潮騒

 水滴がひとつ、落ちる。
 穏やかだった水面に、波紋が生まれる。
 最初は小さく、段々と大きく。果てを知らず、どこまでも広がっていく。
 もうひとつ、またひとつ。
 やがてそれは大きな波となり、うねりとなり、全てを飲み込み、押し流していった。
 後にはなにも残らない。言い表しようのない空虚さだけが、乾いた砂浜を埋め尽くす。
 ぼちゃん、と水柱が立ち上がった。
「……ぶはっ」
 憂鬱な思考を放棄して、タクトは水面から顔を出すと犬のようにぶるぶると首を振った。夜空を望む寮の露天風呂は静かで、ここが何処なのかを一瞬忘れさせてくれた。
 大漁の雫を顔や、髪の毛から滴らせて、彼は揺れる水面に映る自分の姿に唇を噛んだ。
「ひでー顔してんな、お前」
 ぐにゃりと歪んだ自身に笑って言って、ぱしゃん、と即席の鏡を叩き割る。脱衣所から漏れる光を反射して、飛び散った水滴が宝石のように輝いた。
 あれから、表面上は長閑な日常が続いていた。
 毎日決まった時間に起きて、朝食を食べて、学校へ行って、授業を受けて。
 放課後になって、部活がある日は旧校舎へ顔を出して、そうでない日は商店街へ行ったり、島を探索したりと、色々だ。
 のんびりしている暇は、少ない。ジッとしている時間が惜しい。
 立ち止まっていると、今みたいにろくでもない事ばかり考えて、下を向いてしまう。
 そんなのは、自分らしくない。
「どうしたら良いんだろうな、ナツオ」
 彼なら、なんと言ってくれるだろう。そんなことを聞くな、と怒られるのが関の山か。
 友達だと思っていた相手から、好きだと言われた。
 だのに、忘れてくれと言われた。
 忘れられるわけがない。そんな事出来ない。今更無かった事になど、出来ない。
「ちがう」
 肩まで湯に浸かり、タクトは満天の星空を仰いだ。目映いばかりの銀河の中で、自分はなんとちっぽけなのだろう。
 冷たいものが頬を伝った。それが、額に残っていた水滴が冷めたものだと無理矢理曲解して、彼は再び、頭の先まで湯に沈めた。
 小さな水柱が立って、直ぐに砕けて消えた。ぶくぶく白い泡を吐き出して、彼は人の気配に水面を飛び出した。
 振り向けば、脱衣所に人影があった。寮のメンバーが入浴すべく集まって来たのだろう。
 ひとりきりでいられる時間は、思いの外短い。彼は掬った湯で念入りに顔を洗い、岩で囲まれた湯船を出るべく立ち上がった。
 もやもやする気持ちをそこに置き去りにして、タオルでサッと水分を拭い取る。引き戸が開いて、曇り硝子の向こうから見知った顔がいくつも現れた。
「タクト、早いなー」
「男子の一番風呂、いただいちゃいました」
 えへへ、と笑ってタクトはまたぞろ入ってくる彼らに道を譲った。ぺたぺたと足跡を床に刻んで、入れ替わりに脱衣所へと向かう。
 流石男子ばかり、という事で、二列に並んだ棚の中はもう酷い有様だった。使用者の性格が楽に読み取れる光景をぼんやり眺めて少し進み、彼は自分の着衣を並べた籠を引き抜いた。
 もう一度、今度はいくらか丁寧に身体を拭いて、持って来た新しい下着を穿く。続けてズボン、お気に入りの赤いシャツと身につけて、最後にタオルを頭に被せた。
 日頃から元気に跳ねている髪の毛も、水分を吸った所為で毛先が垂れ下がっていた。ちゃんと乾かしておかないと、この季節に関わらず風邪を引いてしまう。
「ふぁあ、ん……」
 ほどほどに温もったお陰で睡魔が襲ってきて、タクトは小さく欠伸をすると、使用済みの着衣を一纏めにして胸にかかえ込んだ。タオルを被ったまま、脱衣所を出る。
 部屋に戻る手前で賑やかな声が聞こえて来て、彼はふと、足を止めた。
『私の事好きって言ったじゃない!』
 そうしたら急に甲高い少女の罵声が響き渡って、思わずぎょっとなった。
 顔を引き攣らせて仰け反った彼に、ソファに座っていた男子生徒が振り返った。逆立てた髪の毛をツンツンに尖らせている、二年のゴウダ・テツヤだ。
