真夜中の恋愛論

 夏休み終了間際に、燃えてしまった寮の部屋。
 幸いにも寮の生徒の大半は帰省中であり、残っていた僅かな生徒も全員屋外にいた。なので怪我人は無かったのだけれども、花火が飛び込んだタクトの部屋は、懸命の消火活動の甲斐もなく消し炭になってしまった。
 否、燃えたものはそう多くない。どちらかといえば、振り撒いた消火器の粉と、放水による被害の方が大きかった。
 命あっての物種とも言う。五体満足、何処にも不都合がなく済ませられたことは、もっと喜んでよいはずだ。
 教員達や、寮母にはこっぴどく叱られた。あの場に居合わせた全員が正座をさせられて、二時間近い説教を受けた。偶々遊びに来ていただけのワコやスガタ、サリナにルリには、申し訳ない事をしてしまった。
 ただ、悪い事があった後は幸運が続くともいう。今後の住処をどうするかで迷った時、いの一番にスガタが手を挙げてくれた。
 彼が住む屋敷は広い。空き部屋もひとつやふたつではなくて、好きなように使ってくれていいと言われて、二つ返事で頷いた。
 持つべきものは友達、という言葉がこれ程身に沁みたことはない。とはいえ、流石に一円も支払わずに三食の世話になるのは気が引けた。
 実家に頼めばいいとは思うのだが、高い学費を出してもらっている手前、祖父の雷が落ちると考えるだけで電話を持つ手が震えた。これ以上の援助を求めるのは心苦しさが勝って、様々なシミュレーションを経た結果、タクトはアルバイトに精を出す事にした。
 商店街をひとりぶらぶらして、店にバイト募集のチラシが出ていないかを確認して回った。こんな小さな島だ、高校生を雇ってくれる店は少なかった。
 本土ならば、雑誌を捲るだけで済んだのに。そんな事をうっかり考えながら歩いているうちに、賑やかな外見の店を見つけた。
 従業員募集、経験不問、高校生可。時給は相応に安かったが、何もせずにいるよりはずっといい。一も二もなく自動ドアを潜り抜けて、カウンターで店番をしていた店員を前に、タクトは凍りついた。
「これで宜しいですか?」
「うん。ありがとう」
 ジャガーの問い掛けに即座に首肯し、タクトは渡された真新しいシャツを受け取って、微かに香る石鹸の匂いに嬉しそうに顔をほころばせた。
 履歴書も何もなしに「雇ってくれ」と飛び込んだカラオケボックスで待っていたのは、同級生で委員長の、ニチ・ケイトだった。
 唖然としている彼女の横では、店長だという妙齢の女性が目を輝かせていた。
 きちんとした手順も経ぬまま、あっさりとタクトのアルバイト先は決まった。いつから来られるかとの問いには、明日からでも、と返した。その帰り際に手渡されたのが、この制服一式だ。
 冷房の効いた屋内での業務でも、ひっきりなしに客からの注文が入るので、休む暇が無い。気付けば汗だくになっており、洗濯は欠かせなかった。
 そんなわけで業務終了後、脱ぎたてのシャツを鞄に詰めて持って帰り、タイガーにクリーニングを依頼した。夕食を終えたタクトの手元に戻って来たカラオケボックスの制服は、糊が利いて綺麗にアイロンが当てられていた。
「有難う」
 満面の笑みで感謝の言葉を贈られて、シンドウ家のメイドたちは照れ臭そうに微笑んだ。
「いつでも、遠慮無く申してくださいね」
「ほんと、助かるよ」
 控えめな笑みと共に告げたジャガーに改めて礼を言い、彼は真っ白いシャツを大事に抱き締めた。
「お仕事の方は、どうですか?」
「うーん……どうだろ。まだまだ、かな」
 生まれて初めてのアルバイトは、色々と試行錯誤の連続だ。自分では巧く出来たつもりでも、傍目にはそうは映らない事も多い。給仕の仕方だって、素人だ。作法もなにも、あったものではない。
「お教えしましょうか?」
 そんな事を口にした途端、ジャガーがスッと目を細めて言った。
「あ、いや。遠慮します」
 丸い眼鏡をきらりと光らせた彼女からそそくさと離れ、タクトは頬を引き攣らせた。
