桃花

 其処はまっピンクの世界だった。
「なんだ、こりゃ」
 壁も、床も、天井も、見渡す限りどこもかしこも淡いピンク色で埋め尽くされた場所だった。
 初めて見る景色だった。それに加えて自分の足で歩いてやって来た覚えもなくて、獄寺は目を真ん丸に見開いて、奇妙でならない空間に暫く見入った。
 試しに壁を叩いてみるが、どうにも感触が柔らかい。彼の認識では、壁というものはもっと硬く、どっしりしていて、家を守る大切な部位の筈だ。こんなにもぶよぶよしていては、何かあった時に屋根を支えきれない。
「趣味わりー」
 押したら凹んで、離せばぽよよん、と震えながら元に戻る辺り、冗談としか思えない。しかも色は、多少控えめながらも、ピンクだ。
 いったいどんな趣味の人間が、こんな気色の悪い建物を作ったのか。常軌を逸した行動を鼻で笑い飛ばし、彼は肩を竦めて足元を蹴り飛ばした。
 こちらは一応しっかりしているものの、壁よりも若干色が濃いので、長く見詰めていたら頭が可笑しくなりそうだった。
 置かれたテーブルも、椅子も、ソファやテレビまで、ピンク一辺倒だ。テレビ画面も、電源が入っていないに関わらず桃色をしている。ここまで徹底されると、逆に感心してしまいそうだ。
 誰の家かと考えて、思い浮かぶんだは笹川京子や、三浦ハルといった知り合いの女子の顔だった。間違ってもビアンキではなかろう。綱吉の母である奈々も、ピンク、という雰囲気ではない。
「しっかし、なんだって俺は」
 どうせ考えたところで分からないことだと早々に諦めて、彼は銀色の髪を掻き回した。舌打ちして、改めて室内を観察する。
 一体全体、此処は何処なのだろう。
 気がついたら部屋の真ん中にいた。玄関の呼び鈴を鳴らした記憶もなければ、ピンク部屋のドアを潜ってもいない。
 まさかテレポーテーションが使えるようになったのか、と一瞬喜びそうになって、彼は反射的に作ったガッツポーズを解いた。もし本当にそんな能力が開花したとして、最初に跳んだ先がこんなピンクだらけの部屋というのは、あまりにも哀しすぎる。
 緩く首を振って打ち消し、こめかみの辺りを軽く叩いて気持ちを切り替える。天井から注ぐ光も、あろう事かピンク色だった。
 ずっとこうしていたら、頭の中までピンクになりそうだ。
「ダメだ。兎に角出よう」
 いい加減気分が悪くなってきて、彼は口元に手をやって呻き、丁度真正面にあったドアに向かって歩き出した。
「何処に行くの?」
「決まってんだろ。帰るんだよ」
 そしていきなり背後から声を掛けられて、何も考えないまま返事をした。
 三歩目を繰り出したところではたと我に返り、目を瞬かせて小首を傾げる。可愛らしいボーイソプラノには聞き覚えがあったけれど、その人物とこの部屋とが、獄寺の頭の中でなかなか結びつかなかった。
 それに部屋の中には、自分以外誰も居なかった。
 何度も室内を見回しているから、それは確かだ。物陰に隠れていたのかもしれないが、そういう気配もなかった。
 嫌な汗が背中に浮かんで、彼は咥内に湧き出た唾を飲んだ。
「帰るって、何処に?」
「そりゃ、俺の家に……」
 愛らしい声が続けて質問を投げてきて、彼は緊張で心臓を爆発寸前まで膨らませた。最初に比べれば随分とたどたどしく、覚束ない舌使いで言葉を操る。
 外にまで響いていきそうな心音に眩暈がして、彼は振り返りたい衝動を必死に押し留めた。
「獄寺君の家?」
「そう、です」
「なーんで? だって、獄寺君のおうちって、此処だよ?」
「はいぃ!?」
 しかし我慢出来たのは、そこまでだった。
 耳を疑うことを言われて素っ頓狂に叫び、獄寺は飛びあがらんばかりに驚いて後ろを向いた。
 確かに誰も居なかったはずの空間に、壁を背にしてひとりの少年が立っていた。