「何やってんだ?」
「あ、いや。その」
 変な所を見られてしまって、タクトは巧い言い訳が思いつかなくて苦笑した。
 このフロアは男子のみ使用可能で、女子の立ち入りは制限されている。もっとも寮長であるシナダ・ベニオは、その権限を良い事に、あれこれ好き勝手しているようであるが。
 ただ先ほどの声は、ベニオのものではなかった。よく見れば、壁際に設置されたテレビに電源が入っている。
 いつもならバラエティかなにかを映し出している画面は、今日に限ってドラマだった。
 先ほどの続きで、若い女性が涙ながらに男に言葉を吐き続けていた。男の方は困惑が顔に出ており、なんとか言い逃れしようとして、余計に女性を怒らせていた。
 典型的な喧嘩だ。しかも、原因はどうやら男の浮気らしい。
「なんですか、これ」
「ベニオに聞いたんだが、女子の間で流行ってるらしい。三角関係どころか、五角形、六角形なんだと」
「ほえー」
 まさに泥沼の恋愛劇が展開されているとかで、最終的にどう決着がつくのか、さっぱり見当が付かないのだそうだ。
 だがテツヤはあまり食指が動かなかったようで、一応見てはいるけれど、表情は退屈そうだった。
『君の事は好きだよ。でも彼女だって、可哀想な子なんだ』
『じゃあ、可哀想だからってだけでキスしたの? 好きでもないのに、同情だけでキスしたって言うの?』
 弁解にすらなっていない言い訳を口にする男に怒鳴り、女性は拳を振り上げた。右肩に一撃を食らって、男が痛そうに顔を顰める。けれど次に映し出された女性の方が、ずっと辛そうな顔をしていた。
 タクトは立ち止まったまま、目まぐるしく入れ替わる映像をなんとはなしに眺めた。
 誰かが誰かを好きになって、別の誰かが傷つく。もしくは、互いに想い合っているに関わらず一寸したすれ違いが原因で、相手が知らないところで辛い思いを胸にかかえ込む。
 醜い罵り合いが続くドラマに飽きたのか、テツヤはリモコンを取って電源を消した。
「あー、わっかんねー。女って、なんでこんなのが好きなんだろ」
 そう愚痴を零してソファから腰を浮かせた彼に笑って、タクトはふと、真面目な顔をした。
「先輩は、好きな人とか、いないんですか」
「はぁ?」
 急に話を振られて、テツヤは素っ頓狂な声をあげた。頭上にやっていた両腕を勢い良く下ろし、振り返って目をまん丸にする。
 その反応がなんとも意外で、タクトは一歩半後退して持っていた荷物を強く抱き締めた。
「なんだよ、急に」
「いえ。特に深い意味は」
「そういうお前こそ、どうなんだよ。モテモテなんだろ?」
「別に、僕はモテモテとか、そんなんじゃ」
 藪から棒に質問をされたテツヤは不審げにタクトを見返し、首を右に倒して背中を丸めた。ソファに片膝を置いて身を乗り出して、覗き込むようにして嫌みを口にする。
 タクトは返事に困り、訊く相手を間違えたと多いに反省した。
 追求を逃れようと目を逸らして、暗闇に居る筈のない幻を見て、切なさに唇を噛む。
「正直、人を好きになるとか、よく、分かんなくて」
「ほお?」
「みんな、好きですよ。先輩だって、寮のみんなだって、クラスの連中も、勿論。でも」
 タクトの事が好きだと言った時のスガタは、とても嬉しそうで、楽しそうだった。眩しいくらいの笑顔を浮かべていた。
 彼の笑っている顔は好きだ。だから最近増えた、悲しげに目を細め、辛さを噛み潰して堪えている表情は正直嫌いだった。
 この感情は、何なのだろう。これが果たして世間に広く知られている、あの感情に合致するものなのか、タクトには判別がつかなかった。
「でも?」
「でも、……やっぱり分かんない、です」
 大切な仲間、大切な友人。
 その輪のどこにスガタを置いて良いのかが、分からない。
