白い綿雲がぷかぷかと優雅に泳ぐ、昼下がり。ラジオから流れる軽快な楽曲に肩を揺らし、綱吉は大きく伸びをした。
欠伸を噛み殺して目尻の涙を拭い、遅々として進まない宿題から目を逸らす。握っていたシャープペンシルを机に転がした彼は、真後ろで不穏な気配を漂わせた存在に冷たい汗を流した。
「やってるよ、やってますってば」
慌てて腕を戻し、椅子に座り直して手放したばかりのペンを拾い上げる。右手で握り締めてアルファベットが居並ぶ書面を眺めるが、解読不能な異国語に五秒と経たず眠くなった。
窓から差し込む日差しは穏やかで、ガラス一枚を経ているお陰か温かい。屋外の気温は鳥肌を覚えるほどに低いのだが、室内に居る限り寒さに震える必要はなかった。
リボーンが舌打ちと共に拳銃を引っ込めるのを背中で感じ取り、ホッと胸を撫で下ろして綱吉は辞書を探して宙に左手を泳がせた。
十センチ近い厚みのあるそれは、中学入学と同時に奈々が買い与えてくれたものだ。手垢がついて汚れ、小口部分は捲りすぎて膨らんでいるが、指に馴染んで扱い易く、新品を購入する気にはなれなかった。
黄色いおしゃぶりを首からぶら下げた赤ん坊が来るまで、この辞書は殆ど広げられた事が無かった。
どうせ勉強したところで解らない、授業にもついていけない。小学校の頃からそうだったのだから、今更努力したところで何も変わらない。そんな風に決め付けていたのだけれど、リボーンが現れて、その後ろ向きな思考回路を悉く粉砕された今は、死ぬ気になればなんだって出来ると、心構えも随分変わった。
ただ、頭の回転の鈍さだけは相変わらずで、毎日出される大量の宿題には、何時まで経っても四苦八苦させられた。
「うう~」
長文を和訳するよう求められているのだが、単語自体の意味は分かっても、これらを繋ぐ助詞の訳し方が分からない。どうしてこんな短い単語ひとつで、十以上の解釈が用意されているのだろう。蜂蜜色の髪の毛を掻き回して、綱吉は喉の奥で呻いた。
顎を机に押し付け、背中を丸める。真っ白いノートに突っ伏して懸命に考えるが、分からないものは解らないのだから、仕方が無いではないか。
「ツナ」
「サボらずにやってるだろー!」
「違うぞ。ママンが呼んでる」
英語に慣れる為という理由のもと、さっきからラジオから聞こえる唄もすべて洋楽だ。何を言っているのかはさっぱりだが、リズムは良い。どこかで聞いた覚えのある楽曲なら、サビの部分だけ口ずさめたりもした。
その音に紛れてしまって、階下から綱吉を呼ぶ声が聞こえなかった。
「え?」
椅子ごと振り返った彼が耳を澄ますと、確かに奈々の声がする。時計を見れば午後三時まであと十分と無い。
「なんだろ」
「オヤツだな」
「ああ、そっか」
壁に向けた視線を戻した綱吉が、リボーンの言葉に頷いて椅子から立ち上がった。一足先にドアを開けた赤ん坊に続き、部屋の灯りを消して廊下に出る。
ランボやフゥ太がはしゃぐ声も聞こえるので、リボーンの予想でどうやら間違い無さそうだ。いつもより少し早いけれど、オーブンが鳴ったから、それにあわせたのだろう。
「どうなってるかな」
午前中、台所で繰り広げられた騒動を思い出して、綱吉はワクワクしながら呟いた。
前を行くリボーンは返事をくれなかったが、一段ずつ降りて行くその足取りは心持ち早い。
玄関には潰した段ボールが立てかけられていた。茶色地に赤で書かれた平仮名三文字を心の中で声に出して読み取り、子供たちの騒ぐ台所の暖簾を潜る。
香ばしい匂いに喉を鳴らし、綱吉は待ち構えていた奈々に微笑み返した。
「はい、これ。ツッ君の」
「ありがと。……俺の席」
「宿題がまだ終わってねーだろ」
白い皿に盛られたケーキを受け取って、食事時に使っている椅子に目をやるが、先客が居た。颯爽と人の椅子を占領したリボーンに手厳しいことを言われ、奈々からも本当なのか問う視線を投げられた綱吉は、渋い顔をしてそれを返事の代わりにした。
焼きたてのパイ生地の間に、黄金色の果実がいっぱい押し込められている。ホールで焼いて八等分してあるに関わらず、かなり大きい。
