自由の鐘

 ベッドの傍らで、ゆらゆらと揺れ動く玩具の飛行機。
 赤いラインが鮮やかな機体は、今にも天空へ飛びたたんばかりに翼を左右に広げていた。
 細部まで精巧に作られており、窓を覗けばちゃんとパイロットの姿もあった。部屋の主は幼い頃、これで沢山遊んだのだろう。表面の塗装は、所々剥げていた。
 胴体部分を持って高く掲げ、部屋中を走り回っていたのだろうか。擦れは注意してみれば、人の指の形をしていた。
 天井から伸びている紐を緩め、想像に真似て下から掬い上げるように持ってみる。だがタクトの手は大きくて、玩具に残る手形を呆気なく飲み込んでしまった。
「……ちぇ」
 目にするのが叶わなかった過去の記憶を追体験してみたかったのに、それすら許してもらえない。小さく舌打ちして肩を落とし、彼は飛行機を手放した。
 撓んでいた糸がピンと張り詰めて、飛行機はぐるぐると円を描くように旋回した。
 勢いが弱まり始めた頃、尾翼をちょん、と小突いてやる。そうすれば飛行機は再び、元気良くタクトの視界を泳ぎ始めた。
 そんな事を何回か繰り返しているうちに、後方のドアが遠慮がちにノックされた。
「はーい」
「タクト、入るぞ」
 コンコン、という軽い音に振り返れば、扉を開けたのは大家だった。
 青い髪は、風呂上りだからだろう、僅かに湿っていた。
 雫を垂らした前髪が、額に張り付いている。それを鬱陶しげに払い除けた彼は、左手に何かを持っていた。
「あ」
「忘れ物だぞ」
 チクリと言われて、タクトは首を竦めて小さく舌を出した。そういえば脱衣所で外したのだったと思い出して、戸を閉めて入って来たスガタに向けて両手を伸ばす。
 ピンク色のネクタイを掌に落とされて、僅かに皺が寄ったそれを握り、彼は苦笑した。
「ごめん」
 今日は部活の練習で遅くなり、暑かったのもあって、タクトは帰宅後、風呂場へ直行したのだった。スガタも一緒にと誘ったのだが、生憎と向こうは向こうで用事があった。彼曰く、夕食前にひと汗流しておかないと落ち着かないらしい。
 シンドウ流古武術の師範代でもある彼は、日々の鍛錬を欠かさない。タクトには、その心構えが些か恐ろしかった。
 諸々の事情でシンドウ邸に居候となった今、彼は何かにつけてタクトを鍛錬に誘った。勿論申し出は有り難いのだが、彼は時々度を越えた事をするから、困る。
 ただでさえ部活で疲れているところに、更に鞭打とうだなど、気が狂っていると言わざるを得ない。
「サンキュ。明日の朝、探し回るところだった」
 入浴前に脱いだ制服は、ワイシャツと下着以外はすべて回収したと思っていた。まさかネクタイを忘れていたとは思ってもおらず、タクトは礼を言ってクローゼットへ向かった。
 扉を開けて、ハンガーに吊るしたジャケットの胸ポケットに畳んで押し込む。これで翌朝、大騒ぎせずに済むだろう。
 折り癖がついて皺になる可能性を一切考慮していない彼に呆れて肩を竦め、スガタはまだゆらゆら揺れている玩具の飛行機に目をやった。
 部屋にはそれ以外にも、色々なものが吊り下げられていた。
 多くが、翼を持つ機体だった。
 ジャンボジェットに始まり、戦闘機やスペースシャトルまで。男の子なら幼い頃、一度は憧れた空飛ぶ乗り物が、そこかしこに飾られていた。
「遊んでたのか?」
「へ?」
 窓から吹き込む風程度では、こんなにも大きく揺れたりはしない。弄っていたのかと問うたスガタに、タクトは目を大きく、丸くした。
 燃えるような赤い髪を揺らめかせ、照れ臭そうにはにかむ。目を細めた彼につられて、スガタも控えめに笑った。
