玲々

 飴色に輝く廊下を、足早に駆け抜ける。ドスドスと音を響かせて、床板を踏み抜くのも厭わない。
 肩を怒らせて荒々しく通り過ぎて行った彼に、危うくぶつかるところだった草壁は慌てて後ろに下がった。曲がり角の影から遠くなった背中をそっと窺い、次に手にしているものを見て僅かに眉を顰める。
 徳利の載った盆に小さく嘆息した彼を知らず、綱吉は勢い任せに辿り着いた先の襖を横に滑らせた。
 浅く掘られた溝の上を、紙で出来た戸が横に走っていく。反対側に到達するまでかなりの距離があるので、ドン、とぶつかって跳ね返ってくることもなかった。
 手応えがなさ過ぎて、不満が残る。膨れ面をして敷居を踏みしめた彼を見て、中にいた青年は呆れ顔で肩を竦めた。
 開ける前に声のひとつでもかけて欲しかった。表情がそう告げていた。
「やっぱり此処にいた」
 しかし綱吉は構いもせず声を荒げ、大股で畳敷きの部屋に上がりこんだ。
 あまりの粗暴な態度に、青年は眉間の皺を増やした。なによりも、綱吉は土足だった。
 学生時代とは逆だ。
「土足厳禁」
「うおっと」
 顰め面のまま素っ気無く言われて、綱吉はようやく思い出したらしく、目をぱちくりさせた。慌てて飛びずさって右足を持ち上げて、見え難い靴底を覗き込む。
 この場合、あまり汚れていないだとかいうのは、意味が無い。
「……すみません。って、そうじゃなくて」
 睨まれて反射的に謝って、彼は忙しく首を振った。声を張り上げて握り拳を振り回すが、前方から向けられる視線は依然冷たいままだ。
 なんとも居心地が悪い雰囲気に、綱吉は渋々靴を脱ぎ、襖の外まで持っていった。
 哀愁漂う背中を眺め、青年は胡坐を掻いた膝に頬杖をついた。もう片手を斜め下へ伸ばして、綱吉が怒鳴り込んできた原因の、可愛らしい生き物の腹を撫でてやる。
「ガウゥ~~」
 無防備に仰向けに寝転がって、擽られると気持ち良さそうに目を細めて上機嫌に鳴く。人間的に表現するならば、鼻の下を伸ばしている、と言うのが的確か。
 なんともだらしない格好を見下ろして、この生き物の飼い主たる人物は苦々しい顔をした。
「ナッツ」
 呼びかけるが、即座に返事は得られなかった。
 青年の手の下でごろん、ごろんと転がって、ちっとも起き上がろうとしない。尚も名前を呼んでみるが、反応は芳しくなかった。
 小粒の鼻をヒクヒクさせて、目はとろんとしてまるで酔っ払いだ。
「ヒバリさん」
「なに?」
 ありえない状態に陥っている天空ライオンから視線を外し、綱吉は苛立った様子で青年をねめつけた。
 飄々としてはいるものの、肝心の雲雀も若干顔が赤い。声の調子も、一寸ばかり普段より明るかった。
 彼の膝先には、足つきの膳が置かれていた。小皿が二枚と、お猪口がひとつ。徳利は丸盆に載って、畳の上に置かれていた。
 合計二本あるうちの、片方が横倒しになっていた。盆の表面は濡れていないので、中身は空なのだろう。もう一本は、と綱吉が考えているうちに、雲雀はそれを取ってお猪口に向けて傾けた。
 透明な液体がとくとくと流れて、デミタスカップよりも小さな器に注がれた。
「恭さん」
「遅いよ、哲」
 ただ残量は僅かだったようで、縁ぎりぎりに至る手前で流れは途絶えてしまった。名残惜しげに雫が数滴垂れ落ちて、タイミングを計ったかのように、草壁が顔を出した。
 綱吉が開けたままだった襖から室内を覗き込み、叱られて申し訳無さそうに首を竦める。
 大男が縮こまる姿は、どうにも滑稽だ。が、笑う気にもなれず、綱吉は断りの後に入って来た男の手荷物に口を尖らせた。
 徳利の載った盆を揺らさぬよう注意しつつ、しずしずと歩いてくる。一瞬足を払ってやろうかと考えたが、あまりにも大人気ないと、彼は自分を戒めた。
「お待たせしました」
