夕映えの道

 ぴゅるる、と鳥の鳴く声が聞こえた。
 鳶だろうか。頭上を旋回しているだろう猛禽の影に気を取られ、タクトは足元への注意を疎かにした。
「……ぅわ!」
「タクト?」
 直後、彼の姿が目の前から消えた。突然の手品に吃驚して、スガタは慌てて彼がいた場所へ駆け寄った。
 そうして崩れた足場を見つけ、前に出掛かっていた身体を急ぎ後ろに引っ込めた。爪先のその先で、乾いた砂や小石がぱらぱらと零れ落ちていった。
 下草が綺麗になくなって、足元にはぽっかりと空間が広がっていた。
 穴ではない。断崖のぎりぎりのところを、気付かずに踏み外してしまっただけだ。
「タクト」
 覗きこんで、声をかける。落差は約二メートルといったところだ。
 夕焼けの太陽のように赤い頭が揺れて、振り返った眼が眩しそうにスガタを捕らえた。
「いって、て」
「大丈夫か」
「うん、へいきー」
 崩れた足場は急角度で傾斜しており、表面は砂に覆われていた。こうしている間もぽろぽろ崩れて、蹲っている少年の頭に降りかかった。
 鬱陶しげに砂や砂利を払い落とす彼だが、立ち上がって逃げる素振りは見られない。口では平気と言っているものの、どこか怪我をしたようだ。足でも捻ったのだろう。
「ちょっと、待ってろ」
 迂回できる道が無いか探して、スガタは背筋を伸ばした。首を振って左右を確認するけれど、ほぼ垂直の断崖は見える限りずっと先まで続いていた。その向こうは濃い緑に覆われている。準備もなしに薮を掻き分けて進むのは、得策ではない。
 ハブの出る可能性を考えて、彼は難しい顔をした。
「タクト」
「ういー」
 再度呼びかければ、彼は左手を頭の横で振った。相変わらず膝を折って座り込み、丸くなって動こうとしない。
 早く傍に行ってやりたくて、スガタはタクトが滑り落ちた場所よりも僅かに右にずれて、ついでに後ろを振り返った。
 樹齢三十年はあるだろう木の幹に、蔓が巻き付いていた。まるで蛇のようなそれを掴んで引っ張って、枝の先に絡まっている分を力技で解く。長さは到底足りないが、最初の一歩を踏み出す時に身体を支えてさえくれれば、それで良い。
 簡単に千切れないのを確かめて、彼は思い切って崖へと身を投げた。
 靴の裏で乾いた砂を削り、蔓をロープ代わりにして体重を支える。いきなり頭上でザッと音がしたのに吃驚して、タクトが顔を上げた。
 同じように口もあんぐり開いた彼の横に、案の定崖の半分にも達しなかった蔓を手放したスガタが舞い降りた。膝を折って深く腰を沈め、着地の衝撃を地面へと流す。
 樹液がこびり付いた手をズボンに押し当て、彼はゆっくり立ち上がった。
 突然上から降って来た彼にぽかんとして、タクトは両手を地面に添えた。起き上がろうとして、右の掌に走った痛みに甲高い悲鳴をあげる。
「った!」
 うっかり怪我をした場所に力を入れてしまった。仰け反って肩から崖にぶつかっていった彼に唖然として、スガタは視界を横断した赤濡れた掌に瞠目した。
 良く見ればタクトの落下地点に、鋭く尖った岩があった。
 激突しそうになって、咄嗟に庇った結果だろう。掌の真ん中がぱっくり裂けてしまっていた。
「お前」
「いや、……ってて」
 全然大丈夫ではないではないか。我に返り、スガタは声を荒げた。
 頭ごなしに叱られて、タクトは思い切り嫌そうに顔を顰めて口を尖らせた。
 手首の辺りを握り、心臓よりも高く掲げて出血を減らそうと努める。が、傷口が不衛生なままでは、たとえ血が止まっても黴菌の侵入を防げない。
 眉間に皺を寄せ、スガタは盛大に溜息をついた。
「注意力散漫だな」
 手厳しい事をピシャリと言われて、ぐうの音も出ない。面白く無さそうに頬を膨らませたタクトだったが、直ぐに掌を襲う痛みに顔を顰め、奥歯を噛み締めた。
 鼻を膨らませて、ひたすら耐えている。
 兎も角、このまま放っておくわけにもいかない。
「確か、この辺りには……」
「スガタ?」
「立てるか」
 辺りをぐるりと見回して、スガタは細い目を更に細く眇めた。数秒考え込んで、不意に顔を上げて手を上下に振る。立つよう促され、タクトはよろめきつつ、どうにか二本足で大地を踏みしめた。
