懸隔

 眠気を誘う午後の陽気を右手で遮り、綱吉は渡り廊下を心持ち早足で歩いた。
 本当は走ってしまいたいのだが、風紀委員に見付かりでもしたら、容赦なく咬み殺されること間違いない。それだけは是が非でも遠慮願いたくて、彼は逸る心を押し留め、コンクリートの道を突き進んだ。
 校舎と体育館を隔てている通路は、上履きのままでも通り抜けられる唯一の屋外ルートだ。他の経路を辿るには、正面玄関を経て外履きに履き替えなければならない。
 だからそんな面倒臭い道順を選びたがる生徒は少ない。綱吉も、そのひとりだった。
「いい天気だなー」
 学校さえなければ、のんびり昼寝を楽しみたくなる気候だった。陽射しは柔らかく、夏場の激しさは影も形も残っていなかった。
 八月の空の下には居たくはないけれど、今ならまだ許せる。但し風が出て来たら、少々厄介だ。
 紺色のベストの上から腕を撫で、日増しに強まる寒さと闘う身体を労わり、彼はようやく到着した目的地に胸を撫で下ろした。
 観音開きの扉は片方だけが開放されていて、その手前に、中にいるだろう生徒らの上履きが、ごちゃまぜ状態で放置されていた。
 体育館シューズに履き替える、という手間を惜しんだ生徒らは、ここぞとばかりに靴下も脱いで、素足で滑りやすい体育館を走り回っていた。
 賑やかな声が聞こえて来て、合間にボールが弾む音が混じる。彼らが此処で何をしているのか、それだけで想像がついた。
「山本ってば、バスケも巧いんだからなー」
 野球部の期待の星でもある山本武は、スポーツ万能の人気者だ。何故そんな彼と、平々凡々を絵に書いたような自分とが友人関係でいられるのか。綱吉自身いまだに不思議だった。
 しかもただの友人ではなく、ある種の秘密を抱えあった盟友でもある。学校に通う生徒らの多くが知らない関係が、ふたりの間には存在した。
「いるかな」
 山本が本当に体育館にいる保証はない。けれど教室から見下ろしたグラウンドにはいなかったので、恐らく此処で間違いない筈だ。
 期待と不安をない交ぜにして唇を舐め、彼は中に入ろうとして出し掛けた足を引っ込めた。
 他の生徒らに倣って、上履きを脱いでから入ったほうが良かろうか。そう思うのだが、あまりにも入り口周辺が混雑していて、脱いだところで置き場所は無さそうだった。
 一瞬考えて目を泳がせた彼は、仕方なくその場で上履きを脱ぎ、仄かに温かなそれを左手でひとまとめに持った。
「よっ、と」
 天地を逆にしている誰かの上履きを避けて前に出て、狭いスペースに爪先を下ろす。もう少しで踏むところだった、持ち主不明の上履きが踵に当たって、少しだけ位置がずれてしまった。
 それにしてもこれだけの数があって、どれが自分のものか、分かるのだろうか。
「山本のって、あるのかな」
 所有者の名前が記されているものと、そうでないものが半々。更には踵の潰れているものと、そうでないものと。後は靴のサイズくらいしか、個人を特定する材料がない。
 交通渋滞を起こしていた靴の上をどうにか通り抜け、綱吉は背伸びしたまま中の様子を窺った。
 ボールがバウンドする音はひっきりなしに鼓膜を打ち、仲間に合図を送る掛け声と混ざり合って、昼休みの体育館は妙な熱気に包まれていた。
「なんか、邪魔しちゃ悪いかな」
 先生に頼まれて山本を呼びに来たのだが、とてもではないが割って入れる雰囲気ではなかった。
 三対三のチーム戦で、それ以外の生徒らは応援と観戦に回っていた。綱吉が探していた人物は当たり前のようにコートの中にいて、茶色のボールを巧みに操り、敵チームを翻弄していた。
「すごい。上級生相手に」
 人の頭ほどの大きさがあるボールが彼の手を離れ、ふわっと浮き上がったかと思うと、高い位置にあるゴールを潜り抜けて瞬く間に床に落ちた。
 誰もがその光景に見入り、声を失う。綱吉までもが唖然とし、直後湧き起こった大歓声に背筋を震わせた。
「うひゃぁ」
 バスケットボールなど、授業でやったことしかない綱吉でさえ、今のシュートは凄いと分かった。
 山本が白い歯を見せて笑って、右腕を突き上げて周囲の声に応えている。彼に振り回される一方の三年生は悔しげに地団太を踏み、取られた分を取り返すべく躍起になっていた。
 今来たばかりの綱吉には、点差がどうなっているのかもさっぱり分からない。だが三年生の焦り具合を見るに、山本たちが勝っているらしい。
「うぅ……どうしよう」
