欺惑

 吹き荒ぶ風に持っていかれ、首に巻いたマフラーが宙を舞った。
「うあっ」
 慌てて両手を首にやり、解ける寸前で捕まえる。二重に巻きつけただけだった細長い布は、折角自由になるチャンスを逃して残念そうに、端をバサバサ言わせながら背中に落ちた。
 すかさず前に回して、反対側の肩に向かって放り投げる。結んでいないので、直ぐに端が垂れ下がってくるのがネックだ。
「はー」
 短く息を吐いて一瞬項垂れ、すぐさま顔を上げた綱吉は、雲ひとつないように見えてどうにも色が暗い青空に肩を竦めた。
 綺麗に晴れているはずなのに、夏の空に比べると少しだけ色がくすんでいる。それはきっと、太陽があまり高い位置まで行かず、届く光も弱いからだと考え、彼はマンホールの蓋を飛び越えて向こう側に着地を果たした。
 厚手のコートを羽織っていても、肌寒い。手袋もしてくるべきだったかと、袖から覗く細い指を見下ろして考える。
「まあ、いっか」
 どうせ大した用事ではない。懸賞葉書を郵便ポストに投函して帰るだけだから、そんなに時間も掛からないはずだ。
 コートのポケットに忍ばせた厚紙を上から撫で、気になって抓んで一寸だけ頭を引っ張り出す。五十円切手がちゃんと貼り付けられているのを確認した彼は、安堵に白い息を吐いた。
 季節はすっかり冬、毎日が兎に角寒い。布団、ストーブ、炬燵という新しい仲間を手に入れた綱吉は、最早彼らと切っても切れないところまで関係を深めていた。
 葉書を元に戻し、ぽん、とポケットを叩いて背筋を伸ばす。当たりますように、と祈りを込めて、彼は一歩一歩着実に前に進んだ。
 赤いポストは近所には無くて、ちょっと歩かなければならないので最近までとても不便だった。だが、今は違う。ポストに行く半分の距離で、彼の目的は達成できるようになった。
「うー、赤か」
 渡ろうとした直前、大通りの信号が点滅を開始し、赤に変わった。それまで道を遮るものはなく、順調に進んでこられただけに、失望は大きい。
 ケチがついたような気がして、彼は八つ当たりに右足で空気を蹴った。
 片側二車線と一車線が交差する、四辻。この近辺では比較的大きい交差点の斜向かいに、綱吉の目的地はあった。
 大きめの駐車場に、横に平べったい建物。通りに面した前面の殆どが透明で、内部は丸見えだ。外向いて数人の男性が立っているが、どの人も一様に目線は下だった。
 土曜日というのもあってか、車も人の通りも、それなりに多い。建物に出入りする人の数も、信号待ちの間に三人を数えた。
 何時からかは判然としないが、街中にあるコンビニエンスストアでも郵便物を受け付けてくれるようになって、既に久しい。レジの横に小さな、悪く言えばちゃちなポストが設置されて、そこに投函すれば郵便局員が回収に来て、宛先の住所まで配達してくれる。
 何故もっと早くそうしなかったのか、と毎日聞くとも無しに眺めているニュース番組を思い出しながら、彼は信号が青に変わると同時に駆け出した。
 さっさと帰って、ゲームの続きをしよう。好き好んで寒い外に居続ける理由は無いと、勢い勇んで車道を渡りきって歩道に入る。ちょっとした段差を靴の裏で敏感に受け止めながら、下向かせていた視線を持ち上げた。
「あ」
 丁度店の自動ドアを潜り、お客がひとり帰るところだった。右手に白い袋をぶら下げ、左手には同じく白い物体が握られている。
 その若い男性は、綱吉が見ているとも知らずに大きな口をあけると、満面の笑みで丸みを帯びた物体に齧り付いた。
「あー」