 彼らは今、何もないのにやたらと広い空間にいた。
 恐らくはこの近くにも、以前、鉱山の入り口があったのだろう。しかし既に閉鎖されて久しく、往時の賑わいを思わせるものは何も無かった。廃棄された木材が無造作に積み上げられて、表面は過ぎ去った年月を思わせる程に苔生していた。
 タクトは物珍しげに景色に見入り、スガタがさっさと歩き出しているのに気付いて慌てた。
「スガタ」
 置いていかれるのは困る。彼は急ぎ、痛みを堪えて後を追いかけた。
 シンドウ邸の裏に広がる山林に探検に行こう、と言い出したのはタクトだった。
 海辺の、切り立った崖の上に建つ屋敷の周辺には、手付かずの自然が多く残っていた。野生動物が多く棲み、夜中には梟の声もする。目覚まし時計の代わりに野鳥が朝の挨拶をしてくれて、海からは絶えず涼しい風が吹いた。
 言うほど都会ではないけれど、それなりに発展した町に住んでいたタクトは、幼少期に大自然の中で駆け回った記憶が少ない。
 ナツオに引っ張られる格好で何度か湖畔の森に出かけもしたが、目的は人力飛行機の操縦であって、トレッキングや野山でサバイバル、という事はやった事が無かった。
 折角天気も良いし、取り立てて急いでやらなければならないこともない。
 だが誘われた時、スガタはあまり気乗りしない様子だった。二つ返事で承諾してくれると思っていたタクトは大いに拗ねて、ならばひとりで行くと言い出し、結果この有様だ。
 矢張り同伴して正解だった。一時間ほど前の自分の判断に頷き、スガタはしょぼくれた顔でついてくる少年に苦笑した。
 記憶だけが頼りなので、足取りは度々止まった。
「ねえ、スガタ。何処行くのー」
「……こっち、だったかな」
 鉱山入り口跡を離れ、ふたりは森の中に在った。目印は頭上に輝く太陽くらいしかない中、スガタは頻りに辺りに目を向けて、都度自分に向かって頷いた。
 屋敷に戻る道は本当にこっちなのか、タクトは段々不安になった。
 もしかしたら前を歩いているのは実はスガタのニセモノで、本物は捕らえられた後なのかもしれない。綺羅星十字団が卑怯な方法を使って、自分を騙そうとしているのではなかろうか。
 ありそうで有り得ない想像に温い汗を流し、彼は顔に落ちた木漏れ日に首を振った。
 痛いのもあって、さっきから汗が止まらなかった。
「スガタ、ねえ」
 何処まで行くのか、そろそろ教えてくれても良かろうに。
 舌足らずの声で呼んで、振り返ってくれるよう強請る。その顔が、自分の知っているスガタとなにも変わっていない事を切に祈りながら。
「……ム」
 だが願いは叶わなかった。
 彼は聞こえているだろうに声を無視し、何かを見つけたのか急に速度をあげた。呆気に取られてタクトは置いてけぼりをくらい、緋色の目を丸くした。
「スガタ!」
 ガサガサと下草を掻き分けて進む背中に叫び、どうしようもない孤独と不安を抱えて、彼は首を竦めた。小さな子供に戻って暗闇に怯え、独りは嫌だと急いで駆け出す。
 その彼の鼻腔に、ふっと、甘い匂いが迷い込んだ。
 嗅いだことがある匂い、けれどそれがなんであるか直ぐに思い出せない。顔の高さにあった大きな緑の葉に顔面を叩かれて星を散らした彼の前方で、息を切らしたスガタが嬉しそうに相好を崩した。
 また崖で、行き止まり。岩が積み重なった表面は、僅かに湿っていた。
「よかった。まだ湧いてる」
 安堵の息を吐いて、彼はポケットからハンカチを取り出した。岩の隙間から滲み出ている水で濡らして、惚けた顔で立ち尽くしているタクトを手招く。
 覚束ない足取りで傍に寄った彼は、いきなり患部に濡れた布をこすり付けられて、声にならない悲鳴を上げた。
「ひぎっ」
「暴れるな。汚れを取るだけだ」
 咄嗟に跳ね除けようとしたが、寸前で見切った彼に手首を拘束されて、叶わなかった。
 力任せにごしごし擦られて、傷口を抉られた。新たな血が滲み出て、スガタのハンカチは見る間に赤く染まっていった。
「いだい、いだ、だっ、だだだ!」
