春休みも半分を過ぎて、カレンダーが一枚進んだ。
美しい桜並木の写真を前に胸を張って、沢田綱吉はまだちょっと残っていた眠気を追い払おうと、大きく伸びをした。
欠伸を噛み殺し、睡魔を遠くへ投げ捨てて身体を軽く解す。寝方が悪かったのか、関節を動かす度にあちこちがボキボキ音を立てた。
「んー、良い天気だ」
窓から覗く景色は見事なまでの快晴。雲も少なく、澄み渡る青空がどこまでも続いていた。
風もないようで、窓枠がカタカタ鳴ることもない。どこかで小鳥が戯れている、楽しげな囀りだけが耳朶を打った。
「さて、と。着替えるかな」
時計の針はまだ八時を回ったばかりだ。普段なら休みというのもあり、のんびり昼前まで布団に寝転がっている彼だけれど、今日ばかりはそうもいかない。油断していたら、酷い目に遭うに決まっているからだ。
天井からぶら下がるハンモックは無人で、布団も綺麗に片付けられていた。押しかけ家庭教師のリボーンの姿は、部屋の中には見られなかった。
耳を澄ませ、足元に意識を傾ける。素足で触れたフローリング越しに、階下の喧騒が聞こえてくるようだった。
沢田家には子供が多い。家主である沢田家光と奈々の間に生まれたのは彼ひとりであるけれど、リボーンがやってきてからは居候がひとり増え、ふたり増え、結果的に大家族へと変貌を遂げてしまった。
勝手に居付いた面々でさえも、奈々は朗らかに受け入れてしまった。なんでもかんでも疑わずに信じてしまう母は、一方ではとても誇らしいけれど、一方ではとても不安だ。
三十路を過ぎても尚若々しい母を思い返して嘆息し、綱吉はパジャマのボタンを上から順に外していった。
手早く着替え、身なりを整える。
「絶対、騙されてなんかやらない、ぞ」
最後にズボンのベルトを締めて、彼は意気込んで荒い鼻息を吐いた。
今日は四月一日。そう、エイプリル・フールだ。
今や日本生まれの日本育ちよりも、ヨーロッパ生まれの欧州育ちの方が多い沢田家では、あちらで盛んなイベントは、たとえ日本でメジャーではなくとも開催された。
ハロウィンであったり、イースターであったり。ただ綱吉は、多少の知識はあっても、馴染みが無いのであまり楽しめなかった。
そうして迎えた、今日という日。
流石の彼も、この日がどういう意味を持つのかくらいは知っている。これまでは友人が少なかったというのもあって、体験した記憶は殆どないのだけれど。
無駄に張り切って意気込み、綱吉は勢い良くドアを開けた。誰か一人くらい通路で待ち構えていないだろうか、と疑ってかかっていたのだが、杞憂だった。
「ちぇ」
ハロウィンの時は、仮装した子供達が御菓子を貰おうと列を成して待ち構えていたのに。
肩透かしを食らって舌打ちして、綱吉は丸めたパジャマを抱え、慌しく階段を駆け下りた。
洗面所に向かう途中、台所をそっと覗けば、奈々の背中が見えた。エプロンをして、片付け物の真っ最中らしい。その後方にあるテーブルにはフゥ太とランボの姿があった。リボーンとビアンキ、それにイーピンはリビングらしい。
こちらが挨拶しなかったからかもしれないが、誰ひとりとして降りて来た綱吉を振り返らない。顔も合わせてもらえないのはちょっと面白くなくて、彼はむっと頬を膨らませた。
さっさと顔を洗って嗽をして、跳ね放題の髪の毛に櫛を入れる。だがどう足掻いても、この重力を無視して天を向く髪形は変わらなかった。
「むむむ」
色々と新しくなる日なのだから、少しくらい跳ねが大人しくなってくれても罰は当たらないのに。鏡の中の自分を右から、左から忙しく眺めて、たっぷり五分経ってようやく諦めがついた彼は、がっくり肩を落として櫛を元の場所に戻した。
ガコン、ガコン言っている洗濯機を尻目に廊下に出て、キッチンに入る。靴下で踏みしめた床は、ひんやり冷たかった。
