清秋

 この時期の裏庭の掃除ほど嫌なものはないと、沢田綱吉は竹箒を構えながら思った。
「あー、もう!」
 寒風吹き荒ぶ中、素手で握らなければいけない箒は冷たい。悴む手に息を吹きかけ、血流の悪さから痒みを覚えて顔を顰めた彼は、折角掃いたところに落ちてきた茶色の枯葉に向かって怒号をあげた。
 右足で地面を強く蹴り飛ばし、自由の利く右手も振り上げて眦を裂く。頭の先からぷんすかと煙を吐いたところで、今し方落ちてきた葉が元の場所に戻るなんてことは、絶対にありえないのだけれど。
 分かっていても堪えきれない。此処にリボーンがいたなら、辛抱が足りないと言われそうだが、生憎とここは中学校で、外見赤ん坊の自称最強のヒットマンが気安く立ち入ってよい場所ではない。
 もっとも彼は、この中学校の最高権力者のお気に入りだから、姿を見かけたところで他の連中のように咬み殺されたりはしないのだろうが。
「なんで俺ばっかり」
 両手で柄の太い竹箒を握り締め、丸い先端に額を押し当てて溜息を。愚痴は自然と舌の上を滑り落ちて、瞬きした綱吉は足元に新たな枯葉が紛れ込んでいる様に肩を落とした。
 四ヶ月前まではあんなに青々としていた木々も、今や丸裸に近い。見目鮮やかな緑はすっかり何処かへ消え失せて、どの葉も物寂しさを覚える茶色に切り替わってしまっていた。
 モミジやイチョウのように、鮮やかに色付くのならまだ救いはあろうが、学校で紅葉が楽しめるという話はあまり聞かない。春になれば美しく咲き誇る桜の木でさえも、この季節は落葉が激しく、厄介者の仲間入りだ。
 真新しい制服に身を包み、期待と不安で胸膨らませながら迎えた入学式の時はとても綺麗に見えた桜が、今は恨めしくてならない。地面から頭を出している太い根を箒で引っ掻き、綱吉は他に誰もいない裏庭を振り返った。
 掃除当番は全部で四人居たのだが、誰もがこんな面倒な場所を嫌がって、綱吉が断れないのを良いことに押し付けて帰ってしまった。
 事の次第を知れば、獄寺などはダイナマイト片手に怒り狂うだろう。けれど彼だって、綱吉と同じ班でなければ、大抵の掃除はサボって帰ってしまうクチだ。
 真面目、というよりは気が弱くて人に嫌われたくないから、迎合主義で頼まれると断れない。決断力が弱いとリボーンは言うし、もっと強気に出ても誰も嫌ったりはしないと、山本も言ってくれてはいるのだが。
「はぁぁ……」
 一向に終わりが見えない掃き掃除に何度目か知れない溜息を零し、綱吉はすっかり様相が変わってしまった桜の木を仰ぎ見た。
 春先は花びらがいっぱいだったけれど、今は細い枝の間から覗く空に手が届きそうだ。
 試しに右手を広げ、伸ばしてみるが、指先は空を掠めるだけ。背筋を伸ばし、爪先立ちになってようやく、低い位置にあった裸の枝に中指の爪の先端が届くくらいだ。
「なにやってんだろ、俺」
 どんなにか頑張ったところで、空は遥かな高みにある。それは叶わない憧れに似て、永遠に彼の手には届かない。
 肩を引き戻し、広げた掌を顔の前に翳す。肌色は寒さの所為か白みが強く、指は短くて、とても小さい。
 緩く握り、自分の右頬を殴るような仕草をして軽く押し当てて手首を捻れば、ゴリゴリと肉の厚みを通り越して骨同士がぶつかり合う感触が脳に響いた。
 最後にまた広げた手で頬を撫で、乾いた唇を舐めて腕を下ろす。
 空には届かなくてもいい。空よりも少し低い位置にある雲にさえ届けば、それで。
