寒暖

「へっくちっ」
「うわ!」
 突然の綱吉のくしゃみに、偶々隣に居た山本が吃驚した顔で目を丸くした。
 初春から春に暦が切り替わる、そのほんの少し手前。日暮れは徐々に遅くなり、昼間の気温は十度を越えるようになった。ここ暫くは温かい日々が続いて、桜の蕾も少しずつ膨らみ始めていた。
 ところが、だ。
「っくしゅ」
 もうひとつくしゃみをして、綱吉は鼻の下を擦った。肩を抱いて首を竦め、背筋に走った悪寒を堪えて上腕を頻りに撫でる。
 摩擦で身体を温めようとしている彼を見て、山本は眉を顰めた。
 今の彼の格好は、白いワイシャツに紺色のベストという、身軽な並盛中学校指定の学生服だった。
「寒いのか?」
 一方の山本は、下に着込むシャツは同じだけれど、上には長袖のカーディガンを羽織っていた。肘の近くまで袖を折り返し、手首を出している。
 問いかけられて、綱吉は数秒の間を置いて頷いた。
 ずずず、と鼻を啜って口から息を吐き、だらしなく机により掛かる。
「失敗した~」
 がっくり項垂れながら呟いて、顔を伏す。ツンツンに尖った髪の毛が目の前に来て、山本は椅子の背凭れに頬杖をついて苦笑した。
「昨日までは、あったかかったもんな」
 あっけらかんと言って、窓を眺める。ガラス越しの空は曇っており、太陽の陽射しは臨めなかった。
 ずっと好天が続いていたので、油断した。寝坊して、遅刻しそうになったのも悪かった。
 上着を持ってくるべき気温だというのに、すっかり忘れていたのだ。時間に追われて家に取りに戻る余裕もなく、綱吉は仕方なく、袖のないベスト姿で一日を過ごす道を選択した。
 が、この判断は誤りだったと認めるしかない。
「こんなに寒くなるなんて」
「ははは。俺の、貸してやろっか?」
 貧乏揺すりを開始した彼を笑い、山本が自分のカーディガンを抓んで引っ張った。柔らかな毛糸を編んだ上着に目をやって、綱吉はうっかり頷いてしまいそうになった。
 なんとも魅力的な申し出だが、それでは山本が寒いではないか。
 自分だけ良ければ他はどうでもいい、という考え方には絶対に賛同できない。ぐっと堪え、首を横に振って返す。
 もっともその間も両手は太腿の間に挟まって、少しでも暖を欲して足掻いていた。
「いいのか?」
「十代目、でしたら俺のをお使いください!」
 爪先と踵を交互に浮かせて音を響かせていた彼を覗き込み、山本が重ねて訊ねる。そこへ、唐突に別の声が混ざりこんだ。
 顔を上げて確かめるまでもない。綱吉をそう呼ぶのは、この世でひとりきりだ。
「獄寺君」
「どうぞ。十代目の為に、温めておきました!」
 いつの間に戻って来たのだろう、トイレ帰りの彼は颯爽と着ていたセーターを脱ぎ、両手に掲げ持っていた。
 彼も、下に着込んでいたのはシャツだけだ。条件は、山本と変わらない。
 寒いとは言え、綱吉は一応ベストを着ている。シャツの上に何も着ないのとでは、体感温度も相応に違った。
 誰かが教室のドアを開けた。ガラッという音と共に冷風が廊下から流れ込んできた。
「ヒッ」
 寒風に首筋を撫でられた獄寺が小さく悲鳴をあげ、スクッと爪先立ちになった。背筋を伸ばして奥歯を噛み締め、奪われた体温を取り戻すべく身動ぎを開始する。
 落ち着き無くもぞもぞする彼に肩を竦め、綱吉は手を振った。
「いいよ。俺は大丈夫だから」
「ですが」
「獄寺君まで、……っくし、風邪引いちゃう」
 喋っている間に鼻がむずむずして、小さなくしゃみを挟んで言葉を繋げる。獄寺も山本も、揃って心配そうな顔をしたけれども、彼らの健康を考えると、好意に甘えるわけにはいかなかった。