「おはよう」
「あら、おはよう。早いのね」
食器棚の横を抜け、指定席に着く。未だ振り返らない母に呼びかけると、彼女は初めて気付いた顔をして水道の栓を閉めた。
掌に残る水滴を弾いて落とし、タオルで湿り気を拭ってから綱吉の茶碗を取りに棚へ歩いていく。今日は和食の日らしく、テーブルには厚焼き玉子とほうれん草のお浸しが仲良く並んでいた。
「お味噌汁は?」
「飲む」
白米が山盛りの茶碗を受け取って、綱吉は大きく頷いた。一度は座った椅子から腰を浮かせて箸を取り、両手を叩き合わせて、まずはいただきますの挨拶を。
早速卵焼きに醤油を垂らそうとした彼は、醤油指しが思ったよりも遠いところにあると知り、眉を顰めた。
「ランボ」
「うにゃ?」
箸の使い方がなっていない五歳児は、ご飯を掬って食べるのも一苦労だ。行儀が良いとは決して言えない体勢で、茶碗に顔を突っ込んでいた。
醤油指しは彼の傍にあった。顔中に米粒を張り付かせた、牛柄の服の子供に手を差し伸べて、綱吉は取ってくれるよう早口に告げた。
彼は不恰好に握っていた箸を一旦下ろして、綱吉の手、顔、そして醤油まみれのお浸しを順に見た。
「これか? ツナ」
「そう、それ」
指まで覆っている服で、器用に容器を持ちあげる。顔の横に掲げられた蓋が赤い醤油指しに、綱吉は深く頷いた。
さっさと寄越すよう言って、手を伸ばす。ランボは掴んだものをテーブルに下ろし、綱吉の方へ押し出した。
受け取って、彼は残量を確認してから、焼き色も鮮やかな卵焼きにガラス製のそれを傾けた。
「……ん?」
どろりとした液体が流れ落ちるのを見て、遠くにいるランボが意味ありげに笑った。黙々と食事に勤しんでいたフゥ太までもが、手を休めて綱吉を注視していた。
嫌な予感がして、彼はハッと息を飲んだ。
卵焼きに黒っぽい液体が滴った。表面を舐めるように進み、一瞬だけ膨張して、真っ直ぐ皿を目指して落ちて行く。
「ちょっ!」
違和感を悟り、綱吉は悲鳴を上げた。慌てて醤油指しを持ち上げて、顔の前に持って行く。
嗅ぎ取った匂いは、醤油ではなかった。
「ぎゃはははは!」
唐突にランボが笑い出した。腹を抱え、愉快極まりないと声を大にして。
向かいに座るフゥ太も必死に笑いを堪えている。味噌汁入りのお椀を手にした奈々も、目を細めて微笑んでいた。
愕然として、綱吉はソース入りの醤油指しをテーブルに戻した。
あれほどに騙されないよう気をつけるよう、自分に言い聞かせていたのに。まさか三十分としないうちにエイプリル・フールの罠に掛かろうとは、誰が予想できただろう。
卵焼きの角から、たっぷりのソースが垂れ下がる。じわじわ内部に浸透していっているようで、艶やかなきつね色だったものが、今やすっかり黒く濁っていた。
「嘘だろ……」
「ぎゃは、ぎゃはははは。ツナ、騙されたー」
呆然としたまま呟くが、ランボの声でこれが現実なのだと否応無しに思い知らされた。
四月一日、エイプリル・フール。世界中で今日だけは、嘘をついても許される日。
だがこれはちょっと、酷いのではなかろうか。誰の発案かは分からないが、見ていたのなら奈々は止めてくれても良かったのに。
味噌汁を置いた母を恨めしげに睨むけれど、彼女はちっとも恐がってくれなかった。悪びれた様子もなくテーブルを離れ、洗い物の続きに戻ってしまう。
「貴方がもっと早く起きていればよかったのよ」
休みだからといって自堕落に過ごしている方が悪いと言われては、押し黙るしかない。
ぐうの音も出ない彼に、何が面白いのかランボは未だ笑い止まない。いい加減五月蝿いし、鬱陶しくて、綱吉はソースまみれの卵焼きに力一杯箸を突き刺した。
ガシャン、と煽りを食らった皿が鳴った。
