不完全なふたり

 水底から見上げた空は、きらきらと輝いていた。
 波に反射する陽光は星の瞬きのようで、ゆらゆら泳ぐ水面の波紋はオーロラの如き美しさだった。
 一面の青。
 自分は今、青に包まれている。
 そう、思った。
 そう思えた。
 このまま溺れ続けても良いと思えるくらいに、青は美しく澄み渡っていた。

 終業のチャイムが鳴った。怠さを覚える腕を伸ばし、タクトは椅子の上で背筋を逸らした。
「んー……」
 凝り固まっていた関節がポキリと良い音を響かせた。ついでに肩を回し、首を左右に振って筋肉を解してから、通学鞄へと手を伸ばす。
 気の早い生徒はもう帰り支度を済ませ、そそくさと扉を潜って帰路についていた。他にも部活に向かう生徒に、雑談に興じる生徒とで、教室は雑多に賑わっていた。
 窓から注ぐ陽光は眩しく、直射日光は熱いくらいだ。ベランダからの照り返しを手で遮って、彼は椅子を引いて立ち上がった。
 演劇部の練習は、今日はない。自主練習は課されているが、次の公演の演目もまだ決まっていない状態なので、部全体の士気もいまいち上がらないのが実情だ。
 人数が増えた分、演じられる劇の幅も広がったと部長であるサリナは言っていた。どんな台本が用意されるのかはまだ秘密だとかで、楽しみに思うと同時に不安にもなる。
 きっとこのままでは、自分は演者としての仮面を被る前に、ツナシ・タクトという存在さえ演じられなくなってしまう。
「……ん」
 ネクタイに指を入れて曲がっていたのを真っ直ぐに正し、襟の内側に隠れている喉仏を軽く撫でる。
 教室はいつの間にか人が減って、随分と静かになっていた。
 前を見れば、ケイトの姿はもうない。彼女はクラス委員長であると同時に化学実験部の部長でもあるので、なにかと忙しいのだろう。そして後ろの席のカナコも、付き人のふたりを連れて早々に教室を後にしていた。
 ワコは、と通路側に目をやれば、彼女は親友であるルリとお喋りに興じていた。
 楽しそうな横顔を眺めていると、視線を感じたらしく、ワコが顔を上げた。タクトの存在を思い出して、肩の辺りで小さく手を振った。
「タクト君」
「ねえねえ、なんの話?」
「商店街のお店に、可愛い小物が沢山入荷されたんだって」
「へえー?」
「行く?」
「僕に似合うものも置いてあるの?」
「それは、うーん。どうかなー?」
 机の隙間を移動しながら話しかけると、彼女はルリと顔を見合わせて笑った。
 恐らくふたりの脳裏には、煌びやかなアクセサリーで着飾った自分の姿が浮かび上がっているに違いない。あまり嬉しくない想像に苦笑して、タクトは肩に担いだ鞄で自分の背中を叩いた。
 買い物への同行は辞退して、仲良しふたり組が出て行くのを見送る。西に傾きつつあるとはいえ太陽はまだまだ明るく、水平線にくちづけるには早い。
 海と空の境界線に目を眇め、タクトは最後まで教室に居残っていた人物を振り返った。
「スガタ」
 廊下側の最後尾の席で、なにかの本を広げている。濃い緑色をした表紙の文字は、タクトの位置からでは見えなかった。
 ぺらり、と紙を捲ろうとしていた手が止まった。伏していた瞳が瞬きの間に上方を向いた。窺う視線は、慎重だった。
「帰らないの?」
「まだ、良い」
「そっか」
 小首を傾げて問うたタクトに、彼は再び手元に目を伏して言った。今度こそページを捲って、文面に没頭してしまう。
 そのあまりにもわざとらしい避け方に苦笑して、タクトは肩を竦めた。
 こうも露骨だと、いっそ清々しい。そのくせ人の事を気にして、すぐに帰ろうとしなかった。
 気付かれていないとでも思っているのだろうか、彼は。
「ねえ。今日、暇?」
 鞄を下ろし、両手を腰に当てて更に訊く。ページが戻らないように紙面を押さえていた手が、ピクリと震えた。
 恐々とまではいかないものの、訝しむ目がタクトを射た。にこやかに微笑み返してやるが、表情は少しぎこちなかったかもしれない。緊張するなどガラではないと分かっているのに、どうしようもなかった。
 内心の焦りと動揺を悟られないようにしながら、タクトは返事を待った。
 同じような感情を胸に抱いて、スガタは数秒間、無言で赤髪の少年を見詰めた。
 口を開いて、声を発しようとしたところで、自分が何を言おうとしていたのかが分からないことに気付く。間抜け面を晒してしまい、急ぎ口元に手をやって、彼はハードカバーの本を閉じた。
「なんだ?」
 栞すら挟まなかった。冷静さを欠いた、おおよそ彼らしくない仕草にタクトは目を細めた。