 まだ何か言いたげな顔をしている獄寺に重ねて断って、彼は椅子を引いて立ち上がった。
「ツナ?」
「ちょっとその辺、うろうろしてくる。身体動かしてたら、少しは違うだろうし」
 机に座ってじっとしているから寒いのだ。ただ廊下と教室とでは、気温が違う。止めておくよう獄寺は言ったが、野球部所属の山本の意見は違った。
「そうだな。それがいいかも」
 頭の後ろに手をやって、白い歯を見せてニッと笑う。同意してもらえたのが嬉しくて、綱吉は顔を綻ばせた。
 蚊帳の外に追い遣られてしまった獄寺は、脱ぎたてホカホカのセーターを抱えて悔しそうに歯軋りした。
「十代目、やっぱりこれを」
「いいよ。なんか、えっと……ね?」
 草履を懐に入れて温めていたのとは、わけが違う。諦め悪く差し出されると、よからぬことでも企んでいるのでは、と逆に勘繰りたくなった。
 頬を引き攣らせて仰け反って逃げた綱吉に哀しげな顔をして、獄寺はしょんぼりしながらセーターに袖を通した。
 彼が純粋な好意から申し出てくれたのは、ちゃんと分かっている。綱吉は落ち込んでいる彼に気遣ってくれた礼を言い、椅子を机の下に押し込んだ。
 今一度腕をさすり、教室前方の時計を見て授業開始までの時間を計算する。
「授業までに戻って来いよ」
「分かってる」
「保健室でサボるのはなしなー」
「分かってるよ!」
 歩き出した綱吉の背中目掛け、山本が立て続けに言った。それほどに信用が無いのかと腹が立って、彼はひらひら手を振っている友人に怒鳴り、あっかんべーと舌を出した。
 勢い勇んでドアを開け、廊下に出る。
 ひんやりした空気が頬を撫でた。
「ひゃっ」
 途端に足が止まった。竦みあがるが、耳朶を打つ笑い声に反発して、有言実行だと己を鼓舞する。
 意地だけで後ろ手にドアを閉め、彼は人気の乏しい廊下を歩き出した。
 そうして分かったのは、教室も大概寒かったが、人いきれがある分、外に比べればずっと温かい、という事だった。
「うー……」
 思いつきで行動を起こしてみたが、早くも後悔が押し寄せてきた。
 駆け足ならまた違うのだろうが、廊下を走るわけにはいかないので、歩調はどうしてもゆっくりだ。腕をさすりながら、冷え切った空気が満ちる廊下を歩く。往復するだけはつまらないからと、下の階を通って校舎をぐるりと回ってみることにする。
 踊り場に到達したところで、遠くから獣の如き雄叫びが聞こえてきた。
「なんだ?」
 しかも声は徐々に大きくなっていた。迫り来る怒号にびくりとして、綱吉は恐々、階下に顔を覗かせた。
 と、灰色の煙が濛々と立ち込めているのが見えた。
 一瞬火事かと思ったが、違う。
「うおぉぉぉぉー! きょーくげーんっ!」
 はっきりと聞こえるようになった雄叫びに、彼は目を瞬いた。あっという間に目の前を、埃を蹴散らして了平が通り過ぎて行った。その後ろを、へろへろになった風紀委員が数人、追いかけていく。
 一寸しか見えなかったが、了平はランニングシャツ姿だった。この寒い中、元気としか言いようが無い。
 流石にあれは真似できない。肩を竦めて苦笑して、綱吉は了平が駆け下りていった階段を覗き込んだ。声はもうかなり遠くなっていた。
「凄いなあ、お兄さん」
 廊下を走るなと注意する風紀委員まで走らせて、我が道を行っている。余計な迷いや悩みを抱かない晴れの守護者は、今日も真っ直ぐ前だけを見詰めているようだった。
 感心しつつも呆れてしまって、綱吉は押し寄せてきた寒気にぶるり、震えた。
