桜会

 桜が咲いたから、見においで。
 そう誘われて、のこのこ訪ねて行ったのが悪かったのか。
 闇に浮かび上がる薄紅色の花は、確かにとても美しかった。縁側から漏れ出る光を浴びて、厳かに、控えめに、されど気高く咲き誇る桜は、まるでどこかの誰かのように、凛とした佇まいをみせていた。
 開け放たれた窓からは、夜の冷たい風が絶えず吹き込んできた。けれどあまり寒く感じないのは、重ね着しているお陰だろう。
「綺麗だね」
 濡れ縁に腰を下ろした雲雀が、のんびりと呟く。視線は外、淡い光を浴びている桜の木に注がれていた。
 樹齢は、ざっと三、四十年といったところだろうか。高い塀に囲まれた日本庭園には、他にもひょうたん型の池があったり、立派な枝振りの松が植えられていたりと、なんとも見事な様相だった。
 初めて目にした時は別次元に迷い込んだと思った。京都や鎌倉などの、歴史ある場所に潜り込んだ錯覚にも陥った。
 まさか並盛町の、自宅から徒歩三十分圏内に、こんな別天地があるなど、中学生になるまで全く知らなかった。
 桜の木は一本だけだったが、枝は天を向いて縦横無尽に伸びており、他に邪魔なものもない為にのびのびと育っているようだった。電線などの無粋な存在も、見上げる範囲には存在しなかった。
「そう……ですね」
 雲雀の斜め後ろから同じものを見詰め、綱吉は幾許かの逡巡を挟み、頷いた。
 普段なら即答していただろうが、生憎と今晩ばかりは素直に認められそうにない。
 確かに桜は美しく、風が吹く度に舞い散る花びらはまるで雪景色で、漆黒の闇に溶けて消える光景は見事と言わざるを得なかった。
「気に入らない?」
「そうですね」
 声に不満が紛れていると見抜き、雲雀が振り返った。艶やかな黒髪を短く切り揃え、昔は前髪で隠していた額も惜しげなく晒している。
 切れ長の瞳で見詰められて、綱吉は息を飲み、慌ててそっぽを向いた。
 雲雀が、膝に抱いていた湯飲みを脇へ置いた。半月型の盆には他に、花見団子を載せた皿がひとつ、控えていた。
 綱吉の左側にも同じものがあった。但しこちらは、団子の串しか残っていない。湯飲みの中身は、半分ばかりまで減っていた。
「なにが不満なの」
「それが分からないヒバリさんが、一番不満です」
「ふぅん?」
 折角の花見だというのに、綱吉はさっきからずっと奥に引き篭もったままだ。
 団子で釣って廊下まで引っ張り出すのには成功したが、雲雀と濡れ縁で並ぶのだけは嫌だと、断固拒否されてもう十分近い。
 ちゃんと花見用に衣装まで用意してやったのにと、雲雀はあさっての方向を向いている彼を、上から下までじっくりと眺めた。
「可愛いのに」
「可愛くないです!」
 ぼそりと言えば、即座に雷が落ちてきた。
 握り拳を振り上げた綱吉が、雲雀を殴ろうと膝で立とうとした。だが長く正座を維持していたために足は痺れ、しかも両足が幅の狭い布の中に閉じ込められているといのもあり、数センチ浮かんだ腰は、三秒後には元の場所に戻ってしまった。
 なんと身動きが取り辛い衣装なのだろうか。思い通りに行動できないのを悔しがり、地団太を踏んでじたばたしている彼に肩を竦め、雲雀は背中を丸めて頬杖をついた。
「かわいいよ」
「だから、俺は別にかわいくなくていいんです!」
 そういう細々した仕草も含め、愛らしくて仕方が無い。そう言いたげな雲雀に憤慨して、綱吉は奥歯を噛み締めた。
 沢田綱吉、性別男、は春の到来を思わせる薄いピンク色の和服姿だった。
 右の袖と肩、前身頃の上半分までが薄く、左下に向かうに連れて色は徐々に濃くなる。桜の花びらが白抜きで散らされて、半襟は濃い桃色。帯は橙色、帯留めのモチーフも桜だ。
 ふたつに割れている先端部分がピンクで、残りは透明の帯留めを指で弄り回し、綱吉はぷっくり紅色の頬を膨らませた。