 だが、彼らしい、というのは具体的にどういう事を指すのだろう。
 タクトが知らないだけで、素のスガタはもっとそそっかしいのかもしれない。感情を制御して、多くを人に見せないようにしているだけで、本当のシンドウ・スガタとは、タクトが思う人物像とは正反対の可能性だって充分あった。
 自分が本当の自分を未だ曝け出していないのと同じように。
「もっと、見せろよ」
 誰にも聞こえないようにボソリと言って、タクトは彼の方へ一歩踏み出した。座ったままのスガタを見下ろして、鞄の持ち手をぎゅっと握り締める。
 そう緊張しなければならないシーンでもないのに、顔が強張るのを止められなかった。
「あのさ」
「どうした?」
「ちょっと、時間。いいかな」
 時計を巻いてもいない腕を指差して、タクトがやや硬い声で告げる。スガタは一瞬だけ目を見開いて、閉じた本の表紙を指でなぞった。
 箔押しされたタイトルを爪で削って、逡巡を表す。返事を待つ時間が、タクトには恐ろしく長く感じられた。
 ものの数秒しか過ぎていないだろうに、息が切れて汗が伝った。心臓は破れそうに痛み、身体の末端は冷えて凍りついた。酸素不足を訴えた脳は機能を一時的に停止させて、目の前は真っ白になった。
 は、と短く息を吐き、スガタは首を小さく、縦に振った。
「ああ」
 なんとも素っ気無い、淡白な回答。だが救われた気分になって、タクトは四肢に張り巡らせていた強張りを解いた。
 握っていた拳が汗をかいて湿っている。指先の滑りをズボンに押し付けて、は不自然にならぬよう注意しながら微笑んだ。
「用件は、なんだ?」
「あ。えっと、……場所変えて良い?」
 本に手を添えて話を聞く体勢に入ったスガタに、タクトは慌てて言い足した。廊下から、女子の姦しい声が響いてきていた。
 通り過ぎて行く他クラスの生徒を開けっ放しの扉越しに眺める彼に、スガタは緩慢に頷いた。本を鞄に押し込み、帰り支度を終わらせて席を立つ。
 願いが聞き入れられたのに安堵して、タクトは鞄を揺らした。
「タクト」
「うん」
 さっさと真後ろの扉まで移動を果たしたスガタに急かされて、彼はレールを跨いだ。人気が途絶えた廊下は静かな分、空気も冷えていて、昼間の賑やかな学校とは別世界に感じられた。
 鏡の向こう側の、なにもかもが逆さまになった不思議な世界。
 そんな馬鹿な想像を巡らせて、タクトは前を行く背中を追いかけた。
「何処へ行くんだ?」
「ん。そう、……だな」
 その足取りが、階段を前にして止まった。肩越しに振り返ったスガタの問いかけに、そこまで考えていなかったタクトは眉間に皺を寄せて考え込んだ。
 出来るなら人が来ないところ、そして静かな場所。
 思いつく先は、ひとつしかなかった。
 唯一の懸念だったサリナも、今日は部室で自主練習を行っていなかった。南十字学園の片隅、時から忘れ去られたようにして建つ旧校舎の二階は少し埃っぽい空気に満たされ、静謐の中に存在していた。
 木製の引き戸を開けて中に入ったタクトに続き、スガタも敷居を跨いだ。大道具が所狭しと並べられ、人がひとり通るのがやっとの通路を抜けて奥へと。そこには小さな、本当に小さな舞台が据えられていた。
 もっとも、小さいとはいえ設備は本格的だ。真向かいには鑑賞者用のベンチが置かれており、フランス窓の格子の影が床に、斜めに伸びていた。
 誰も居ないのを確かめて、タクトはホッと胸を撫で下ろした。
「それで?」
 戸を閉めたスガタが、舞台のほぼ正面に立っている少年に呼びかけた。タクトは肩から鞄を下ろすと照れ臭そうに微笑み、スガタに席を勧めた。
 自分の鞄は舞台袖に置いて、両手の指を絡めて腕を伸ばす。ぐーっと背筋を反らした彼に怪訝にしながら、スガタは言われた通り、指定席となっている背凭れのない木製のベンチに腰を下ろした。
 鞄を足元において、膝を肩幅より少し狭いくらいに広げて、間に両手を垂らす。やや前屈みの姿勢を作った彼は、落ち着かない様子で柔軟運動を続けている少年に首を傾げた。
「タクト?」
「ん」
「用は、なんだ」
 ここまで連れて来ておいて、まだはぐらかすつもりなのか。
 僅かに怒気を孕んだスガタの声にピタリと動きを止めて、タクトは頭上へ伸ばした右腕に左手を引っ掛けた状態で振り返った。
 肘を掴んでいた指を解き、両腕を脇に垂らす。喉の調子を確かめるが如く二度ばかり咳払いして、ジャケットの裾を握り締める。
「その」
「タクト」