「ランボ!」
「ぷきゃ?」
「知ってるか、ランボ。フゥ太も。嘘つきは、閻魔様に舌を引っこ抜かれるんだぞ」
串刺しになった卵焼きを勢いつけて振り向けて、怒鳴る。大声に驚いた五歳児は途端に凍りつき、椅子の上で背筋を伸ばした。
汚らしい顔をして、大粒の目を真ん丸にしている。迫力に負けて、フゥ太も顔を強張らせた。
行儀悪い最年長者に肩を竦めて、奈々は洗ったものを水切り用の棚に並べていった。いつでも注意でいる姿勢を維持しつつも、子供達の会話に割り込むつもりはないらしい。
仰々しく言った綱吉にぶるりと震えて、ランボは音立てて鼻を啜った。
「ツナ兄、今日は」
「でも、嘘は嘘だよな」
たとえエイプリル・フールだとしても、一生涯についた嘘のトータルにきちんと追加されるはず。
フゥ太が弁護しようと声をあげたのもピシャリと叩き落して、綱吉はソースが染み出る卵焼きをランボの皿に落とした。
先が軽くなった箸を手元に戻し、綱吉は椅子に座り直した。もう一度頂きますの合図からやり直して、少し冷めてしまった味噌汁を啜る。
ランボは今にも泣きそうな顔をして、無言で綱吉に何かを訴えかけ続けた。が、彼は悉く無視してやり過ごし、黙々と食事を終わらせた。
いくら嘘をついて良い日でも、やってよいことと悪いことの区別は、きちんとつけなければならない。ジョークのつもりで仕掛けたのかもしれないが、やられた本人がどう感じるかまで考えられないようでは、下手な嘘はつかないほうが良いに決まっている。
「ご馳走様でした」
ムスッとしたまま手を叩き、彼は慌しく椅子を引いて立ち上がった。
「――という事があったんです」
思い出すだけでも腹立たしい。そう言わんばかりの勢いで鼻息を荒くし、綱吉は手にしていたプリントを乱暴にテーブルに置いた。
弾みで周囲にあったコピー用紙の端がめくれあがった。幸いにも飛んで行くとは無かったが、積み上げられていたうちの何枚かが、僅かに位置を横にずらした。
使い込まれたホッチキスをカチカチ言わせて、針も何本か無駄にしている。真向かいに座っていた青年は呆れ半分に嘆息し、憤懣やる形無しの表情をしている少年に肩を竦めた。
「勿体無いことを」
「だって、ソースですよ、ソース!」
独白の意味を取り違えた綱吉が、声を大にして叫んだ。
そうではないのだが、と弁解しようとした雲雀だったが、どうせ言うだけ無駄と先に諦めた。代わりにもうひとつ嘆息して、新入生に配布する風紀に関するプリントを一枚手に取った。
大判のそれを半分に、きちんと角を揃えて折り畳む。山なりになった部分を指で強く押して筋目を付けて、出来上がったものは左へと流す。
この場にはもうひとり、草壁もいた。彼は綱吉の罵声も受け流し、淡々と作業を続けていた。
「いいから、手を動かしなよ」
「ヒバリさんの馬鹿っ」
彼ならこの悔しさが分かってくれるものと信じて、綱吉は今朝の出来事を話したのだ。だのにこうもあっさり終了を宣告されて、ちっとも気が晴れない。
ぷっくり頬を膨らませた綱吉はぎりぎり奥歯を噛み締めて、悔し紛れに力一杯ホッチキスを押した。
哀れにも物言えない冊子が犠牲となった。ちょっと形の崩れた一冊を手渡される新入生の心境は、いかばかりのものか。
其処は、風紀委員が不法占拠する応接室ではなかった。プリントを広げるのに場所が必要なため、春休み期間中というのもあり、彼らは誰も使っていない会議室を勝手に拝借していた。
普段は生徒の立ち入りも制限されている、教員向けの部屋だ。案内された当初の綱吉はおっかなびっくりの様子だったけれども、見知った相手しかいないと分かってからは、随分とリラックスしていた。
少々、気を緩めすぎている感はあるが。
「ちぇ」