 少し前までは迷うことなく一番の友人という括りに入れられたのに、今では少し違ってしまっている。かといって大事な存在である事に変わりはなくて、けれどならば何か、と問われたら答えられない。
 曖昧な言葉と笑顔で質問を躱したタクトに、テツヤは右の眉を持ち上げて不思議そうな顔をした。
 ただ、追求はしてこなかった。面倒臭い事に首を突っ込みたくない、という心理も働いたのだろう。自分も遅い風呂に入るべく、ひらりと手を振って歩き出した。
 遠ざかる背中を見送り、タクトは頭に被せたままだったタオルを首に掛けた。端を持ち上げて湿った額に押し当て、表情を隠したまま自分も反対方向へ足を向ける。
 ドアを開けて室内に入ると、開けっ放しの窓から涼しい風が吹き込んできた。
 カーテンが揺れている。月星の明かりが眩しくて、照明を灯さずとも動き回る程度には十分だった。
 彼は後ろ手に戸を閉めると、明日の朝洗濯する物をまとめて棚の上に並べて置いた。タオルは首に提げたまま、ひんやりした床を踏みしめて窓辺へと歩み寄る。
 見上げるのは波打ち際に佇む女性の絵だ。日傘を差して、こちらに背を向けている。彼女がなにを想い、どんな表情を浮かべて海を眺めているのかについては、想像の範囲を出ない。
 自嘲気味の笑みを浮かべて、タクトは首を振った。
「分かんないよ、スガタ」
 自分の心が分からない。
 けれど一番分からないのは、彼の心。
「忘れるなんて無理だよ。出来ないよ。違う。そうじゃない。そうじゃない」
 忘れられないのではない。
 自分が、忘れたくないだけだ。
 スガタが好いてくれていると分かった時、最初に何を考えたのかを思い出す。
「なんで、……訊いてくれないんだよ」
 あの時形に出来ていたら、ちゃんと言葉を与えられていたなら。結果は、今とはまるで違うものになっていたかもしれない。
 表に出す事を封じられてしまった感情が、胸の中で澱になって渦巻いていた。風呂場に捨てて来た筈なのに、いつの間にか戻って来て、タクトの真ん中にどん、と居座ってしまっていた。
 彼はシャツの上から胸を掻いた。十字に刻まれた傷痕を爪で抉り、がくりと膝を折って屈み込む。
「無理だよ。出来ないよ。できっこ……ないよ……」
 息を呑み、嗚咽を堪える。
 冷たい夜風が、彼の背中をそっと撫でた。

 登校する生徒の声で、朝の学校は今日も賑やかだった。
 今日が終われば、明日は土曜日で休みだ。束の間の休日を前に、誰しも心が浮き足立っていた。
 そんな中をタクトはどことなくぼんやりしながら、鞄を肩に担いで歩いていた。
 階段を登り切り、よっこらしょ、と丸めていた背中を伸ばす。開けた視界に複数の生徒が見えたけれど、知った顔は残念ながら混じっていなかった。
 ホッとしたような、がっかりしたような、なんとも表現しづらい気持ちを抱え、彼は一年一組の教室を目指した。
 南十字学園は海辺に近く、景色は非常に良い。校舎の窓は大きく取られており、その景観をどの角度からでも満喫出来るよう設計されていた。
 築年数が浅いので、どこもかしこもぴかぴかで、つるつるだ。白く塗られた壁を気まぐれに撫でて、タクトは見えて来た扉に小さく息を呑んだ。
 教室に入るのに緊張するなんて、少し前までは考えられなかった。
 大きく息を吸って、溜めて、閉まっていた扉をがらりと開ける。横にスライドしていく戸の向こうから、目映い光が溢れ出した。
 彼の登場に、中にいた生徒の何人かが顔を上げた。教卓を挟んで喋っていた男子生徒が右手を挙げて、朝の挨拶をくれた。
「おはよー」
「おはよう。早いなー」
「タクトが遅いんだって」
「そんな事ないって。遅刻したわけじゃないんだし」
 軽口を言い合いながら、タクトは彼らの横をすり抜けた。落書きのひとつもない黒板の前を行き過ぎて、突き当たりで左に曲がる。
 委員長であるニチ・ケイトも既に登校済みで、今日も小難しそうな本を広げていた。