「うん」
 膝を折って屈み、草壁が空の徳利を回収した。入れ替わりに持って来た分を置いて、綱吉にも一礼して去って行く。
 パタン、と襖が閉ざされた。
「ガウゥ、ガッ、ガウ~」
 ナッツが楽しそうに鳴く。脇を擽られてきゅっと丸くなって、雲雀の指にじゃれて齧り付いた。
 甘噛みなので痛くは無かろう。実際、雲雀も嫌がる素振りを見せない。すっかり懐いているナッツと、それを見守る優しい目とを交互に見て、綱吉は憤然とした。
「もう!」
 やり場のない怒りを爆発させて、地団太を踏む。いきなり声を大きくした彼に吃驚したのか、ナッツが「キャン!」と犬のような悲鳴を上げた。
 今になってやっと飼い主が其処にいる事実に気付いた顔をして、眠そうに顔を舐める。
 小さい舌がちょろちょろ動くのに肩を落とし、綱吉はお猪口を掲げた雲雀を睨んだ。
「飲ませました?」
「飲ませてないよ」
 薮から棒に聞かれて、彼は間髪入れずに返した。
 だが綱吉は納得がいかないようで、子栗鼠のように頬を膨らませた。
「嘘だ」
「僕は、嘘は言わないよ」
 このナッツの態度からして、酔っ払っているのは間違いない。一寸目を離した隙にいなくなって、お陰で綱吉は仕事もそっちのけで、あちこち探し回らなければならなかった。
 人が一所懸命書類と格闘している間、ナッツは雲雀と此処で、悠々自適な時間を過ごしていた。
 想像するだけで、悔しい。
 キー、と金切り声を上げた彼の八つ当たりに耳を塞ぎ、雲雀は空になったお猪口に徳利を差し向けた。
 程よく温められた酒を、溢れない程度に注いで、くいっと引っ掛ける。美味しそうに飲み干した彼の赤ら顔を睥睨して、綱吉は座布団の端に擦り寄ってゴロゴロ言っているナッツに手を伸ばした。
「ガッ、ガウ、ガウウー」
 前脚を掬い、抱き上げる。ナッツはむずがって首を振った。
「嫌がってるよ」
 いつもは綱吉に抱えられると嬉しがるのに、今日は全くの正反対。逃げようとじたばた暴れられて、雲雀にも言われて、彼は奥歯を噛み締めて鼻を膨らませた。
 そうは言っても、綱吉はまだやるべき仕事が沢山あるのだ。
「置いていけばいいじゃない」
「また来るの、面倒じゃないですか」
 あっけらかんと言われて、噛み付く。が、雲雀は少しも恐がってくれない。どんなに目を吊り上げようとも、綱吉の愛らしい童顔ぶりは変わらなかった。
「ガウッ!」
「あ、こら」
 雲雀は今まで、ナッツを連れてボンゴレ側のアジトに足を運んでくれた例がない。
 過去を引き合いに出して怒鳴ったところで、腕の力が緩んだ。すかさずナッツが脱走して、雲雀の膝に転がり込んだ。
 ごにょごにょと、甘えた猫なで声を出して撫でてくれるよう強請る。百獣の王であるはずのライオンのくせに、最早ただの猫だ。
 ザンザスが連れているベスターが羨ましい。その十分の一でも構わない、雄々しい雰囲気を醸し出してくれたなら、綱吉だってナッツを指して、堂々とライオンだと主張できるのに。
「君も飲む?」
 落胆して溜息をついていたら、呑気な声で聞かれた。見れば雲雀が、空にしたお猪口を優雅に揺らしていた。
 何を、の部分が抜けているが、この場で飲み物といえば酒しか考えられない。
 なんとも無責任な発言に憤懣やる形無しの表情をして、綱吉は首を横に振った。
「遠慮します」
 こんな時間から日本酒を一杯やる方が、どうかしている。
 強い口調で拒否した彼を見上げ、雲雀は苦笑した。聞く前から答えが分かっていた顔をして、膝に寝転がったナッツの頭をよしよし、と優しく撫でてやる。
 滅多に見る機会のない柔らかな目つきに、綱吉は拳をぎゅっと握り締めた。
 痛いくらいに爪を立てて、皮膚を抉る。だが指は内側に隠れているので、雲雀には見えない。
「そう。残念」