 勢いが弱まりつつあったジェット機を軽く突っつき、紐の長さ以上に遠くにいけない玩具をぶらぶら動かす。最初は仏頂面だった彼だけれど、段々楽しくなってきたのか、表情は見る間に綻んだ。
 嬉しそうにしているスガタに歩み寄り、タクトはその手元を覗き込んだ。
 温泉特有の、僅かに鉄臭い匂いがした。一歩遅れて、彼が愛用しているシャンプーの微かに甘い香りがタクトの鼻腔を擽った。
 こうなるともう、花の香りしかしない。最初は男の癖に、と思ったのだが、今となってはタクトも同じ穴の狢だった。
 嗅ぎ慣れた香りに気を取られていたら、突き刺さるような視線を感じた。瞬きひとつで源を探れば、吃驚するくらいに近いところに、スガタの瞳があった。
「わ」
「タクト?」
 慌てて後ろに飛び退けば、スガタが変な顔をした。たたらを踏んだタクトは跳ね上がった心臓をパジャマの上から押さえつけ、勝手に赤くなる顔を隠して他所を向いた。
 意識したのが自分だけというのが、妙に悔しかった。
「べ、別に。なんでもない」
「そうか?」
「そうだよ。それより」
 そっぽを向いて、声を荒げて突っぱねて、咳払いを挟んで気を取り直す。わざと高いトーンで叫んで振り向けば、スガタは何かを悟ったような、静かな顔をしていた。
 それが余計に悔しくて、タクトは頬を膨らませた。
「それより、なんだ?」
「そーれーよーり! スガタって、飛行機乗りにでもなりたかったの?」
 揚げ足を取ったスガタに腹を立て、これまでにないボリュームで怒鳴り散らす。だが最後は控えめに、音量を絞った。
 上目遣いの問いかけに、彼は目をぱちくりさせた。
 タクトとおそろいの、色違いの青いパジャマを揺らして腕を組む。考え込む素振りは、なんともわざとらしかった。
「どうしてそう思うんだ?」
 問う声は静かで、穏やかだ。そしてほんの少し、笑っていた。
「だって。これだけあったら、誰だって思うよ」
 目下タクトが寝起きしているこの洋室は、スガタが幼い頃に過ごした子供部屋だった。
 書棚には、子供向けの本が何冊か押し込められていた。それらの本も、飛行機にまつわる物語であったり、内部構造を分かり易く解説した図版が多くを占めていた。
 両手を広げて肩を竦めたタクトに、言い分はもっともだと頷いて、スガタはカラコロと喉を鳴らした。
「そうだな。まあ、……小さい頃の話だ」
 呵々と笑って言って、声を潜める。遠くを見詰める眼差しは、儚げだった。
 停止寸前だった飛行機の、今度は頭を指で押して、揺らす。振り子と化した玩具が、タクトの視界の真ん中を何度も横切った。
 今にも消えてしまいそうな彼の横顔をじっと見詰めて、タクトは無意識に拳を固くした。
「もう、諦めちゃった?」
 夏休みも終わろうとしていた頃、寮での花火大会が暴走した結果、タクトの部屋は燃えてしまった。
 長期休暇を利用して実家に帰る生徒が多く、その日、部屋の窓を開けていたのが彼ひとりだけだったからだ。消火活動が迅速に進み、寮全体が火達磨にならなかったのだけが、不幸中の幸いだった。
 しかし結果的に、タクトは住む場所を失った。
 本土出身の彼は、この地に頼れる親類縁者がいない。アパートを借りるにしても家賃の問題があるし、なにより保護者の同意なしに高校生に貸してくれるわけがない。
 こうしてシンドウ邸で預かってもらえなければ、今頃彼は屋外で毎晩寒さに震えて過ごしていただろう。
 その辺りの感謝を心の中で呟き、密やかに問いかける。開いていた距離を詰めた彼に目を眇め、スガタは頷こうとした首を、思い直して横に振った。
「諦めるもなにも、な」