 眼鏡の奥に潜む瞳が一瞬だけ彼を見て、直ぐに興味なさそうに伏せられた。なんとも味気ない反応に肩を竦めて、タクトは自分の席に鞄を下ろした。
 椅子を引いて座って、ファスナーを開けて筆箱を取り出す。壁一面の窓の向こう、ベランダのその先は真っ青な海と空だ。
 一通り授業の支度を終えて、タクトは何気なくそちらに顔を向けた。
「……?」
 見慣れない男子生徒が歩いていた。学年ごとに色分けされているネクタイはピンクなので同学年なのだろうが、クラスが違うので名前すら知らない。
 明るい茶色の髪をしたその男子は、タクトの前を通り過ぎる直前にポケットから左手を引き抜いた。コンコン、とまるでドアをノックするように透明なガラスを二度、叩く。
 タクトの真後ろに座っていた女性が、心持ち気怠げな様子で顔を上げた。
 ああ、またか。
 そんなことを考えながら、タクトはベランダの男子生徒に嘆息して教室正面に向き直った。
「ガラス越し、アリな人?」
「アリな人よ」
 窓を挟んでのいつもの会話に、彼はトホホと頭を垂れた。最初見た時は非常に驚いたが、こうも毎日のように繰り返されたらいい加減慣れるし、逐一反応するのも疲れる。
 入学直後はカナコの傍若無人な振る舞いに嫌悪感を隠そうとしなかったケイトも、今では彼女の存在そのものを無視する事に決めたようだ。
 眉ひとつ動かさない硬派な女子にも苦笑して、タクトは男が手を振って去っていくところをぼんやり見送った。
「やれやれ」
 人妻でありながら、恋人ですらない男子とくちづけを交わす。否、ガラス越しのキスをキスと分類して良いのかどうか甚だ疑問であるが、兎も角彼女の行動はなんとも節操がない。
 ボリュームたっぷりの豊満な胸に、くびれた腰、魅力的なヒップライン。厚みのあるふくよかな唇は、世の男性を虜にしてそれでも物足りなさそうに喘いでいる。
 だが生憎とタクトは彼女を、そういった対象として見た事はなかった。
 なにせ初対面の自己紹介で、既婚者であると告げられているのだ。そのインパクトが強すぎて、どうにもこう、旦那である男性に申し訳ないという気持ちが勝っていけない。
 クラスメイトである以外、殆ど無関係に等しいタクトですらそう思っているのに、当事者であるカナコはその辺は無頓着なようだ。キスくらいなら浮気に入らない、とでも考えているのか。
「キス、か」
「あら、なぁに? タクト君もしてみたい?」
 呟けば、何時の日にか夢で見た光景が蘇る。筆箱から引き抜いたペンを特に意味も無く揺らしていたタクトの声に、聞こえたカナコが急にぐん、と前に出た。
 身を乗り出した彼女の明るい声に吃驚して、タクトは心臓が飛び出しそうになった。椅子をガタガタ言わせて机に突っ伏し、前の席のケイトに嫌そうに睨まれた。
 読書の邪魔をしてしまったのを心で詫びて、彼は飛んで行きそうな勢いで首を横に振った。
「いや、それは、あっと……遠慮します」
「そう? わたくしはいつでも、大歓迎なんだけど」
 ぎこちなく微笑み返し、丁寧に辞退する。カナコは残念そうに引っ込んで、自分の唇の跡が残る窓を撫でた。
 少し寂しそうな横顔に、何故だか悪い事をした気分になる。だが此処で甘い顔をしたら、途端に彼女は大きな口を開けて、タクトをぺろりと食べてしまうだろう。
 想像したら寒くなって首を振って、彼は視線を感じて教室内に向き直った。
 だが誰とも目が合わなかった。
「……」
 口を噤み、タクトは机に乗せた右手を握り締めた。
 無性に腹が立つ。そして同じくらい、悲しい。
 出来るものなら今すぐ彼の所に行って、その未練がましい顔を止めろ、と言ってやりたかった。言いたい事があるなら聞くから、ちゃんと言えと、そう叫びたかった。
 しかし世界は彼の勝手を許さず、間もなくチャイムが鳴って、外に出ていた生徒らも一斉に戻って来た。並べられた全ての席が埋まって、程なくして一時間目担当の教諭が入ってきた。