 そういえば此処に、給仕のプロがいるのだった。言ってから思い出した彼は空笑いで誤魔化し、逃げるようにリビングルームを出て行った。
 照明が絞られてほんのり暗い廊下に出て、真顔が恐かったジャガーに冷や汗を流す。
「流石にカラオケで、あんなに豪華な料理は出ないっしょ」
 毎朝夕、彼女達が用意する食事は絢爛豪華で、ちょっとしたレストランだ。味は抜群で、量も多い。成長期のタクトには嬉しい限りだ。
 給仕のマナーなどは明日出勤して、ケイト、もしくはゴシキに教わることにして、彼は両手に掲げた制服に視線を落とした。
 使っていいと言われた、嘗てのスガタの子供部屋に向かって歩き出す。他に必要なものはあっただろうかと、改めて冷静になって考えたところで、彼ははたと目を瞬いた。
「あ、そうだ」
 今の自分には大事なものがひとつ足りないと気付き、困った様子で上唇を噛む。
 視線を巡らせるものの、こんな場所に落ちているわけがない。あの火事で唯一無事だった所持品は、先日、ワコの誕生日にあげてしまったのだった。
「時計、どうしよう」
 無くて困るものではないと甘く考えていたものの、そうではなかった。
 学校にいる間は別段不便はないのだが、町に出ると苦労させられた。先ず、次のバスが何分後に来るのかが分からない。何処そこで何時に、と約束をしても、時間通りに到着するのが難しくなった。
 スガタ、もしくはワコと行動を共にしている時なら、見せてくれるよう借りればそれで済んだ。
 だがひとりで行動するとなると、困ることが案外多かった。
「参ったな」
 そんなわけで今日、ちょっとだけだが、アルバイトに遅れてしまった。
 これで明日も遅刻しようものなら、ただでさえおっかない委員長に、更に冷たい視線を向けられることになる。光景を想像するだけで、背筋が粟立った。
 押し寄せてきた寒気を堪え、タクトは進行方向に見えた扉に息を飲んだ。
「そっか」
 ストン、と解決方法が落ちてきた。静かな声で呟いて、彼は急ぎ、冷えた廊下を走った。
 パタパタ言う足音は、部屋の中にいた青年の耳にも届いていた。程無くして止まり、数秒の間を置いて遠慮がちなノックが室内に響いた。
「どうぞ」
 読んでいた本から顔を上げ、スガタは扉の向こうにいる人物に声をかけた。
 誰何の声をあげる必要も無い。程無くして開かれたドアの隙間から、目も醒めるような鮮やかな緋色の髪が覗いた。
 右の脇に布の塊を挟んで持ち、ややおっかなびっくりな様子でスガタに愛想笑いを浮かべる。先日から同居人に加わった少年は、廊下に比べて明るい室内を眩しそうに見詰め、中に入って背中で扉を閉めた。
 パタン、という音が夜闇に溶けて行った。
「どうしたんだ、こんな時間に」
 壁の時計を見れば、もうそれなりにいい時間だった。ふたりとも風呂は済ませており、後は布団に入って眠るだけ。
 中に入りはしたものの、訪ねて来た理由をなかなか喋りださないタクトに首を傾げ、スガタは栞を目印に本を閉じた。椅子を引いて立ち上がり、傍へと歩み寄る。
 顔を覗き込まれ、タクトは一瞬だけビクリとして口をもごもごさせた。
「いや、あ……あのさ」
「うん?」
 まさか独り寝が寂しいから一緒にいてくれ、とでも頼みに来たのか。ありえない想像をして微笑を浮かべ、スガタはタクトの持ち物に眉目を顰めた。
 学生服とはまた異なる制服だった。
「なんだ? タクト」
 それが、タクトがアルバイトしている店のコスチュームと見抜いたスガタは、恐らくはジャガー辺りに洗濯を依頼していたのだろうと、そこまで思い巡らせて口を尖らせた。
 だとして、自分に何の用があるのだろうか。よもやここで着て、見せてくれるわけでもあるまい。
 色々想像を働かせているうちに、タクトは近すぎる距離に身を捩り、スガタの胸を押した。
 シャンプーの香りさえ嗅ぎ取れるところにいたスガタは、後ろに僅かにふらついて、両足でしっかり身体を支えた。