「さむっ」
 咄嗟に身を竦ませて両手で身体を抱き締めて、降りて来たばかりの階段を見上げる。
 もう教室に帰ってしまおうか。歩いたところで身体が温まるとは限らないのは、確認できた。
「せめてカイロでもあったらなー」
 そういう冬場必須のアイテムも、悉く忘れてきてしまった。せめてあと五分早く布団から這い出ていたら、結果は大きく違っただろうに。
 自分の手に息を吹きかけて温め、彼は膝を左右で叩き合わせた。
「あ」
 ホッカイロ、湯たんぽ、毛布。
 温かさを保つアイテムを順に思い浮かべていくうちに、とある事を思い出した。
 頭の上にぴこーん、とランプが灯った。
「そうだ」
 両手を叩き合わせて声を高くして、ナイスアイデアだと自分で自分を褒める。ぴょん、とその場で軽く飛びあがって、彼はいそいそと前後左右を見回した。
 近付く人影が無いのを確かめて、急いでシャツの襟を広げて首にぶら下げている鎖を引っ張り出す。蛍光灯の光を浴びたチェーンには、見た目も厳しい指輪がぶら下がっていた。
 手に入れた時と比べると随分形状が変化したそれをいそいそと指に嵌めて、彼はそっと息を吐いた。
「ナッツ」
 おいで、と優しく声をかける。
 ぎゅっと拳を作って大空の炎をちょっとだけ指輪に注ぎ込めば、ぽふん、と可愛らしい音と共に煙が湧き起こった。
「ガウ!」
 呼び出された獣が、四本足で着地を決めて元気いっぱいに吼えた。
 オレンジ色の鬣をした、小さな天空ライオン。見た目はサンバイザーをした猫に等しく、奈々もすっかりそう信じ込んでいた。
 好奇心旺盛な眼をくりくりさせて、炎を灯した尻尾を揺らし、綱吉の大切な相棒であるナッツはきょろきょろと周囲を見回した。
「ガウゥ?」
 いつもと場所が違うと気付いたようだ。人の目があるので、綱吉はあまり学校では呼び出さないようにしていた。
 知らない景色に不安げな顔をして、子猫サイズの獣は主人の足に擦り寄った。温かい毛足が脛にあたって、ちょっとだけくすぐったい。
「おいで」
「ガウ」
 膝を折ってしゃがみ、綱吉はナッツを抱き上げた。嬉しそうにゴロゴロ喉を鳴らす猫、もとい仔ライオンの頭を撫でて、狙い通りの温かさに相好を崩す。
 ようやく手に入れた暖にだらしなく笑って、もふもふの鬣に頬擦りする。
「はー、ナッツ、お前ってやっぱ暖かいなー」
 天然のカイロが手に入った。どうしてもっと早く気付けなかったのかと悔やみながら、彼はすくっと立ち上がった。
「ガウ? ガウガウ、ガウ~」
「あはは。どうした?」
 綱吉が喜んでいるからだろう、気持ちが伝わったのかナッツも嬉しそうだ。上機嫌に鳴いて、首や頬に頭をこすり付ける。
 愛らしい、という以外の言葉が思いつかない姿に目を細め、綱吉は滑らかな鬣を丁寧に梳いてやった。
「やだー」
「ちょっと、なにあれ。可愛くない?」
 そこに女子生徒の声が響いて、彼はハッとした。
 真後ろを、上級生らしき女子がふたり、並んで歩いていた。教室移動の最中なのか、筆記用具を抱えている。綱吉の顔をチラチラ見ては、笑いを噛み殺していた。
「ぬいぐるみ抱いてるよ、あの子」
「うっ」
 ヒソヒソ話が聞こえて来て、全身に鳥肌が立った。
 外気温の低さから来たものではなく、精神的な圧迫感によるものだ。冷たい汗が額に浮かんで、奥歯がカチリと鳴った。
「ガウ?」
「しっ!」
 凍りついた主人を窺い、ナッツがどうしたのかと上腕を爪で軽く引っ掻いた。静かな廊下では、物音は意外にも響く。慌てて口を手で塞いで、綱吉は上級生が気付かず去っていくのに安堵の息を吐いた。