 ワコに向けられていると思っていた視線、それが本当は違うのだと知ってから、それなりに時間が過ぎた。
 同じ事の連続だった毎日が、少しずつ形を変えようとしていた。投げられる眼差し、その奥に隠れている想い、願い、そして欲望。
 想像して背筋がぞわりと来て、タクトは浮きそうになった右手を咄嗟に左手で捕まえた。ノートに黒い線を走らせて、凍り付いた指を急いで解きほぐす。
 突然肩を怒らせた彼に、後ろにいたカナコは怪訝に眉を顰めた。
「タクト君?」
「ごめん。なんでもない」
 授業中にひとりじたばた暴れてしまって、注目を浴びた彼は慌てて下を向いて小さくなった。真っ白いノートを斜めに横切るラインをじっと睨み付けて、火照った身体が鎮まるのを待つ。
 ドクドク言う心臓の音が外に漏れていないか不安で、タクトは教諭の話を右から左に受け流して、そっと視線を持ち上げた。
 首を巡らせ、通路側の机をこっそり窺い見る。
「あ……」
 ぽろりと、音は舌の上を転がり落ちて行った。
 背筋を伸ばしたタクトの目の前には、俯いて必死にノートを取るクラスメイトが多数存在していた。けれど彼の緋色の瞳には、それらは一切映し出されなかった。
 居るのに、見えない。モノクロームの世界に沈んだ視界で、スガタのまとう青だけが唯一の輝きだった。
 驚いたように目を見張った彼が、握っていたシャープペンシルを取りこぼした。空の手を机に添えて、僅かに身を乗り出そうとして机の脚に足をぶつけて思い留まる。
 タクトもまた吸い寄せられるように彼の方へ姿勢を傾けて、瞬きも忘れて数メートル先に座す青年に見入った。
 遠いのに、ふたりを隔てる距離は限りなくゼロに近かった。手を伸ばせば届きそうで、彼はノートに走る一本線を爪で掻き毟った。
 目が逸らせない。顔を背けるなんて出来ない。
 胸が張り裂けそうだった。どうして今、この瞬間、自分は彼の隣に居ないのだろう。
 カリカリとノートを取るペンの音、黒板に削られるチョークの音、教科書を読み上げる教諭の声。窓を叩く風や、押し寄せる波、潮騒すらふたりの世界に紛れ込めない。
 タクトは唇を開いた。そうしてすぐに音もなく閉ざし、きゅっ、と力を込めて引き結ぶ。
「っ」
 鼻を啜った彼を見て、スガタは空っぽの手を握り締めた。そこに転がっていた邪魔なペンを払い除け、一心に己を見詰めて来る存在にだけ心を傾ける。
 微かに震える唇が、切なそうに無音を刻んだ。
 キスしたい。
 不意に強くそう思った。
 したい。キスをしたい。抱き締めて、この腕に閉じ込めて、その柔らかな唇を、熱を、貪りたい。
 封じた筈の感情が溢れ出して、止まらない。彼が目を逸らしてくれさえすれば、こんな風に醜く卑しい激情を知らずに済んだのに。
 どうして。
 何故分かってくれない。
 これ以上傷つけたくないから、一度は伸ばした手を引っ込めたのだ。掴み取った手を離したのだ。
 心を鬼にして、蓋をして、鍵を掛けたのに。
 どうして。
「タ……」
「ねえ。タクト君」
 場所も時間も弁えず、スガタは立ち上がろうとした。先ほどは失敗したが、今度こそと椅子を引いて背筋を伸ばす。
 だが爪先で床を蹴ろうとした瞬間、窓際の最後尾から婀娜っぽく艶めかしい声が響き渡った。
 パキリ、と前方でチョークの折れる音がした。だが誰も黒板前で凍り付いている女性教諭を気に掛けない。反応して振り向く生徒と、またかと呆れ顔で肩を竦める生徒は、ほぼ半々だった。
 余所のクラスの男子が作っていったキスマークをなぞり、ワタナベ・カナコは含みのある笑みを浮かべて目を細めた。
「わたくし、もう数え切れないくらいの男の子と、こうやってガラス越しのキスを繰り返して来ましたわ」
「は、……はあ」
 席が近かったというだけで標的にされてしまった哀れな男子生徒が、冷や汗をたっぷり流して机に突っ伏した。