 幾らか自嘲気味に囁いて、タクトの小さな鼻を押す。顔の真ん中を攻撃された彼は、反射的に目を閉じた。
 大袈裟に恐がって硬直しているのを笑って、スガタはぽすん、と部屋の真ん中に置かれたベッドに腰を下ろした。首をちょっとだけ後ろに倒したタクトは、余裕綽々としている彼を下に見て、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「スガタ」
「最初から叶う見込みのない夢だったんだ。そうだな。夢、というよりは憧れ、と言うべきか」
 誰だって幼い頃は、大人になる夢を見た。どんな仕事でも格好良く見えて、自分もいつかみんなの為に一所懸命働くのだと考えると、それだけでワクワクした。
 なるのなら、格好いい仕事がいい。だから、巨大な翼を持って自在に空を駆る飛行機に憧れた。一日を潰す覚悟があれば一周できてしまう島に生まれ、島を出ることなく育ったスガタにとって、空を泳ぐ巨大な鳥は、自由の象徴でもあった。
 だが十歳の誕生日に、その夢は叶わないと教えられた。
「ワコはまだ諦めてないのに?」
 スガタの正面に立って、出来るだけ静かに問いかける。タクトの言葉に、彼は照れ笑いを浮かべた。
「歌手になるのと、パイロットになるのとでは、次元が違うだろう」
「同じだって」
「いや、違うさ。歌手になら、……なろうと思えば、島にいても叶う」
「っ」
 肩幅に開いた足の間に両手を置いて、指を互い違いに絡ませて、呟く。
 情報伝達方法が発達した今なら、やろうと思えば幾らでも、南十字島の映像や音声を世界に配信できる。けれど飛行機の操縦桿を握るには、その為の技量を身につけなければならない。
 そして島には、港はあっても飛行場はない。
 穏やかに微笑むスガタを見ていられなくて、タクトは唇を噛んだ。吐き出したい様々な思いをひとつにまとめて丸めて、天井に向かって吐息と共に吐き出す。
 背を反らした彼を見上げ、スガタは足を崩した。
 怒鳴ればいいのに、そうしない。頭ごなしに主張したところで軽くあしらわれてしまうと、いい加減学んだのだろう。
 悶々としているタクトに相好を崩し、スガタは自分の隣をぽんぽん、と叩いた。
 座るようにとの合図に渋い顔をして拒否し、タクトは悔し紛れに目の前の長い脚を蹴った。スリッパなので、攻撃力などないに等しかった。
「躾のなっていない足だ」
 悪戯な爪先を指して呟き、スガタが背中を丸めて頬杖を着く。相変わらず穏やかな笑顔にムッとしたタクトは、もう一発蹴りを入れようとして、横から飛んできた飛行機に邪魔された。
 不自然に動いた模型に瞠目して、下で笑っている男をねめつける。
「使った?」
「心配するな。もう、あんなことにはならない」
 ワコやタクトや、皆を助ける為に、スガタは王の柱を使った。ザメクのシルシを受け継ぐ彼は、躊躇なくアプリボワゼと叫んだ。
 だがそれは、永遠の眠りに就く危険を孕む、無謀な行為でもあった。
 彼の決断がなければ、最悪、タクトは今此処にいない。が、スガタにも同じ事が言えた。彼が目覚めたのは殆ど奇跡に近い。或いはワコの祈りが天に通じたか。
 大丈夫だと笑う彼に不安が募って、タクトは苦悶を顔に出した。
「スガタ」
「……心配ない」
 切羽詰った声で重ねて訴えられて、ようやくスガタのトーンが少しだけ下がった。幾らか反省の態度を見せて、申し訳無さそうな目をしてタクトを見上げる。
 眩い琥珀色の眼にそっと安堵の息を吐き、タクトはゆるゆる首を振った。
「王の柱を使って、島を出ようと思ってる?」
「思ってない」
「ザメクが壊れてなかったら、綺羅星十字団との戦いが楽になるとは?」