 いったい何かと思っていたが、なんてことは無い。
「肉まんだ」
 思わず声にも出して呟き、綱吉は無意識に湧いた唾を飲み込んだ。
 その人は自転車の前籠に袋を放り込むと、鍵を外して器用に片手運転で車道を走り去っていった。食べながらとは行儀が悪いが、事故を起こさなければそれも良かろう。
 遠目に眺めただけだったがふっくらとした皮に、ジューシーな肉汁のコンビネーションが脳裏に思い浮かび、満腹に近い状態であったに関わらず、空腹感が彼を苛んだ。
 コートの上から上下に撫でて、残りの手で口元を拭う。一度気になり出したら止まらず、彼は財布を捜してポケットを叩いた。
 しかし、手応えらしいものは無い。
「あう、そうだよ。持って来てないよ」
 家を出る際、ポケットに入れたのは葉書一枚だけで、他は必要ないからと置いてきたのだった。持ち歩けば、きっと買い食いに走ってしまう。そういう自戒も働いた。
 だが、今はその戒めがひたすら邪魔だった。どうして五百円玉硬貨一枚くらい持ってこなかったのかと、後悔が胸を過ぎる。
 十分前の自分が恨めしくてならない。歩道の真ん中で地団太を踏み、いっそ今から取りに帰ってやろうかという気にさえなった。
 たかだか肉まんひとつに大袈裟だと、冷静になって考えれば誰だってそう思うだろう。しかし今の綱吉の頭の中は、ホカホカの肉まんでいっぱいだった。
 どうにかしてこの欲求を満たせないものか。親指の爪を噛み、晴れ渡る青空を睨みながら考える。
 いつの間にか白い綿雲がひとつ、ぷかぷかと大空の真ん中を泳いでいた。
「邪魔だよ」
「うわっ」
 前方にばかり意識が向いていて、後方からの呼びかけは完全に想定外だった。素っ頓狂な声をあげて飛びあがり、五十センチばかり移動を果たした綱吉の滑稽なポーズに肩を竦め、声を掛けてきた青年は苦笑交じりに小首を傾げた。
 黒の学生服を羽織り、空っぽの左袖には腕章が。臙脂色のそこに記された「風紀」の文字を見るまでもなく、声だけで、綱吉には相手が誰であるのか分かっていた。
 神出鬼没にして、傲岸不遜。天上天下唯我独尊を地で行ってしまえる人物の登場に、肝が冷えると同時に心の中に春の嵐が吹き抜けた。
「ヒバリさん!」
 よもやこんなにも都合よく現れてくれようとは、天が味方したとしか思えない。一瞬前の強張った表情を消し、目をキラキラ輝かせた彼に逆に雲雀が吃驚して、嫌な予感を覚えて背中に冷たい汗を流した。
 声を掛けたのを早々に後悔しながら、咳払いを間に挟む。それでハッとした綱吉は、照れ臭そうにしながら浮かせていた踵を下ろし、胸の前で両手を小突き合わせた。
 媚を含んだ甘えた視線を彼に投げ、もぞもぞと腰を揺らして数ミリずつ擦り寄る。
 一歩半後退した雲雀の後ろを、自転車が一台、猛スピードで走り抜けていった。
 風に煽られた学生服を押さえ、歩道の中央を占領している自分たちを思い出してムッと口を尖らせる。不機嫌に歪んだ表情を見て綱吉も気付き、歩道より十センチほど低くなっている駐車場の片隅に移動を果たした。
「……それで」
「はい?」
「なに」
 用があって名前を呼んだのではないのかと、肘で小突かれて綱吉は丸い目をより丸くした。
 数秒の間隔が開いただけでもう忘れてしまっている彼に閉口し、雲雀が大仰に肩を竦める。その、人を小馬鹿にした態度に頬を膨らませ、直後に思い出した綱吉は、怒っている場合では無いと考え改め、自分の太腿を殴ることで気持ちを誤魔化した。
 わざとらしい咳払いを二度繰り返して、心を鎮めて改めて雲雀を見詰める。