 彼と見つめ合っていた時のあの空気は一瞬で掻き消えて、数秒前の出来事が夢か幻だったのでは、とさえ思えてならなかった。
 赤い髪がふわふわと綿菓子のように揺れている。甘そうで、そしてとても熱そうなその色に目を眇め、スガタはたおやかに微笑んでいる女性にも意識を向けた。
 長い緑色の髪を背に流し、おおよそ高校生らしくない体型を制服の下に隠している。
 だがスガタは、あの男に媚びる眼差しも、男を弄ぶに最適な肉体にも、全く関心が無かった。港に停留している大型客船をホテル代わりにして学園に通っている彼女には、島で学生生活を送る以外にも、なんらかの秘められた目的があるように思えてならないからだ。
 そしてスガタは、その秘められた目的に心当たりがある。
 だから油断してはいけない。彼女に心を許すべきではない。
 もっとも今は、それ以外の理由で胸の中がもやもやして仕方がなかった。言葉にするのさえ躊躇を覚える、非常に見苦しい感情に苦しみながら、スガタは転がしていたシャープペンシルを強く握り締めた。
「勿論、わたくしは夫のある身。一線を越えるような事をすれば、遠く離れた地で暮らす夫を裏切る事になってしまう。だけれど、分かるかしら。わたくしも新婚ほやほやで、この身体は夫からの愛情を求めて毎晩熱く火照って仕方がないの。ねえ、タクト君。貴方なら、分かってくれるわよね」
 なにをどう解釈すれば、そうなるのか。同意を求められた少年は頬をひくひく痙攣させて、返答に困って目を泳がせた。
 教卓前では女性教師が、折れたチョークを黒板に突き立てたまま硬直していた。毎度お馴染みのふたりの遣り取りに、クラスメイトの何人かは興味津々に聞き耳を立てていた。
 唐突に、タクトの脳裏に昨晩見た光景が蘇った。
 夜の休憩室、ソファに座ってテツヤが見ていたドラマ。泣きながら男の浮気を咎める女と、その女にみっともなく言い訳を繰り返す男。
「……ねえ。旦那さんの事、ちゃんと好きなんだよね」
「え?」
 トーンを落として呟いた彼に、カナコは小首を傾げた。
 いつもの明るく飄々としたタクトからはかけ離れた、少し悲しげな横顔。そのくせ怒っているようにも感じられる表情に、彼女は眉を顰めた。
「好きだから、結婚したんだよね」
「ああ。……ええ、そうよ。彼はお金もあるし、地位も名誉も、権力もある。そして私はこの若さと美貌と、お色気たっぷりのナイスバディ。お互いの利点をつき合わせた結果、これほど愛するに相応しい相手はないとは、思いませんこと?」
 いつぞやの日にも聞いた覚えのある台詞を並べ立てて、カナコが自信たっぷりに宣言する。離れた席で聞いていたルリが「うわぁ」という顔をして、隣に座るワコに窘められていた。
 女性教諭の腕はまだ持ちあがったままだ。そろそろ肩が疲れているだろうに、なにがなんでも手を下ろすつもりはないらしい。
 ぷるぷるしている背中を見るともなしに見て、タクトは緩慢に頷いた。
 カナコはにこにこしながら、彼の返答を待った。
「でも、するんだよね。キス」
「そうね。ガラス越しではあるけれど、わたくしを求めて来て下さる殿方に、なんのお礼もしないのは失礼に当たるでしょう?」
 自分を好いてくれる人はみんな好き。そうとも取れる発言に、タクトは一瞬伏した顔を上げた。
 振り返りはしない。彼は前を見据えたまま、ややしてから口を開いた。
「それって、……本当に、好きなの?」
「え?」
「旦那さんがいるのに、他にも好きな人が大勢いるって事だよね。本当に旦那さんの事、本当に愛してるのなら、普通は、たとえガラス越しだとしても、キスなんて出来ないと思うんだけど」
 これまではカナコが興味たっぷりに問い掛けて、タクトは適当に言葉を濁してそこで終わりというパターンが殆どだった。こんな風に彼の方から、カナコに聞き返すなんて、殆ど無かった。
 虚を衝かれた彼女が目を丸くする中、タクトは机に置いた手を握ったり、開いたりして、最後は指を絡めて祈るようなポーズを作った。
