競合

 訪れた先。言い争う声は、窓の外まで響いていた。
「だから、ンなことないって。ツナ」
「ありますよ。ありますってば」
 甘く蕩けるようなテノールと、踊るようなボーイソプラノ。対照的な二名がなにやら論争が繰り広げられている様子に、雲雀は一寸だけ窓を開けるのを躊躇した。
 だがカーテンは開かれており、室内から外の景色は丸見えだ。室外機を置いた小さなベランダに身を置いた彼の存在は、直ぐに中に居た人物に気取られることとなった。
 人の気配を感じ取った金髪の首がぐるん、と回って、瑪瑙色の瞳が彼を射た。
「おっ」
「……」
 よりによってそちらが先に気付くとは。幾らかショックを受けて、雲雀は嬉しそうに顔を綻ばせた青年に肩を落とした。
 諦めて窓枠に手を掛ければ、ディーノの動きで部屋にいたもうひとりも顔を上げた。腰を捻って振り返り、ガラス板の向こうに佇む雲雀の姿に目を丸くする。
 零れ落ちんばかりに見開かれた瞳は鮮やかな琥珀色だった。
 啜ればたっぷりの蜜が溢れ出そうな色合いに相好を崩し、直ぐにディーノの存在を思い出して表情を引き締める。一瞬で心を閉ざしてしまった彼に苦笑して、ディーノは胡坐を崩して足を伸ばした。
 ただでさえ狭い綱吉の部屋が、彼のお陰でいっそう狭まっていた。床に転がっていた空のペットボトルを蹴り飛ばした長い脚を避けて、綱吉は足の置き場に苦労しながら立ち上がった。
 転がっていた本に蹴躓いて、おっとっと、と片足立ちでぴょんぴょん飛び跳ねる。部屋を掃除すればいいだけの話なのに、ずぼらな性格が災いしてか、彼の部屋は訪れる度に物が増えて、露出する床の面積が狭まっていった。
 そのうちベッドから身動き取れないくらいのゴミ溜めになるのではと不安になるが、定期的に母親の手が入っているようで、今しばらくはその心配はなさそうだ。
「あ、あ。待って、ヒバリさん」
 部屋に入ろうと窓に手を掛けた雲雀を制して、綱吉が甲高い声をあげた。広げた左手を前に突き出して、そのまま左足のみで床を飛び跳ねる。器用に壁際の本棚へ移動して、彼は最下段の端に押し込んでいた新聞紙を引き抜いた。
 もうかなり前のものらしく、表面は萎びて皺が寄っていた。インクも一部の色が薄くなり、また水に触れたらしく紙面の半分は滲んで掠れていた。
 ノート程度のサイズまで折り畳んでいたそれを広げれば、折り目の間に潜り込んでいた砂粒がいくつか、床に零れた。
「おっと」
 急ぎ窓際に向かおうとした彼を、ディーノが慌てて避けた。其処に客人があるのをすっかり失念していた綱吉は、古新聞を抱えたままぴょん、と床に落ちていた洗濯物を飛び越えた。
 部屋を歩き回るだけでも一苦労だ。アクロバティックな動きを決めた綱吉に肩を竦めると、雲雀は今度こそ窓を開け、広げて床におかれた新聞紙に脱ぎたての靴を揃えて置いた。
 靴下で室内に入ると、フローリングのひんやりした感触が爪先に広がった。
 後ろ手に窓を閉めて、ついでにカーテンを引く。シャッという音が響き、室内は一気に暗くなった。
 雲雀が土足のまま上がりこまなかったのに安堵して、綱吉はくるりと踵を返し、部屋の照明を点けにいった。ドアの直ぐ左の壁にあるスイッチを押して、天井のライトに光を灯す。
 にわかに明るくなった空間に目を細めて、雲雀は居ると思っていなかった存在に眉を顰めた。
「赤ん坊は?」
「呼んできます?」
 ハンモックは空っぽだ。部屋の一角を占領しているパイプベッドとは違い、タオルケットは綺麗に折り畳まれて、使用者の几帳面さが窺えた。