 真剣な眼差しに、雲雀は右の眉を僅かに持ち上げた。
「ヒバリさん、あの。二百円、貸して下さい」
「……」
 スッと音もなく右の手を差し出しながら、至って真面目な顔をして言った彼に眉間の皺を深め、雲雀は即座に回れ右をした。
 学生服を翻して無言で立ち去ろうとする彼に縋りつき、綱吉が半泣きになりながら足を突っ張らせる。
「待ってー、待ってくださいってばー」
 せめて話を最後まで聞いてくれと訴え、声を大にして叫ぶ。通行人はそれなりに多くて、何事かと真っ昼間からの喧騒に興味津々の目を向けられた雲雀は、僅かに頬を染めて苦虫を噛み潰したような顔をした。
 引っ張られて学生服が肩から外れそうになり、仕方なく前に出していた右足を戻して真っ直ぐ立つ。
「二百円?」
「はい」
 そんなはした金、どうするのか。怪訝にしながら鸚鵡返しに聞くと、綱吉は元気良く頷いて、恥ずかしそうにコンビニエンスストアに視線を投げた。
 もじもじ手を揉みながら、ちらり、ちらりと視線を泳がせる。
 はっきしりない態度に苛々して、雲雀は右手を腰に当てた。
「どうして」
「ええっと。直ぐに。家に帰ったら直ぐに返しますから」
 使用目的を聞いているのに、てんで見当違いの返答がなされて、雲雀は益々顔を顰めた。
 その程度の金額ならポケットに入っている。だが、何故今必要なのかを教えてもらえない限りは、貸せない。
 気難しい表情を崩さない雲雀を上に見て、綱吉は唇を舐めた。言い辛そうに膝を擦り合わせ、コートの裾を握って数秒黙り込む。
「沢田」
「あの、えっと。……お腹空いちゃって」
「家に帰ればいいだろう」
「それはそうなんですけど。でも、なんていうか、今直ぐ食べたいっていうか、家じゃ食べられない、というか」
 冷淡な相槌に咄嗟に顔を上げ、しどろもどろに言い連ねて綱吉は両手で空気を掻き回した。
 遠回しに説明しようとするが、肝心の部分をぼやかしているのでなかなか伝わらない。視線は雲雀とコンビニエンスストアとを行ったり来たりして、一箇所に留まることはなかった。
 やけに他を気にしているのだけは分かって、雲雀は綱吉の注意が何度となく向かう場所に目をやった。白い外観の店と、二百円という半端な金額から色々な候補を模索する。
 ジュースが欲しければ、喉が渇いたと言うだろうから違うだろう。ならば胃袋に入れる固形物で、その額で届くもの。綱吉はスナック菓子が好きだからそのどれかかと考えるが、今此処で食べたい、と主張するに値するものなのかどうかまでは、不明だ。
 自宅に帰っても手に入らず、コンビニエンスストアでしか手に入らないもの。
 奇怪な謎かけに首を振り、雲雀はそわそわしている綱吉の額を小突いた。
「はっきり言いなよ」
 痺れを切らし、正解を求める。綱吉は長い指越しに恨めしげな視線を投げ、
「だから……肉まんおごってください!」
 大声でハキハキと、先ほどとは若干異なるニュアンスをもって叫んだ。
 言った直後に唇を噛み締め、恥ずかしそうに琥珀の目を泳がせる。朱の走った頬に右手を押し当て、ごしごし擦るのは照れ隠しだろう。
 目をあわせようとしない彼に相好を崩し、雲雀はなるほど、と小さく頷いた。
 それならば理解出来る。確かに肉まんの買い置きがある家の方が、よっぽど少数派だろう。
「肉まん、ね」
 ぼそりと呟いて、まだ恥じ入っている綱吉を下に見る。彼は時折前髪の隙間から人の様子を窺っては、コートの裾を両手でこね回していた。