「ちぇ」
「ツナー、要らないんだったらランボさん、貰ってやるぞ」
「要るよ。食べるって」
皿を持ったまま台所の出入り口前に立ち続ける彼に向かって、フォークを片手にランボが手を伸ばして来た。
もじゃもじゃ頭に白黒の斑模様の服を愛用する五歳児の前にも、温かなケーキが置かれていて、既に半分減っていた。砕けたパイ皮が皿をはみ出してテーブルいっぱいに広げられており、口の周りにも粕がこびり付いていた。
奪われるのは絶対に嫌で、背伸びしても届かない高さまで皿を掲げて綱吉は口を尖らせた。拒否されたランボは椅子の上でじたばた足を揺らし、寄越せと騒ぎ始めたが、静かに食べないと残りを没収すると奈々に言われ、途端に大人しくなった。
現金な性格の彼に苦笑を禁じ得ず、フォークを探して視線を泳がせる。
椅子はすべて埋まってしまっており、此処で食べようと思ったら床に腰を下ろすか、立ったまま食べるしかない。
「ちぇ」
どうやら部屋に戻るしかなさそうだ。ランボに奪われる心配はなくなるが、一向に終わりが見えない宿題を前に食するのも、楽しくない。
「はい、紅茶も」
「ありがと」
奈々はといえば、既に綱吉が自室で食べると決め切ってしまっていた。盆に乗せた紅茶のカップを渡されて、そちらにケーキの皿を移し変えた綱吉は、銀色のフォークを食器棚から確保して肩を落とした。
突き刺さるリボーンの視線が痛い。
「分かったってば、もう」
「俺が見てねーからって、サボんなよ」
早く行けと言われているようなもので、渋々踵を返すと背中にチクリと小言が突き刺さった。
思わず首を亀のように引っ込めた綱吉は、見透かしている赤ん坊を恨めしげに振り返り、降りて来た時とは正反対の重い足取りで階段を登った。
閉めずにおいたドアを開け、前髪を擽る微風に眉根を寄せる。窓は鍵こそ外していたが、隙間風が入らぬように閉めてあったはずだ。
「あれ」
だのに正面を見れば、ベランダに通じる窓は開放され、カーテンがひらひらと蝶の羽のように揺れていた。
最後に部屋を出たのは綱吉で、家の住人は全員台所に揃っていた。だから綱吉の不在時に、居候の誰かが入り込んで窓を開けた可能性はゼロに等しい。
膨らんでは凹み、一秒と同じ形をしていない布を呆然と眺め、綱吉は冷たい汗を背中に流した。
「冷めるんじゃない?」
涼しげな声が右手から響き、覚悟はしていてもドキリとするのを止められず、彼は盆を持ったまま全身を竦ませた。カップの中で湯気を立てる紅茶が波を打ち、陶器の皿とぶつかり合って微かな音を響かせる。
恐る恐る右手を見れば、案の定だ。
「ひ、ヒバリさん」
「やあ」
綱吉の部屋に、主の断りなく勝手に窓から入ってくる人は、ひとりしかいない。人のベッドに悠然と腰掛けた学生服の青年が、右手を軽く掲げて横に振る姿に、綱吉は顔を引き攣らせ、肩を落とした。
どうして玄関から、呼び鈴を鳴らして入って来ないのだろう。ベランダをよじ登るより、門を潜って奈々がドアを開けるのを待つほうがずっと楽ではないか。
そう思うのに、何故だか雲雀は労力が必要な方を敢えて選んでいる。学生服を肩から羽織った彼は、右を上にして脚を組み、綱吉に座るよう指先だけで指示を出した。
言われるまでもなくそうするつもりで、ややムッとして綱吉は部屋の真ん中にあるテーブルに持って来た盆を置いた。本当は勉強机まで行くつもりでいたが、雲雀の所為で奥まで行く気が失せた。
リボーンに見付かったら怒られそうだけれど、予約なしの訪問者の顔を見れば、許してくれるだろう。きっと。
「準備良いじゃない」
「ヒバリさんの分じゃないです」
誰も居ない部屋で待っていたら、紅茶が届いた。雲雀が喉を鳴らして笑うが、彼が来るなど思っても見なかった綱吉は頬を膨らませ、分けてなどやらないと盆の前に右手を突きたてた。
「分かってるよ」
カップも、ケーキも、ひとり分しか無い。最初から来客用でないのは、見ただけで分かる。