 蜂蜜色の髪に、琥珀色の瞳。小ぶりな鼻が真ん中に、その下には艶を帯びた唇が。少しだけ赤味を帯びた頬もまた、淡いピンク色だった。
「じゅっ……」
「帰っちゃダメ」
 沢田綱吉、十四歳。この世でただひとり、獄寺が忠誠を誓った相手だ。
 声を上擦らせた彼に歩み寄り、綱吉らしき少年は猫撫で声で言った。一緒に伸びてきた手がチェック柄のシャツを掴んで、ぎゅっと握り締める。
 今まで聞いた事もない甘えた声色に、否応なしに胸が高鳴った。ドクドク言う心臓を持て余し、彼は理解が追いつかない状況に慌しく目を泳がせた。
 気がつけば一面まっピンクの部屋にいた。そしていないと思っていた綱吉が、居た。
 彼が言うには此処は、獄寺の部屋だという。
 だが並盛町に聳え立つマンションの部屋を改築した覚えは、一切ない。
「十代目」
「その呼び方はしないで」
 事情がつかめなくて戸惑っていたら、綱吉がいきなり擦り寄ってきた。
「じゅ、十代目っ」
 右の掌を獄寺の胸に押し当てて、その上に頬を置いて距離を詰める。しな垂れかかられて、うっかり背中に手を回しそうになった獄寺は、自然に動いた自分に腕に慌てた。
 行き先を変更して細い肩を掴み、力任せに引き剥がしに掛かる。羞恥に顔を赤くした彼を見上げ、綱吉は不満げに頬を膨らませた。
「どうしたのさ。さっきから、変だよ」
「いや、えっと、あの」
 可笑しいのはむしろ綱吉だ。獄寺の知る彼はこんな風に蕩けそうなほどに甘ったるい声は出さないし、獄寺にしがみ付いても来ない。
 動揺したまま普段の綱吉を思い浮かべたら、軽く落ち込みそうになった。
 項垂れてかぶりを振り、垂れ下がる銀髪の隙間から不思議そうに人を見上げている少年を窺う。綱吉と同じ姿かたちをした存在は、彼が見ていると気付くや嫌な、嬉しそうに顔をほころばせた。
 小春日和を思わせる柔らかな笑顔に、沈みきった心がふわりと浮き上がった。
「十代目」
「んもう。その呼び方はやめてって、何度も言ってるでしょ」
 感極まって泣きそうになって、獄寺は鼻を愚図らせた。綱吉は可愛らしく憤慨して、拳を振り回した。
 ぽかぽか叩かれても、ちっとも痛くない。むしろ幸せな気持ちになって、獄寺はだらしなく頬を緩めた。
 とはいえ、此処が何処なのかが未だに分からない。綱吉曰く、獄寺の部屋らしいが、家具のひとつにも見覚えは無かった。
 疑うつもりはないが、完全に信じきるのも難しい。人を叩くのに飽きた彼が落ち着くのを待って、獄寺は試しに栗色の髪をひと房、指で撫で梳いた。
「ん……」
 気持ちよさげに目を細め、綱吉は喉を鳴らした。
 ぞくりとする声色に、獄寺は口から心臓が飛び出そうになった。
 慌てて塞いで飲み込んで、元の正常な位置に戻して人心地つく。ドッと押し寄せた汗に全身を濡らして、彼は信じがたい状況に目を白黒させた。
 動揺を顔に出すまいとするが、綱吉がもっと撫でて欲しそうに強請るのを受けて、彼の動きはどんどん挙動不審になっていった。
 永遠にありえないと思っていたことが、今まさに起きている。何があったのかは分からないものの、あの綱吉が獄寺に甘えて、自ら擦り寄ってきていた。
 夢なのだろうか。だが色覚もあり、触覚もあり、綱吉の体温もしっかりと感じられる。こんなに良く出来た夢があってたまるものか。
 目まぐるしく頭を回転させた結果、ぽんっ、と回線がショートした。思考回路は悉く停止して、理性をかなぐり捨てた彼はこの状況を現実として受け入れた。興奮気味に鼻を鳴らし、調子に乗って綱吉の頬を擽る。
「こーら、ダメだってば」
 嫌がられてしまったが、その声さえもがどこか甘ったるい。獄寺は、あんなにも嫌だったピンク一色の部屋のこともすっかり忘れて、目の前の少年を思う存分撫で回した。