「これ、女物じゃないですか」
 甘い言葉の誘惑に負けて、ホイホイ招かれて訪ねた雲雀の屋敷。
 純和風という言葉以外に表現が思いつかない平屋建てに入った瞬間、綱吉は有無を言わさず奥の部屋へと連れ込まれた。
 雄々しい屏風が飾られた玄関を堪能する暇もなく、八畳ほどの和室へ通された。床の間を持つその部屋には、衝立式の衣桁に掛けられた見目鮮やかな着物が飾られていた。
 そして綱吉は、今、それを着て此処にいる。
 ピンク色の可愛らしい絵柄で、花見の為だけに仕立てられたといっても素直に信じてしまえそうだ。が、どこからどうみても、これは男である綱吉が羽織る代物ではない。
「よく似合うよ」
 にもかかわらず、雲雀は平然としてそんな事を口ずさんだ。
 信じ難い評価に愕然として、綱吉は拳を固くした。届かないと知りつつまた振り上げて、空気を殴って行き場のない苛立ちを懸命に諌める。
 肩で息をしている彼に苦笑して、雲雀は右手を持ち上げた。
 おいでおいでをされて、綱吉は鼻を膨らませた。
「俺、こんなのヤです」
「その割に、ちゃんと着たんだね」
「だって、……女の人に手を挙げられないじゃないですか」
 綱吉を着付けたのは、屋敷のお手伝いの女性だった。
 年の頃は四十代半ばで、ちょっとぽっちゃりした、のんびりとした女性だ。綱吉が桜柄の着物を着るのにも、なんら疑問を抱いていない様子だった。
 嫌だと言い張っても、まるで聞いてもらえなかった。力技で逃げ出すのも、やろうと思えば出来たのだが、なにせ相手は母くらいの年齢で、しかも女性。大人しくしろ、と鋭い声で叱られてしまい、結局綱吉は成す術ないままに女物を着る羽目に陥った。
 迎えにきた草壁に案内された部屋で待っていた雲雀も、女物を着ればよかったのだ。だが綱吉がどれだけ睨んだところで、彼の服装は変わらない。
 彼もまた和服だったが、その色調はまるで違っていた。
 黒色と、闇色は似ているようで全く違う色なのだと、綱吉は彼と夜桜と同時に見詰めて思った。
「最近は、男女の性差が薄れて来ていると言うからね」
「?」
「着物も、男女の違いを細かく気にしなくて良いんじゃないかな、ってね」
「…………」
 三色団子の串を取り、ひとくち齧った雲雀が言う。あっけらかんと碌でもない事を言われ、綱吉は押し黙った。
 渾身の力を込めて睨み付けるが、まるで効果が無い。面白くなくて、綱吉は冷めた茶を飲んで苛立ちを抑えこんだ。
 濡れた烏の羽のような黒色の着流しに、帯は柿渋の茶色。一方の半襟は蘇芳と、色合いは決して地味ではない。
 町のネオンからも遠く、屋敷の周囲は静かだった。時折車のエンジン音と、ライトが紛れ込むくらいで、虫の声すら聞こえてこない。
 お陰で桜の美しさ、そしてその裏に潜む不気味さもはっきり感じられた。
 闇と同化しているようで、しっかり浮き上がって自己を主張している雲雀を見詰め、綱吉はふわりと紛れ込んだ風に視線を浮かせた。
 瞬きをして、ひらひらと屋内に紛れ込んだ小さなものに手を伸ばす。ごみかと思ったが、違う。わざわざ彼を訪ね来た、桜の花びらだった。
 掌を上に左右並べた綱吉の元に綺麗に着地を決めて、端をふわふわと泳がせる。息を吹きかければ飛んで行ってしまいそうな儚さに、自然と頬が緩んだ。
「君がなかなか出て来ないから、向こうから来たじゃない」
 ちくりと雲雀が嫌味を言って、綱吉に睨まれるより先に目を逸らした。肩を震わせて笑っている彼に悪態をつき、綱吉はあっかんべー、と舌を出した。
 雲雀は団子の串を皿に置いて、下駄を履いて濡れ縁を降りた。カコン、と靴脱ぎ石を蹴って地面に二本足で立ち、すたすたと歩いていってしまう。
 桜の木の下で足を止めた彼の後姿に、綱吉は何故だか胸が締め付けられた。