 朝目覚めた時そのままの状態になっているベッドの手前には、ディーノが居る。艶やかな金髪の優男をなるべく見ないようにしながら、雲雀は小首を傾げた。
 ドア前に居た綱吉がノブに手を伸ばして聞き返した。
「ううん」
「あ。そう、ですか」
 別段あの黄色いおしゃぶりの赤ん坊に用があったわけではない。首を振った雲雀の返答にちょっと虚を衝かれた顔をして、直ぐに何かに思い至った綱吉は、照れ臭そうに微笑んだ。
 ほんのり頬を紅に染めて、首を竦めて部屋の真ん中へと戻って来る。
「ヒバリさん、何か飲みます?」
「ううん」
 テーブルの手前で膝を折ってしゃがんで、彼は中身の入っていないマグカップをふたつ、一箇所に集めた。底は乾いており、かなり前に飲み干されたものらしい。
 他にもクッキーが数枚載った皿と、生クリームらしき残骸が見える皿がふたつ。
 それらを重ねてカップの隣に並べた綱吉に首を振り、雲雀はひたすらにこにこしている青年を睥睨した。
 いったいいつから、彼は此処にいたのだろう。
「暇なんだね」
「暇じゃねーぞ。超忙しい」
「その割に、日本にしょっちゅう来てる気がするけど?」
 腕組みをして呆れた口調で言えば、即座に反論が飛んできた。しかし相手にせず畳みかけて、綱吉の勉強机に浅く腰掛ける。
 本来の用途を逸脱した行為だが、持ち主は特に気にする様子もなく、一方だけやたらと棘のある会話に微笑んだ。
「喧嘩は外でやってくださいよー」
 前にも同じように部屋で鉢合わせして、トンファーと鞭で乱闘騒ぎ、という事があった。
 本棚は倒れるし、テーブルはひっくり返されるし、ゲーム機は踏み潰されるし、と散々だったのを思い出して釘を刺せば、雲雀はチッと舌打ちして、露骨に嫌そうにしてディーノにそっぽを向いた。
 その分かり易い態度に苦笑を漏らし、綱吉は使い終えた食器をひとまとめに盆に載せた。
「お茶、ディーノさんは?」
「ああ、俺もいいよ。そうだ、ツナ」
「はい?」
「どうせだから、恭弥に決めてもらおうぜ」
「え? ……えー!」
「なに?」
 荷物を手に立ち上がろうとした彼を制し、ディーノが右手を床に置いて身を乗り出した。
 ずい、と顔を寄せてきた彼の台詞に面食らい、綱吉が丸い目をより真ん丸にして素っ頓狂な声を上げた。会話についていけない雲雀は不満げに口を尖らせ、そういえば、と眉を顰めた。
 彼が部屋に入る直前まで、このふたりはなにかを言い争っていた。
 口元に手をやって考え込み始めた雲雀に不敵な笑みを向け、ディーノは嫌がる綱吉を遮り、顔をほころばせた。
「ディーノさん」
「あのさ、恭弥。ツナのベッドって、もっとでかいのにした方がいいと思うよな?」
「は?」
 唐突な質問に目を点にして、雲雀がきょとんと彼を見詰め返す。ディーノは屈託なく笑い、苦虫を噛み潰したような顔をしている弟分を指差した。
 雲雀の視線は自然と壁際のベッドに向かった。綱吉が毎日寝起きしているそこは、シングルタイプの非常にシンプルなものだった。
 寝床の下にはちょっとした空間があり、蓋のついた衣装ケースが幾つか押し込まれていた。枕元には目覚まし時計がふたつ並び、掛け布団は反対側で壁を作っていた。
 これだけでも使用者の性格が充分に読み取れる。あまりにも真剣な表情で観察されて、綱吉は顔を赤くして俯いた。
「俺のは、平均サイズですってば」
「でもさ、落ちたんだろ?」