「男だろう、耐えろ」
「無理。これ無理、むーりー!」
 見苦しく叫び、必死に抗うがまるで太刀打ち出来ない。
 この細い身体の何処に、こんな怪力が潜んでいたのか。涙目でスガタを睨み、タクトは懸命に激痛を堪えた。
 丁寧とは対極の手つきで右手を清められて、魂が半分抜けそうになった。放心状態で膝を折った彼に肩を竦め、スガタは汚れたハンカチを、ちょろちょろ流れている湧き水で洗った。
「此処、はぁ?」
 額に左手をやって首を振り、間延びした声で背中に問いかける。青い髪の青年は首から上だけ振り返って、一寸だけ悪戯っぽく笑った。
「秘密の場所、とでも言っておこう」
 南十字島は四方を海に囲まれているが、深く穴を掘れば真水が湧く。だからこそ、島はここまで発展出来た。
 得意げに言い放ち、スガタはハンカチを捩じって絞った。広げて上下に振って水気を飛ばし、今度は細く長く折りたたむ。
「ちょっと待ってろ」
「何処行くの」
「直ぐ戻る」
 出来上がった簡易包帯をタクトに渡して、彼は背筋をピンと伸ばした。行くな、との声を振り払い、黙々と樹木生い茂る森へ入って行ってしまう。
 追いかけたかったが、右手の痺れは今や全身に蔓延して、立ち上がる気力は欠片も残っていなかった。
 迷いのない足取りで突き進んでいった彼を信じる以外、タクトに出来ることはない。彼は心細さに震えながら、ズボンのポケットを弄った。出て来たのはハンカチではなく、鎖に繋がれた懐中時計だった。
 蓋を開け、内側に収められた写真に見入る。
「……大丈夫」
 スガタは自分を裏切って、置いて行ったりしない。強く心に言い聞かせ、彼は蓋を閉じた時計を抱き締めた。
 ガサリ、と背後で木々が擦れ合う音がした。
 背の低い樹木や下草を掻き分けて、何かが迫っている。一瞬、部のマスコット的存在である副部長が思い浮かんだが、いくらなんでもこんなところまでやって来るとは思えない。
 となれば野生動物しかなくて、頭の中の赤ランプが一気に眩しく明滅し始めた。
 一番可能性が高いのは、ハブ。噛まれたら一定時間内に血清を投与しないと、最悪死に至る猛毒を持った蛇だ。
 想像して背筋が寒くなって、彼は奥歯を噛み鳴らした。ヒッ、と小さな悲鳴をあげて、武器になる物が無いかと視線を左右に彷徨わせる。が、こんなところ、普段人は通らない。
 当然、用心棒も地面に突き刺さっていなかった。
 冷たい汗が流れる。ゴクリと唾を飲み、彼は力の入らない膝に必死に言い聞かせた。
 立て、と。
 だが果たされない。ガサリ、近くで葉が擦れ合う音が大きく響いた。
「うわあ!」
「タクト?」
 せめて一瞬だけでも敵の注意を反らせたら。そう思って振り向きざまに大声を張り上げた彼は、何をしているのかと呆れ顔で問いかけられて、パチパチと目を瞬いた。
 緑色の草を握って、スガタが不思議そうに立っていた。
「え?」
「どうかしたか?」
「え、あ。あ、や……あの。あは、あはははは」
 まさかハブと間違えましたとは、恥ずかしくて口が裂けてもいえない。笑って誤魔化し、一方で胸を撫で下ろして、彼は湧き水の方へ進む青い髪を見送った。
 スガタは摘んできた草を清水に浸して汚れを落とすと、徐に半分に切り裂いた。
「なに、それ」
「チドメクサ」
 次いで半円形のそれをくしゃくしゃに握り潰し、揉み解していく。両手で挟んで捏ねる彼に首を捻り、タクトは座ったまま問いかけた。
 傷口を見せるよう告げて、スガタは片膝を折った。
「草、だよね」
「ああ」
 微かに青臭い臭いがして、タクトは顔を顰めた。質問に即答したスガタは気にならないのか平然として、葉の断面から垂れ落ちる汁を傷口に垂らした。
 チリッと来た。新たに生じた熱に臆して、彼は頬を強張らせた。
 スガタは気付かなかったフリをして、揉み解した葉を赤黒く変色した掌に被せた。外れないよう折り畳んだハンカチを重ねて巻き、端を二重に縛って固定する。
 ざらついた感触にこそばゆさを覚え、タクトは意味もなく身を捩った。解いてしまいたくなるのを耐えて、いぶかしむ目でスガタを見る。
「これって」