 空が暗いからだろう、その姿はどこかおぼろげだ。背を向けられてしまったら半襟の鮮やかな蘇芳も見えないので、黒と闇は一層同化して、区別がつかなくなってしまう。
 違う色だと感じていたのに、今では両者はほぼ等しい。
 ハッと息を吐き、綱吉は目を見張った。
 雲雀が右足を浮かせた。下駄の歯を大地に突き立てて、立派に咲き誇る桜の木へと更に近付く。
 風が吹いた。ざああ、と枝が鳴り、淡い紅色が一斉に空を舞った。
「っ!」
 沢山の花びらが枝に別れを告げ、月明かりさえない暗闇に吸い込まれていく。濡れ縁手前の廊下にいた綱吉にも襲い掛かって、彼は咄嗟に左腕で顔を庇った。
 瞼を閉じ、瞳への直撃を避ける。一瞬だけ、雲雀から意識が外れた。
 一呼吸を挟み、彼は顔をあげた。手を下ろして膝の左右に置き、腕の力で腰を持ち上げる。
 前のめりになった彼の視界には、闇と、そうではない部分との不明瞭な境界線が広がっていた。
「あ、れ」
 掠れた声で呟き、綱吉は二度、瞬きをした。大きな目を真ん丸に見開いて、慌てた様子で首を左右に揺り動かす。
 とても遠い場所に高い塀、その手前に二本の松。向き合ってお辞儀をしている枝ぶりは、背景と相俟って水墨画の世界を思わせた。
 乾いた砂で覆われた地面、そこに紛れ込む白い飛び石。桜の木は濡れ縁の右側に、存在感たっぷりに聳えていた。
 足りないものがあった。少し前までは確かに其処に在ったのに、今、綱吉の目にはそれが映らない。
「ヒバリさん」
 桜の木の下にいた青年の姿が、忽然と消えた。
 瞠目し、何度も瞬きを繰り返し、綱吉は息を飲んだ。乾いた唇をパクパクさせて、身体の横にあった手を前に出す。四つん這いに近い状態で廊下と濡れ縁を区切るレールを跨ぎ、さっきまで雲雀が座っていた場所まで出る。
 冷たい夜風が頬を叩いた。跳ね放題の髪の毛を擽り、無邪気に駆け抜けて行く。
 目を凝らし、注意深く広い庭を探るけれど、動くものは見られない。否、風に煽られた桜が、まるで根こそぎ揺らいでいるようだった。
 頭がくらくらして、綱吉は熱い息を吐いた。更に前に出て、縁台から落ちそうになって慌ててバランスを取る。覗き込んだ靴脱ぎ石には、彼のために用意されたと分かる草履が一足、行儀良く並べられていた。
 趣味を疑う色合いに、綱吉は臍を噛んだ。だが背に腹はかえられぬと諦めて、意を決して立ち上がった。
 桜色の台に、鼻緒は見目鮮やかな朱色。踵を置く天部分に桜の花びらを散らしており、徹底した入れ込みようだ。
「……また無駄なところにお金使って」
 一式揃えるのに、彼はどれくらい散財したのだろう。
 もっと他に、有意義な金の使い方がある事を、彼はいい加減学ぶべきだ。
 中学時代から数えて、付き合いはもう五年を越える。それでも依然、あの男の頭の中が綱吉には分からない。
「ヒバリさん!」
 嫌な予感を振り払おうと、彼は声を高くした。胸が苦しいのは帯で締め付けられているからと言い訳して、暗闇に染まる虚空に向かって叫ぶ。
 無音の空間に響く事無く吸い込まれていく悲鳴に、応える声はない。雲雀邸の庭先で、闇を背景にした桜が厳かに、凛と咲き誇るのみ。
 はっ、と短く息を吐いて、綱吉は真新しい草履に爪先を捻じ込んだ。初めて履くので足のサイズに合わせて調整されておらず、前坪がきつくてなかなか親指が通らない。屈んで手を伸ばせば楽なのは分かっているが、着崩れが恐くてそれも出来なかった。
 なんとか強引に草履を引っ掛けて、靴脱ぎ石の上から両足揃えて飛び降りる。降り注がれる花びらと袖とが重なり合って、まるで着物の中から桜が零れ落ちてきたようだった。
 もっとも綱吉本人は、そんな不可思議な彩に目を向ける余裕すらなかった。一歩十五センチ程度しか進めないのに苛々しながら、雲雀が立っていたはずの場所へと急ぐ。
「うっ」