どれだけ腹を立てようとも、雲雀がまるで相手にしてくれないと悟り、彼はぶすっとしたまま次のプリントに手を伸ばした。
草壁と雲雀が折ったものを順番に重ねて、ホッチキスで端を留めて行く。広い部屋にパチンッ、と硬い音が響いた。
風紀委員は他にも沢山いるだろうに、何故幹部クラスのふたりに、部外者である自分が働かされているのだろう。そういった、初めは気にならなかったことにも気が向いて、彼は益々機嫌を損ねた。
「お茶でも煎れてきましょう」
見かねた草壁が手を休め、椅子を引いて立ち上がった。
彼の前にあったプリントの山は、気がつけば三分の一以下に減っていた。雲雀も半分を切っている。
ひとりお喋りに熱を上げていた綱吉だけが、半分に畳まれたプリントの山を前にしていた。
「頼むよ」
「はい」
雲雀も一旦手を止めて、肩を回しながら言った。気の利く部下に声をかけ、大きな背中が扉を潜って出て行くのを見送る。
下膨れた顔をした綱吉は、ひとり涼しげにしている青年の横顔を思い切り睨み付けた。が、視線に気付いた後も彼は飄々とした態度を崩さず、向けられた感情を淡々と受け流した。
暖簾に腕押し、糠に釘。後はなんだっただろう、と手応えのない様を表す諺を呟いて、綱吉は渋々、ホッチキス止め作業に戻った。
「なんだって、俺が」
ランボに酷い目に遭わされた後は、長期休暇中の学校から呼び出しを受けた。制服に着替えて意気揚々と出向けば、待っていたのはプリントの山。
緋色の腕章とはまるで関係のない立場なのに、言いようにこき使われて、これで不満を抱かない方が可笑しい。
「裏庭の草むしりと、枝打ちと、そっちの方が良かったの?」
「ぐ」
並盛中学校には清掃委員会もあるのだから、そちらにやらせれば良いものを。彼が他の委員会との馴れ合いを嫌っているのは知っていたが、ここまで徹底されると、いっそ清々しい。
肉体労働と天秤にかけられて、もとより体力のない綱吉は低く唸って黙った。
黙々とホチキスを動かして、紙を挟む手応えが無くなったところで手を休める。振っても、当然音はしない。どうやら芯が尽きてしまったようだ。
「はい」
挙動不審な彼の次の行動を察し、雲雀が何も言わぬうちから手を差し出した。小さなケースごと新しい芯を渡されて、綱吉はありがたく受け取ってから、空気に馴染んでいる自分に気付いて盛大に肩を落とした。
「俺の春休みが……」
「どうせ寝て過ごすだけだったんでしょ。いいじゃない」
「そりゃ、ヒバリさんは良いかもしれないですけど」
人手不足のところに、見返りもなしに借り出された方はたまったものではない。
右手にホチキス、左手にプリントの束を持って抗議した彼に目を細め、雲雀は戻って来た草壁に手を振った。
コーヒーがふたつに、ココアがひとつ。湯気を立てる甘い香りに、攣りあがっていた綱吉の目尻は一気に下がった。
「頂きます」
草壁にだけ礼を言って、温かい飲み物を両手で引き寄せる。大振りのカップを大事に抱え込んだ彼に顔を綻ばせ、草壁は作業に戻るべく席に着いた。
「火傷しないようにね」
「あちっ」
「ほら、やっぱり」
一方で雲雀は、嬉しそうにマグカップを傾けた綱吉に言葉をかけ、上がった悲鳴に眉を顰めた。
呆れ半分、心配半分の顔をして、手を伸ばそうとする。瞬間、綱吉は小さく舌を出した。
「なーんちゃって」
「……」
悪戯っぽく笑った彼に、草壁はつい噴き出した。雲雀は呆気に取られた顔をして、やがて浮かせていた腰を荒々しく椅子に戻した。
騙すのに成功した綱吉もまたケラケラと声を立てて笑い、まだ熱い液体に息を吹きかけて注意深くひとくち飲んだ。
「嘘つきは泥棒の始まりなんじゃないの?」
雲雀が朝食の席で綱吉が幼子を脅すのに使った、昔から言われ続けている訓戒を口にする。途端に綱吉はぷっくり頬を膨らませた。