 キスをする時は、これからキスする相手の事を心に思い浮かべる。好きな人のことを、考える。
 でももし、キスしようとしている人が、思い人と違っていたら。
 ガラス越しのキスは、結局は自分と冷たい硝子の接吻でしかない。でも、透明な壁の向こうには人がいる。
 其処にいる、恋人ではない違う誰かの事を考えながらガラスにくちづけるのは、恋人に対する裏切りに当たるのではなかろうか。
「タクト君」
「それに」
 ごちゃごちゃする頭が整理しきれないまま、彼は手を解いた。カナコが困惑して黙り込む中、一瞬だけきつく唇を噛み締めて、荒い息を吐く。
 胸に湧いた怒りを強引に押し殺して、タクトはこれまでの日々を頭の中で逆再生させた。
 今朝、教室に入ってくるところから、西日を浴びる教室へと。風の強い屋上、晴天の下の草原、生徒でごった返す廊下。
 人通りの少ない道、愛想の悪かった猫。
「それに、……それに、本当に好きな人が相手だったら、顔なんてまともに見られないよ。髪型変じゃないかとか、ネクタイ曲がってないかとか、そんなどうでもいい事ばっかり気になって、笑われないかって、可笑しく思われやしないかって、考えて。全然、平気じゃいられない」
 少しでも良く見られたくて、思われたくて必死になって。
 結局空回りして、馬鹿な事をやって恥ずかしい失敗もして、けれどそれでも気になって。
 顔を見たい。傍にいたい。声を聞きたい、話をしたい。
 顔が見られない。緊張して近くにいけない。声を聞くだけで舞い上がって、まともに会話が繋がらない。
 どきどきして、わくわくして、そわそわして、むずむずする。嬉しくて、楽しくて、でもちょっぴり不安で、怖くて、悲しくて、寂しくて。
 一緒にいるとホッとする。
 それが、人を好きになるということではないだろうか。
 己の手ばかりを見詰めてぽつり、ぽつりと呟いて、彼は最後に誰かの顔を思い浮かべて頬を緩めた。
 照れ臭そうな、そしてとても嬉しそうな微笑みにカナコは目を丸くして、両手を頬に添えて驚きの表情を作った。
「だから僕はやっぱり、好きじゃない人、と、は…………」
 喋っているうちに段々現実が戻って来て、タクトは突き刺さる複数の視線に気付いて顔を上げた。結んでいた両手を解き、椅子の背もたれを肘で押して右を向く。
 教室内にいた、あらかたの生徒が、カナコと殆ど同じ表情をして彼を見ていた。
「――あ、あれ?」
 今が授業中だった事をすっかり忘れて、自分の考えを整理するのに夢中になっていた。目をぱちくりさせたタクトは次第に顔を引き攣らせ、乾いた笑いを浮かべて冷や汗を流した。
 ずっとチョーク片手に硬直していた教諭までもが、壇上から彼を唖然と見下ろしていた。
「あ、いや。あの、違うよ。これは、ね。そう、あくまで。あくまで一般論として、ね」
 全部聞かれていた。包み隠さず、今言える事の全てを。
 よりによってクラス全員に。
 ぼんっ、と真っ赤になったタクトに、静まりかえっていた教室が唐突に爆笑の渦に飲み込まれた。
「すげー。タクト、お前夢見すぎだろ、それ」
「タクト君ってば、乙女だったのねー」
「かーわいー」
 口々に囃し立てられて、彼は右に、左に首を振った。狼狽えて、茹で蛸よりも顔を赤くして白い煙を吐き出す。
 恥ずかしさのあまり涙目になった彼に、カナコはクスリと微笑んだ。
 廊下側最後尾に座っていた青年は、呆気に取られた顔をして、必死に言い訳を捲し立てている少年に見入った。
 走馬燈のように巡る記憶に、唇を戦慄かせる。
 一気に賑やかになった教室は、最早授業を再開させるどころではなくなっていた。教諭も諦めて、かなり短くなったチョークをケースにしまった。
 一時間目終了を告げるチャイムが鳴り響く。
 それでもなお、タクトの顔は赤いままだった。

2011/02/11 脱稿