 いじらしい姿に苦笑して、柔らかな蜂蜜色の髪を軽く撫でる。
「おいで」
「えっ」
 そのまま前に出た雲雀が残した台詞に、綱吉はスッと背筋を伸ばして振り返った。
 黒い学生服をはためかせ、雲雀が迷いのない足取りで店の入り口に向かっている。町内でも指折りの有名人である彼の姿を見て、自動ドア脇に座り込んでいた数人の男子高校生が、慌てた様子で逃げていった。
 人気の無くなった入り口を潜り抜け、雲雀が店内へと姿を消す。ドアが閉まる直前に彼が振り向くのが見えて、綱吉は弾かれたように走り出した。
 まさか本当に、買ってくれるというのか。彼に遅れる事十秒後、暖房の利いた店内に足を踏み入れた綱吉は、レジ横で待っていた彼の隣に並び、保温器を前に見て両手を握り締めた。
「どれ」
「え、……と。良いんですか?」
 自分から頼んだくせに尻込みして、恐る恐る傍らを窺う。定規でも入れているかのように背筋をピンと伸ばした雲雀は、綱吉の質問が不服だったようで、若干気を悪くした顔をした。
 見下ろしてくる視線の険しさに首を竦め、顎をマフラーに埋めたまま彼はゆっくり人差し指を伸ばした。
 一番美味しそうだと思ったのは当然値段が高くて、雲雀に頼んだ二百円の上限を軽く上回っている。さすがにこれを注文するほど度胸は無くて、綱吉は数秒の逡巡を経て、結局オーソドックスな、価格も最も安いものを選択した。
 見守っていた雲雀が、店員に目で合図する。即座に反応した制服姿の男性は、若干慌てながら扉を開け、四角形の紙に包んだ肉まんを差し出した。
 無言で肩を押された綱吉が、会釈をしてから両手で受け取る。入れ替わりに雲雀が前に出て、後ろポケットから革の財布を抜き取った。
 畏まる店員にちゃんと設定価格を支払い、釣銭とレシートを受け取って、最後に綱吉に聞こえないところで何かを囁いた。
 保温器を指差して、二言、三言告げた彼に大仰に頷き、店員は慌てて横っ飛びで往復する。
「ヒバリさん?」
「今行く」
 綱吉を見ぬまま言って、彼は差し出されたものを素早く握って拳に隠した。ポケットに財布を捻じ込み、学生服の表面を撫でて埃を払ってから革靴で良く磨かれた床を蹴る。
 歩き出した彼を見て、綱吉も興奮に頬を染めながらドアを潜った。
 外に出ると冷たい風が吹き、またマフラーを持っていかれそうになる。すっかり懸賞葉書のことも忘れ、彼は満面の笑みで続けて出て来た雲雀に向き直った。
「ヒバリさん、あり――」
「しっかり持ってて」
 あまり期待していなかっただけに、成果は大きい。紅色に頬を染め、礼を言おうと口を開く。
 それを遮り、雲雀は先ほど店員から受け取ったものを両手で挟み持った。
 反射的に綱吉は、手にしていた肉まんをサッと前に出して掲げた。ホカホカと沸き起こる湯気越しに、何をするつもりなのかと雲雀の手元を注視する。
 次の瞬間、彼は顔を強張らせ、悲痛な叫びを上げた。
「うぇえええぇぇぇー!」
 練り辛子の袋を破いた雲雀が、一気に中身を搾り出したのだ。
 濃い黄色の線が、湯気を立てる真っ白い生地に縦横無尽に走り抜ける。時に渦を巻き、時には左右に大きく翼を広げ、練り辛子は包み紙から見える範囲の大半に触手を伸ばした。
 更に雲雀は、殆ど空になった辛子の袋の切り口を下向け、肉まんの表面に満遍なく塗りたくった。無地のキャンパスは一瞬にして黄色く染められて、わなわなと震えながら綱吉は前に立つ青年を仰ぎ見た。
 ぽかんと口を開いた間抜けな顔のまま、瞬きを三度ばかり連続させる。
 雲雀は役目を終えた辛子の袋を舐め、ピリピリ来る刺激に苦笑した。