「おなかすいた」
 ふっと脳裏に浮かんだ背中を打ち消すように、敢えて声に出して呟いて綱吉は箒を握り締めた。タイミングを見計らったかのように、裏庭と公道とを遮っている壁の向こうからは、石焼芋販売の長閑な声が聞こえて来た。
 のんびりとした男性の、語尾を伸ばす独特の節回しが彼の鼓膜を優しく叩く。途端に生唾が湧いて、腹の虫がぐう、と鳴いた。
「くっそー。さっさと終わらせて帰る!」
 気付かぬうちに、折角集めていた枯葉の山までもが風で崩されてしまっていた。逐一塵取りで掬い取るのも面倒で、一箇所にまとめてから袋に移し変えようと手抜きを試みたのが災いした。
 風に飛ばされぬよう、屈まずとも扱えるようにと、上に向かって持ち手が長い塵取りで押さえつけてある半透明のゴミ袋は、まだ空だ。
 裏庭自体も、とても広い。日当たりはあまり良くないのに植物が多種多様に繁り、小さな花壇まで設けられている。背の高い樹木は桜が多く、塀沿いに裏門まで、途切れる事無く続いていた。
 背後に広がる教室棟はまだ賑やかだが、それは掃除を終えた生徒が次々に鞄片手に帰って行く最中だからだ。あと十五分もすれば、一時の幻だったかのようにこの騒がしさも消え去るに違いない。
「教室のは、終わったのかな」
 自分を捨てて帰ったクラスメイトが憎らしい。青い空を隠している校舎を仰ぎ見て肩を竦めた彼は首を振り、次々湧いてくる文句を奥歯で擂り潰して飲み込んだ。
 こういうのは際限ないから、どこかで止めなければならない。気を紛らわせようと長く忘れていた箒を動かし始めた彼は、散らばる枯葉を掃いて集め、小ぶりな山をその場に作り上げた。
 いつの間にか焼芋販売の声も聞こえない。思い出して食べたかったと心の中で呟いて、綱吉は金属が軋む微かな音に視線を上げた。
「い~しや~きいも~」
 直感が錯覚だったかと思わせる絶妙なタイミングで、止んでいたアナウンスが再度流れ始めた。車が発車する前準備のエンジン音に、マフラーが唸る声までも。
 目を瞬いた綱吉の前で、塀の切れ目である裏門の向こうを通り、汚れた白色のトラックが走り去っていった。
 そして、今し方開けた門を後ろ足で蹴った雲雀が、小首を傾げて綱吉を見た。
「うん?」
 開いた口が塞がらない、とはこういう時の事を言うのだろう。まさしくその通りの顔をしている彼に眉目を顰め、雲雀は左手に抱えた袋を揺らした。右手には鍵が握られており、それで普段は閉鎖されている裏門を開けたのだろう。
 本当に神出鬼没な彼に苦虫を噛み潰したような顔を向け、綱吉は箒を強く抱き締めた。
「掃除?」
「ヒバリさん、それって」
 ふたり、ほぼ同時に声を放つ。綱吉の方がトーンが高い分、若干大きく響き、質問を無視された雲雀は、施錠を終えた鍵ごと片手をポケットに捻じ込んだ。
 箒から離れた綱吉の指が、宙を縦に泳いで彼の胸元を指示した。薄い茶色の、足元に多数散らばる枯葉の色にも似た紙製の袋であり、店名などは特に書き記されていない。
 しかしこの五分で彼が見聞きした情報を分析するに、中身はひとつしか思いつかない。
「ああ、これ?」
「……買い食いは禁止だって、ヒバリさん、いつも」
 人差し指を向けられた雲雀が、左手に持つものを上下に揺らして相好を崩す。どこか楽しげな表情に不満を露にし、綱吉は耳にタコが出来るくらい聞かされている、並盛中学校の風紀規則を諳んじた。