どうやら朝の怒りは、未だ完全に静まりきっていなかったらしい。燻っていたところに燃料を投下してしまったと、雲雀は言ってから悔やんだ。
頬杖をついてコーヒーカップを弾き、表面を僅かに波立たせる。ミルクも砂糖も入っていない飲み物はただ苦いだけだが、下手に甘いものを好まない彼には、これがちょうど良かった。
「四月馬鹿、ね」
「なんですか?」
「だったら、僕もついていいんだよね。嘘」
エイプリル・フールを日本語に訳せば、四月馬鹿。ぼそりと言った彼に怪訝な目を向けて、綱吉は続けて告げられた台詞にきょとんとした。
なにやら怪しげな雰囲気に、草壁は首を竦めて小さくなった。コーヒーを啜った後は黙ってプリントを折る作業に入り、気配自体消してしまう。
黒光りする瞳に真っ直ぐ見詰められて、綱吉は息を飲んだ。視線を右に流して逃げて、針が飛び出さない程度にホチキスをカチカチ言わせる。
雲雀は頬杖を崩し、机に寄りかかった。
「ああ、でも閻魔大王に舌を抜かれるのは癪だな」
綱吉がランボに言い聞かせた、もうひとつの嘘にまつわる教訓。不敵な笑みを浮かべて諳んじた雲雀の意図が読み解けず、綱吉は内心ハラハラしながらパイプ椅子の上で縮こまった。
雲雀は頬杖に使っていた腕の左右を入れ替えて、余裕綽々とした顔で目を細めた。
「でも泥棒になるのは、悪くないかな」
「……?」
「沢田綱吉」
「あ、はい」
殆ど独り言の後に名前を呼ばれ、綱吉は居住まいを正した。行儀良く並べた膝に両手を添えて、間にホッチキスを置いて落ち着きなく弄り回す。
背筋をピンと伸ばして畏まった彼に、草壁はちらりと視線を投げた。続けて隣に腰掛けている上司に当たる青年の、なにかよからぬ事を企んでいる横顔にひっそりと肩を落とす。
最早何があっても動じまい。そう強く心に決めて、彼は無心になろうとした。
直後。
「好きだよ」
にこやかな笑顔と共に、雲雀がさらりと言った。
会議室の空気がピシッと凍り付いた。右の耳から左の耳にすり抜けて行った音を追いかけて、綱吉は目をパチパチさせた。
噴き出しそうになった草壁は、すんでのところで堪えた。背中を丸め、両手を口に押し当てて激しく噎せる。
雲雀だけが屈託なく笑って、硬直している綱吉を眺め続けた。
「は、……え?」
「愛してる」
「へ?」
「まだ言って欲しい?」
普段、否、これまで恐らくは一度として口にした事のない甘い台詞を舌に転がし、唖然としている綱吉に臆面もなく問いかける。
聞かれた方はぽかんとして、ハッと息を吐いて全身に鳥肌を立てた。
長く停止していた脳に電流が走り、細胞が活動を再開する。もれなく停滞していた思考回路も復活を遂げて、今し方告げられた台詞の解析が始まった。
目に見えないサイズの小人が奥深くに隠されていた国語辞書を引きずり出して、忙しく該当するページを探して行く。索引を使って一所懸命に動き回って、該当する単語を見つけ出し、説明文を声高らかに読み上げる。
突き抜けていった意味に目を回し、綱吉はしゅぽん、と耳から煙を吐いた。
「え? え? ええ?」
気が動転していると分かる顔をして、声を上擦らせる。ガタガタと椅子を鳴らして座ったまま机から後退して、最後は上半身を泳がせて倒れそうになる。
草壁はといえばテーブルに突っ伏し、綺麗に形作られたリーゼントをぐにゃりと押し曲げていた。
肩を小刻みに震わせ、ヒクヒクしている。失礼極まりない部下を一瞥した雲雀は、けれど敢えてなにも言わずに済ませ、穏やかな笑みでもって綱吉を見詰めた。
冴え冴えとした黒水晶の瞳に映る少年は、見る間に顔どころか耳の後ろも、首までも真っ赤にして、全身茹蛸状態で湯気を立てた。