 腰を抱いて背中をさすり、自分からも彼に頬を寄せて擽る。そこまでは許してくれた綱吉だったけれど、尻を揉もうとしたら、ダメだと言って手を叩き落されてしまった。
「ちょっとくらい」
「ダーメ。……そこは、後でね」
 なかなかにガードの固い彼に口を尖らせたら、そこにちょん、と指を押し当てられた。
 意地悪く目を眇めた綱吉が、戻した手を自分の唇に押し当てた。小悪魔めいた笑顔で囁いて、隙間から覗かせた舌で爪先をチロリと舐める。
 なんとも淫靡で妖しげな仕草に、獄寺は胸を撃ちぬかれて悶絶した。
 しっとり濡れた声で告げた綱吉が、呵々と笑って手を振った。踊るような足取りでドアに向かって歩き出して、左胸を押さえ込んでいた獄寺はハッとして背筋を伸ばした。
「そうだ、十代目。此処って」
「んー? やだな、ホントに忘れちゃったの?」
 ドアノブに手を伸ばしていた彼が肩越しに振り返り、同じ話題を何度も繰り返す獄寺を軽く睨んだ。頬を膨らませて不満げな顔をして、ピンク色をした柔らかい壁を押す。
 瞬間、パカッと、まるでSF映画のワンシーンのように、その部分に突如穴が出来上がった。
 絶句する獄寺を他所に、綱吉はその場でくるりとターンを決めて、右足を穴の向こうに伸ばした。
「じゅ、じゅうだいめ」
「此処は、俺と君の、新居でしょー?」
「はい?」
「しっかりしてよね、旦那様?」
「はえ?」
 今、天地が逆になってしまったのではないか、と思えるくらいに衝撃的な台詞が聞こえた。
 綱吉の全身が穴の向こうに消えて、部屋には獄寺ひとりが取り残された。右手を軽く浮かせた状態で停止して、瞬きさえ忘れて唖然とする。
 新居。沢田綱吉と獄寺隼人の、新居。
 そして綱吉は、獄寺を「旦那様」と呼んだ。
 まさか主従関係が逆転したか、とあらぬ方向に思考が飛びそうになって、彼は慌てて自分を引きとめた。バクバク言う心臓を抱え込み、背中を丸めて目を充血させる。
 綱吉から与えられた情報を広げ、組み合わせ、あらゆるパターンを構築して推測し、状況把握に勤しむ。
「これは、夢か?」
 独白して、念の為と頬を抓る。
「……――」
 彼は沈黙し、一瞬だけ項垂れた。そしてすぐさま気を取り直して、自分を奮い立たせた。
「なっ……この際夢だって構わねえ。だったら夢が醒めないうちに、色々とやるまでだ!」
 握り拳を作って血気盛んに叫び、意気込んで腹に力をこめる。ひとり落ち込んだかと思えば急に元気になって、実に忙しない彼を遠巻きに眺め、綱吉は小首を傾げた。
 呼びかけてよいものかどうか少し迷ってから、彼の方から振り返ったのに笑顔を浮かべる。
「ご飯だよ」
「はい!」
 温かそうな湯気を放つ皿の載った盆を高く掲げ、綱吉が獄寺に歩み寄った。その瞬間、景色が入れ替わった。
 先ほどまではリビングにいたはずなのに、いつの間にか風景が一変していた。獄寺は椅子に座って、綱吉が並べる食器をぼんやり眺めていた。
「さすが、夢」
「なーに?」
「いえ、なんでもありません、十代目」
「ほら、またぁ」
 コトン、と置かれたシチュー皿を前に行儀良くしていたら、うっかり言い慣れている呼びかけをしてしまった。
 聞き咎めた綱吉あむっとして、テーブルに身を乗り出した。ぐぐぐ、と腕を伸ばし、きょとんとしている獄寺の額をちょん、と小突く。
 ちっとも痛くもなければ恐くも無い攻撃は、たまらなく愛らしかった。
「じゅ……っ」
 感極まって目を輝かせるも、睨まれて獄寺は瞬時に萎縮して小さくなった。どうにもその呼び方が習慣づいてしまっていて、訂正するのは容易ではなかった。
 コホン、と咳払いをして椅子の上で身動ぎ、居住まいを正して構える。緊張が伝わったのか、真向かいに座った綱吉も静かになった。
「では、ええと。さわ……いや。これは違うか。んじゃ、えっと」