「それは少し、思ってるな」
 幾らか自嘲交じりに返して、彼はもう一度、傍らを叩いた。
 敷き詰められたシーツが波立ち、僅かに埃が舞い上がった。手の形に凹んだ上掛け布団を眺め、タクトはふるり、震えた。
 突然襲って来た寒気は、彼の足首から背筋を掛けぬけ、頭の天辺へと抜けて行った。思わず己を抱き締めた彼を不思議そうに見詰め、スガタはやおら、手を伸ばした。
 真っ直ぐに伸ばして、座ろうとしないタクトの腰に絡みつかせる。
「あっ」
 避ける暇もなく引き寄せられて、彼は腹筋の辺りに押し当てられた熱に目を瞬いた。
 と思ったら、急に冷たくなった。そういえば彼は、まだ髪が完全に乾いていないのだった。
「スガタ、濡れる」
「乾かしてるんだ」
 木綿製のパジャマに水分を押し付けて、スガタが頭をぐりぐり動かした。圧迫されるのと冷たいのとで、タクトは離れてくれるように頼んだけれど、まるで聞いてもらえない。
 あまりにもあんまりな返答に打ちひしがれて、彼は天を仰いだ。
「僕はタオルじゃないんだけど」
 外は暗く、耳を澄ませば星の瞬く音まで聞こえてくるような静けさだった。
「……お前は温かいな」
「え?」
「王の柱は、自分の為には使わないと決めている。あれは、利己的に振り翳してよいものではない」
 俯いたまま言葉を重ねたスガタが、ほんの少しだけ拘束を強めた。摺り足でベッド際に寄って、タクトは遠慮がちに、湿り気を残している青い髪に触れた。
 濡れているから、指に絡んでくる。まるで、離れないでと訴えかけているように。
「僕としては、お前に頼らなくても勝てるくらいになりたいんだけどな」
「なら、稽古をサボろうとするな」
 これまでの戦いで、タクトは幾度も彼に助けられた。王の柱の行使は、永遠の眠りに就く危険性を孕むというのに、スガタは出し惜しみしない。
 己の不甲斐なさを呪ったタクトの声に、スガタは拳を緩く握った。パジャマの上から背骨の真ん中を叩き、しっかりしろ、と激励する。
「はぁ~い」
 間延びしたやる気のない返事に、彼はクッ、と笑った。
 まだ顔を伏しているスガタの頭を繰り返し撫でて、タクトは糸に吊るされた飛行機を何気なく見た。
 もう、揺れていなかった。
「なあ、スガタ。思うんだけど」
「どうした」
「僕は、綺羅星十字団のサイバディをすべて破壊する。そうすれば、ワコは巫女の役目から解放される。お前だって」
「……僕は島を出るつもりはない」
 以前誓った決意を改めて口にした彼を遮り、スガタは腕を解いた。拘束を解いて、ゆるりと首を振る。
 島の外から来たタクトには分かり辛いことかもしれないけれど、と前置きをして、憤然としている少年に笑いかける。
「ことはそう簡単ではない。僕は、ザメクのスタードライバーであると同時に、シンドウ家の跡取りでもある」
「それって」
「巫女であるワコと僕とでは、根本が違うんだよ」
 言葉を詰まらせたタクトを見上げ、事も無げに告げて肩を竦める。
 シンドウ家は長く南十字島にあって、歴史ある家柄だ。たとえスガタにシルシが無かったとしても、彼はこの家を継ぎ、次代に継承させる責務が課せられただろう。
 綺羅星十字団の活動が活発化していようと、いなかろうと、彼は最初から島に縛られている。シンドウ家に産まれたという、ただその一点に拠って。
「スガタ」
「僕の願いは、ワコと、お前とが、こんな馬鹿らしい楔から早く解放されることだ」
 そのためならば王の柱を使って、二度と目覚めぬ眠りに落ちても構わない。
 そう受け止められるひと言に瞠目し、タクトは彼の眼前で右手を横薙ぎに払った。
「っ」