「確かめたいことが、あるんだ」
「確かめる?」
「……そう」
 あの日から、ふたりきりになる機会は減った。あっても屋外で、常に人の目に晒される場所でのことだった。
 人も滅多に来ない旧校舎の、ましてや演劇部が部室として使用している部屋に、好き好んで足を向ける生徒はゼロに等しい。
 否応無しに緊張させられて、同じくらい恐怖を抱いて、スガタは首肯したタクトを穴が開くほどに見詰めた。
 何を考えている。なにを企んでいる。
 思いを巡らし、想像するけれど、ろくな回答は得られない。嫌な結論ばかりが頭を埋め尽くす。もう近付くなだとか、話しかけるなだとか。そんなネガティブな発想しか出て来ない。
 知れず唇を噛んだ彼を見詰め返して、タクトは深く息を吸った。
 不思議そうにしているスガタに向かって吐き出して、肩の力を抜いて左胸に手を添える。ドクドク言うのを指の腹で受け止めて、乾いてならない咥内に何度も唾を呼び寄せる。
 唇を舐めた彼に眉を寄せ、スガタは立ち上がろうとした。
「座ってて。あと、出来れば目、閉じてて」
 それを手と声で制し、タクトは早口に言った。
「目?」
「うん」
 妙な事を言われ、スガタは顔を顰めた。口をヘの字に曲げて、疑いの眼差しをタクトに投げる。
 だが彼は撤回せず、スガタが応じてくれるのを静かに待った。
 不安定に揺れる眼は、その実真っ直ぐで芯はぶれない。燃えるような炎の色をした瞳に白旗を振って、スガタは彼の願いを受け入れた。ゆっくりと瞼を閉ざし、顎を引いて背筋を伸ばす。
 両膝に緩く握った拳を添えて、行儀良く座った彼を見下ろし、タクトは息を呑んだ。
 凛として咲く、一輪の花。決して華美ではないけれど、密やかな美しさを見る側に与え、他を圧倒する。
 最初は百合かと思った。だが違う。彼はそこまで可憐で、しとやかではない。
「嗚呼」
 菖蒲だ。
 五月の頃に咲く、青紫の花。控えめながら凛として咲き、見た目の美しさに反して毒がある。
 棘はないので安全だと騙されて、迂闊に触れれば怪我をする。しかしその姿に見せられて、手を伸ばさずにはいられない。
 感嘆の息を漏らした彼の前で、雄々しき花に譬えられた青年は僅かに身じろいだ。目を閉じたままじっとしているというのは、思いの外精神力を消費する。眠っている時とは違い、意識は常に其処にある。次の瞬間何が起こるか分からない恐怖を感じながら暗闇と接し続けるのは、辛い。
 一秒がその倍に、十秒がその十倍にも感じられた。
 待っているのに、タクトは動かない。もう良い、の合図はまだだが、目を開けたい衝動に駆られた。
「タクト」
 焦れて、名を呼ぶ。目は閉じたまま顔を上げた彼の前方で、タクトがびくりとする気配が感じられた。
 錯覚かもしれない。瞼を下ろしているスガタには確かめようが無かった。
「タクト?」
「なな、なんでもない!」
 やけに上擦った声で叫ぶように言われて、彼は首を傾げた。いよいよ目を開きたい誘惑に駆られるが、ここで約束を破ったら、この先ずっとタクトに口を利いてもらえないような気がした。
 だからぐっと堪えて、腹に力を込める。拳を硬くした彼を見下ろして、タクトはこめかみを撫でた汗を拭った。
 作り物めいた綺麗な顔にうっかり見入ってしまった。
 油断すると心臓が飛び出して行きそうだ。左胸に両手を当てて押さえ込んで、彼は柳眉を顰めてはいるけれど、しっかりと目は閉じたままでいるスガタを見詰めた。
 形良く引き結ばれた唇に、目が吸い寄せられる。
 この唇が動いて、自分の名を呼ぶのだ。そう考えると勝手に顔が熱くなって、胸の奥がざわめいた。
「もう良いか?」
「待って。まだ」
 いつまで待てばいいのか分からなくて、スガタは尚もせっついた。彼には見えていないのに手と首を同時に振って風を起こし、タクトは深呼吸を五回も繰り返した。
 怪訝にしていても、スガタの表情は凛々しい。
 女子が騒ぐのも無理はない。嫌味のない性格は、男子からも慕われている。教員からの信頼も厚く、地域から寄せられる期待も大きい。
 シンドウ家の跡継ぎとして育てられた彼に、目に見えた欠点はないように思われた。
「……」
 タクトは視線を伏した。足元を睨んで、もう一度深く息を吸い、吐く。
 足を前に出すと、体重を受けた床板がキィ、と軋んだ音を立てた。本校舎とは違い、木造の旧校舎はあちこち傷んでいる。強い風が吹けば窓枠はカタカタ揺れて、走ればドタドタと足音も五月蝿い。
 だから人が来たら直ぐに分かる。