冗談で言ったのだと、真に受けた綱吉を笑い飛ばし、雲雀は脚を組み替えてソファに右手を沈めた。
「むう」
からかわれた綱吉は頬を膨らませ、尖らせた口から息を吐いた。
「それ、アップルパイ?」
「あ、はい」
けれどトーンを上げた雲雀の質問に、あっという間に機嫌を取り戻してしまう。理由がどうであれ彼が訪ねて来てくれたのは嬉しいし、会話が弾むのは楽しいからだ。
勢い良く頷いて、綱吉は盆から下ろした皿を半回転させた。
店で買って来たのではなく、奈々自らが焼いたものなので少々不恰好であるが、味は折り紙つきだ。見ているだけでおいしそうで、生唾を飲んだ綱吉の興奮している横顔を見下ろし、雲雀は後ろに傾けていた姿勢を前のめりに作り変えた。
「どうしたの?」
「お隣さんが、田舎から大量に送られて来た奴、おすそ分けしてくれたらしいんです」
玄関に置いてあった段ボールを思い浮かべ、綱吉はフォークを抓んだ。紅茶のカップも盆から下ろし、温くなっている液体から雲雀に視線を向ける。
「食べます?」
彼があまり甘いものを好まないのは知っているが、念のために問うて、綱吉は皿をちょっとだけ持ち上げた。
「僕のじゃないんだろう」
「いや、まあ、……そうなんですけど」
「君が食べなよ。僕はいいから」
先ほどの台詞を引き出され、綱吉はしどろもどろに言葉を重ねた。だが、撤回する前に雲雀に言い切られ、嬉しいような、ちょっと寂しいような、切ない気持ちになった。
皿を置き、フォークを握って三つに分かれた先端を下唇に押し当てる。照明なしでも艶々している表面に生唾が出て止まらないのだけれど、どうにも斜め上から浴びせられる視線が気になって、なかなかケーキに手が伸びなかった。
「あの、せめてお茶だけでも」
雲雀の注意が他所に逸れてくれるのを願いながら、綱吉は絨毯に沈めていた腰を浮かせた。けれど頬杖をついた雲雀はゆるゆると首を振り、それも要らない、と声にも出した。
「そんなつもりで来たわけじゃないから」
食べ物や飲み物を強請りに来たのではないといわれると、黙り込むしかない。綱吉は膝立ちになっていた姿勢を戻し、置いたばかりのフォークで皿を小突いた。
早く食べたい。だけれど、雲雀の目が気になって、動けない。
パイ生地は何重にも層が出来ている分、サクサクしている代わりに、とても崩れ易い。ランボのようにみっともなくテーブルを汚してしまったら、幻滅されるのではないか。行儀良く、上品に食べられる自信がなくて、なかなか切り分けるところまで進まない。
動きが止まってしまった綱吉を怪訝に見下ろし、雲雀は背筋を伸ばした。
「お腹でも痛い?」
「いえ、そういうわけじゃ」
食い意地が張っている綱吉が、こうも食が進まないのも珍しい。体調不良を疑った彼に首を振り、綱吉は仕方なく、先端からはみ出ている林檎にフォークを突き刺した。
生地の間からゆっくりと引き抜き、半分に切って口へ運ぶ。
シャリ、という絶妙の噛み応えの後に、甘い焼き林檎のふんわりとした香りがいっぱいに広がった。
「ん」
「美味しい?」
「はい」
流石は奈々だ、と己の母親を心の中で絶賛して、雲雀の質問にも即座に頷く。返事をしてから気付いた彼は、ボッと顔を赤くして雲雀に笑われた。
「その、うちの母さん、料理上手だから」
林檎味のフォークを舐めて、俯き加減に言い訳を口にすると、雲雀は尚面白そうに目尻を下げ、組んでいた脚を解いて肩幅に広げた。
ベッドの上で楽な体勢を作り、転がっていた枕を引き寄せて上から押し潰す。彼が一人遊びに興じている隙に、綱吉は林檎の周囲にあったしっとりとして柔らかい皮にフォークを差した。
此処なら、そう簡単にボロボロに崩れたりはしない。皆と一緒に生地を混ぜて、捏ねた、午前中のドタバタ騒ぎを思い出してひとりで笑い、綱吉は味が染みているパイ生地に頬を緩ませた。
さっくりした歯応えに幸せなひと時を感じ、至福の表情で次を口に運ぶ。底の部分は少し焦げていて硬かったが、その感触もまたアクセントとなって、美味しさを際立たせていた。