 ホッと胸を撫で下ろしてから、息苦しさにじたばたしているナッツに苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ぬいぐるみ、って」
「ガウ!」
 解放されて、ナッツは大きく息を吐いた。
 もふもふの毛並みに、柔らかな肌。肉球を持つ手は真ん丸で、瞳は愛くるしい琥珀色。
 確かにこれを見せられて、即座に百獣の王だと言い当てられる人は少なかろう。
 よくて猫、もしくは。
「……」
 ゴロゴロ喉を鳴らしているナッツの顔をじっと見て、綱吉は女生徒らが去っていった方角を見た。ぎゅっと抱き締めて、複雑な表情をして奥歯を噛み締める。
 聞こえて来た会話から察するに、綱吉は彼女らに、可愛らしいぬいぐるみを抱き締める男子生徒、と認識されてしまった。
「ひぃぃ!」
 改めて考えると、恥ずかしくて仕方がない。ボッと顔から火を噴いて、綱吉は上擦った声で悲鳴を上げた。抱えていたナッツをブンブン上下に振り回して、最後にポーンと投げてしまう。
「ガウゥ~~」
 途中から目を回したナッツの軽い身体が宙を舞い、両手が空になってから、綱吉は自分のしでかした事に気付いて目を丸くした。
 大慌てで腕を伸ばし、落下地点へと駆け出す。だが、一歩間に合わなかった。
「キャピッ」
 猫科の癖に着地に失敗して、黄金色の毛玉が廊下に転がった。衝撃に甲高い悲鳴をあげて、恨みがましい目で綱吉の事を見上げる。
 涙目で睨まれて、彼は両手を横に振った。
「ごめん、ごめんってば」
 必死に謝って許しを乞い、膝を折って屈んで頭を撫でてやる。ナッツは最初こそ警戒していたが、次第に表情を緩め、目を細めて擦り寄ってきた。
 抱え直して鬣を梳いてやり、綱吉は階段の手摺りに寄りかかった。
 仔ライオンの両脇を支えて掲げ、難しい顔をしてしばし考え込む。能天気なナッツは小さな牙を覗かせて笑い、舌を伸ばして主人たる少年の頬を舐めた。
「くすぐったいよ」
「ガウガウ、ガウ」
 表面はざらざらしており、引っかかるとちょっと痛い。
 首を回して避けるが、ナッツはしつこく綱吉に絡んで来た。どうやら昼間から遊んでもらえるのが嬉しいらしい。
 じゃれ付いてくる匣アニマルに目を細め、綱吉はハッと我に返って表情を凍りつかせた。
 そもそも何故、自分はこの仔ライオンを呼び出したのか。その理由を思い出したのだ。
「ナッツ、お前さ」
「ガウ?」
「あー……無理だよなー、どう考えても」
 神妙な顔をして問いかけるが、皆まで言い切る前に結論が出てしまった。
 そもそも綱吉は、寒さを振り払うべく教室を出たのだ。廊下をランニングシャツ一枚で走り回っていた了平ではないが、動いている方が身体も温まるだろうと、校舎を一周してくるつもりでいた。
 が、予想に反して少しも温かくならなかった。
 そこでカイロ代わりにナッツを指輪から出した。こちらは思ったとおり、満足の行く温かさを持ち合わせていたのだが。
 黙り込んでしまった綱吉の首を引っ掻いて、ナッツがどうしたのかと訊ねる。この小さな生き物は、さっきから少しもじっとしていなかった。
 遊んでもらおうと自己主張を繰り返して、綱吉の思考を中断させてばかりだ。
「お前さ、一時間、じっとしてられるか?」
「ガウ!」
 言葉が通じるかどうか不安だが念の為尋ねれば、ナッツは元気良く返事をした。
 あまりの即答ぶりに、却って心配になった。
「じゃあさ。今から一分くらい、じっとしてみろよ。吼えるのもダメだぞ?」
