「ふぁぁ、あー……」
長閑な昼下がりの部屋で、綱吉は眠そうに腕を持ち上げて欠伸をした。
軽く曲げた膝の上に置いていた漫画雑誌がすかさずページを閉じて、挙句の果てに斜面を転がり落ちていった。厚さ五センチ近くあるものだから重量もそれなりで、脚二本の細い支えだけではバランスを維持できなかったらしい。
「あちゃ」
手を伸ばして落下寸前で捕まえるものの、広げていたページは行方知れずになってしまった。
何処まで読んだか、覚えているようで実は曖昧だ。暖房なしでも過ごせる午後の陽気が災いして、半分眠りながら読んでいたからだ。
「えっと、ここ、からでいいか」
山本から借りた雑誌は、全部で五冊あった。週刊なので、約一ヶ月分に相当する。
貸してもらうのはいいのだが、ついつい他を優先させて忘れていて、明日返す約束をしていたのまですっかり失念していた。今日中に片付けなければ、読んでいない分をすっ飛ばして次が来てしまう。
「いいよなー、飲食店って」
白い歯を見せて爽やかな笑顔を振り撒く親友の顔を思い浮かべ、綱吉はいそいそと膝を寄せ、胸との間に分厚い雑誌を挟んだ。
山本の実家は寿司屋を経営している。店には彼の父親の他に、何人か従業員がいて、そのうち若い板前のひとりが、漫画好きなのだそうだ。毎週のように発刊される雑誌を購入しては山本にも貸し与え、読まなくなった分は店の片隅に置いて、客が自由に手に取れるようにしているという。
綱吉が今広げているのは、その店に置く前段階のものだ。
「……ふふ」
シュールなギャグがテンポよく飛び出す漫画に顔を綻ばせ、肩を揺らして笑う。階下で騒ぐ子供達の声も、集中している間は殆ど気にならなかった。
押し寄せていた眠気も、気がつけば遠くへ去ってしまった。
部屋は照明が点り、明るい。そんな中で手元に落ちた影に一寸気を取られて、彼は窓を覆うカーテンに目を向けた。
隙間から漏れる光がフローリングに反射して、キラキラと輝いていた。陽射しは強く、眩しい。
「どうしよっか、な」
外の明るさだけでも充分部屋を照らせる気もした。だが直射日光が強すぎるのは、却って目に良くない。
逡巡し、彼は借り物の雑誌の表面に爪を立てた。
「ん?」
外の景色は、布が遮っているので見えない。しかし何もない筈のベランダから注ぐ光の具合が、やけに薄くなったり濃くなったり、変化が激しい気がして、彼は小首を傾げた。
なにか大きいものが陽射しを遮っている。そう思っていた瞬間、ゴンッ、と硬いものがぶつかる重い音が轟いた。
「ひっ」
拳大の石でも飛んできたのか。そんなに風は強くなかったはずと、昼食を食べながら見た台所の窓の光景を振り返るが、音は立て続けに二度響いて、彼は顔を引き攣らせて息を飲んだ。
身を竦ませて小さくなり、またもや雑誌が膝を転がり落ちていくのにも構わない。ドキン、と跳ねた心臓が猛スピードで駆け出して、ぎゅうっと縮こまった胸が苦しくてならなかった。
脇を締めて頬をヒクリとさせた彼の前で、山なりのシルエットがカーテンに浮かび上がった。
「……あれ」
その形状に見覚えがある気がして、彼は萎縮していた身体を伸ばし、曲げていた膝を床に落とした。
まだ心臓は喧しいものの、耳鳴りはしなくなった。どくどく脈打っている左胸をトレーナーの上から撫でて落ち着かせ、生唾を飲み、恐る恐る立ち上がる。
想像が正しければ、窓を殴っていたのは風に飛ばされた岩などではない。
カーテンの裾を掴んでシャッ、と勢い良く左に走らせた瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは黒と白のコントラストだった。
緋色の腕章がアクセントになって、平々凡々とした外見を一段階上に引き揚げていた。どこにでもいそうなのに、並盛町にしか存在しない唯一の人物をベランダに認め、綱吉はがっくり項垂れた。
何を恐怖する必要があったのか、自分でもよく分からない。直前に読んでいた漫画がホラー物だったのが、少なからず影響したと考えられた。
「ヒバリさん」
「遅い」
「呼び鈴鳴らしてくださいよ」
だが綱吉の心境など、雲雀は一切関知しない。肩を落として溜息混じりに名前を呼んだ彼を急かし、黒い学生服を羽織った青年は、しつこく窓を叩いた。