 中学校には、勉強に関係ないものは基本持込禁止。昼食の弁当以外の飲食物も、部活前の影響補給などの理由以外では基本的に駄目だ。
 登下校途中の買い物も、規則では禁じられている。
 そして綱吉の前で横柄な態度を崩さない人物は、他ならぬ並盛中学校風紀委員会、委員長その人だ。
「買ってないよ」
 指を伸ばし続けるのも辛くて、関節を折り畳んで脇に垂らした綱吉に、雲雀はくっ、と喉を鳴らして言った。
「嘘だ」
「本当だよ」
 校則違反を犯しているくせに、堂々として悪びれた様子は微塵も無い。他人に厳しく自分に甘い人は世の中には多いが、彼もそうだったのかと教えられて、綱吉は少しだけ幻滅した。
 雲雀だけは違う、と思っていたのだが、買いかぶりだったらしい。
 唇を尖らせて不満を露にしている綱吉に向かって三歩進み、距離を詰めた雲雀が右手をズボンから引き抜いた。紙袋を持ち替えて傾け、開きっぱなしの口から中身を綱吉に示す。
 濃い紫色の、凸凹した表面が見えた。
「やっぱり」
 あまり匂いはしないけれど、分かる。
「通り掛ったら、貰ったんだよ」
「また、そんな屁理屈言って」
 黒の学生服を羽織った青年が、悪戯っぽい笑みを浮かべて目尻を下げる。更に一歩半前に出て綱吉の進路を塞いだ彼に頬を膨らませて言うと、生意気だと伸びた手に鼻を抓まれた。
「いだだ、たっ」
 何かのスイッチを捻るみたいに、顔の中心にあるパーツを右に捩じられて、顔自体も右に傾く。箒を持った手を振って長い柄で彼の肘を叩いてやっと開放されて、じんじんする鼻を撫でると、食い込んだ爪の跡がくっきり残されていた。
 自然と浮いた涙を拭って睨み返して後退し、距離を取るが、雲雀の一歩の方がずっと広い。
「貰ったものを食べてはいけない、という校則は無いよ」
 また抓られてなるものか、と構えるが、伸びてきた彼の手は綱吉の警戒網を掻い潜って頭に降りてきた。
 大きな、綱吉よりも一.五倍はありそうな掌でくしゃくしゃに髪の毛をかき回される。
 四方八方を向いて跳ねている蜂蜜色の毛は、見た目に反して思いの外柔らかいのを、雲雀はとっくに知っている。今日もまた存分にその感触を楽しみ、元からぐしゃぐしゃだったのを更に酷い有様に作り変えて、喉を鳴らした。
 綱吉は不満顔を崩さず、恨めしげに雲雀を見て、左手を櫛にして全体の形を整えた。
「ああ言えば、こう言うんだから」
「他の子は?」
「もう帰りました」
 小声でぶつくさ文句を言い、箒で雲雀の影を払う。砂埃が薄く舞うだけで、黒いシルエットは綱吉の足元から消えることはなかった。
 二度目の質問にぶっきらぼうに言い返し、綱吉は山となった枯葉に目を向けた。そろそろ集めないと、また散らばって最初からやり直しを強いられそうだ。
 瞳の動きを追って同じものに目をやった雲雀も、気付いた様子で踵を返した。
 アルミ製の長い持ち手がついた塵取りを掴み、持ち上げて下敷きになっている真新しいゴミ袋を拾い上げる。
「ヒバリさん」
 てっきり手伝ってくれるのだと思い、綱吉はそれまでの不機嫌ぶりを忘れて顔を綻ばせた。
 しかし。
「なに?」
 雲雀はゴミ袋の口を手繰って広げると、その状態で塵取りに被せて固定して、片膝を折ってしゃがみ込んだ。
 唖然とする綱吉に返事をする傍ら、持っていた袋からまだ熱いサツマイモをひとつ取り出して、柔らかくふやけた皮を剥き始める。黄色い地肌を晒した紫の皮は、綱吉が持ち込んだゴミ袋の中へ吸い込まれていった。