「な、なんで……」
「頂きます」
 言葉も出ない綱吉を置き去りに、雲雀は腰を曲げると身を屈め、両手を使わずに肉まんに齧り付いた。
 思わず綱吉が肘を引っ込めたので、狙った程沢山は噛み千切れない。黄色一色だった中に若干の白みが戻り、尚且つ中に詰められていた豚肉の黒みも姿を現した。
 唇に付着した辛子を拭った雲雀が、背筋を伸ばして数回咀嚼する。平然と、何事も無かったかのような顔をして、凍り付いている綱吉の手から二口目も奪い取った。
 肉の露出部分が増える。はっとして俯いた綱吉の前で、雲雀は黒髪を冬風に靡かせながら次の辛子の袋を破いた。
 当たり前のように、表に出た具材の上にもたっぷり搾り出してしまう。
「え、ええ、ええー」
「ちゃんと持っててよね」
 目の前で繰り広げられる出来事が信じられず、唖然とするより他ない綱吉を叱り、雲雀は噛み千切ってしまった包み紙を吐いた。
 二つ目の辛子袋も空にして、最後の一個を揺らす。半分に減った肉まんと、彼の手元とを交互に見た綱吉は、咥内にあった空気を唾と一緒に飲み込んだ。
「なんで。ヒバリさん、俺、辛いの苦手なの」
「知ってるよ」
「だったら」
 中学生になった今でも、握り寿司でワサビを抜いてもらうような味覚の持ち主である綱吉にとって、この辛子攻勢は非常にきついものがある。こんなにも大量に塗られたら、ひとくち齧るのも困難を極めよう。
 半泣きになって訴えるのに雲雀は何処吹く風で、綱吉の手ごと肉まんの包み紙を掴むと、半月状の片端を引っ張りだしてそこにも辛子を落とした。
 ひっ、と息を呑んだ綱吉が、空気に混じって流れてきた辛味に頬を引き攣らせた。
 たったそれだけなのに目尻に涙が滲んで、慌てて瞬きを頻発させた彼に、雲雀は喉を鳴らした。
「僕はひと言も、君にあげる、とは言ってないけど?」
 語尾を僅かに持ち上げ、せせら笑いながら辛子を具にしみこませる。通りすがりの人が奇異な目を向ける中、彼は平然と身を屈め、綱吉の手から肉まんを齧った。
 確かに彼は、綱吉の借金の申し出に対し、承諾の意を言葉で表明しなかった。奢ってくれとの要望にも、「おいで」と誘っただけで、明確な回答を出していない。
 だが態度や、後に続く行動から、奢ってもらえると綱吉が勘違いしても可笑しくない。
 一杯食わされたのだと気付いた時にはもう、綱吉の掌中に残る肉まんは、あとひとくちで終わりそうなサイズになっていた。
「うぅぅ……」
 恨めしげに雲雀を見るが、彼は涼しい顔をして唇を拭っている。あんなに大量の辛子を消費しているに関わらず、ちっとも感じていないのか、表情に目に見える変化は無かった。
 ただ少しだけ、額に汗が滲んでいた。さしもの彼も、ちょっとは暑いらしい。
 襟元を手で煽って風を送り込んだ雲雀は、まだ奥歯を噛み締めている綱吉に肩を竦め、残り僅かな肉まんを見詰めた。
 辛子はもう品切れだ。歯型の残る肉まんには、雲雀の唇から移った分が少しだけこびり付いているが、それもごく少量だ。どれだけ辛いものが苦手とはいえ、他と混じってしまえば分からない程でしかない。
 だのに綱吉は、完全に腰が引けてしまっていた。
「ヒバリさん、酷い。意地悪だ」
「簡単に騙される君が悪いんだよ」
 上目遣いに睨んでくる彼にしれっと言い返し、雲雀は奥歯の間に挟まった具を舌で穿りだして飲み込んだ。空袋三つをひとまとめにして、店の前にあるゴミ箱に放り込んで戻って来ても、綱吉は最後のひとくち分を前に地団太を踏んでいた。