 風が強い。太い枝が撓り、ざあぁぁ、と震えた。
 雨のように降りかかる花びらを避けて腕を掲げ、垂れ下がった袖の隙間から闇夜を窺う。息を殺して注意深く生き物の気配を探るものの、それらしき空気は微塵も感じられなかった。
 何処へ行ってしまったのだろう。
「ヒバリさん」
 よもや自分が見たのはすべて幻であり、濡れ縁で語らいあったのもまやかしだったのか。
 桜にまつわる逸話が思い浮かんだ。この花がほんのり紅を帯びている理由が脳裏を過ぎり、彼の顔からサッと血の気が引いた。
 寒くも無いのに奥歯をカタカタ言わせ、紫に変わった唇を開閉させる。短い間隔で息を吸い、吐いて、瞬きも忘れて虚空に見入る。
 どくどく言う心臓は今にも破れそうで、足は竦んで膝が笑った。
「ヒバリさん」
 もう一度、彼を呼ぶ。
 返事は無かった。
 桜が散る。はらはらと、まるで何かを隠そうとしているかのように。
「ヒバリさん。ヒバリさん!」
 声を発する度に喉が焼けそうに痛んだ。引き裂かれ、真っ赤な血が溢れ出ていくようだった。
「ヒバリさんっ!」
 絶叫に近い声をあげ、綱吉は自分自身を抱き締めた。
 暗闇に桜がぼんやり浮かび上がっていた。世界が滲んで、輪郭を失っていく。淡い琥珀色の瞳を曇らせた彼の頭上にも、はらりと花びらが舞い降りた。
 それを素早く払い除けて、大きな手がくしゃくしゃの髪の毛を撫でた。
「ごめん」
「ばかっ!」
 気配もなく後ろに立った青年が、悪戯を詫びて頭を垂れた。謝罪の言葉を大声で上書きして、綱吉は鼻を愚図らせ、かぶりを振った。
 雲雀の手を払い除け、くるりと反転して向き直る。行き場を失った手を肩の高さに掲げていた青年は、肘の手前までずり下がっていた黒い袖に気づき、慌てて腕を下ろした。
 一瞬だけ見えた白い包帯に、綱吉は唇を噛み締めた。
「悪かったよ」
「ダメです。そんなんじゃ、許しません」
 重ねられた侘びの言葉を拒絶して、紅色が戻った頬をぷっくり膨らませる。
 二十歳も過ぎているというのに、なんとも愛らしい表情にうっかり顔をほころばせてしまい、雲雀は落ちてきた拳骨を、甘んじて右肩で受け止めた。
 微かな痛みに顔を顰めるが、声には出さない。我慢している彼を盗み見て、綱吉は黒色の袖を抓んだ。
「ヒバリさんが死んだら、桜の下に埋めてあげます」
「それは、嬉しいね」
「それで、俺は毎年、その木の下で花見をするんです」
「踏むのは止めて欲しいな」
「何言ってるんですか」
 庭の桜の木は、幹がそれなりに太い。雲雀の着物は黒いので、後ろに隠れればはみ出た部分も闇に同化して、紛れてしまう。
 トリックでもなんでもない、ちょっとした悪ふざけだったのに、綱吉は予想外に狼狽した。
 あんな恐い思いをするのは二度と御免だと嘯いて、彼は苦笑した雲雀を睨み付けた。
「ヒバリさんは、俺の上に降って来るんです」
「……そうだったね」
 桜と一緒に、はらはらと。
 綱吉に降り注ぐ、それは。
 苦笑いを浮かべた雲雀に溜飲を下げて、綱吉は手を引っ込めようとした。それを素早く雲雀が絡めとって、引っ張った。
「あっ」
 華奢な体躯を胸に受け止め、雲雀は桜色に包まれた青年の背に腕を回した。しっかりと抱き締められて、綱吉は一瞬見開いた目を細め、琥珀色を瞼の裏に隠した。
 頬を寄せる。確かに感じられる体温、鼓動。微かに消毒薬の臭いが鼻腔を掠め、彼は甘えるように雲雀に額を押し付けた。
「桜を、探しに行かないといけないね」
「……?」
「僕が眠るのに相応しい桜を」
「そんなの」
 一生、見付かるわけがない。
 ムキになって言い返した青年に、雲雀は肩を竦めて笑った。
「そうかな」
「そうですよ」
 はっきり、きっぱり言い切って、綱吉はキスを強請り、慣れない草履で背伸びをした。

2011/04/09 脱稿