「あの、あのさ。スガタ」
「どうした?」
 手を出してから自分の行動に気付いたタクトが、僅かに声を高くした。顔が赤い彼を平然と見返して、スガタは首を右に倒した。
 見詰められて再びまごまごし始めた少年に、自然と笑いがこみ上げてくる。目を細めて肩を震わせている彼に気付き、タクトは憤慨して頭の天辺から煙を吐いた。
「ああ、もう!」
「早く言わないからだろう」
 怒って癇癪を爆発させるが、あっさり受け流されてしまった。どうどうと、馬を宥めるように手を動かされ、タクトは拗ねて頬を膨らませ、地団太を踏んだ。
 青い髪の青年を上目遣いにじっと睨むように見て、むすっとしながらそっぽを向く。
「スガタ、時計ある?」
 視線が逸れる直前、ぶっきらぼうに問いかけられて、スガタはきょとんとした。
「時計?」
 鸚鵡返しに呟いて、壁の高い位置に吊り下げられている丸時計を見る。間もなく午後十一時を指し示そうとしている針を確認した彼に、タクトははっと息を飲んだ。
「そうじゃなくって」
 言葉足らずだった自分を恥じて、慌てて口を開く。制服を抱える右手の人差し指で、左手首の外側を指差した彼に、スガタも意味を理解して嗚呼、と頷いた。
 戦隊ものの、変身ポーズを思わせる動きを見せた彼に肩を竦め、歩き出す。
「スガタ」
「腕時計、な」
「そう。それそれ」
 咄嗟に単語が出てこなかったタクトが何度も首肯して、スガタを追いかけて部屋の真ん中に進み出た。大きなベッドに、アンティーク調の家具。机も、書棚も、なにもかもが高そうだ。
 許可を得ぬままベッドの端に座った少年に呆れ混じりに嘆息して、スガタは本の隣に無造作に置いていた腕時計を取った。
「こいつで、いいか」
 タクトが持っていた古い懐中時計は、今はワコの手元にある。資金難に陥った彼が、彼女の誕生日で唯一渡せるものがそれだったのだ。
 だから彼は今、屋外で正確な時間を知る術を持たない。
 差し出された腕時計は普段からスガタの左手首を飾るものだった。長方形の文字盤に、革のベルト。長さの違う針が三本行儀良く並び、壁の丸時計と全く同じ時刻を示していた。
 右の角に、僅かに凹んだ跡があった。どこか、固い場所にぶつけたのだろう。
「え……」
 足をぶらぶらさせて待っていたタクトは、目の前に戻って来たスガタの手元を覗き込み、絶句した。
 制服の袖で隠れがちだけれど、その時計が彼の愛用の品だということくらいは、タクトにだって分かる。見覚えがありすぎるデザインに目を見張り、驚いた顔をして視線を上向ければ、スガタが照れ臭そうに笑っていた。
「ほら。必要なんだろ?」
 ワコに懐中時計を渡して以後、タクトは前にも増してスガタに時間を聞くようになった。
 アルバイトに遅刻しないためにも、腕時計は必需品だ。ただこれがタクトの手に渡った場合、今度はスガタが困る事になる。
「けど」
 早く受け取るよう促す彼に尻込みして、タクトはベッドの上で身を捩った。膝に置いたカラオケボックスの制服を握り、折角アイロンが当たってピシッとしていたシャツに皺を作る。
「お前は、僕が、これひとつしか持っていないとでも思っているのか?」
「あ」
 何を遠慮しているのかを読み取って、スガタはちょっと自慢げに胸を張った。偉そうに踏ん反り返りながら言われて、タクトは目をぱちぱちさせた。
 確かに、こんな立派な屋敷に暮らすシンドウ家のお坊ちゃまが所有する腕時計が、ひとつきりであるわけがない。日頃は気に入った服しか袖を通さない彼だけれど、この部屋のクローゼットには山のように大量の衣装が押し込められているのを、タクトは知っている。
 今頃になって気がついた顔をしている少年に呆れ、スガタは持っていた時計を、変な風に跳ねている赤い髪の上に置いた。
「わっ」
 目の間を滑り落ちていった物に慌て、タクトが胸の前で受け止めた。大事に握って、刻々と動く針をぼんやり見詰める。