 あと少し位置がずれていたら、当たっていた。鼻先を掠めた指に慄き、目を見開いた彼を睨んで、タクトは奥歯を噛み締めた。
「ダメだよ、スガタ。そんなの」
「タクト」
「ダメだ。絶対にダメだ。僕とワコだけじゃない。お前だって幸せにならなきゃ、僕が闘ってる意味が無い!」
 犠牲になって欲しいわけではない。共に手を取り合い、勝ち抜いて、皆で希望溢れる未来を得る為に、タクトは此処にいる。
 すべてが終わったときに、スガタのいた場所がぽっかり空洞になっていたら、折角の勝利も喜べない。むしろ哀しい。辛い。
 緋色の瞳を僅かに潤ませ、声の限り叫んだ彼を見詰め、スガタは控えめな、照れたような嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「……そうだったな」
「そうだよ」
「そうだった」
「忘れんなよ、馬鹿スガタ」
 とても大事なことなのだから、一瞬でも頭から抜け落ちるのは許さない。
 強い口調で胸を張ったタクトに苦笑して、スガタは二度、頷いた。
 心底嬉しそうにしている彼にふっと目を眇め、タクトは心に響いた言葉を声に出した。
「やりたい事と、やるべき事が一致した時……」
 亡き友の見た世界を知りたくて、空を駆ったあの日。
 重力を振り切って風とひとつになった、あの瞬間。
 あの光景を、彼にも。
 羽ばたく翼を持ちながら鎖に囚われ、自由に空を飛べずにいるスガタにも、見せてやりたい。
 いいや、違う。
「一緒に、見たい」
「タクト?」
「あのさ、スガタ」
 唐突に呟いた彼にきょとんとして、スガタが目を丸くする。その彼を差し置いて興奮に頬を紅潮させて、タクトは緋色の瞳をキラキラ輝かせた。
「これが終わったら。綺羅星の連中との戦いが全部終わって、落ち着いたら。お前に、見せたいものがある」
 難しく考える必要など、どこにもなかった。
 専門の勉強もいらない。身ひとつ、心ひとつさえあれば、人は鳥にだってなれる。
 島の周囲は海だ。風は絶えず吹き付けて、場所とは申し分ない。スタートラインは、殴り合いの喧嘩をしたあの高台がいいだろう。
「見せたいもの?」
「そう。お前を、空に連れてってやる」
 すべての束縛から解き放たれて、しがらみもなにもかも忘れて自由に。
 あの素晴らしい開放感を、彼にも与えてやりたい。いつだって、人はやろうと思えばなんだって出来るのだと教えてやりたい。
 彼が諦めてしまった幼い頃の夢を、叶えたい。
「空に……」
 両手をいっぱいに広げたタクトに目を見張り、スガタはややして顔を綻ばせた。
 馬鹿な事を、と呆れられるかとタクトは身構えたが、予想していた台詞はひとつとして聞かれなかった。
 深く息を吸って、止めて、吐いて、笑う。くしゃりと乾きつつある髪の毛を握り潰して、どことなく困ったような、はにかんだ笑顔を作る。
「空か。それは、楽しみだ」
「そうだろ。だろ?」
「ならば是非とも、お前には頑張ってもらわないと。明日は朝から、ビシビシいくからな」
「うげ」
 鋭い眼差しを投げられて、そういう方向に持っていかれると思っていなかったタクトは仰け反った。
 薮蛇だったと後悔するが、今更発言を撤回するわけにもいかない。腕を組んで偉そうにしている大家にしょぼくれた顔をして、悔し紛れに長くていらっしゃる脚を蹴りつけてやる。
 すかさず蹴り返されて、タクトは不貞腐れて頬を膨らませた。
「スガタの、いばりんぼ」
「なんだ、急に」
 拗ねた声で言われて、スガタはカラカラと喉を鳴らした。楽な姿勢を作って腕を伸ばし、タクトの手を取って前準備無しに強く引っ張る。