落ちそうになった椅子にしがみ付いて口をパクパクさせて、大粒の目をまん丸にして瞳をぐるぐる回している。最早冷静に物事を考えるどころではない彼に目を眇め、雲雀は楽しげに喉を鳴らした。
クッ、と息を殺して堪え、丸めた手を口元に持って行く。長く綱吉だけに向けられていた視線を脇へずらし、斜め後ろを向いて震え始める。
苦しげに噎せていた草壁が、ぜいはあ言いながら顔を上げた。拉げてしまったリーゼントを簡単に手で整えてから、目をぱちぱちさせている綱吉と、必死に笑いを堪えている上司とを交互に見る。
そしてやおら咳払いをして、居住まいを正した。自分は何も聞いていないし、見ていないし、これからも聞かない。そう硬く心に誓って、残っている作業に勤しみ始める。
教育の行き届いた部下も笑って、雲雀はぽかんとしている綱吉の前で手を振った。
「エイプリル・フール」
「ひえっ」
人差し指を残して他は折り畳み、顔の中心目掛けて突き出して言う。距離があるので届きはしないのに、綱吉は露骨に怯えて悲鳴を上げた。
仰け反って髪の毛を一斉に逆立ててから、やがて何かを気取り、眼を真ん丸に見開いた。
「……え?」
ようやく理解が追いついてきたらしい彼に意味深に微笑みかけて、雲雀は椅子の上で脚を組んだ。
偉そうに座る彼の涼しげな顔を見上げ、綱吉は開けっ放しだった口を閉ざし、唾を飲んだ。
「え?」
「騙された?」
「え……?」
それでもまだ不思議そうにしている彼に、小首を傾げた雲雀が問う。綱吉は力なく呟き、右の肩をカクン、と落とした。
絶句して、言葉も出てこないらしい。聞かないつもりでいたのに聞こえて来てしまって、草壁は少しだけ琥珀色の目をした少年に同情した。
雲雀がコンコン、と机の角を叩いた。響いた音にハッとして、綱吉は恐る恐る、口を開いた。
「嘘、ですか?」
「嘘じゃないよ」
「え?」
「でも嘘かもしれない」
「……どっち」
「さあ。どっちかな」
この場に草壁がいるのも忘れて、綱吉は机を挟んで真向かいに座る青年を食い入るように見詰めた。寂しげな声は聞く者の心を抉るのに、雲雀は平気らしい。
普段からこんなやり取りを繰り返しているのかと溜息をついて、草壁は胃の辺りを押さえた。
「確かに泥棒です、恭さん」
今やすっかり、綱吉の心は彼に囚われてしまっている。これは最早、盗まれたと言っても過言ではない。
そして彼は、二枚舌は遠慮すると言っていた。
だが綱吉は忘れているようで、言葉のカラクリに気付く様子はない。
「ヒバリさん」
「君が思う方でいいよ」
「そんなー」
本当に、本気の言葉だったのか。
それともエイプリル・フールにかこつけた嘘か。
本当だったら嬉しいけれど、嘘だったら哀しい。だのに雲雀は、答えを教えてくれない。
駄々を捏ねて足踏みし、綱吉は喧しく音を響かせた。雲雀は相手にせず、すっかり温くなったコーヒーを飲み干すと、作業を終わらせるべく手元に意識を向けた。
ぴらりと視界を踊ったプリントを睨み、綱吉が癇癪を起こしてホチキスを放り投げた。
スッと避け、雲雀は怒り心頭の少年を睨み付けた。
「行儀が悪い子には、お仕置きが必要かな」
「ヒバリさんの、嘘つきっ」
「嘘なんか言ってないよ」
「嘘だ。ヒバリさんの意地悪。だいっきらい!」
「君こそ、嘘つくんじゃないよ」
「嘘じゃないもん。ヒバリさんなんか、……ヒバリさんなんか、嫌いだあ!」
怒鳴り、綱吉は椅子を蹴り倒して立ち上がった。負けずに言い返し、雲雀も応戦に出ようと背筋を伸ばした。
最早エイプリル・フールなど関係ない、ただの意地の張り合いと化している。子供の喧嘩を始めた中学生に、草壁はそっと溜息を零した。
喧嘩するほど仲が良い、という言葉を胸に刻んで。
2011/03/30 脱稿