「ああ。そういう事」
 なんの話かと思って聞いているうちに、ようやく理解して、雲雀は緩慢に頷いた。
 推測でしかないが、綱吉が就寝中にベッドから転落した、という話題から、彼のベッドは狭い、という方向に話が進んだのだ。
 確かに綱吉は、寝相が悪い。それもかなり、悪い。応接室で仕事中に突然大きな音がしたかと思ったら、ソファでうたた寝していた筈の彼が何故か床の上で目を回していた、という事も過去に何度かあった。
 思い当たる節が幾つも出てくる雲雀の返答に、綱吉は益々赤くなって恥ずかしそうに身をよじった。
 片付けは諦めて、床に座り直して恨めしげに雲雀を睨む。だが涙に潤む琥珀は愛らしくこそあれ、ちっとも恐くなかった。
「もちっとでかいのにしろよ。狭すぎるって、これは」
「これ以上大きいのにしたら、部屋がベッドだけで埋まっちゃうじゃないですか」
 ベッドには幾つかのサイズがあり、使用者の人数によって使い分けられる。ふたり並んで眠るならダブルだが、だからといってひとりだけで使用してはいけないという決まりも無い。
 ネックなのは、この部屋がさほど奥行きもなく、広く無い事だ。
 整理整頓が行き届いていたなら、ここまで狭く感じることもなかっただろう。部屋の主が掃除を大の苦手としている所為で、部屋は実際よりもずっと小さくなってしまっていた。
 この状態でダブルベッドを置いたら、確かに部屋の半分以上が寝床と化す。
 想像して、雲雀は噴き出しそうになった。
「でも、落ちるよりはいいだろ?」
 あっけらかんと言い返したディーノを前に、綱吉はぷっくり頬を膨らませた。餌を限界まで頬張ったリスのようで、なんとも可愛らしい。
 彼は拳を作ると上下に振り回し、最後にぷいっ、と拗ねてそっぽを向いた。
「どんなにベッドが大きくたって、落ちる時は落ちるんですよ。ディーノさんみたいに」
「俺?」
「ロマーリオさんが言ってましたよ。ディーノさん、前にキングサイズのベッドから転がり落ちたって」
「げっ」
 誰かに蹴り落とされたわけでもないのに、超巨大なベッドで独り寝をしていた彼は、翌朝床で丸くなっているところを部下に発見された。枕を抱きかかえて寒さに震えているボスを揺さぶり起こしたのは一度や二度ではないと、あの髭の男性は言っていた。
 なんとも言えない顔をして肩を落としていたロマ―リオとの遣り取りを思い出すだけで、笑いがこみ上げてくる。
「いや、それはだな、ツナ。違うんだ。ちょっ、笑うなって!」
 堪えきれずにぷっ、と噴いた綱吉に、ディーノは慌てふためき両手を振り回した。
 振り向けば雲雀も声を殺して笑っている。くくく、と肩を震わせている弟分を交互に見て、彼は伸び気味の髪の毛をくしゃくしゃに掻き回した。
 羞恥心を誤魔化して、今は自分の話をしているのではない、と捲くし立てる。
 悪足掻きもいいところの反論に、雲雀は肩を竦めて嘆息した。
「その歳にもなって……」
「だーかーら! 俺はいいんだって! 問題はツナだろ」
 呆れ口調の雲雀に怒鳴って黙らせて、横道に逸れた話を元に戻す。睨まれた綱吉は途端に背筋を伸ばして畏まり、嫌な予感を覚えて冷たい汗を流した。
 ディーノが作りも質素なパイプベッドを指差した。鼻息荒く、大きく口を開く。
「だってよ。こんな狭かったら、一緒に眠れねーだろ!」
「っ!」
 家中に響き渡りそうな大声にびくりとして、綱吉は頬を引き攣らせた。