「俺、仕事中ですし」
 いなくなったナッツをダシに抜け出してきたとは言わず、彼はツーンとそっぽを向いた。
 お猪口を置いた雲雀は、何が可笑しかったのか、急にククっ、と笑った。
「ガウ、ガウガウ、ガウ~」
 それを見たナッツまでもが、歌うように上機嫌に鳴きだした。膳の脇に置かれた小皿で餌を啄んでいた小鳥もつられて顔を上げ、横に長い嘴を広げてピヨ、と鳴いた。
 唯一静かなのが、剣山のような棘を背負った生き物だった。
 細長い鼻をヒクヒクさせて、笑っている主と歌っている小鳥とを交互に見やる。最後に怒り心頭の綱吉の顔を見て、恐かったのか、サッと雲雀の影に隠れてしまった。
 恐々顔を覗かせるハリネズミの愛らしさに少しだけ溜飲を下げて、綱吉は胸を叩いた。
「げほっ。俺は、忙しいんです。酔っ払いの相手してる暇は、ないんです」
 力を入れすぎて、少し噎せたが最後まで言い切る。キッと険を強めた眼差しを向けられて、雲雀は胡坐を崩して膝を立てた。
 両手を後ろに突き立てて、仰け反る。潰されるところだったハリネズミが慌てて逃げた。前に回りこんで、特等席がナッツに占領されているのを見てショックを受ける。
 文字通りガーンという顔をしているロールに、綱吉もつい苦笑してしまった。
 五秒後に気付いてハッとして、緩んだ頬を急いで引き締める。だが僅かに遅く、雲雀にしっかり見られてしまった。
 赤くなった彼を笑って、雲雀は黒髪を掻き上げて姿勢を戻し、乱れてしまった裾を払って足を隠した。
 着流しの衿を撫でて形を整え、ロールを手招いて膝に乗せてやる。ナッツも小さいので、二匹並んだところで格別問題は無かった。
 愛らしい獣を囲い込んで、彼は満足げに頷いた。
「ナッツ」
「ガウッ」
 いい加減ここから立ち去りたくて、綱吉は声を荒げた。が、生意気にも反抗されてしまった。
 牙を剥いたナッツだが、直ぐに瞳はトロンと蕩けて、雲雀の膝を枕に仰向けになった。
 機嫌よくゴロゴロ言って、いつになく甘えている。いくら懐いているからといっても、ちょっと度が過ぎる。
「…………」
 いぶかしむ目で横から睨まれて、雲雀は徳利を揺らしてほくそ笑んだ。
「アルコールは、与えてないよ」
 こんな小さな生き物に、害となるのが分かって与えるほど、愚かではない。微妙に含みを持たせた台詞に頷き、次いで首を横に倒して、やがて綱吉は苦々しい顔をした。
 マタタビだ。
 だとしたら、この状況も理解出来る。まさかライオンにも通用するとは、ちょっと考えたくなかったが。
「猫科だしね」
 ひょいっとナッツを持ちあげて、雲雀は笑った。
「ガウゥゥゥ~」
「だからって……」
 楽しげにしている自分の匣兵器に渋い顔をして、綱吉は口を尖らせた。ムスッとして、両手を背中に回して足を蹴りだす。
 拗ねた青年に目を細め、雲雀はナッツを下ろした。空にした手で、おいでおいでする。
 招かれて、綱吉は二の足を踏んだ。
 彼が何を躊躇しているのか、想像がついているのか。雲雀は意味深な笑みを浮かべ、一方で棘を立てて抗議して来たハリネズミの頭を撫でた。
 ナッツばかり構うので、拗ねてしまった。
 まるでどこかの誰かのようだ。
「俺は、別に」
「チョコレートボンボンでも、甘酒でも、シャンパンでも酔えるからね、君は」
「ぐっ」
 言いかけた矢先、痛いところを指摘されて、綱吉は口を真一文字に引き結んだ。
 奥歯を噛み締めて、吐き出したい激情を必死に堪えている。だが綱吉本人ですら、何をぶちまけたいのか良く分かっていない様子だった。
 大粒の瞳をぎょろりと見開いた後、鼻を膨らませて大きく息を吸う。肺をいっぱいして一旦止めた後はふるりと震えて、最後は爆発するのではなく、しゅぽん、という音と共にしなしな萎びれていった。