料理上手な母の子供に産まれてよかったと、ほうっと息を吐きながら思わず呟いてしまう。
「いいね」
「ヒバリさんのお母さんは、料理とかは?」
「さあ、どうかな」
ベッドから動かない雲雀が、少しだけ羨ましそうに言うのが聞こえ、綱吉はフォークで皿を弄りながら湧いて出た疑問を口にした。が、得られた返答は曖昧で、誤魔化されてしまった。
雲雀家の家族構成すら知らない自分を思い出し、パイ皮の滓がついた金属の先端を舐めて、綱吉は俯いた。
教えて欲しい、けれど教えてもらえない。雲雀は綱吉のことならなんだって知っているのに、その逆は全然だ。不公平で、ずるい。
「でも、……そうだね。この家がもっと静かだったなら」
「はい?」
頬を膨らませて拗ねた彼を眺め、雲雀が小さく笑った。
目尻を下げて優しい顔をして、視線を持ち上げた綱吉に微笑む。思いがけない表情にどきりとして、林檎を噛み砕こうとしていた奥歯が空振りした。すっぽ抜けた親指サイズの林檎が咥内を転げ回り、慌てて口を閉ざした綱吉はついでとばかりに唇を噛み締めた。
瞬きを忘れた瞳が、悠然と座す青年を見詰める。ドキドキと脈打つ心臓が、きゅうっと縮むのが分かった。
「静か、だったら……?」
「此処の家の子供になるのも、悪くなかったかな」
恐る恐る続きを促し、硬いフォークを前歯で削る。上目遣いに人を窺う彼を笑い、雲雀はリラックスした様子でベッドに両手を沈めた。
冗談めかせているようで、本気にも取れる口調で告げて、意地悪く口角を持ち上げる。ほくそ笑んだ彼と目が合った瞬間、ボンッ、と綱吉の頭は火を噴いた。
「ひ、え、ええ……?」
林檎よりもよっぽど赤い顔をして、全身に走った火照りを持て余して首を振る。フォークを握った手を頬に押し当てた彼は、意味深に微笑んでいる雲雀から急いで顔を逸らして俯いた。
心臓が馬鹿みたいに暴れ出して、ドドド、と瀑布の如き音を奏でて五月蝿くて仕方が無い。
「な、なに、えっと、そんな」
雲雀が綱吉の家の子になる。あまりにも突然で、突拍子も無い話題だが、一瞬本当にそうなったら良いと思ってしまった。
リボーンやランボ、フゥ太といった居候の子供たちのポジションが、脳内で雲雀に摩り替わる。食事を共にし、時に一緒に風呂に入り、時にはひとつの布団を分け合って眠る。
狭いベッドで団子になる自分たちの姿を思い浮かべ、綱吉は火山をもう一度噴火させた。
直後に恥ずかしさから力が抜けて、ぷすぷす白い煙を吐きながらテーブルに突っ伏す。
衝撃で皿が弾み、乾いた音が響いた。
顔のみならず首の裏まで真っ赤にしている彼を笑い、原因たる雲雀が目を眇める。彼はベッドサイドで身体を揺すって座り直し、反対側の天井にぶら下がるハンモックを見やった。
折り畳まれた毛布が真ん中に鎮座しているだけで、あれを使っている赤ん坊はいない。
まだ照れている綱吉の項に、瞬きひとつで視線を移し変え、彼は小指の爪を浅く噛んだ。
「まあ、あの喧しい子供たちが全員居なくなれば、だけど」
舌の先で押し出し、呟いた彼の言葉に綱吉もハッとする。その大前提があったのだと思い出して、彼はゆっくり身を起こした。
テーブルに右手を残したままベッドに顔を向け、遠くを見ている雲雀を下から眺めて唇を捏ねた。
鬼家庭教師を筆頭に、沢田家を賑わしている子供たち。幾ら雲雀と寝食を共にしたいからと言って、寒風吹き荒ぶ冬の空の下にあの子達を放逐するなど、綱吉には出来ない。
バランスを欠いた天秤は常時揺れ動き、安定を見ない。
からかわれたのだと解釈し、綱吉は渋い表情を作った。頬を膨らませて数分前の自分に腹を立てながら、フォークを握りしめる。
それまでちびちびと、遠慮がちに食べていたアップルパイに力任せに突き刺し、表面のパイ生地を引き裂く。細かい滓を散らして真っ二つになった薄皮の間から、ごろん、と大きな飴色の塊が転がり落ちた。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれていた林檎の欠片に目をやり、雲雀は僅かに身を乗り出した。