「使え」
「うん。有難う」
 困ったときはお互い様なのだから、遠慮する必要などありはしない。言葉尻に含ませて短く告げたスガタに、タクトは頷き、はにかんだ。
 満点の星空を思わせる眩い笑顔にクラリときて、スガタは底抜けに無邪気な少年に吐息を零した。
「巻いてみろ」
「なんで?」
「ベルトが緩いかもしれないだろう」
 時と、場所を、もう少し考えてはくれないだろうか。言っても通じないだろう願いを、心の中で愚痴として呟き、スガタは渡したばかりの腕時計を釣り上げた。
 追いかけて上向いたタクトの左手中指を掴み、更に高く掲げるよう促して言う。そうして素早く、垂れ下がる反対側のベルトを抓んで、細い手首に絡めた。
 きゅっと絞られて、血管が収縮する。痛くは無かったが怯えが産まれて、タクトは一寸だけ顔を引き攣らせた。
 銀色のリングを潜ったベルトの穴に、細い金具が突き刺さる。一番内側にある穴を選んだというのに、スガタが一連の作業を終えて手を放すと、環を作った腕時計はストン、と手首より三センチ弱、肘の方へ沈んだ。
「……あれ」
「おいおい」
 思っても見なかった結果に、タクトは目を点にした。
「おっかしいな」
 ベルトと手首の間に、小指が通るくらいの余裕が出来てしまっていた。ぴったりはまって動かなくなる位置を探ったら、小手の中間付近まで押し上げなければならなかった。
 そんな場所に時計があっても、袖が邪魔で見えない。かといって手首でぐらぐらさせるのは落ち着かないだろうし、革のベルトに皮膚が擦られて、肌を痛めてしまいかねない。
 想定外の結果にスガタも驚き、呆れ、肩を竦めて溜息をついた。
「嘘だぁ」
 額を掠めた微風に顔を上げ、タクトはわざとおどけ調子に言った。小指を隙間にもぐりこませ、爪先を回すように動かしている。
 だが瞳の彩からは、些かショックを受けている風にも感じられた。
「穴を追加しないとダメだな」
「えー、いいよ。このままでも」
 まさかこんなにも、腕の太さから違っているとはお互いに思っていなかった。
 そもそも手首の太さなど、日常生活で比べることなど殆どない。上腕部の筋肉や、手の大きさを並べて比較するくらいがせいぜいだ。
 そういえばスガタの手も大きかった。そんな、遠い昔にも思える記憶を不意に蘇らせて、タクトはベッドの上で身を弾ませた。
「良くない。身体に合わないサイズは、見た目にも悪い」
 笑いながら断った彼を頭ごなしに叱り、スガタはタクトの左手を攫って持ち上げた。肩ごと持って行かれそうになって、タクトは慌てて右手で尻の下にあったシーツを掴んだ。
 はっきりきっぱり断言されて、実際その通りなのだから返す言葉も無い。
 口を尖らせてそっぽを向いたタクトを他所に、スガタはベルトの穴から止め具の針を外し、彼にぴったりの位置を探して細い皮革を引っ張った。
 きゅっ、と手首を締め上げられる。タクトは首を竦め、真剣な顔をしている友人を下から見上げた。
「でもさ、これってスガタのだし」
 いつか返すものなのだから、自分のサイズにあわせるべく手を入れるというのは、少々気が引けた。
 それだったら新しいものを、安物で構わない、買った方がいい。もっとも、その資金が不足しているから、こうして家主の所有物を借りようとしているのだけれど。
 探せば三桁で購入可能な腕時計のひとつくらい、見付かるはず。
 明日、明後日の昼食を抜けばなんとかなると算盤を弾いた彼を見透かして、スガタは肩を落とした。
「そういう事をしているから、いつまで経っても細いんだろう」
「うぐ」
 痛いところを指摘されて、タクトは呻いた。
 食は、生命を維持する基本中の基本だ。それを疎かにするという事は、生きることに真剣でない証。
 手厳しい台詞にしょんぼり小さくなって、タクトは項垂れて俯いた。
 膝に戻した右手に、左手が重なった。解放されたが、長くスガタが掴んでいた場所には、暫くの間、じんじんとした痺れが残った。