 膝を折って畳にしゃがみ込み、目に見えて落ち込んで若緑色の藺草に「の」の字を大量に描く。
 仕事だなんだという前に、沢田綱吉という人間は、非常にアルコールに免疫が無かった。父親は大酒飲みだというのに、その辺りの遺伝子は全くもって彼に引き継がれなかった。
 母親似の大きな瞳を悔しげに歪めて、綱吉は悠々と手酌中の雲雀を睨み付けた。
「いいんです、俺は」
 大声を張り上げて怒鳴り、ふいっと顔を背けて負け惜しみを口にする。どうせ呑めたところで、何の役にも立たないのだ。みっともなく腹を出し、いびきをかいて寝ていた酔っ払った父の図が思い浮かんで、彼は益々、顔を顰めた。
 あんな醜態を晒すくらいなら、酒を一滴も飲めない方が、ずっといい。
 ただアルコールで気が大きくなり、陽気になる仲間達を遠巻きに眺めるしか出来ないのは、少し寂しくはあった。
 なにせあの獄寺でさえ、山本と肩を組んで歌ったり、踊ったりするのだ。もっとも目の前にいる男は、あそこまで羽目を外すようなこともなく、普段と変わらず淡々としていた。
 もしかしたら水を飲んでいるだけか。
 自分は彼に、騙されているのか。
 疑念を抱き、目を皿にして様子を窺う。ぷわん、と空気の揺らぎに乗って流れてきた香りは、紛れもなくアルコール臭だった。
「ぐう」
 たったそれだけなのに涙が出そうになった。
 拒絶反応が大きすぎる。前に迫り出し気味だった身体を真っ直ぐに立て直して、綱吉は正座した。足が痺れるので嫌いな座り方なのに、何故か畳敷きの座敷に来ると、自然とこのポーズを取ってしまう。
 日本人として性、だろうか。
「勿体無いよね、君って」
「ナッツ、ほら、こっちにおいで」
「ガー、ウー」
 しんみり呟いた雲雀を無視し、両手を伸ばしてナッツを誘うが、嫌々と首を振られてしまった。
 そんなに向こうの膝が良いのなら、一生そうしていればいい。そんな事を考えて歯軋りしていたら、またしても雲雀に笑われてしまった。
 彼は仰向けに寝転がるナッツの喉を擽り、きゃっきゃ言うのを楽しそうに見詰めて、普段は険しい眼差しを信じられないくらいに緩めていた。
「……返してください」
 今度は雲雀に向けて両手を伸ばして、綱吉は口を尖らせた。
 ナッツが戻ってこなければ、彼も執務室に戻れない。時間が遅くなれば遅くなるほど、未処理の業務は増えていく。
 苛々している彼に小首を傾げて、雲雀はナッツを片手で掬い上げた。胸に抱いて、柔らかな鬣に頬擦りする。
「キュ!」
 見上げたロールが抗議の声をあげた。お陰で綱吉は、自分が叫ぶタイミングを逸してしまった。
「自分から来たのに?」
「え?」
 握り拳を宙に漂わせていたら、唐突に言われた。意味が分からずにきょとんとしていたら、雲雀は両手でナッツを抱えなおし、床に下ろした。
 まるで脱力系のぬいぐるみのように、くたっとして喉をゴロゴロさせる。瞬間、雲雀の膝にいたロールが短く鳴いて、狭い場所で方向転換した。自分の体長くらいある段差を果敢に飛び降りて、しどけなく笑っているナッツの元へと向かう。
「キュ、キュー」
「ガウ?」
「キュウゥ」
 人間にはさっぱり分からないものの、通じ合っているらしい。ロールが嬉しそうに鳴いて、ナッツはごろん、と寝返りを打った。
「ガッ、ガウ、ガウ」
 尻尾をパタパタさせる仔ライオンの腹に、ハリネズミが圧し掛かった。棘は引っ込めて、刺さらないように気をつけている。
 じゃれ付く二匹の獣に唖然として、綱吉ははたと我に返って気難しい顔をした。
 和んでなるものか、と腹に力を入れている彼を笑って、雲雀は空になったお猪口の縁を指で拭った。
「その子、自分で此処に来たよ。君、あんまり構ってあげてないでしょ」
「そんな事は」