 タクトが動いたことは、スガタも直ぐに気がついた。
「タクト」
「じっとしてて」
 目は閉じたまま首を揺らし、気配で居場所を探ろうとしている彼に短く頼み込む。それでスガタはピタリと動かなくなった。
 几帳面で、律儀で、真摯で、優しい。
 大勢の人が彼をそう思っている。だけれどタクトはそうではない彼を、ほんの少しだけ、知っている。
 横暴で、我が儘で、傲慢で、思い込みが激しくて、意地っ張りな、――臆病者。
 タクトはそんな彼の半歩手前で両足を揃えた。軽く膝を曲げ、両手を添える。中腰に屈んで、行儀良くしているスガタに顔をゆっくり近づける。
 息は殺したつもりだったが、僅かに漏れた鼻息が彼の肌を掠めた。浴びせられた熱風に反応し、スガタは顔を上げた。
「タクト」
 其処に居るのかと、幾らかトーンが高くなった声が問うた。だが返事はせず、タクトは彼が諦めて口を閉ざすのを辛抱強く待った。
 咥内が乾く。どくん、とひと際強く胸が鳴る。
 爆発しそうに心臓が膨らむ。縮む。また膨らむ、を繰り返す。
 汗が滴り落ちた。鼻腔を通って喉に至る酸素が、焼け焦げそうなくらいに熱かった。
「スガタ」
 確かめたいと思った。
 自分が彼をどう思っているのかを。
 そして彼が、自分をどうしたいのかを。
 静かに目を閉じる。意を決し、タクトは今よりももっと前に首を倒した。
 吐息が唇を掠めた。迫り来る濃密な気配に、スガタの眉がピクリと跳ねた。
「……ン」
 ち、と触れ合った、なにか。
 刹那、彼は反射的にそこにあったものを突き飛ばしていた。
「うわあっ」
 悲鳴をあげてタクトがたたらを踏み、片足立ちでふらついて派手に尻餅をついた。床よりも高くなっている舞台の縁にぶつけたらしく、なんとも痛そうに顔を歪めて奥歯を噛み締めている。
 出した両腕をそのままに、ベンチから腰を浮かせたスガタは、ハッとして少し赤くなっている自分の掌を食い入るように見詰めた。
 それから蹲っている少年を見て、最後に震える指で、同じく震えている己の唇をなぞった。
 今確かに、此処になにかが触れた。
 手や、指といった類のものではなかった。もっと柔らかくて、温かくて、微かに湿り、ほんのりと甘い匂いがした。
「いって、て……」
「タクト」
「酷いな、スガタ。いきなり突き飛ばすとか、ないだろ」
「そうじゃない」
 強かと打った臀部を慰め、タクトは床に膝を着いた。腰を浮かせ、首を振って恨み言を口にする。
 スガタもまた首を横に振り、どういえばいいのか分からぬまま両手を忙しなく動かした。
 握って拳にしたかと思えば、次の瞬間にはもう広げて太腿を叩いている。ズボンの皺を潰し、ポケットの縁を意味もなくなぞって、叩き、またぎゅっと握り締める。
 あの時スガタは微動だにしなかった。地震も起きていない。動いていたのはタクトひとりだ。
 目にするのが叶わなかった情景を思い浮かべ、知れず顔が赤くなった。手の甲で頬を擦った彼の動転ぶりを知り、タクトは痛む尻を撫でつつ立ち上がった。
 途中で一度膝が折れ、倒れそうになった。スガタが咄嗟に腕を伸ばして、届かない距離と知り右手を宙に泳がせた。
 自力で体勢を維持したタクトにばつが悪い顔をして、目を逸らす。
「お前は、分かっているのか」
 早口の声は上擦り、掠れていた。
 いつもハキハキと喋る彼からは想像がつかないくらいに、動揺がはっきりと現れている。口元を覆い隠す手は細かく震え、さっきまで赤かった顔は、今は青褪めていた。
「分かってる」
 主語もなにもない質問の意味を理解して、タクトは制服の汚れを払いながら言った。良く通るはっきりとした声に、スガタの目が大きく見開かれる。
 分かっていて、やった。
 試してみたかったから。
 確かめたかったから、行動に出た。
「分かってるよ、スガタ」
「分かっていない。お前は、なにも!」
 腕を真横に薙ぎ払い、疾風を巻き起こしてスガタが叫んだ。あまりの気迫に気圧されて、タクトが言葉を喉に詰まらせた。
 瞠目した少年を憎々しげに睨み、やがて表情を歪め、スガタは項垂れて右手で頭を抱え込んだ。
「どうして分かってくれない」
「スガタ」
「僕がお前をどう思っているか、……知らないわけじゃないだろう」
 忘れろと言われても叶わなかった過去を呼び起こし、タクトは肩を震わせた。
 怒りか、哀しみか、或いは嘆きを伴う声色に魂が萎縮していた。瞬きを忘れてスガタに見入り、彼は臆したがる心を鼓舞して奥歯を噛み締めた。