 手首に巻かれた腕時計はベルトの固定が外されて、銀の環に通されただけのなんとも不安定な状態だった。今にも落ちてしまいそうなそれを右手で弄っていると、スガタが何も言わずに踵を返した。
 スリッパがフローリングの床を叩く、ぺたぺたという音が鼓膜を打つ。遠ざかる背中をぼんやり見詰め、ハッと我に返ったタクトは腰を浮かせた。
「スガタ?」
 何処へ行くのか。声をあげた彼を振り返り、青い髪の青年は目を眇めた。
「千枚通しを探してくる」
 そう時間は掛からないだろうから、此処で大人しく待つよう言って、ドアノブに手を伸ばす。事も無げに告げた彼に唖然として、タクトは中途半端な体勢を改め、再びベッドに腰を沈めた。
 ぼふん、とクッションで跳ね返った身体を左右に揺らし、真ん丸い目を細くして、苦々しい表情を作った。
「やっぱ、いいよ。このままでも」
「よくないと言っているだろう」
 ベルトの穴を増やすという事は、スガタが個人的に所有している物を、傷つけてしまうことだ。
 反発を覚え、ムキになって言うタクトを諌め、スガタも少しだけ語気を荒げた。
 堂々巡りに陥って、妥協点が見出せない。軽そうに見えて意外に頑固なタクトに、しばししてスガタは諦めたのか首を横に振った。額に掛かる前髪を掻き上げ、閉じたままの扉により掛かる。
「スガタ」
「穴がひとつやふたつ、増えたところで、それの価値が下がるわけではないだろう」
 文字盤が見えなくなるわけでもなし、タクトは何を拘っているのか。時計が持つ本来の役目が果たせなくなるのでもなく、逆に今まで以上に使いやすくなるだけなのに。
 膨らませた頬から息を吐き、タクトは両足を前に大きく蹴りだした。
「だけどさ」
「それに」
 それでも尚、嫌だと言い張ろうとした矢先。
 彼が息継ぎを挟むタイミングを見計らって、スガタが口を開いた。
 黄金色の瞳がスッと細められる。意味ありげな視線にどきりとして、タクトは言わんとしていた言葉を忘れた。
「お前は手綱を緩めると、直ぐにあっちこっちにふらふらするからな。ちゃんと締め付けて、縛っておかないと」
 不遜に言い放ち、ドアを開ける。蝶番が軋む音で彼が我に返った頃には、スガタの身体は廊下に出て、タクトの視界からは消えていた。
 パタンと扉が閉ざされる。すっかり静かになった空間を数秒間、じっと見詰めて、
「……えええええ!」
 今し方言われた台詞に、タクトは素っ頓狂な声をあげた。
 両手で頬を挟んで伸び上がった彼は、勢い余って背中からベッドに倒れこんだ。顔面どころか全身真っ赤になって、頭の中でぐわんぐわん響いているスガタの声に身悶える。
 どういう意味なのかについては、今更考えるまでもない。
 だが。
「なんだよ今の。なんなんだよ、今の!」
 理解は出来ても納得は出来なくて、彼はじたばた、ごろごろと広いベッドの上を右往左往した。
 そんな事を一分近く繰り返した後に、電源が切れたかのようにぷしゅん、と言って大人しくなる。未だ両手は顔の上で、左手の指にはベルトが解けた時計が挟まっていた。
 廊下から物音はしない。タクトの息遣いだけが、スガタの部屋に満ち満ちていた。
「なんなんだよ、もう……」
 恥ずかしい台詞を言い捨てて出て行った青年に悪態をつき、彼は指を広げた。束縛が緩まった腕時計が、自重に負けて耳元に滑り落ちていこうとした。
 シーツに沈みきる前にパッと掴んで顔の前に引き揚げて、コチコチと動いている時計の針を食い入るように見詰める。
 左手を支えに身を起こした彼は、依然として視界を埋める縦長の四角形に見入り、やがて気の抜けたような笑みを浮かべた。
 スガタの腕時計。
 いつも彼の左手で、彼と共に在った腕時計。
 明日から、それがタクトの左手につながれる。
「小指じゃなくて残念、って?」
 誰に向かってか呟いて、彼は堪えきれずに噴き出した。

2011/04/09 脱稿