しくなると本能的に判断し、膝を折って腰を屈めた。
 意味ありげな目配せをして、シャマルは深く息を吸い、
「く……っさー!」
 綱吉に向かって吐き出した。
 鼻が曲がりそう、とはこういう時に使う言葉だろう。どうでも良い事が頭の中をけたたましく駆け抜けていって、圧力から解放された綱吉は涙目で悲鳴をあげ、その場で飛びあがった。
「分かってねーじゃねーか」
「うっさい。シャマルのアホ、馬鹿!」
 綱吉の強がりを看破し、力技でねじ伏せたシャマルが声を大にして笑った。愉快、痛快と人を指差している失礼極まりない男の脚を蹴り飛ばし、彼は両手で鼻を押さえて涙を呑んだ。
 思いつく限りの罵詈雑言を口にして、逃げるように駆け出す。顔の横で手を振って見送ったシャマルは、ドアが閉まる瞬間だけ、なんとも言えない顔をしたのだが、振り返らなかった綱吉はそれに気付かなかった。
 轟音を立てて閉じたドアを悔し紛れに蹴り飛ばして怒りを発奮させて、肩で息をして煙草に汚染されていない空気を胸いっぱいに吸い込む。
 だがまだ微妙に拭いきれない臭いが残っている気がして、彼は心細さを覚えて右袖を鼻に押し当てた。
 けれどもう、そこに吹き付けたはずの香りは違う匂いに侵食されて、分からなくなってしまっていた。
「……臭い」
 ぼそりと呟き、彼は唇を噛んだ。布を咥内に巻き込んで、苦い味を飲み込む。
 これは嫌いな臭いだ。だのに変に安心する自分がいる。
 ちぐはぐな心を抱え、綱吉は唇をそっと舐めた。

2010/10/22 脱稿