Les Paladins

 午後の温い風が頬を撫で、擽って駆け抜けて行く。
 僅かに埃っぽい空気を払い除けて天を仰げば、憎らしいくらいの青空がどこまでも広がっていた。
 ぽっかり浮かんだ白い雲が、暢気に漂っているのが見える。ひとつ、ふたつ、みっつ、と数えたところできりがないと知り、アラウディは嘆息した。
 気まぐれに庭園に足を向けたはいいけれど、早くも彼は来た事を後悔していた。
 歴々の所有者が手塩に掛けて育てて来た見事な庭が、今やすっかりジャングルという有様だった。足許に敷き詰められた煉瓦道にまで伸びている枝を潜って避けて進むが、そこから先は鬱蒼と茂る藪に覆われて、道は失われていた。
 いくら人手が足りないからといって、もう少し剪定や整備に力を入れて欲しい。無駄遣いをしない、という心構えは立派だが、見た目に多少力を入れたところで、誰も文句は言わないだろうに。
「……まったく」
 しかも気に入った樹木は惜しみもせず手に入れて、無秩序に植えていくものだから、余計に酷い。
 木の根に捲り取られた煉瓦の残骸を飛び越えて、彼はゆるゆる首を振った。
 鳥の声が聞こえる。なにか分からない植物の蕾が、綻ぶのを待ってそこかしこに佇んでいた。
 これでは庭なのか、城を取り巻く森林の延長なのか、区別がつかない。一応、南洋出身の花が咲き乱れているから、庭園の機能を有してはいるようだが。
 無軌道に伸びる蔓草が、樹齢三十年を越える木の幹に絡みついて、鮮やかな花を咲かせていた。蜜に誘われた蝶がどこからともなく迷い込んで、アラウディの前を優雅に飛び去っていった。
 視線を誘導されて、彼は暑さを覚えて着ていたコートの襟を広げた。
「ん?」
 そろそろ戻ろうか、そう思った矢先だった。
 蝶が去っていった方角に、遠く、金色の塊が見えた。
 最初は大輪の花かと思ったが、違う。彼が迷い込んだ庭園の先には、若緑色の芝に覆われた空間が広がっていた。
 ちょろちょろと細い水路に水が流れ、陽光を反射してキラキラと眩しい。
 今まで迷わされていた小規模なジャングルは、此の地を隠す為のカーテンだったのかもしれない。目隠しが取り除かれた後の光景に、彼は唖然とした
 先ほど、庭の手入れがなっていない、と言ったのは撤回せざるを得ない。こちらは、現在彼が背景にしている庭園とは違い、明らかに人の手で整えられていた。
 芝の間に走る砂利道を抜ければ、白い大理石で作られた小さな東屋に辿り着く。道は三方から延びており、うちひとつがアラウディの足許に続いていた。
 右を見れば、切り立った崖の上に聳える古風な城が見えた。
 増改築を繰り返しているお陰で、最早原型を留めていない。不思議なところに階段があったり、行き止まりと思っていた場所に通路があったりと、あちらも迷路めいた構造をしている。
 アラウディが知らないだけで、どうやら荒れ放題の庭園を抜けずとも、此処に至る道は確保されているらしい。
「へえ」
 なかなか凝った事をしている。現城主の仕業ではなかろうが、それなりに面白いと目を瞬いて、彼は興味本位に東屋へと近付いた。
 屋根を支える柱は太く、真っ直ぐ天を向いていた。柱に囲まれた休憩スペースに至るには、水路を跨ぐ形で設けられている階段を登る必要があった。故に東屋は、地表より少しばかり高い位置にあった。
「うん?」
 先ほど見えた金色が、柱の影でふわりと揺れた。
 なにかと思って背筋を伸ばすが、隠れてしまって、見えない。切れ長の眼を細めたアラウディは、脳裏を過ぎったひとつの可能性に眉を顰めた。
 心持ち歩幅を広くして、砂利道を急ぐ。三段しかない段差を一足飛びに越えて日影に駆け込めば、遠巻きに見えたあの黄金色が、彼の視界一面に広がった。
「ああ」
 矢張り。
 歓喜と落胆とが同時に襲ってきて、彼は力なく肩を落とした。苦笑を浮かべ、目に入りそうになった前髪を弾いて脇へと流す。
 東屋の中にはベンチがひとつ、置かれていただけだった。
 ふたり並ぶのが精一杯の幅しかないそれには、まだ新しいクッションがひとつ。そしてそのクッションを押し潰すようにして、青年がひとり、座っていた。
 丁度立っているアラウディを見上げるようにして、背凭れに身を委ねている。だが目は合わない。あちらの瞼は、静かに閉ざされていた。
「すー……」
 暢気極まりない寝息が聞こえた。今にも首が落ちそうな角度で仰け反っており、姿勢としてはかなり苦しそうだ。だのに、目覚める気配がない。
 平らに均された足許には、本が一冊落ちていた。背表紙が上を向いている。読んでいる最中に睡魔に襲われて、そのまま寝入ってしまったのだと容易に想像がついた。
 アラウディは膝を折って屈むと、分厚いそれを拾い上げた。軽く叩いて埃を払い、表紙に刻まれたタイトルに目を走らせる。最近巷で流行中の、推理小説だった。
 舞台はイギリス、ロンドン。霧の都を疾走する怪盗と、それを追い掛ける探偵の物語。
 彼はこういう話が好みだったのか。そんな事を考えながら、アラウディはだらしなく口を開けて、涎まで垂らしている青年に見入った。