 今日は偶々仕事が立て込んで、朝からずっと相手をしてやれなかった。が、昨日は寝る間際までたっぷり遊んでやったし、抱き締めてもやった。
 家出をされる覚えは、これぽっちも見当たらない。
 膨れ面をして反論した綱吉を見て、雲雀はふむ、と頷いた。顎に手をやって柳眉を寄せて、しばし考え込む。そしてやおら、膝を叩いた。
「ああ、違うか」
「?」
 急に声を高くされて、綱吉は不思議そうに目を細めた。
 なにを思いついたのか、彼は首を巡らせて小動物の戯れを観察した後、まじまじと綱吉の顔を見詰めた。物珍しげにされて、やがてひとり不敵に笑ったかと思えば、納得した風に何度も頷く。
 百面相は面白くもなんとも無くて、綱吉は憤然と頬を膨らませた。
「ヒバリさん」
「そうだね、ごめん」
「はい?」
「構ってなかったのは、僕の方だね」
「へ?」
 いい加減にして欲しくて声を荒げた矢先、前触れもなく謝られた。笑いながら告げられて面食らっていたら、彼は頻りに首を縦に振って、やおら膝を起こして立ち上がった。
 惚けていたところをぽん、と撫でられて、綱吉は上から降って来た大きな手に目を丸くした。
 わしゃわしゃかき回されて、ただでさえぐしゃぐしゃの髪の毛がもっと酷いことになった。が、馴染みのある手つきや、温もりや、掌の感触がなによりも嬉しくて、抵抗できなかった。
 にわかに頬が赤くなる。緩みそうになる表情筋を必死に食い止めるが、それも無駄な足掻きだった。
「ち、ちが……違うもん!」
 せめて言葉だけでも、と叫ぶが、声は上擦り、完全に裏返っていた。
 動揺がありありと出てしまった。余計に顔を赤くして、綱吉は頭を垂れて俯いた。
 そんなわけがない。そうであるはずが無い。
 懸命に自分に言い聞かせるが、強く思えば思うほど、雲雀への恋情は深まっていくばかり。
 寂しかったのは、自分の方だ。ナッツは仕事の多忙さを言い訳にしていた綱吉に代わって、本音を語っていただけで。
「ちがうもん」
 それでも素直に認められなくて、彼は我を張って首を振った。
 強情な青年に肩を竦め、雲雀は手を引っ込めると両膝を揃えて屈んだ。綱吉の直ぐ前に座って、右手を畳に添えてスッと身を乗り出す。
 覗き込まれて、彼はぷいっ、と右を向いた。
 雲雀が声もなく笑った。
「赤いよ、顔」
 左手で頬を小突かれて、綱吉は苦々しい表情を作った。
 触れられた場所から熱の花が咲いて、じわじわと身体中に広がっていく。もっと触って欲しいと、もっと近くに来て欲しいと、魂の根っこの部分が五月蝿く騒ぎ立てた。
「ガウ、ガウ~」
「キュゥゥ」
 一方で獣たちは、相も変わらずじゃれあって、楽しそうにしていた。
 あんな風に無邪気に触れ合えたのは、いつが最後だろう。
「綱吉」
「っ」
 囁くように名を呼ばれて、耳朶を熱風が掠めた。ぞわりと来て、膝が勝手に震えた。
 太腿を駆け上がってくる例え難い衝動に唇を戦慄かせて、綱吉は不遜な態度を崩さない男を精一杯にらみつけた。
「赤いよ」
 問いかける声が少しアルコール臭い。
「こ、これは、その」
 目を泳がせ、彼は右手を胸に当てた。ドドド、と怒涛の勢いで鳴動する心臓を宥めて、唇を舐める。
 続けて首を正面に向け直して、背筋を伸ばす。
 悪戯な舌に擽られて、雲雀は甘く濡れた唇にぽかんとした。
「赤いのは、だから、酔っ払っちゃった、からで」
 アルコール一パーセント以下の飲み物ですら酔える奇特な体質の持ち主は、詰まりそうになる言葉を必死に紡いで、最後にぐっと腹に力を込めた。
 熱に潤んだ瞳を向けられて、雲雀は顎を撫でてクツリと笑った。
「分かった。ちゃんと最後まで、責任持って面倒みてあげる」
 リボーンへの言い訳も、残務の手伝いも。
 約束を胸に刻み込んで、綱吉は自分から、彼の胸へと飛び込んだ。

2011/03/27 脱稿