鍵がかかり、カーテンまで閉められていたのだから、諦めて帰るか、玄関に向かうかすればいいのに。どうしてこの人は、わざわざ階段も梯子も無い二階のベランダを、直接の出入り口にしたがるのだろうか。
そちらの方が余程面倒臭いと綱吉は思うのだが、どれだけ口を酸っぱくして言い聞かせても、雲雀は耳を貸そうとしなかった。
このままではガラス窓をぶち破られかねず、綱吉は呆れ混じりに嘆息し、鍵を外してやった。
「靴は」
「どうせ汚い部屋なんだから、少しくらい良いだろう」
「悪かったですね!」
外にいた雲雀が即座に窓を左に走らせて、中に入ろうと身を乗り出す。黒のローファーが視界に入った綱吉が、先手を打とうと声をあげたが、それを遮り、雲雀は随分と失礼な事を言い放って右足を伸ばした。
胸の高さまである壁を乗り越えて、窓を潜って入って来た彼は、予想通り靴を履いたままだった。
確かに綱吉の部屋は、汚い。否定出来ない。ゴミ箱はいつも満杯で、洗濯物とそうでないものがごっちゃになってしまって判別がつかない。床の上にもゴミが散乱して、机の上には教科書とコミックスの塔が。
空のペットボトルが転がる室内を見回して、雲雀は左脚を持ち上げた。靴底が上になるよう右手で支えて、状態を確認する。
爪の先ほどもない小石が滑り止めの溝に一個紛れ込んでいる以外は、綺麗なものだった。
「ぐぅ」
見せられた綱吉は悔しげに鼻を膨らませ、奥歯を噛み締めた。
勝ち誇った顔をした雲雀が口角を歪めて笑い、手にぶら下げた袋を揺らした。
「スプーン、貸して」
「なんでですか?」
「このまま上がって良い?」
「持ってきますから、今すぐに脱いでください!」
顔の横に袋を掲げた彼に怪訝にして問い返したら、全く別の話題を振られて綱吉は憤慨した。頭から煙を吐いて怒鳴り、人を指差して踵を返す。
荒っぽい足取りで部屋を出て行った彼に目を細め、雲雀は涼しい風が吹き込む窓を静かに閉めた。
部屋の明かりが灯っているのを見てカーテンも閉めて、最後に靴を脱いで端に置く。下に敷くものを探して落ちていた紙くずを広げてみたところ、それは国語の小テストだった。
「十六点、か」
どうしてこんな簡単な問題が解けないのか、不思議でならない。赤いチェックが占拠する紙面を眺め、彼は丁寧に皺を伸ばし、四つに折り畳んでポケットに押し込んだ。
別の、保健委員からのお知らせと題されたわら半紙を見つけたのでそれの上に靴を並べ、雲雀はようやく、部屋の中央へ足を向けた。
空の菓子箱や袋が乱立するテーブルの前で立ち止まって、邪魔な物を脇に寄せてスペースを確保する。出来上がった、曲りなりにも綺麗とは言い難い空間に持って来た袋を置いたところで、半端に閉ざされていた部屋のドアが開いた。
入ってきた綱吉が若干口惜しげにしている理由を悟って、雲雀は苦笑を浮かべた。
彼の手には頼んでもいない盆が握られ、その上に湯気を立てた紅茶のカップがふたつ、仲良く並べられていた。
スプーンだけを取りに来た息子を不審に思った母親に捕まって、来客があった旨を白状させられたのだろう。不満げな表情が階下でのやり取りを想像させて、面白かった。
口元に笑みを浮かべた雲雀を睨み付け、綱吉は乱暴に運んで来た盆をテーブルに置いた。ただでさえ狭いスペースが余計に狭くなって、雲雀が置いた袋は角に追い遣られてしまった。
落ちた時の対策で手を伸ばしかけた彼は、ぐらぐらしつつも最後はバランスを保ったそれに安堵して、ドアを閉めた綱吉に座るよう促した。
「うちは喫茶店じゃないですよ」
「それに近いものじゃない」
格別な理由もなしにふらりと立ち寄っただけで、温かい紅茶が出て来る場所。そんな認識をされていそうで、綱吉は声を荒げ、仕方なく彼の斜め向かいに腰を下ろした。
さらりと言い返した雲雀は、差し出された紅茶を受け取って芳しい香りを楽しみ、口をつける事無くテーブルに戻した。
「はい」
「ありがとう」
続けて銀色のスプーンを渡されて、雲雀は簡単に礼を述べ、小ぶりな匙を引き受けた。
同時に告げられた言葉に目を瞬かせ、綱吉が呆気に取られた顔をする。失礼極まりない表情を小突いて咎めて、雲雀は袋の口を広げた。