 二の句が継げずに居る綱吉を見上げたまま、彼は薄く湯気を放つそれをひとくち齧った。
 まだ熱かったようで、雲雀の頬の膨らみが右に、左にとひっきりなしに移動する。口を何度か開閉させて荒熱を吐き出し、ひと息のうちに飲み干して、綱吉に比べると格段に立派な喉仏を上下させた。
 すぐさま二口目に突入し、あっという間にひとつ全部食べ切ってしまった。
 指についた屑を落とし、爪の間に潜り込んだ黄色い果肉を嫌がって渋い顔をする。けれどそういう顔をしたいのは、むしろ綱吉の方だ。
「何してるんですか、人のゴミ袋で」
「地面に捨てるよりは良いだろう?」
 手伝う気がないなら、紛らわしい事はしないで欲しい。たっぷり二分経ってから我に返った綱吉が苦情を申し立てるが、雲雀は山積み状態で放置されている枯葉の山を指差し、しれっとした顔で言い放った。
 揚げ足を取られてぐうの音も出ず、握り拳を震わせて綱吉は肩を落とした。
 どうせ雲雀には叶わないだの。口でも、腕力でも。
 心でも。
 溜息ひとつ吐いて胸の内に区切りをつかせ、彼は前髪を掻き上げたその手で塵取りを持ち上げた。ゴミ袋はまだ軽いが、雲雀が端を踏んでいるので風で飛ばされることはないだろう。彼が動き回らなければ、だけれど。
 それくらいは役に立ってくれるのを願い、綱吉は腰を屈めて姿勢を低くし、竹箒を右腕一本で操作しながら砂埃ごと大量の枯葉を塵取りに移し変えていった。
 雲雀はいったい、何個焼き芋屋からせしめて来たのだろう。綱吉が働いているというのに一歩も動こうとせず、次の芋を袋から取り出して、例の如く綺麗に皮を剥き始めた。
 ひとつくらい分けてくれても、バチは当たらないだろうに。しかし先に買い食い禁止の旨を指摘しているので言い出しにくく、綱吉は微妙にやりづらさを覚えながら、チラチラと芋を貪る雲雀を盗み見ては、気付かれる前に視線を逸らした。
 非常に分かり易い彼の反応に苦笑し、雲雀は甘いサツマイモを噛み砕いた。
 欲しいなら素直にそういえば言いし、手伝って欲しいのなら頼めばいい。だのに綱吉は表情にこそ出せど、言葉として吐き出さず、喉の手前で詰まらせて諦めてしまう。
 そんなだから小ずるい人間に利用されて、面倒ごとばかり押し付けられてしまうのだ。
 捲り取ったばかりの厚みのある皮を捨て、指にこびり付いた柔らかな果肉を歯で削る。舐めている瞬間に綱吉が振り返って、偶々目が合った。
「……っ」
 たったそれだけの事なのに彼は大袈裟なくらいに肩をビクつかせ、慌てた様子で雲雀に背中を向けた。箒を動かして忙しさをアピールするけれど、残念な事に彼の足元にはもう何も落ちていない。
 素直なのか、意地っ張りなのか。雲雀は寒風吹き荒ぶ中、時折寒そうに身を縮こませている綱吉に目尻を下げた。
 校舎は静まり返り、裏庭には最初から人気が無い。グラウンドで活動を開始した運動部の掛け声が遠く響くけれど、この場を盛り上げるには少し物足りない。
「沢田」
「なんですか」
「沢田綱吉」
「はいはい、なんでしょうかご主人様」
 箒片手に掃除の真っ最中だからか、邪魔をするなと言わんばかりに綱吉は低い声で冗談を、冗談と聞こえない口調で、振り向きもせずに告げた。
 これは雲雀も少し驚いて、意外そうに目を見開いてから喉を鳴らした。噛み砕いた焼き芋を喉に押し流し、胸元を軽く叩いて立ち上がる。足元ではガサガサと、中身の少ないゴミ袋が揺れた。