 大人しく聞いていた雲雀の眉が片方、急カーブを描き出した。それ以外は指一本動いていない。気配そのものを消してしまったかのような静けさは、却って不気味だった。
 脂汗を浮かべている綱吉を知らず、ディーノは自分の発言に大いに満足したらしく、ひとりうんうん頷いている。
「大体、ツナは足癖悪いんだからよ、蹴られる方の身にもなれってんだよ。折角落ちないように抱きかかえてやってんのに、殴ってくるしよー」
「ちょっ、ディーノさん!」
「……へえ?」
 段々と雲行きが怪しくなってきて、綱吉は膝立ちになって手を振った。だが彼は構う事無くつらつらと言葉を並べ立てていく。勉強机に寄りかかる青年から、真っ黒いオーラが立ち上っているのにさえ気付こうとしない。
 不吉な予感に駆られて、綱吉は恐々後ろを振り返った。
「ひぃ!」
 そして予想通りの形相をして仁王立ちになっている青年を見つけて、総毛立った。
「へえ? 君たちって、そんな事してるんだ?」
「ちが、違います。あれはディーノさんが勝手に」
「でもツナだって抱きついてきただろー」
「それは、ちょっと間違えただけで!」
「へえ。間違えたんだ?」
 いつだったかの休日、朝早くにディーノが颯爽と並盛町にやって来た時、綱吉はまだ寝床で惰眠を貪っていた。
 折角来たのだから、黙って帰るのも勿体無い。ただ無理に起こすのも忍びないからと、自然に目を覚ますのを待っているうちに、気持ちよさそうに眠る綱吉につられて睡魔に襲われた青年は、むにゃむにゃ言う部屋の主の布団に勝手に潜り込んだ。
 そうしたら綱吉が鼻をヒクヒクさせて、だらしなく笑って彼にしがみ付いてきた。
「へえ? そうなんだ」
「あの時のツナ、すんげー可愛かったんだぜー。恭弥、知ってるか。ツナってばな、寝てるときに鼻抓むとくしゃみするんだぜ」
 ひとりあわあわしている綱吉を置き去りに、ディーノが上機嫌に秘密を暴露する。楽しくて仕方が無いという様子の彼を睥睨し、雲雀はスッと、背中に手を回した。
 悪寒を覚え、綱吉は顔を引き攣らせたまま後退した。
「だって。だって俺、あの時寝てて。全然知らなかったんだもん」
「言い訳は聞かない」
「ぎゃああー!」
 必死に弁解するが、雲雀は聞く耳持たずにトンファーを引き抜いた。鋭い光を放つそれを高く振り翳し、綱吉目掛けて一気に振り下ろす。
 寸前で避けた彼の足元に、真っ二つになった陶器の皿が転がった。クッキーは木っ端微塵に砕けちり、カップは割れなかったけれど見事にひっくり返って、積まれていた洗濯物の山に埋もれた。
 真っ青になってガタガタ震えている彼にようやく言葉を止めて、ディーノが慌てて間に割って入った。二撃目の構えに入っていた雲雀は横から乱入して来た金髪に目を眇め、残酷な笑みを浮かべた。
「なにやってんだ、恭弥。ちょ、おま……ぎゃー! 暴力はんたーいっ!」
「僕の前で風紀を乱した罰だよ。貴方は此処で、咬み殺す!」
 制止の声を無視して鉄槌を下した雲雀に叫び、ディーノは真剣白刃取りを失敗して額にトンファーをめり込ませた。
 大きなタンコブを作って蹲る青年に更に捲くし立て、雲雀は憤怒の形相で腕を振り上げた。
 殴られてはたまらないと、ディーノが逃げる。雲雀が追いかける。綱吉が避ける。ただでさえ汚らしい部屋が、瞬く間にもっと酷い有様になる。
「喧嘩はやめてー!」
 部屋の主の悲痛な声が、家中に響き渡る。
 天井から埃がぱらぱら落ちるのを見上げ、リボーンはやれやれと肩を竦めた。

2011/02/14 脱稿