 なんとも幼い外見をしている。これまでも度々思って来た事だが、寝姿を見ていると余計に強く感じた。
「ジョット」
 音量を絞って呼び掛けるが、反応は芳しくなかった。もとより起こそうと思っての事ではないので、これはこれで、望んだ結果だったわけだが。
 閉じた本を脇に挟み持ち、アラウディは柳眉を顰めた。考え込むように瞳を真ん中に寄せて、無防備に寝入る男をしばしの間、瞬きも忘れてじっと観察する。
 やがて。
「……」
 彼は徐に、手を伸ばした。
 スッと瞳を細め、口角を歪めて笑う。小説本を持つとは反対の手を広げ、目に見えて分かる程の悪意をもって脆弱な頸部を狙い、静かに。
 ゆっくりと。
「――っ!」
 瞬間、彼の手は横から伸びてきた何かによって強く弾かれた。
 ぱしん、と乾いた音が東屋に響き渡る。水路の傍らで遊んでいた小鳥たちが、驚いて一斉に飛び立った。
 ばさばさ言う羽音の方が喧しくなった場で、ジョットは目を剥き、右手を振り抜いた態勢のまま硬直した。
 叩かれた手を顔の前に持って行き、頬に添えて痛みを慰めて、アラウディは意地悪く笑った。
「安心した」
「あ、……アラウディ?」
 夢の中で殺気に反応して、咄嗟に払い除けたジョットは、目覚めた後で待っていたこの状況に目を見張り、混乱のままに声を上擦らせた。
 東屋に、他に人の気配はない。飛び去った鳥たちが襲撃犯でないとしたら、今まさに人の首を捻ろうとしていたのは、前方に佇むこの男以外有り得ない。
 僅かに赤くなった手を振って、アラウディは厚みのある本をジョットへと差し出した。まだ惚けていた彼は、突き出されたものが何であるのか直ぐに理解出来ず、受け取ってからもぼうっと表紙を見詰め続けた。
「お前」
「うん。殺してやろうかと思った」
「アラウディ」
「そして、今、安心したところ」
 眠りの世界から現実に引き戻される原因となった殺意は、紛れもない本物だった。あのまま気づかずにいたら、本当に明日には棺桶の中で土に埋められていたかもしれない。
 思い至った可能性にゾッとしているジョットを笑い、アラウディは何でもない事のように告げて、ほくそ笑んだ。
「……どういうことだ」
 答えようによっては、今後の事を考えなければならない。
 声を低くし、冷たい汗を拭って凄み掛ける。傷を負った犬のように警戒心を露わにしたジョットに目を細め、アラウディはコートのポケットに両手をねじ込んだ。
「君が、ボンゴレのボスだという事実を再確認出来た」
「言っている意味が」
「ちゃんと、牙を持つ獣だったみたいだね」
「?」
 彼の言葉は、まるで謎かけだ。理解が追いつかずにいるジョットに肩を竦め、そんなことで推理小説を楽しめるのかと、アラウディは少し不安になった。
 眠っている時でも、彼は殺意に反応した。
 マフィアのボスたる人物が、こんな場所で真っ昼間から無防備に寝こけている事実に些か不安を抱いたのだが、杞憂だった。
 これを喜ばずして、何を喜ぶというのだろう。
 ひとり満足げに笑っているアラウディに首を傾げ、ジョットは口を尖らせた。
「なんだか、よく分からんが」
「ジョット?」
「俺の昼寝の邪魔をした罪は、重いぞ」
 身を委ねていた椅子から腰を浮かせ、座り直す。楽な姿勢を取り戻した末に右手を浮かせて、彼はアラウディのコートを抓んだ。
 ベルトを引っ張られて、結び目が緩んだのに気難しい顔をした男が、悪巧みの笑顔を浮かべた金色に向けて盛大に嘆息した。
「僕は、今、君を」
 必要とあらば、アラウディはいつだってジョットを殺す覚悟を持っている。それが、ふたりが協力関係を築く一番の理由だからだ。
 他の者達には頼めない。あくまでもボンゴレの外に身を置き、外からボンゴレを見る目を持っている彼だからこそ。
 ジョットが持つ正義が揺らぎ、信念が綻び、崩れそうになったその時は。
「ああ。だから今度は、俺を守れ」
「勝手だね」
「知らないわけではないだろう?」
 そして約束の裏を返せば。
 呆れ混じりに呟いたアラウディに白い歯を見せて笑い、ジョットはベンチを叩いた。ここに座れ、と無言で威圧されて、仕方無く足を前に繰り出す。
 硬い座面に腰を下ろし、長い脚を組んで頬杖をつく。遠くを見ている彼を眺め、ジョットは悦に入って頷いた。
「後は任せた」
 言うが早いか脱力し、新たに得た温かい枕に身を委ねる。ベンチの背凭れよりはずっと柔らかく、心地よい感触にご満悦の表情を浮かべ、そっと、目を閉じる。
 数秒としないうちに聞こえ始めた穏やかな寝息に苦笑して、アラウディは暇潰しにしようと推理小説を引き寄せた。
 もし、アラウディの信じる正義と、ジョットの信じる正義が乖離したその時は。
 そして、ふたりの信じるものが重なっている限りは。
「いいよ。つき合ってあげる」
 君を殺すのは自分の役目であり、その役は決して誰にも譲らない。
 空に向かって嘯いた彼に、夢でも見ているのか、ジョットが密やかに笑った。

2011/03/20 脱稿