 対して綱吉の隣に陣取っている塵取りは、枯葉が満載でもうじき溢れそうだ。
 二つ目の焼き芋の、最後のひとくちを頬張って彼は自由になった右手を揺らした。左手に持つ、あと一個残すのみとなった紙袋は、蒸発する水分を吸って随分と萎びていた。
 袋の上からでも芋の形がよく分かる。流石にひとりで三つは多すぎると、紫に染まった爪を舐めた彼は大きな塊を半分に噛み砕いた。
 簡単に飛んで行きそうなゴミ袋を抓み、綱吉の鼻にしたように右に捻る。負荷は無いに等しく、軽々と持ち上げた雲雀は、浮ききらなかった底を地面に擦らせながら綱吉の後ろに近付いた。
 ザッ、ザッ、と砂を削る音がする。竹箒は硬く、乾いた土の上を走らせると細かい筋が出来ては消えて、彼が掃いた跡とそうでない場所は一目瞭然だった。
 落ち葉を集めるのに熱中しているようで、背を向け続ける彼は雲雀の接近に気付かない。
「綱吉」
「はー……いっ」
 もう少しで掃除が終わる。それが嬉しいようで、呼びかければ間延びした声で彼は緩やかに振り返り、間近に雲雀が居るのに驚いて零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 色鮮やかな琥珀いっぱいに、黒を纏った雲雀の姿が映し出される。
 身構える暇も与えず、雲雀はしっとりと微笑んで口角を歪めた。臆した綱吉は半端に捻った腰を元に戻そうとしたが、左手の人差し指一本で顎を固定されてしまって動けない。
「ひ……」
「お裾分け」
 顔を引き攣らせた綱吉が名前を呼ぼうとして口を横一文字に薄く引き延ばした。息を吐いて、吸う。その僅かな時間に囁き、雲雀は腰を屈め、綱吉の顔に影を落とした。
 柔らかな唇に軽く触れ、一瞬だけ離れて再び重ね合わせる。二度目のキスで気付いた綱吉が慌てて首を振ったが、本人が思うほど彼は動けていなかった。
 人差し指に伝わる振動に目を細め、雲雀が触れ合わせただけの唇を開いた。
 乾燥している分、僅かな水分だけで肌は張り付く。引きずられ、閉じようとした口を逆に開かされた綱吉が大粒の目を驚愕に染めた。
「……ふふ」
 鼻から漏れる呼気で笑って、雲雀はミリ単位で隙間を広げた綱吉の唇を舌で小突いた。上に向かって掬い上げるように動かして、柔らかな肉を弾いて硬い歯列を擽る。がっちり閉ざされた前歯の門を開放するように促す動きに、綱吉は背筋を粟立てた。
 冷たい風が吹く。竹箒を握る手が、痛い。
「んくっ」
 目を閉じるタイミングさえつかめなくて、綱吉は冴え冴えとした黒水晶に映る自分に顔を赤らめた。
 反射的に止めていた息が苦しく、我慢出来ずに吐き出して、吸い込む。同時に潜り込んできた温い熱に脳が悲鳴を上げて、綱吉は背筋を仰け反らせて逃げた。
 雲雀が追いかけて、ゴミ袋を掴んでいた手を広げる。十センチ弱舞い上がって近くの桜の幹に絡みついたそれを横目に見ながら、雲雀はへっぴり腰の綱吉の背に腕を回し、これ以上逃げられないよう拘束した。 
「んうぅ、ム」
 身を捩るが雲雀の押さえ込む力に叶うわけが無いと、本能が既に諦めている。形だけの抵抗を示した左手が黒い学生服を掴み、右手は力が抜けて、握られていた竹箒が地面に落ちた。
 二度弾んで転がりもせずその場に沈んだ箒が綱吉の爪先を叩き、それを合図にして目を閉じる。全身の力みを解いて歯列を開くと、押し入って来た雲雀の舌を通じ、甘い香りと味が咥内に広がった。