「知ってる」
 はっ、と息を吐く。右手で左腕を抱いた彼を盗み見て、スガタは自嘲気味に笑った。
「僕をからかって、楽しいか」
 吐き捨てるように告げられて、他所を向いていたタクトは目を瞬いた。急ぎ彼を振り返って、唇を戦慄かせる。泣きそうに歪んだ大きな瞳を射抜き、スガタは腹立ち紛れに舌打ちした。
 思いを寄せる相手に好意的に接せられて、嬉しくないわけがない。
 だのに今は浮かれる気になれなかった。こんな事をされても、遊ばれて、弄ばれているとしか思えない。
「答えろ、タクト」
 振り抜かれた指先から風が起こり、タクトの頬を叩いた。冷たい汗を流し、彼ははたと我に返って早口で言った。
「ち、ちがう」
「なにがだ。なにが違うと言うんだ」
「確かめたかったんだ。僕が、お前を」
 首を横に振り、必死の眼差しを投げて胸を叩く。訴えるのに届かないのがもどかしくて、彼は開いてしまった距離を詰めた。
 スガタが下がる。膝の裏がベンチに当たって、そのベンチが後ろにあったベニヤ板にぶつかって、ガタガタ音を立てた。
 眉を顰め、彼は訝しげにタクトを見た。
「お前が、僕を?」
 斜めに崩れた姿勢を真っ直ぐに正したスガタに見詰められて、タクトは少しだけ躊躇した。言いたい事は沢山あるのに、肝心の時に限って言葉が出てこない。
 足りない語彙に苛立って唇を噛み、制服の上から胸のシルシをかき回す。ネクタイをぐちゃぐちゃにした彼を見据え、スガタはもう乾いてしまった唇にそっと触れた。
 彼の行動を咎めておきながら、あの一瞬の感触を思い出そうと躍起になっている自分がいた。
 忘れたくない。消してしまいたくない。
 今だって無防備に佇むタクトを抱き締めて、押し倒して、その唇を貪って、食らいつくしてやりたくて仕方が無かった。
 閉じ込めていた醜い激情が顔を出す。檻の鍵は脆い。いつ壊れてもおかしくなかった。
「タクト」
 強い語気で名を呼ばれ、彼は弾かれたように顔を上げた。戸惑いを表に出し、今にも泣きそうにして大粒の瞳を曇らせる。
 可哀想なその表情がたまらなく愛おしい。挑発したのは彼だと、その事実を免罪符にして、掻き抱いてやりたくてならなかった。
 無意識に手が伸びる。空を掻いた指が触れそうになって、タクトは顔を青くして飛び退いた。
 床を蹴る足音で我に返り、スガタは空っぽの手に蒼白になった。
「くっ」
 主の願いに反し獲物を求めて足掻く手を引きずり戻し、胸に閉じ込める。
 こんな風にタクトを怯えさせたくないから、想いに蓋をして鍵を掛けたのに。
「僕が」
 苦渋に満ちた表情を浮かべたスガタを見て、タクトは後ろに引いた足を戻した。肩で息をして、胸の中に渦巻く様々な感情のうち、もっとも大きなものを掴み取る。
 脳裏に蘇るのは、これまでの日々。
 そして教室で見つけた、ひとつの答え。
「僕が教室で言ったことは、嘘じゃない」
「……タクト?」
 荒い息を吐いて告げた彼に眉を寄せ、スガタは口を尖らせた。何のことだか直ぐには理解出来ず、記憶を辿って今日の一時間目を思い出す。
 人妻女子高生のワタナベ・カナコから誘惑を受けたタクトは、のらりくらりと躱すのではなく、彼女の行動に疑問を呈した。自分なりの恋愛論を述べて、教室中の生徒から笑われた。
 純真無垢な、恋に恋する乙女のような思考だった。
 だけれどあれが、今のタクトに出せる答えだった。
 嘘偽りのない、飾らない本当の気持ちだった。
 好きでもない相手に、キスなど出来ない。たとえガラス越しの、実際に触れるわけではないキスだとしても。
 その先にいる人が想い人でなければ、出来ない。
 したくない。
「……っ」
 ぶるりと震えがきて、スガタは限界まで目を見開いた。
 言葉を失い立ち尽くす彼の前で身を捩り、タクトは緋色の前髪をくしゃりと握り潰した。
 柔らかな感触が微かに残る唇を撫でたスガタは、無意識に前に出ようとして慌てて飛び退いた。またベンチに脛をぶつけて、痛そうな音を響かせる。
「だが、お前は」
 声が震えるのを止められない。
 掠れ声で呟いた彼の瞼の裏に、好きだと告げた翌日のタクトが現れた。
 顔を合わせた途端に逃げ出して、態度は一気に余所余所しくなった。同じ教室にいるのも嫌なのか授業をボイコットして戻ってこず、昼休みもひとり何処かへ行ってしまった。そして放課後になるまで帰って来なかった。
 あそこまで露骨に避けられると、流石のスガタも傷つく。触れようとして怯えられた記憶は、まだ新しい。