 頼まれた用事をさっさと済ませたいのに、此処で山本を呼び出したら周囲からブーイングを受けそうだ。
 あまりにも眩しすぎる親友を遠巻きに見詰め、綱吉は手持ち無沙汰に持った上履きを揺らした。
 二十三センチの上履きは、同年代の男子と比較してかなり小さいほうだ。女子ですら、彼より大きいサイズを着用している子がいる。聞いた話、ハルは綱吉と同じサイズを履いているのだとか。
 足の大きさは背の高さに比例する、とどこかで聞いた事がある。せめてもう少し足が大きくなれば、自分はもっと背が伸びるのだろうか。
「あと、二センチ」
 せめて二十三から二十五へ。小さいようで大きい差を実感したくて、綱吉は顔の前にやった右手を軽く広げた。
 親指と人差し指で、これくらいか、と空間を作ってみる。その手をコートの方へ向けると、激しいボールの奪い合いが展開されていた。
 狭い隙間から縦横無尽に駆け回る生徒らをぼんやり眺め、彼は小さく肩を竦めた。
 先生には申し訳ないが、見つけられなかったと言っておこう。嘘をつくのは心苦しいものの、この白熱した展開に水を差すなど出来ない。
「帰ろう」
 山本の活躍をもっと見ていたい気もしたが、じっとしていられる自信もなかった。コートの近くで見守っている時に、目の前で彼がゴールを決められでもしたら、歓声を上げて抱きついてしまうかもしれない。
 衆目の前でそんな痴態を晒して、もし山本が悪く言われるようなことになったら、目も当てられない。
「うん。やっぱ戻ろ――どわぁ!」
 名残惜しいが自分に強く言い聞かせ、綱吉は深く頷いて踵を返そうとした。右の踵を浮かせて爪先で床を蹴る。その最中で、突如彼は絶叫した。
 コートで行われていた激しい鍔迫り合いの結果、勢いに乗ったボールがすっ飛んできたのだ。
 目の前を突っ切って壁にぶつかって跳ね返ったそれに吃驚させられて、綱吉は目を丸くして脂汗を流した。心臓が一瞬にして膨れ上がり、バクバク言って止まらない。
 あんなにも騒がしかった体育館もシーンと静まり返って、壁に当たったボールが跳ねる音だけが、やけに大きく響いた。
「うえっ」
 ただ其処に立っていただけなのに、一気に注目を浴びることになって、綱吉はハッと我に返って視線を左右に泳がせた。
 山本にダイブもしていないし、話しかけてすらいないのに、まさかこんな事になるなど。
「やっ、あ、えと。し、失礼しました!」
「ツナ!」
 挙動不審に首を振り、最後に深々と頭を下げた綱吉が大声で叫ぶ。自分でも何故謝っているのか分からないでいたら、人垣を割って声が走った。
 山本だ。
 汗だくで駆け寄って来る彼の姿に何故だか急に泣きたくなって、綱吉は急ぎ腹に力をこめた。
「ごめん。続けて」
「そうじゃなくて。大丈夫かよ、当たらなかったか?」
 予想外のことで、結局熱戦に水を差してしまった。運悪く巻き込まれただけの被害者なのに、加害者の如く恥じ入っている綱吉の肩を押し、山本が顔を覗き込んできた。
 鼻息が掛かる近さで見詰められて、本気で心配してくれていると分かる迫力に圧倒される。思わず息を飲んで目を瞬いた綱吉は、三秒後にはっと我に返り、大急ぎで両手を振り回した。
 そしてやっと、自分の手が空っぽなのを思い出して、落とした上履きに視線を落とした。
「やまもとー」
「悪い。先やっててくれ」
「えー」
「頑張れよ、バスケ部員」
 綱吉が足元に気を取られている間に、コートからはボールを拾った生徒の声が飛んだ。試合を再開するぞ、と山本に呼びかけるものの、当人は軽く手を振り、人好きのする笑顔を浮かべた。
 山本並に背の高い男子が不満げにしたが、長らく出番を待っていたらしいほかの生徒がすかさず輪に加わって、メンバーは揃ってしまった。騒がしさが戻るのにもそう時間は掛からず、観客の注意はあっという間に綱吉たちから逸れた。
 喧騒を遠巻きに眺め、山本は綱吉の靴を拾って肩を竦めた。
「どうしたんだ?」
「いや。先生が、なんか用あったみたいで」
 運動オンチの綱吉が、昼休みに体育館まで来るなど珍しい。だから自分を訪ねて来たに違いないと読んだ山本が眉間に皺を寄せて、見下ろされた綱吉は言い難そうに口をもごもごさせた。
 左右の指を絡めて弄り、目を合わせずに答える。
 山本の後ろでは誰かがシュートを決めたのか、ドッと場が湧いて熱気が渦を巻いた。
 ふたりがいる場所だけがやけに静かで、体育館でもひと際浮いていた。