 分け与えられた唾液が舌の表面全域を濡らし、遅れて小指の先ほどの塊がごろん、と転がり込んできた。
「ン――ぅ?」
 反射的に押し出そうとして、雲雀の舌に阻まれる。奥へ、奥へ追い遣ろうとする彼の意図が汲み取れず、目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、綱吉は首を後ろへ倒した。
 苦しい。
 吐き出そうにも唇は端から端まで、針を通す隙間さえないくらいにがっちり咥えられている。咥内に溢れる唾液を飲むことさえ出来ず、息継ぎさえままならない辛さに涙が浮かんで、綱吉は雲雀の制服を掻き毟り、爪を立てた。
「は、んっ……ふぁ」
 無理をして舌の表面で塊を押し返し、雲雀のそれにこすり付ける。そうやって唇を奪い返した綱吉は、久方ぶりの新鮮な空気に喉を鳴らし、咥内に溜まった熱を吐き出した。
 瞬間、たっぷりの水分を吸った塊が、両側から加えられる圧力に負けて呆気なくつぶれてしまった。
「っ!」
 間に挟まっていたものが消え失せ、ざらついたものが直接粘膜に触れた。伝わってくる生温い熱と水音を響かせる感触に背筋が粟立ち、反射的に目を開いてしまった綱吉は、互いに口外に舌を出した状態で絡ませあっている自分たちに今更気付き、カーッと顔を赤く染めた。
 意地悪く眇められた黒い瞳に魅入られ、凍りついたように動けない。
 雲雀は声に出さず笑うと、硬直している綱吉の舌をぺろりと舐め、表面に残っていた元は黄色かった固体の残骸を掬い取った。
「んっ」
 肩を強張らせた綱吉がひと際大きく震え、どちらの分かも解らない唾液が冷たくなる前に口を閉じた。
 気の所為か、仄かに口の中が甘い。
 濡れて赤く色付いた唇に、最後にもうひとつ触れるだけのキスをした雲雀が、またも綱吉の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜて身を引く。火照った体を持て余し、右手が空っぽになっているのに気付いた綱吉は、慌てて膝を折って箒を拾い上げた。
「美味しかった?」
 両手で胸に抱くようにして持って、盾代わりにしながら雲雀に向き直る。けれど顔を上げて正面から見返す勇気がなく、俯いたままでいると、すかさず雲雀の指が伸びてきて、まだ湿っている唇をなぞった。
 何を指して言われているのか直ぐに理解出来ず、返事に困った綱吉が低い位置で視線を泳がせる。
「つなよし?」
 優しく語り掛ける雲雀の指は、繰り返し綱吉の唇をなぞって、時折悪戯に爪の先で肉を引っ掻き、小突いてくる。
 どう返事をすれば良いのかも分からず、彼は口の中に残る雲雀の熱と唾液と、一ミリとも無い細かな粒を飲み込んだ。あまり目立たない喉仏を上下させて、舌の端にまだこびり付いている甘味を前歯で削り取る。
 視線は宙を漂い、雲雀の胸元を這った。
「ぁ……」
 彼が抱きかかえる荷物を見て、思わず吐息が漏れた。雲雀の指の先を僅かに湿らせ、甘く噛んで舌で押し返す。
 潔く肘を引いた雲雀が黒光りする瞳を眇め、傾いていた紙袋を真っ直ぐに持ち直した。
 先ほど咥内に押し込まれたのは、他ならぬ焼き芋だろう。言われてみればそんな味がするけれど、あの時はゆっくり味わう暇などなかったし、今も唾液を大量に吸って原形を留めず、微妙に甘いという程度しか解らない。
 眉間に浅く皺を刻んで渋い顔をした綱吉は、両手で抱いた箒を強く握り、桜の根元まで飛んで行ったゴミ袋を振り返った。