 骨が軋むくらいに手を握り締めて、彼はそれで腿を殴った。
 あんな思いは二度と御免だった。タクトから敬遠されて、疎遠になるくらいなら、この感情を殺すくらいなんてことはない。それくらいに悩み、迷い、考え抜いて結論を下したのに。
 タクトは悉く、彼の努力を無駄にする。
 弾けてしまいそうな思いを必死に堰き止めて、スガタは奥歯を噛み締めた。
「お前は、僕が」
「好きだよ」
「嘘をつくな!」
「嘘じゃない。あの時は、まだ、分からなかったけど」
 さらりと、呆気ないほど簡単に思いは言葉として溢れた。
 驚くほどに、告げるのに抵抗を覚えなかった。
 タクトはそんな自分に苦笑して、肩を竦めて笑った。スガタは戸惑いを顔に出して目を見張り、喉の奥で呻いた後、頬や額をがむしゃらに引っ掻き回した。
 爪が皮膚を抉り、赤い筋が走る。痛そうで、止めさせるべくタクトは手を伸ばした。
「お前は僕が、恐かったんじゃないのか」
 差し伸べられた手を、けれどスガタは拒んだ。上擦った声に目を丸くして、タクトは嗚呼、と肩を竦めた。
「そんな事、僕、いつ言ったの?」
「タクト……」
「言ってないよ、スガタ。お前のこと嫌いだって、僕は一度だって言ってない」
 苦笑と共に告げられて、スガタは目を見張った。
 確かに、彼の言う通りだった。
 告白翌日のタクトの反応と態度を前にして、スガタはショックを受けた。自分の気持ちを否定されて、哀しくなった。
 同時に、同性から好意を寄せられることへの嫌悪感を考えて、タクトに申し訳ないとさえ思った。
 嫌われて、忌避されるくらいならばこれまで通り、一介の友人として接する努力をしよう。この感情を持ち続けて傍に居られなくなるのと、きっぱり諦めて隣に居続けられるのとどちらが良いか。
 天秤を揺らして、誰にも相談せずにひとり結論づけた。
 決断を急いだのは、あまりにも長く有耶無耶なままでいると傷が深くなると、そう考えたから。
 こうするのが自分にも、タクトにも一番良いと判断した。全ては、よかれと思っての行動だった。
 一方的に感情を押し付けて、一方的に取り下げたことに対し、タクトがどう感じるかについては、殆ど意識しなかった。気にも留めなかった。
 自分ばかりを優先して、自分を守ろうと先走った。
「言ってない。訊いてもくれなかった。勝手に決めるなよ、スガタ」
 一瞬、タクトの顔が泣きそうに歪んだ。堪えて、鼻を啜って唇を噛み締める。嗚咽を漏らして俯き、彼は首を振った。
 床を蹴り、拳を振り翳す。空を殴り、叫ぶ。
「僕の気持ちを、お前が決めるな!」
「っ!」
 浴びせられた罵声にビクリとして、スガタは四肢を硬直させた。
 瞠目した彼に向けて荒い息を吐き、肩を上下させ、タクトは元から乱れていた髪の毛を更にぐちゃぐちゃに掻き回した。何本か引き千切られて、細い赤い糸が床に散らばった。
 西日を浴びた床の木目が眩しい。窓枠の影が踊り、空中を漂う埃がきらきらと輝いていた。
 唾を飲み、タクトはスッと背筋を伸ばした。正面にスガタを置いて、真っ直ぐな眼差しで見詰める。
「ちゃんと、聞いて欲しい。言わせて欲しい。言われっ放しは、性に合わない」
「タクト」
「スガタは、まだ。僕のこと……好き?」
 最初こそ威勢が良かったのに、タクトの声は次第に尻すぼみに小さくなっていった。最後は恐々と、怯える仔犬のような目をして問いかけられて、惚けていたスガタはハッと我に返り、忙しく瞬きを繰り返した。
 音立てて唾を飲み、カラカラに干乾びていた咥内を潤す。はっ、と口を開いて息を吐くと、長く狭い場所に閉じ込めていた色々なものが一気に溢れていきそうになって、慌てて表情を引き締める。
 気の抜けた顔と真剣な顔を交互に繰り返す彼に、タクトは控えめに笑った。
 それだけで場の空気がパッと明るく、華やかになった気がした。爽やかで優しい雰囲気に包まれて、心が和らぐ。
 目を細め、スガタは手を伸ばそうとした。タクトは逃げずに、待った。
 だが彼の手は触れてこなかった。
「……いや、ダメだ」
 そう言ってスガタは拳を作り、己の胸元に押し当てた。顔を背け、苦渋に満ちた表情をして感情を押し殺す。
 彼の立っている場所に陽は射さない。薄暗い中に佇む彼は、闇を背負っている風にも見えた。
「スガタ!」
 何を躊躇しているのか、タクトには分からなかった。声を荒げ、叫ぶ。自分から彼に掴みかかろうとして腕を伸ばして、逆にその手を絡め取られた。
「わっ」