「呼んでくれりゃいいのに」
「でも、盛り上がってたし。悪いかなって」
 それにさほど急ぐ用事ではないようだった。今日中に顔を出せば問題なかろうと、綱吉は勝手に自分で判断して、言葉を並べ立てた。
 恐らくは先日行われたテストの件だ。今日の昼休み、そういえば追試を受けに来るよう言われていたのを思い出して、山本はひとり、苦笑した。
「山本?」
「いや、こっちのこと。そっか、ありがとな、ツナ」
「俺はなんにもしてないよ」
 はにかんだ彼を怪訝に見上げた綱吉に礼を言い、山本は人様の上履きを手の中でくるくる回した。玩具にされてしまって、綱吉は取り返そうと手を伸ばしたが、指が届くぎりぎりのところで避けられて叶わなかった。
 そういうところも器用な親友をねめつけて、綱吉は靴下さえ脱いでいる山本の爪先を見た。
「山本って、何センチ?」
「百八十と、えっと」
「そっちじゃなくて」
「ああ、足? んー、二十六だったかな」
 質問の仕方が悪かった綱吉にリテイクを食らい、山本は左足を持ち上げた。裏面にはびっしりと埃が張り付いて、肌は黒ずんでいた。
 土踏まずさえ大きい。蹴られたら痛そうで、思わず後ずさりした綱吉を笑い、彼は上履きをひっくり返した。
 踵部分の少し上、底が磨り減っているのでやや読み辛いところに刻印された数字を読み取って、口角を歪める。
「ツナはちっちぇーな」
「五月蝿いな。あと二センチ大きくなるんだよ」
「たったの二センチ?」
「違う。背じゃなくて、足!」
 二十三センチの文字に顔を綻ばせた彼に怒鳴って、綱吉は上履きを奪い返すべく腕を伸ばした。
 が、またしても逃げられて、空ぶった手に引きずられた身体が前に傾ぐ。バランスを崩している間に山本は後退して距離を稼ぎ、人ごみを避けて体育館出口に向かって走り出した。
 試合に熱中している生徒らの歓声に負けないくらいの大声を放った綱吉は、悔しげに地団太を踏み、体育館を逃げ出した親友を追いかけて足を前に繰り出した。
 山本は自分の上履きを探すのに手間取っていて、追いつくのは容易だった。油断していた背中を思い切り押してやれば、彼は慌てふためき、降参だと言って綱吉の上履きをぽーん、と放り投げた。
「ああっ」
「みっけ」
 弧を描いて飛んで行く靴に悲鳴を上げた綱吉の隣で、目的のものを探り出した山本がスリッパ状になっている汚れた靴を拾い上げる。
「ちょっと、山本」
「ほい、ツナ」
「えっ」
 あれが無いと教室に帰れない。酷い、と憤慨する親友に向かって今し方手にしたばかりの上履きを突き出し、山本は呵々と笑った。
 白い歯が零れる笑顔に虚を衝かれ、綱吉は目を点にした。
「でっかい靴履いてると、足もでっかくなるんじゃね?」
「……そうなの?」
「さあ? でも、ちっちぇーままだと窮屈だろ」
 唖然としている彼の額を小突き、山本が悪戯っぽく目を細める。根拠らしい根拠も無い、思いつきの言動に吃驚させられて、綱吉は渡されたぶかぶかの上履きを見詰めた。
 彼が言うのだからそうに違いないと思えるから、不思議だ。
「でも山本は、どうするの?」
「俺? 俺は別に、このままでも良いし」
 綱吉の上履きを拾いに行って、彼は裸足の右足を振った。既に汚れているから、教室に行く道中も気にならないと言い張って、そのまま歩き出してしまう。
 彼と自分の手元を見比べて、綱吉は叫んだ。
「やっぱいいよ。自分の履くから、山本も」
「善は急げって言うだろー」
 どう考えても大きすぎる上履きを振り回すが、山本は聞こうともしない。朗らかな笑顔の花を咲かせて、早く来い、と逆に綱吉を手招く。
 お調子者で、呑気で、天然で。
 とても友達思いで。
 スポーツ万能で、なんでもやれば出来る男で。交友関係も広くて、誰とでもすぐに仲良くなれてしまって。
 まったくもって、何故彼はダメダメのダメツナを、こんなにも気にかけてくれるのだろう。
「いい奴過ぎだよ」
 彼の優しさに、どんどんダメな人間になっていく気がして、綱吉は肩を竦めた。
 今よりもっと大きくなって、せめて彼を支えられるくらいにはなりたい。
 密やかな決意を新たにして、大きすぎる上履きに足を差し込む。
「山本、待っ……うわ!」
「ツナ!?」
 そして威勢よく歩き出そうとして、彼はものの見事に足を滑らせ、借り物の上履きを遠くへと蹴り飛ばした。

2010/10/20 脱稿