中に入っていたものを取り出し、紛れていたレシートは握り潰して袋に戻す。直径は十センチ程度、厚みはそこそこ。店名のロゴが入った乳白色のビニール袋の中身は、おおよそ彼に相応しくないものだった。
「なんですか、それ」
「知らない?」
「いや、知ってはいます、けど」
思わず訊いてしまって、綱吉は口をもごもごさせた。
ロールケーキ、だ。それもとあるコンビニエンスストア限定で販売中の、一人前サイズで梱包されたタイプの。
名前は耳にしているし、店の前に行けば幟も出ているので嫌でも目に付く。ハルが発売開始直後に早速食べたらしく、頬が落ちそうなくらいにデリシャスだった、と言っていた。
だが、それだけだ。ただでさえ額面の少ない小遣いで日々をやりくりしている綱吉には、どれだけ美味しかろうとも、コンビニエンスストアのロールケーキひとつを買うのすら大変な勇気が要った。
よもや雲雀が、これを手にやって来るなど、夢にも思わなかった。
「好き、なんですか?」
「ん?」
「甘いもの」
「さあ。面白そうだったから」
あまり答えになっていない答えを口にして、雲雀はスプーンを置き、ロールケーキの袋を破いた。
中から取り出されたトレーの上で、クリームが揺れている。それだけで柔らかさが伝わってきて、綱吉はついつい、喉を鳴らした。
正座をして唾を飲んだ彼を盗み見て、雲雀は誰にも見付からないところでひっそりと微笑んだ。
「ああ、これは確かに、手づかみじゃ無理だね」
呟いて彼はロールケーキの外郭部分を指で小突いた。底を押して摘み上げようとするが、ちょっと力を加えるだけでも堰が決壊しそうだった。
「それで、スプーン……」
何故雲雀がスプーンを所望したのか、理由がやっと分かって綱吉は頷いた。
こんなにもクリームも、外側の生地も柔らかかったら、手掴みで食べるなど無理だ。ハルに聞いた話を思い出しつつ頷いた彼に目を細め、雲雀は匙の置き場所を紅茶のカップからロールケーキのトレーに移し変えた。
上が空いたカップを引き寄せて持ち上げ、飲みやすい温度になった紅茶をひとくち啜る。
「冷めるよ?」
「うあっ」
黙って雲雀の動きを見守っていた綱吉は、話し掛けられて目を丸くし、おっかなびっくり自分の紅茶に口をつけた。
唇を刺した熱にもドギマギさせられて、我慢して飲み込むが後が続かない。息を吹きかけてもっと冷ましつつ前を見れば、右手にスプーンを構えた雲雀が、いよいよロールケーキに手を出そうとしていた。
思わず目で追いかけてしまって、気付いた雲雀に笑われた。
「欲しいの?」
「べ、別に。そんな、ことは」
「ホントに?」
「うぅ。……ちょっと、食べたい。です」
楽しげに訊かれて、意地を張ってみるが痩せ我慢は直ぐに見抜かれてしまった。
どうせ雲雀は、全部お見通しなのだ。ならばさっさと白旗を振ってしまうに限って、綱吉はしょぼくれつつ頷き、両手で抱いたカップをテーブルに戻した。
もじもじしていたら、雲雀が真っ白いクリームをサッとスプーンで掬い上げた。
「あ」
「ほら」
「えっ」
「あーん、ってして?」
下向いた綱吉の視線が、瞬きひとつで正面に転じた。
ぷるぷるのクリームを間に挟み、雲雀がなんとも楽しげで、それでいて意地悪い顔をして笑っていた。
「え? ええ、って」
「ほら」
絶句し、唖然となる綱吉を急かして、雲雀がスプーンを突き出してくる。このままでは強引に捻じ込んで来かねず、綱吉は座ったまま首を後ろに倒し、背を反らした。
距離を取った彼にむっとして、雲雀は腕を真っ直ぐに伸ばした。
「いや、あの」
「欲しいんじゃなかったの?」
せめてスプーンごと渡してくれたなら、綱吉は素直に受け取っていた。だが雲雀は、是が非でもこの状況で食べさせたいらしい。
ラブラブのカップルならば分からないでもないが、よもや泣く子も黙る風紀委員長殿がそんな事をやりたがるなど、誰が予想出来ただろう。目を白黒させて頬を引き攣らせた綱吉を睨み、雲雀は無言の圧力で口をあけるよう強要した。
一気に悪くなった空気に冷たい汗を流し、綱吉はぎゅっと拳を握り締めて覚悟を決めた。
「あ、あー……」