 食べればいいのにそうしないのは、悔しさもあろうが、辛子たっぷりの光景が目に焼きついていているからだろう。
「要らないの?」
「食べ……たくないっ」
 問えば彼は一瞬迷い、吐き捨てるように叫んだ。
 本音を言えば食べたい。けれど、もし辛かったら嫌だから口に入れたくない。そういう複雑な心境を覗かせる彼に肩を揺らし、雲雀は楽しげに喉を鳴らした。
「じゃあ、全部食べて良いんだ」
「それは、……」
 背筋を後ろに反らし気味に言えば、尚も言葉を重ねようとしていた綱吉は途中で口を噤み、視線を脇へ逸らした。
 雲雀に横顔を向け、時折手元を盗み見る。
 今更家に帰って少額を掴んで此処に戻って来るのも、癪だ。かといって、辛子の臭いが染み付いた塊を口に放り込む勇気も無い。
 とことん意地の悪い雲雀を横目で睨んで、彼は生唾を飲み込んだ。
 食べたかったものをこの手にしながら、お預けを食らい続ける切なさというものを、この男は理解していない。空腹感は強まって、彼は食べ物の代わりに己の唇を噛み締めた。
 目尻を下げた雲雀が、声を殺して笑った。
「いらないんだね」
「いっ、……要らない、です」
 重ねて質問されて、綱吉は強がって頷いた。唇を嘴のように尖らせ、ひとり楽しんでいる雲雀に臍を噛む。許されるなら足を蹴るなり、ボディーに一発入れるなりしてやり返したいところだが、相手が相手だ、返り討ちに遭う危険性が非常に高い。
 勝てない喧嘩をするほど馬鹿ではなくて、彼は諦めるしかない状況に深い溜息を吐いた。
 肩を落とす彼に一寸だけ首を傾げ、雲雀は綱吉の手から包み紙を引き抜いた。
 琥珀の瞳が上を向く。潤んで艶を強めた眼差しに微笑みかけ、かなり冷めている肉まんの欠片を素手で摘み上げる。
「ふぅん」
「いいです、要らないです。辛いの、……やだし」
 まだ未練はたっぷり残しながらも、振り切るように綱吉が早口で捲くし立てた。やや上擦った声を聞きながら、雲雀は厚みのある白い皮に爪を立て、辛子が付着している箇所を探して左右に回転させた。
 豚肉の合間に、ちょっとだけもぐりこんでいる。他は包み紙に覆われていたのもあって、無傷だ。
 手元から下に視線を移し変えると、目が合う寸前で綱吉はハッと顔を背けた。空っぽになった手でコートの裾を強く握り締め、膝をぶつけ合わせてもぞもぞと揺れ動く。
 確かに少々臭いが移ってしまっているとはいえ、練り辛子にそこまで浸透力はない。何を臆することがあるのかと心の中で笑い、雲雀は爪先でアスファルトの地面を叩いた。
 気付いた綱吉が顔を上げる。真ん丸い琥珀の目が自分を見たと知るや、雲雀は抓んだ欠片を顔の前に持って行った。
「あっ」
 ぱっくり口を開いた彼の前で、窄めた唇の先に、辛子の残る箇所を押し付ける。
「ん」
 空気を噛んだ綱吉が背伸びする。鼻から漏れた声に苦笑し、雲雀は肉まんを食べずに手を下ろした。
 軽く口付けた食べ物を、唖然としている少年の前で揺らす。
「食べる?」
 辛子はまだ残っている。水分を吸った皮は凹んで、買った直後のホカホカ感はすっかり消え失せていた。
 訊かれて、綱吉は絶句し、直後弱りきった表情で下唇を突き出した。
 意地悪く眇められた瞳に見詰められ、胸の奥がもぞもぞしてならなかった。
「た、べ……る」
 恥ずかしそうに瞳を泳がせ、蚊の鳴くような声で言う。
 破顔した雲雀によって口に押し込まれた肉まんは、餡子でも使っているのかと思えるくらいに、異様なまでに甘かった。

2009/11/29 脱稿