「ガウ?」
「ほら。スタート!」
 授業開始のチャイムまで、もう時間は僅かしか残されていない。教師の退屈な講義が繰り広げられる間、果たしてこの子は大人しくしていられるだろうか。
 号令を下した綱吉を不思議そうに見上げ、ナッツは尻尾をパタパタさせた。オレンジ色の炎を揺らめかせる彼を睨み、綱吉は動かないよう無言で威圧した。視線を感じて、仔ライオンはしょんぼりと小さくなった。
 が、それも十秒ともたない。
「ガウ?」
 なにかを感じたのだろうか、急に耳をピンと立てて右後方を振り返った。
「あっ」
 前脚をゆらゆらさせて、何もない空間を引っ掻き回す。見ようによってはおいで、おいでの仕草とも取れる行動に、綱吉は目を丸くした。
 言い聞かせてから三十秒と過ぎていない。あまりにも堪え性のなさに愕然として、綱吉はがっくり肩を落とした。
「ガッ、ガウ」
「もー……」
 この調子では、教室にこっそり連れ込むなど不可能だ。寝付いてくれるのが一番ありがたいのだが、この様子ではそれも難しい。
 それに、クラスの女子にぬいぐるみ持参の情けない男子、と思われるのだけは絶対に避けたい。
 ナッツカイロ化計画は諦めるしかなさそうだ。まだじたばたしている毛玉を前に深々と溜息をついて、綱吉は耳を澄ませた。壁際のスピーカーは、チャイムが鳴る直前特有のノイズを発していない。だが、次の授業開始までもう二分とない筈だ。
「良いアイデアだと思ったんだけどなー」
 ガッカリしながらナッツを抱えなおし、綱吉はまたも溜息をついた。
 首にぶら下げた鎖を揺らし、腕の中でちょこまか動き回っている小動物の頬を小突く。ぷに、とした感触をカラカラ笑ってから、噛み付かれる前に急ぎ引っ込める。
「もう戻れ。な、ナッツ」
「ガウウ!」
「あ、こら!」
 連れていけない以上、外に出したままにはしておけない。指輪に戻るよう告げると、途端に天空ライオンは暴れだした。
 嫌がって吼え、綱吉の腕を引っ掻いて束縛から逃れる。今度はちゃんと四本足で着地して、怒った顔をした後、直ぐに哀しそうに首を振った。
「ガウ、ガウゥ、ガウー」
 戻りたくない。ずっとこうしていたい。もっと遊びたい。
 言葉は分からないが、そんな風に言っているように聞こえた。
 駄々を捏ねる仔ライオンに肩を落とし、綱吉は困った顔で頭を掻き毟った。
「ダメだってば、ナッツ。俺はまだ授業があるの。それに此処は学校で、お前はホントなら居ちゃいけないんだって」
 自分から呼び出しておきながら、都合が悪くなった途端に掌を返す。勝手極まりない主人に反抗的な態度をみせて、ナッツは獣らしい唸り声をあげると、ぴょん、とその場で飛びあがった。
 後ろ足で強く床を蹴り、一気に駆け出す。
「わっ」
 綱吉の股下を潜り抜けたかと思えば、右足の周囲を駆け回り、そして。
 階段を一気に駆け下りて行ってしまった。
 沢田家のあの階段すら恐がって、降りるときはいつも誰かに抱えられているというのに、こんな時だけ勇敢だ。あっという間に見えなくなってしまって、綱吉は慌てた。
 ここで下手に騒ぎになろうものなら、教室に戻るどころではない。
「ナッツ!」
 戻れと命じるが、声は届かない。手摺りから身を乗り出して階下を覗き込むだけでは埒が明かず、痺れを切らし、彼も急いで階段を駆け下りた。
 足がもつれて転びそうになった。両手を広げてバランスを取って堪え、素早く左右を窺う。
 タタタ、と走っていく小さな毛玉が見えた。
「戻れ、ナッツ。こーらー!」