恐る恐る顔の筋肉を一部緩め、口を開いて首を前に戻す。途端に迫力満点のどす黒いオーラが消えて、雲雀はたっぷりのクリームごとスプーンを斜め下に向けた。
垂れ落ちる寸前のそれを舌で受け止めて、綱吉は唇を閉ざした。
「ン」
隙間から息を吐き、冷たいスプーンを押し返す。雲雀は黙ったまま、ゆっくり手を動かした。
スプーンが引き抜かれて、口の中が自由を取り戻した。じんわり熱を受けて広がっていくクリームが、なんとも言えない甘味と感触を綱吉に伝えた。
「あ、美味しい」
一気に飲み込んで、ぽつりと感想を零す。あっさり出て来た一言に自分でも吃驚して、綱吉は目を丸くした。
「そう?」
「はい。へえ、なんか不思議な感じ」
唇に残っていたクリームを指で拭い、それも舐めた綱吉を見て、雲雀は銀の匙を手元のトレーに戻した。クリームも殆どついていない、皮の部分をほんの一寸だけ削って、口へ持って行く。
今し方咥内に入れたばかりのものを彼が咥える、というのがなんとも気恥ずかしくて、綱吉は耐えられずに下を向いた。
「もう少し食べる?」
「良いんですか?」
そこへすかさず訊かれて、彼は顔を上げた。右の頬をもごもごさせた雲雀が黙って頷いたので、綱吉はちょっと迷い、恐々首肯した。
ハルの言っていた通り、美味しい。彼女が感動のあまり部屋で小躍りした、というのも分かる気がした。
目を細めた雲雀が、たっぷりのクリームを掬って腕を伸ばした。またか、と思いつつも最初の時ほどの逡巡はなく、綱吉は両手をテーブルの縁に置き、首を前に出した。
「あー、ん」
恥ずかしい、という感情と、美味しいものを食べたいという欲求は、後者の勝利で幕を閉じた。回数を重ねるうちに段々感覚も麻痺して行って、最終的に綱吉は、雲雀が問う前に口を開けて待つようになっていた。
まるで餌を待つ鳥の雛だ。ふわふわの髪の毛を揺らして嬉しそうにしている彼を眺め、雲雀はこっそり思った。
「これで最後だよ」
囁いて、透明なトレーからこそぎ取ったクリームを、残っていたスポンジの欠片に塗して差し出す。綱吉は何の疑いもなく舌を伸ばし、スプーンから甘いケーキを攫っていった。
爪の先ほども残すものかと綺麗に舐めて、食器だけを雲雀に返却する。食い意地の張った彼の、とても満足げな笑顔に肩を竦め、雲雀は一寸だけこびり付いていたクリームを匙から拾い上げた。
結局プレートにあったロールケーキの、九割方を綱吉がひとりで平らげた。雲雀は端のスポンジ部分を少しだけ齧った程度で、ケーキが売りにしていた真ん中のクリーム部分は、全部綱吉の胃袋に収まった。
「あー、美味しかった」
幸せそうな表情がその事実に気付いている様子はない。すっかり冷めた紅茶を飲み干して、雲雀は用済みとなったトレーをコンビニエンスストアの袋に放り込んだ。
満腹だと腹を撫でている綱吉を他所に立ち上がり、座っているうちにずり落ちてしまった学生服を肩に羽織る。
「あれ?」
「紅茶、ご馳走様」
「あ、はい。有難う御座いました」
帰り支度を始めた彼にきょとんとした綱吉が小首を傾げる中、雲雀は有無を言わせぬ雰囲気でゴミの入った袋を揺らし、ふたりで使ったスプーンを空のカップに滑らせた。
カラカラと音を立てて回るそれに気を取られ、綱吉は返事が一瞬遅れた。
カーテンを引いた雲雀が、靴を持って窓を開けた。腕を伸ばしてベランダに置いてから、姿勢を戻して右足を高く掲げる。
「ヒバリさん」
「また来るよ」
テーブルの前で膝立ちになった綱吉に目配せして、彼はあっという間に窓辺から姿を消してしまった。慌てて立ち上がって駆け寄るものの、何処にも彼がいた形跡は見つけられなかった。
風のようにやってきて、風のように去ってしまった。
「なにしにきたんだろ」
最後まで彼が此処に来た理由は分からなかった。首を捻った彼は何気なく唇に指をやって、眩いばかりの青空を見上げた。
「ん?」
本気で茶を一杯馳走になりにきただけかと肩を竦めかけて、ようやく気付く。
しっとり濡れた唇をなぞると、ほんのりと甘い香りが漂った。
「あれ……?」
雲雀が嬉しそうにスプーンを動かす光景と、減って行く一方のロールケーキのクリーム。両者を交互に思い浮かべて、彼は後からやってきた羞恥心に耳まで真っ赤になった。
2010/10/18 脱稿