「味なんて、わかんないです」
 正直に感想を吐露して、不遜な態度を崩さない目の前の青年に向き直る。頬を膨らませて不機嫌を露にするが、何故か雲雀は、そんな綱吉に嬉しそうにしていた。
「へえ?」
 相槌ひとつを打って、彼はふにゃふにゃになっている紙袋の口を広げた。最後のひとつ、摘み上げて尖った先端部分だけを覗かせて、綱吉が息を飲むのを確かめて引っ込める。
 見せびらかしただけの彼の意地悪さにムッとして、綱吉は八つ当たりで地面を掃いた埃を雲雀の足に振りかけた。
 子供っぽい仕返しに苦笑し、彼は肩を威張らせて胸を張る。
「それで?」
「む、う」
「僕に言いたい事は?」
 黙っていても時間の無駄で、言葉にしないと想いが伝わらないのは言われずとも分かっている。けれど、と僅かに臆して遠慮がちに視線を揺らし、綱吉はすまし顔の雲雀を恨めしげに見た。
 再度伸びた指に顎を掬われ、無理矢理上向かされて目線が重なる。
 意地悪な、けれど優しい瞳になにも言えなくて、綱吉はぐっと唇を噛み締めた。
「綱吉」
「味、なんて。そんあの、あんなんじゃ」
 ふいっと首を右に回して彼の視線から逃げ、しどろもどろに言葉を選びながら綱吉が言い連ねる。冷たい風が吹いて、跳ね放題の髪の毛がサワサワと音を立てて揺れた。
 雲雀は柔らかな日差しを浴びて、本来よりもずっと色を薄めた毛先に見入り、頻りに人の様子を窺っている臆病な恋人に目尻を下げた。
「あんなのって?」
「ぐ、うぬ……だから。さっきみたいなのじゃ、分かんない、です」
「それで?」
 皆まで言わせようとする雲雀に、泣きそうなところまで顔を歪め、綱吉は奥歯を噛み鳴らした。箒の柄部分を爪で引っ掻き、どこまでも意地悪な、この世で一番大好きな人に真っ赤な顔を向ける。
 琥珀色の瞳を潤ませ、彼は両腕を突っ張らせた。
「……だから。もうひとくちくださいって、そう言ってるんです!」
 馬鹿、と最後に付け足して、察していながら敢えて言わせる性悪に怒鳴り、綱吉は肩で息をしてはみ出た唾を拭った。
 一瞬きょとんとした雲雀だったが、直ぐに元の表情に戻って口角を歪めた。やっと素直になった彼に満足そうに笑み、喉を鳴らして湯気を噴いている真っ赤な愛し子に手を伸ばした。
 頭を撫で、軽く叩き、その手で綱吉の後方を指差す。
「それだけ?」
 問いかけが何を示しているのかも、分かる。呼吸を整えた綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして、暇そうにしている風紀委員長に口を尖らせた。
 どうやら今日は、機嫌が良いらしい。
「あと、……ん。出来れば、手伝ってください」
 躊躇が挟まって喉でつっかえた言葉を、噛み砕いて吐き出す。
「いいよ。終わらせて、早く帰ろう」
 すんなりと承諾を表明し、雲雀は待ち侘びていたと言わんばかりにガサガサ音立てているゴミ袋を拾いに行った。
 黒い学生服の袖がリズミカルに揺れて、緋色の腕章を留める安全ピンが西日を反射して眩しく輝く。
「帰るって、どっちに」
 綱吉の家か、或いは。
 中途半端な雲雀の台詞に思いを馳せ、綱吉は山盛りの枯葉に目をやった。
「ま、どっちでもいいか」
 どうせ彼と一緒に居られるというのは変わり無い、ならば極寒の雪山にだって行ってみせる。そんな事を考えながら、彼は塵取りに手を伸ばした。

2009/11/29 脱稿