 叫んで追いかけるが、ナッツは停まらない。鬼ごっこだとでも思っているのか、楽しそうに笑って廊下を一直線に駆け抜ける。
 この先には職員室や、校長室もあるのだ。もし教員に見付かりでもしたらと考えると、恐ろしくてならない。
 鼻を膨らませてもう一度怒鳴り、綱吉は速度を上げた。渾身の力を込めて足を踏み出し、風を切って走る。
「ナッ……!」
 もうちょっとで届く。無理のある体勢から利き腕を伸ばした彼の前方で、急にガラッとドアが開いた。
 印刷室、という札は綱吉の視界には入らなかった。隙間から黒い棒がぬっと飛び出して、ナッツの進路を塞いだ。
 転ぶ。そう思った瞬間、先に綱吉が躓いて前に吹っ飛んだ。
「ぐぎゃ」
 情けない悲鳴をあげて、空中ででんぐり返しをして背中から落ちる。背骨を直撃した痛みに息が詰まり、目の前が真っ白になった。
 両手両足をヒクヒク痙攣させて、みっともない格好で天井を仰ぐ彼を見て、印刷室から出て来た青年は柳眉を顰めた。素早く戸を閉めて、輪転機が回る喧しい音をシャットアウトする。
 両足を踏ん張ってブレーキをかけたナッツは、現れた青年を不思議そうに見上げた後、誰なのかを思い出して甲高く吼えた。
「ガウ!」
「なにしてんの、君」
「うぅ、……いって、て」
 ふたりと一匹分の声が重なり合った。青年は黒髪から覗く細い目を鋭く光らせて、通路の真ん中でひっくり返っている少年と、足元にちょこんと座る黄金色の毛玉を見比べた。
 サンバイザーの下から好奇心旺盛な眼を輝かせ、ナッツは肉球で床を踏みしめた。数歩の距離を詰めて、長い脚に鬣をこすり付けて甘えた声で鳴く。
 ゴロゴロ言っているのを聞いて頬を緩め、並盛中学校の風紀委員長を務める青年は膝を折って屈んだ。
 両手で毛玉のような小動物を抱えあげて、首の後ろをゆっくり撫でてやる。滑らかな肌触りを指先に受け止めて、彼の顔は益々綻んだ。
「ったー」
 派手に転倒した痛みからようやく復活した綱吉が、後頭部を支えながら首を振った。身を起こして座り、身体中砂埃まみれの現実に気付いてがっくり項垂れる。
 好き放題跳ねている髪の毛が一斉に下を向いた。
「学校内へのペットの持ち込みは、禁止だよ。沢田綱吉」
 その後頭部目掛けて声が降ってきて、とても聞き覚えのある低音に、彼は俯いたまま目をパチパチさせた。
「……げ」
 よりによって、何故こんな場所で。
 顔を上げずとも其処にいるのが誰なのか、分かってしまった。前髪の隙間から前方を窺えば、学校指定の制服とは色の異なるスラックスの裾が見えた。
 学内で風紀を乱す生徒がいようものなら、手にしたトンファーで滅多打ちにするのも厭わない、最強最悪にして、天下無敵の雲の守護者。
 恐る恐る顔を上げれば、案の定緋色の腕章が学生服の袖に絡み付いていた。
 質問に答えられなくて、綱吉はまだ残る痛みを耐えて首を振った。
 見れば掌を擦りむいていた。転んだときに、床でこすったのだろう。
 もっとも表皮が一枚捲れただけで、血は出ていない。と思っていたら、薄らと赤い粒がじんわり浮かび上がってきた。
「うあぁ……」
 視覚的にも痛くなってきて、彼は情けない声をあげた。
 前門の虎、後門の狼。逃げ場のないたとえを思い出して、彼は奥歯をカチリと鳴らした。
「沢田綱吉」
「ガウガウガッ」
 返事を渋っていたら、また呼ばれた。彼に抱えられたナッツまでもが、真似をしてか楽しげに吼える。
 呑気極まりない匣アニマルを恨めしく思いながら、綱吉は皮が剥けてしまった右手を揺らし、渋々立ち上がった。