 肘を捻られ、肩が捩じれた。関節に負荷がかかり、不自然な方向に曲がった腕を修正しようと身体が勝手に動く。右腕に意識が集中している彼を嘲笑い、スガタは素早くタクトの足を払った。
 一気にバランスを崩され、気がつけば緋の瞳は天井を映し出していた。
「いで!」
 遅れてやって来た衝撃と痛みに顔を顰め、悲鳴をあげて目を閉じる。今度は背骨に、舞台の段差が当たった。
 腰から下は床に、上半身はステージ上に。受身さえ取れず、激痛を耐えて悶絶している彼を見下ろして、スガタは掴んだままの彼の手を床に押し当てた。
 片腕でタクトを舞台に縫い付けて、膝を曲げて身を屈める。鼻先を掠めた吐息に気付き、苦悶の表情を浮かべていたタクトは薄目を開いた。
 自然と浮いた涙に潤んだ瞳で、己に影を落とす存在を仰ぐ。いつの間にかスガタはタクトに覆い被さる格好で、投げ出された足の間に潜り込んでいた。
「スガ……っ」
「お前は、分かっていない」
「分かってないのは、スガタの方だろ」
 どうしてそこまで意地を張るのか、タクトには理解し難かった。
 こちらが好きだと言っているのだから、素直に認めれば良い。自分が彼を受け入れたように、自分も彼に受け入れて欲しいのに、願いは未だ叶わない。
 一方通行が哀しすぎて、彼は鼻を愚図らせた。
 憎まれ口を叩く表情さえ可愛く見えて、スガタは目がどうかしてしまったかと苦笑した。
「僕はお前に、触れたいんだ」
「スガタ?」
 苦しげに告げて、睫をふるりと震わせる。彼は言葉を紡ぎながら、タクトの腕を解放した。
 圧迫感が緩んで、タクトは目を瞬いた。そして恐る恐る頬に触れてきた指先に、緊張を露わにした。
 ピクリと震えて、直ぐに息を吐いて強張りを解く。恐いわけではないと知って欲しくて、自分からも彼の手に手を重ねた。
 もう二度と誤解されたくない。強い決意を緋色の眼から感じ取って、スガタは指先をぎゅっと握ってくるタクトに相好を崩した。
 彼の指を一旦振り払い、もう一度、柔らかな頬に触れる。慈しむように丁寧に、優しく、何度も。力を入れすぎないよう注意しながら、繰り返し、飽きることなく。
 今までにない穏やかな笑みを向けられて、タクトは胸がくすぐったくなった。
「……へへ」
「やっぱりお前は、分かってないな」
 嬉しそうに笑った彼を見詰めて、ぽつり、スガタが言った。
 動きが止まった。スッと音もなく遠ざかっていく指先を追いかけて、タクトは無意識に手を伸ばした。
「スガタ」
 掴み損ねた長い指が、名を紡いだ唇に触れた。上から押さえ込むようにしてちょっとだけ力を込められて、隙間から潜り込もうとする爪先に臆し、彼は目を見開いた。
 押し返し、遠ざけようと本能が勝手な行動をとった。スガタは抵抗を感じると呆気ないほど簡単に退いた。
 ツイ、と顎をなぞられた。喉に掌を添えられて、息が止まった。
 ただ押し当てられただけなのに、恐怖が生じた。
「……っ」
「ほらな」
 振り払いたい衝動に駆られて、背中を浮かせる。両肘を床に突き立てて起き上がろうとしたタクトから手を引き、スガタは自嘲気味に笑った。
 自分に対して怯えを抱いた少年に憐憫めいた眼差しを向けて、場を退こうとする。膝に圧し掛かっていた重みが消えて、タクトは目を吊り上げて肩を怒らせた。腕を伸ばし、遠ざかる手を掴んで引きとめる。
 ついでに彼の力も借りて舞台端に座って、身を乗り出す。
「スガタ!」
「僕はお前を、食らいたいんだよ」
「……え?」
 言いたい事があるならはっきり言えと、そう怒鳴ってやるつもりでいたタクトは、勢い任せに開いた口と目をぽかんとさせて、間抜けな面を晒した。
 きょとんとしている少年に目を眇め、スガタは顎を押し上げて彼の口を閉じてやった。
 無防備なその唇に食らいつきたい。喉に齧り付き、頬を舐り、眼に映る光景を独占し、心までも奪いつくしてやりたい。
 残酷とも思える微笑みを浮かべた青年に見入り、タクトは息を呑んだ。喉から顎、そして頬へと這い上がった指が次に何処に向かうかを想像して、どくん、と心臓が膨らんだ。
 緊張に顔の筋肉が強張る。床の上に転がっていた指がピクリと跳ねた。
「食らう、って」
「分からないのか?」
 夢見る少女のような恋愛感を語っていたタクトだから、もしかしたら知らないのかもしれない。
 揶揄して問い、緋色の瞳を覗き込む。夕焼けの空より澄んだ色に映る己に頷いて、スガタは無防備極まりない彼の額を弾いた。
「っで!」