「一応、応急処置だ。戻ったらちゃんと医者に診てもらわないとな」
「そうじゃなくて」
「血止草だと言っているだろう」
 聞きたいのとは別の話をされて、タクトは自分の右手を指差した。しつこい彼に痺れを切らし、スガタは少し声を荒げて素っ気無く言い放った。
 二度告げられて、その言葉の意味がようやく分かった。
「へ、え……」
 驚きに目を見張り、タクトはしげしげとハンカチからはみ出ている緑の葉を見詰めた。端をちょっと抓んで引っ張って、変な事はするなと叱れて首を竦める。
 その辺に生えていそうな雑草なのに、意外だ。
「小さい頃、怪我をしたらこれを揉んで、傷口に塗っていた」
「ほうほう」
 立てるかと聞かれたので、タクトは黙って左手を差し出した。スガタは肩を竦め、呆れながらも引っ張り揚げてくれた。
 そういえば崖を飛び降りてくるときも、蔓を縄代わりに使っていた。水のある場所を把握しており、彼はかなり、山に慣れている。
 裏庭がこんなだから、子供の頃から遊びまわっていたのだろう。豊かな自然に囲まれた生活とは、なんとも羨ましい限りである。
「スガタって、やんちゃだったんだな」
 知らなかった一面を見られた。驚きと同じくらい嬉しさがこみ上げてきて、タクトはしたり顔で笑った。
 白い歯を見せた彼の腰を叩いて砂埃を払ってやり、スガタは苦笑した。
「僕より、ワコの方が凄かったぞ」
「そうなの?」
「ああ。手当ての方法だって、彼女がよく怪我をしていたから、覚えたようなものだしな」
 今の姿からは想像がつかないが、彼女もかなりのお転婆だったようだ。明日会ったらからかってやる事にして、タクトは自分をじっと見詰めてくる視線に照れ臭そうにはにかんだ。
 もう平気だと教えたくて、真っ直ぐ見詰め返して頷く。
 だが、彼は手を放してくれなかった。
 触れ合う体温が心地よくて、それだけで嬉しい。無言の気遣いをありがたく思いながら、彼が秘密の場所と言った岩場を仰ぐ。
「僕も、みんなと一緒に此処を走り回りたかったな」
 名前しか知らない父、顔しか知らない母。
 ふたりを恨むつもりはないけれど、どうして自分だけこの島から遠く離れた場所で生まれたのかと、たまに思ってしまう。
 足元を見下ろしてポツリと言った彼の手を強く握り、スガタは彼方に目を向けた。
 近辺に道らしい道はない。だが幼い日、何度も通った森だ。屋敷がどの方角にあり、どう行けば近いのかも、手に取るように分かる。
「僕は、お前と出会えたのが今でよかったと、そう思ってる」
「スガタ」
 遠くを見たまま告げて、手を引いて歩き出す。いきなり距離を広げられて、真ん中で作った結び目が解けそうになった。
 力を入れれば、置き去りの身体が傾ぐ。つんのめり、タクトはそのまま彼の方へ倒れこんだ。
 一歩遅れて気付き、スガタが慌てて振り返った。
「おふっ」
 胸で受け止めて、踵を引いて踏ん張る。ぼすん、と引き締まった体躯に顔面から突っ込んで、タクトは変な声を出した。
 右手をだらりとぶら下げた彼を抱え込んで、スガタは目をぱちくりさせた後、頬を緩めた。
「スガタ?」
「小さい頃に出会っていたら、僕たちは今みたいになれなかったかもしれないだろう」
 大事なのは共に過ごした時間の長さではない。
 それにタクトは、島の外から来たからこそ、内に篭もりがちだったスガタの心を開かせられた。無理矢理割り込んで、力ずくで本音を引きずり出すような芸当は、島出身の人間にはとても出来ない。
 タクトと出会って、スガタは変わった。
 そのタクトは、島の外で育ったからこそ、今のタクトになったのだ。
「褒めてるの?」
「感謝している」
 会話が微妙にかみ合っていない。だが悪い気はしなくて、タクトは微笑んだ。
 スガタの胸に顔を埋め、甘えて縋りつく。右手は痛いので使わずにおいて、繋いだ左手に力を込め直す。
「聞きたいな、スガタの小さい頃の話」
「僕も」
 あの日、あの時、あんなことがあったから、今の自分がいる。
 もっともっと知りたくて、知って欲しくて、タクトは嬉しそうに頷いた。

2011/03/13 脱稿