 息を吹きかけて熱を冷まし、知らず噴き出た汗を拭う。
「え、えっと」
「ペットの持ち込みは禁止。聞いてる?」
 ナッツの鬣を梳り、雲雀が重ねて言った。綱吉は気持ち良さそうにしている天空ライオンを思い切り睨み、頬を膨らませて口を尖らせた。
 雲雀の頭上では、例の如くあの黄色い鳥が、優雅に旋回していた。
「ひ、ヒバリさん、だって」
 そもそもナッツは、ペットではない。では何かと聞かれたら困るが、兎も角その辺に転がっている愛玩動物とは大きく異なる。
 武器となり、防具となり、時に綱吉の心を癒してくれる大切な存在。強いて言葉を当て嵌めるとしたら、パートナーというのが一番的確だろう。
 頭上を盗み見た綱吉の呟きに、雲雀は手を止めて天井を仰いだ。悠然と羽根を広げている鳥の姿に笑みを零し、膨れている綱吉を笑って首を横へ降る。
「あれはペットじゃないよ」
「でも」
「僕が飼ってるわけじゃないからね」
 勝手に懐いて、ついて回っているだけ。餌をやって育てているわけではないから、ペットとは違う。
 そんな無茶な道理を展開されて、綱吉は開いた口が塞がらなかった。
 それに、その理屈でいけば、ナッツもペットの分類から外れる。
 匣アニマルは所有者の死ぬ気の炎があればよくて、基本的に食事を必要としない。それに必要な時以外は、匣、今は指輪の中に戻してしまえば、場所もとらない。
 そもそも兵器として開発されたものだから、見た目の愛らしさだって本来は必要ない筈だ。
 ボンゴレ匣を開発した未来の自分は、何を思ってこんなミニサイズの天空ライオンを用意したのだろう。
「で、君はどうしてこの子を外に出したの」
 ペット云々の話は、あっさりと他所に放り出されてしまった。
 大人しいのをいい事に、ナッツの首根っこを掴んでぷらんと垂らした彼の問いかけに、綱吉はぐっと息を詰まらせた。
 苦い唾を飲み、視線をそれとなく逸らす。
 正直に告げるのが吉とは分かっているのだが、なにぶんカイロ代わりを目論んだとは、恥ずかしすぎる。扱いが酷いとも責められかねない。
 言葉に苦慮して指を小突き合わせるが、妙案はさっぱり浮かんでこなかった。
 そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎて行く。担当教諭が教室に到着する前に自席に着いていないと、授業は遅刻扱いだ。
 じりじり迫るタイムリミットに喘ぎ、彼はしょぼくれて小さくなった。
「沢田綱吉?」
「今日、寒いじゃないですか」
 せっつかれて、観念して白旗を振る。順繰りに事情の説明を開始した彼に、雲雀の表情は徐々に複雑なものになっていった。
 笑っているのと、呆れているのと半々だ。
「確かに君の格好は、ちょっと寒そうだね」
 貴方に言われたくないと思ったが、綱吉は黙って頷いた。
 雲雀は白いシャツに学生服を羽織っただけで、綱吉以上に薄着だった。それでよく風邪を引かないな、というのが正直な感想なのだが、或いは風邪菌すら彼に恐れをなして避けて通っているのかもしれない。
 ともあれ雲雀は綱吉の言葉に緩慢に頷いて、続けて吊るされているに関わらず上機嫌にしているナッツを見た。
 再び腕に抱え直し、人差し指を突き出す。
「ガウ、ゥ~」
 満面の笑みを浮かべ、ナッツがいきなりその指を噛んだ。が、雲雀は痛がりもせず、平然としていた。
 甘噛みされて、ほんの少し嬉しそうにも見えた。
「あ、あの」
「そう、ふぅん。君って、寒いんだ」