 バランスを崩された彼は呆気なく上体を傾け、スガタの真横へと倒れこんだ。
「うお、っふ」
 ぼすん、とベッドに崩れ落ちたところで手を離し、身を乗り出して上に圧し掛かる。うつ伏せから仰向けに体勢を入れ替えたタクトは、天井光を遮る黒い影にハッとして、傍にあった枕を引っつかんだ。胸の上に乗せて、随分と柔らかすぎる盾にする。
 間に障害物をひとつ追加されて、スガタは糸のように目を細めた。
「こんな不意打ちに引っかかっているようじゃ、まだまだだな」
「……ぐ」
「今、お前がなによりも優先すべきことを教えてやろう」
 不遜に告げて、額を弾く。顎を引いて痛みをやり過ごしたタクトは、尊大な態度を崩さない青年を見上げ、唇を噛み締めた。
 鼻を膨らませて反論を堪えている少年に笑いかけ、その眩しいばかりの瞳を、そっと、掌で覆い隠す。
 視界が闇に閉ざされて、怯えた彼は顎の力を緩めた。唇の隙間からはっと息を吐く。スガタの手首が、仄かな熱を受け止めた。
「早く寝ろ」
 指の隙間から光を探していたタクトは、聞こえた声に息を呑んだ。直後こみ上げるものがあって、無意識に口元が緩む。
 声を殺して笑い始めた彼に肩を竦め、スガタは音もなく身を引いた。
「明日も早いぞ」
「はぁ~い」
 なんともやる気のない返事をして、タクトは」寝転がったまま手をヒラヒラ振った。スリッパを脱ぎ捨ててベッドに上がりこむと、入れ替わりにスガタが立ち上がって場所を譲った。
 綺麗に整えられていた布団を捲って中にもぐりこめば、寝入るまで見守るつもりか、家主は枕元まで移動してきた。
「なに、寂しい?」
「添い寝して欲しければ、お前から来い」
 子供用とはいえ、ベッドはタクトでも充分足を伸ばして眠れる大きさだ。もっとも、流石に男子高校生がふたり並ぶには狭い。
 軽口を叩けばピシャリと言い返されて、タクトは抱き締めていた枕を頭の下に移動させた。安定させて、歯を見せて笑う。
 まだ寝入るには早い気がしたが、反発して怒られるのも悔しい。ここは大人しく、大家の命令に従っておくことにして、彼は布団を肩まで引きあげて瞼を下ろした。
「電気、消してよ」
「分かった」
 照明のスイッチは、部屋の入り口にある。布団に入ってしまった以上、タクトには消せない。
 目を閉じたまま言った彼に頷いて、スガタはしっとりと微笑んだ。
「おやすみ」
 囁き、身を屈める。ベッドには触れぬようバランスを維持して、上半身を前に倒す。
 ふわりと香る、シャンプーの匂い。そして一瞬だけ触れた、柔らかな熱。
「っ!」
 直後タクトは布団を跳ね除け、ベッドの上で飛びあがった。しかしその頃にはもう、スガタは枕元を離れ、出口に向かって歩き出していた。
「な、……今!」
「消すぞ」
「ちょっと待っ――」
 唇を掠めた正体が何か、目を閉じていたタクトには分からない。
 うろたえて声を上げた彼を無視し、スガタはにこやかな笑みと共に照明を消した。ふっと部屋が暗くなって、窓からの月明かりだけが彼を照らした。
 扉が閉ざされる。
 呆然と立ち尽くし、タクトは恐る恐る、自分の唇に触れた。若干かさついた肌をなぞり、ぶるりと来て急いで布団の中へと潜り込む。頭まで被って、破裂しそうな勢いの心臓を懸命に押さえ込む。
 いったい自分の身に何が起きたのか、それすらも分からなくて、頭は混乱していた。
「え。え? ええ?」
 何度も、何度も唇を擦り、勝手に赤らむ顔と高まる熱を持て余して、彼は目をぐるぐる回した。
 夜はまだ長い。
 眠れと言われたにもかかわらず、当分、眠れそうになかった。

2011/03/27 脱稿