 仰け反って痛がるタクトを笑って、首を前に倒す。距離がぐっと狭まって、唇が、一寸でも動けば掠めるくらいの近さから覗き込まれて、タクトは凍りついた。
 穏やかさの裏に潜む、獰猛な獣の輝き。
 温和で心優しく、常に周囲に気を配って皆を労うのを忘れない王者の風格からはかけ離れた貪欲さを感じ取って、タクトの背中にツー、と冷たい汗が伝った。
「あ……」
 なにかを言わなければと思うのに、言葉が出ない。パクパクと金魚のように動いた唇に目を細め、スガタは首を横に倒した。
 瞼を閉ざし、視界を闇に染める。
「ン」
 ちゅ、と触れて、離れる。
 一瞬の戯れに目を見開き、タクトは離れ行く彼を呆然と見送った。
 呆気に取られていると分かる表情を面白げに、そして少し寂しげに眺め、スガタは今し方触れた場所に指を這わせた。
 意志を込めて蠢かせ、小突く。
「僕はお前を、そんな目で見ている。それでもお前は、いいのか?」
 綺麗な感情だけではないのだと告げる。片膝をついて問いかけてくる彼の顔は、悔しいが綺麗だった。
 即答を避けてタクトは黙り、俯いて、赤らんだ頬を隠した。
 下向いてしまった彼の、朱に染まった項を見下ろして、スガタは苦笑した。嘆息し、肩を竦めて湧き起こっていた醜悪な感情を壷に押し込める。蓋をして、鎖を巻きつけて、外れないよう頑丈に鍵をかける。
 聞かなくても答えは分かる。
 達観して心に凪をもたらした彼の腕を掴み、タクトは顔を伏したまま首を振った。
「タクト」
 骨に沁みるくらいぎゅうっと力任せに握られて、痛い。驚いたスガタが慌てて振り解こうとしたのに抗い、彼は憤怒の形相で顔を上げた。
「だから、勝手に決めんな!」
 既に何度も繰り返している台詞をまたも声に出して、叫ぶ。唾を飛ばされて、スガタは目を点にした。
 濡れた頬を拭うことすら出来ずにいる彼に鼻息荒くして、タクトは潤む目に力を込め、涙を堪えた。
「そうやってひとりで全部背負い込んで、ひとりで勝手に結論出そうとするなよ。人の話、聞けって。そう言ってるんだ」
「タクト……」
「お前の事嫌かどうかは、僕が決める。お前じゃない」
 きっぱりと言い切り、まだるっこしい考えに囚われている男の胸を衝く。上半身を前後に揺らして、スガタは戸惑いを前面に出し、眉間に皺を寄せた。
 数秒間の逡巡を経て、彼は真っ直ぐに向き合い続けてくれる少年を窺い見た。
「いいのか?」
「だから」
「お前にキスしたい」
「……うん」
「抱き締めて、キスをして、お前に触れたい」
「うん」
「触れて、剥いて、押し倒して、お前に」
「あの! えと、……そこまでは、言わなくて良い」
 幾らなんでも露骨過ぎると、途中で雲行きが怪しくなったと知ってタクトは声を張り上げた。両手を伸ばしてスガタの口を塞ぎ、それ以上言えないようにして冷や汗を流す。
 直後。
「ひゃっ」
 甲高い悲鳴をあげ、彼は万歳のポーズを取った。
 意地悪く笑ったスガタが、伸ばした舌を素早く咥内に戻した。指に残る生暖かな感触に苦虫を噛み潰したような顔をして、タクトは濡れた掌をズボンに擦りつけた。
 暫く無言で睨み合い、やがて耐え切れ無くなって、タクトが先に噴き出した。
「ぷっ、はは」
「こら。笑うところじゃないだろう」
「分かってるって。でも、あはは、は」
 睨めっこに負けた彼に呆れつつ、スガタも相好を崩した。肩の力を抜いて微笑み、腹を抱えている少年の額を小突いて正面を向かせる。
 くりくりした大粒の眼を覗き込んで、スガタは気が抜けたように顔を綻ばせた。
「すまなかったな」
 あれこれ難しく考えすぎて、知らない間に袋小路に迷い込んでいたらしい。
 道を見失って途方に暮れていたところに手を差し伸べてもらった。タクトだって、色々と思い悩んで辛かっただろうに。
 感謝と、懺悔をひとつの言葉に込める。通じていないのか、それともはぐらかされたのかは不明だが、タクトは笑って小首を傾げた。
「なにが?」
 屈託なく言われて、スガタは一瞬目を見開き、すぐに伏した。
「いや」
 なんでもないと首を振って、タクトの肩により掛かる。ずっと触れたかった温もりを肌に感じて、彼は幸せそうに微笑んだ。
「お前が好きだよ、タクト」
 あの時と同じように、自然と溢れ出た思いを言葉にして、音に紡ぐ。
 交わし損ねたやり取りを想像して、スガタはこつん、とタクトの額に額をぶつけた。
「お前は?」
 真っ直ぐ見詰めて、密やかに、問う。
 小さく噴き出して、彼は悪戯っ子の笑みを浮かべた。

2011/02/18 脱稿