 ジジジ、と遠くのスピーカーからチャイムの前準備である嫌なノイズが聞こえた。もう時間切れだと焦り、ひとまずナッツを返してもらおうと綱吉は手を伸ばした。
 それを無視し、雲雀は値踏みするような眼差しで彼を上から下まで眺めた。
「ガウ、ガウガッ、ガウ~」
「ピ」
 降下した黄色い鳥に手を出そうとナッツが身を乗り出す。しかし拘束が強く、逃げられない。じたばたする子猫もどきを抱きかかえ、雲雀はふっ、と笑った。
「温かくしてあげようか」
「え?」
 言うが早いか、彼は返事も聞かずに身を乗り出した。
 ナッツを抱え込んだまま、綱吉の方へと首を伸ばす。視界に影が落ちて、琥珀の瞳いっぱいに黒が映りこんだ。
 目を閉じてもいないのに何も見えなくなった。直後だ。
「ン」
 ちゅ、と微かな音と共に、唇に温かいものが触れた。
 ついでとばかりに擦り剥いた手まで舐められて、綱吉は総毛立った。
 ビリリ、と全身に電流が走り、指先が一斉に反り返った。ビクッとして背筋を伸ばした彼を笑って、雲雀は最初に触れた場所に人差し指を押し当てた。
 撫でるようになぞられて、軽く爪で削られた。綱吉はその間呆然と立ち尽くし、意地悪で淫靡で、実に言い表し難い表情を浮かべている青年を見詰めた。
 リーンゴーン、とチャイムが鳴り始めた。
 だのに動けない。瞬きすら忘れている彼を小突き、雲雀は天井を指差した。
「鳴ったよ」
 高い位置に設置されたスピーカーを示し、言う。つられて上を向いた綱吉はそれでハッと我に返って、零れ落ちんばかりに瞳を大きく見開いた。
 鮮やかな琥珀が、見る間に熱を帯びていく。
「な、え、……んな!」
「遅刻するよ」
「なん、なっ、な……うああぁぁ!」
 ぼはん、と頭を爆発させた彼に涼しげに言って、雲雀は顎をしゃくった。チャイムは間もなく鳴り終わる。授業に向かうべく、遠く、職員室の扉から出ていく教諭の姿が見えた。
 今から階段を駆け上ったら、ぎりぎり間に合わないことも無い。
 意地悪い笑顔に真っ赤になって、綱吉は雄叫びを上げると同時にくるりと反転した。其処にいるのが風紀委員長というのも忘れ、了平にも負けない勢いで廊下を突っ走っていく。
 途中、階段を行き過ぎかけて慌てて戻り、段差を駆け上っていくのを見送って、雲雀はクク、と喉を鳴らした。
「ガウ?」
「置いていかれちゃったね」
 あの様子だと、温かいを通り越して熱い、の領域に突入しているのではなかろうか。
 教室に着く頃には汗だくになっているだろうナッツのご主人様を想像して、雲雀は滑らかな琥珀色の鬣を梳いた。
 愛らしい仔ライオンはきょとんとした顔をして、雲雀を不思議そうに見詰めた。小首を傾げるその仕草は、綱吉そっくりだった。
「いつ気付くかな」
 授業が始まってしまえば、教室を抜け出すのは容易ではない。出しっぱなしの匣アニマルの存在を思い出したところで、今すぐ奪い返しに来ることはなかろう。
 とすれば次の休憩時間か、或いは昼休みか。
 どちらにせよ、一時間近く猶予がある。
「おいで。お菓子があるよ」
「ガウ? ガッ、ガウ!」
 学校内にペットを放置しておくわけにもいくまい。ここは親切心を働かせて、風紀委員が責任を持って預かってやろう。
 そんな建前をつらつらと並べ立て、雲雀は印刷室の前を離れた。人通りが一気に途絶えた廊下を悠々と進み、階段を登って応接室を目指す。
「今日の昼寝は、暖房が要らないかもね」
「ガウ!」
 温もりも充分な、大きな抱き枕を確保出来た。
 楽しげに嘯いた彼を見上げ、意味を解したわけでもなしに、ナッツは元気良く吼えた。

2011/03/14 脱稿