 過去に一度だけ使った事のある、苗字に「さん」付けをしようとして、またしても睨まれた。視線を上に逸らして誤魔化した獄寺は、あれこれと候補を頭の中に思い浮かべ、パッと浮かんだ山本の顔を急いで消した。
 常々あの男が羨ましく、そして憎らしく感じていた。腹の底に湧き起こった黒い感情をピンクで押し潰して、彼はもうひとつ、ワザとらしく咳をした。
 喉の調子を確かめて、背筋をピンと伸ばして膝を揃える。
「つ、……つ、ツナ」
「うん。ご飯食べようよ、ね。ハヤト」
「ぐはっ」
 緊張のしすぎで声が震えた。魂さえ震えた。
 満面の笑みで返されて、彼は死んでも良い、とさえ思った。
 出るわけがないのに鼻血を想定して顔の下半分を手で覆い、破裂寸前の心臓を鷲掴みにして叫びだしたい衝動を堪える。夢よ醒めるな、と強く念じて、彼はテーブルに置かれたシチュー皿に意識を集中させた。
 何故か皿は、ひとつしかなかった。
「あれ?」
 しかもスプーンも、綱吉が握るそれひとつきりだった。
 もしかせずとも、自分の食事はないのか。幸せすぎる夢の最後に待っていた世知辛い仕打ちに愕然とし、彼はがっくり肩を落とした。
 目に見えて落胆した彼を知らず、綱吉は上機嫌にシチューを掬った。ジャガイモに人参がたっぷり入った白いクリームシチューでスプーンを満たし、息を吹きかけて荒熱を取っていく。
 そして。
「ハヤト」
 項垂れている獄寺の足を蹴った。
 下から合図を送られて、彼は顔を上げた。絶望に満ちた瞳に、キラキラと輝く綱吉の笑顔が飛び込んでくる。
 差し出されたスプーンの意味を取りあぐね、彼は目を点にした。
 悪戯っぽく笑った綱吉が、可愛らしく小首を傾げた。
「ほら。あーんって、して?」
「あ、あぁ、あああ…………」
 ショックを受ける必要などなかった。訪れた至福の瞬間に、獄寺の目に涙が溢れ、そして。
 温かいシチューを貪ろうとして飛び起きて、彼はベッドから落ちた。

 ドアを開けた先に立っていた獄寺は、髪の毛はボサボサで、顔色も悪く、なんとも酷い有様だった。
「どうしたの」
「ちょっと、寝坊しまして」
 なんでも目覚まし時計が止まっていたらしく、吃驚して慌てて飛び起きて、出て来たのだという。顔を洗うのがやっとの状態で、朝食を食べる余裕も、当然ながらあるわけがなかった。
 息せき切らした彼の説明を受け、朝食の真っ最中だった綱吉は緩慢に頷いた。
 自分ならまだしも、獄寺が寝坊するなど珍しい。雨でも降るかと外の天気を気にしつつ、彼は手にした個包装のヨーグルトの蓋を引き剥がした。
 林檎の果肉が入った、デザート感覚で食べられるものだ。甘いので大のお気に入りだが、競争率が高くて油断していたら直ぐにランボたちに食べられてしまう。
 盗まれないように大事に抱えて玄関に出て来た彼に力なく微笑み、獄寺は今朝の夢を思い出してほんのり頬を染めた。
 どうにも綱吉を直視出来ない。たとえ夢の中だけとはいえ、敬愛する彼と新婚カップルになったなど。
 落ち着かない心臓を抱えて息苦しさに喘いでいたら、視線を感じた。顔を上げた獄寺の前で、綱吉はヨーグルトにスプーンを差した状態で停止していた。
「具合悪い?」
「いや、なんでもないです。大丈夫です」
「そう? あ、お腹空いてるとか?」
「ああ、はい。そうです。そうなんです」
 最早巧い言い訳すら思いつかない。しどろもどろに言い返して頷き、獄寺は薄っぺらな鞄を振り回した。
 上がり框の上で怪訝にした綱吉は、手にしたヨーグルトと挙動不審な獄寺とを見比べ、やがて盛大に溜息をついた。
 角切り林檎がたっぷりのヨーグルトをひと匙掬い、数センチ、前に出る。
「獄寺君。ほら」
 呼びかけて、腕を伸ばして。
 口を開けた綱吉にスプーンを突きつけられた彼は、何故か絶叫し、卒倒した。

2010/10/18 脱稿