シロップをたっぷり吸い込んで、オーブンで熱を加えられた林檎は艶々しており、いかにも甘くおいしそうだ。だけれど残念なことに、表面が凸凹していて、見た目が非常に悪い。
「む」
綱吉も気付き、窄めた口から息を吐いた。
とても上手に出来ているケーキから、不恰好な林檎が現れた。不釣合いな両者の間にフォークを滑らせ、彼は何度もナイフを入れたと分かるギザギザ部分に先端を押し込んだ。
顔の前まで持って行き、食べるかと思いきや裏返して、筋が入って他より色が濃くなっている部分に顔を顰める。
「食べないの?」
「食べますよー」
睨めっこを開始した彼に茶々を入れると、即座に不貞腐れた声が返って来た。雲雀は肩を揺らし、座りを浅くしてテーブルの脚に足をぶつけた。
気付かず、綱吉は苦々しい表情で表面を舐め、少しだけ前歯を入れて齧った。
これひとつだけが痛んでいたわけではなく、他と変わらない筈なのに、少し酸味が強い気がした。
「ちぇ」
味がワンランク落ちている。気のせいかもしれないがそう思えて、綱吉はひとくちに塊を頬張ると、荒々しい咀嚼の末に飲み込んだ。
大きく上下した喉仏を見守り、雲雀が口元に手をやる。広げた指で鼻筋を叩いた彼は、何故綱吉があの林檎だけ、不味そうに食べた理由を考えた。
先ほど綱吉は、作り手である奈々を料理上手だと讃えていたのに。
「……ああ」
視線をゆっくり左へ流し、閉じられているドアを見る。
想像から弾き出した回答につい声が漏れて、聞こえた綱吉は反射的にムッとした。
「君が?」
「どうせ俺は不器用ですよ!」
目線を戻した雲雀が、顎を撫でながら呟く。そのたったひと言で彼の問いたい内容を全て察した綱吉が、座ったまま伸び上がって大声を張り上げた。
弾みで吐き出しかけた林檎の欠片を慌てて飲み込み、唇に着いた甘い汁を拭って奥歯を噛み締める。フォークの尻でテーブルを叩いた彼の大袈裟な反応に、予測が正しかったと教えられて雲雀は相好を崩した。
アップルパイを作る奈々の手伝いを買って出た綱吉は、彼女に勧められるままに何個か林檎を剥いた。しかし彼女ほど綺麗に出来ず、指こそ切らなかったけれども、果肉はたっぷり切り刻んでしまった。
その皮むきに失敗した林檎も、奈々はパイに詰め込んだのだ。
見た目不恰好でも、生地に包んでしまえば分からない。そう思っての行動だったのだろうが、まさかの雲雀の登場で彼に見られてしまった。
「なんだって、母さんは」
フォークを皿にぶつけてカチカチ言わせ、拗ねた綱吉がもうひとつ転がった塊を掬い取った。そちらは奈々が剥いたのだろう、表面は滑らかで綺麗だった。
見るからに美味しそうな、光沢のある果実をうっとりと眺め、彼は先ほどの不細工な林檎を思い出し、鼻を膨らませた。
気を取り直して咳払いをひとつし、忘れることにして大きく口を開く。
百面相をつぶさに観察していた雲雀が、唐突に手を伸ばした。
「あー……んあぁ!」
大口を開けた綱吉の横から顔を出し、ベッドから降りた彼が艶やかな林檎を奪い取った。
綱吉の手ごと攫っていった彼は、フォークから塊を抜き取ると即座に開放し、ベッドに戻った。深く座り、悪戯を働いた口を撫でてぺろりと舐める。
目標物を見失った綱吉の琥珀の目は零れんばかりに見開かれ、間抜けに開いた口は甲高い悲鳴を発した。
悪びれもせずに咀嚼の末に飲み込んだ雲雀が、うん、と頷く。
「不味い」
「はいぃ?」
ぼそりと、けれどはっきりと述べられた感想に、綱吉は呆気に取られた。
己の耳を疑い、雲雀の味覚を疑う。そんな馬鹿な、と空っぽのフォークと皿に残るアップルパイを交互に見て、口をヘの字に曲げる。
試しにパイ生地と一緒に林檎を頬張れば、甘みの中に仄かな酸味が絶妙なバランスで広がり、幸せ気分が胸に広がった。ところが雲雀は「不味い」の一点張りで、撤回しようとしない。
怪訝な目を向ける綱吉の前で親指の腹を舐め、彼は右を上に脚を組んだ。
「さっきのが食べたかったな」
「え?」
「さっきの」
不遜な態度で口角を歪め、同じ単語を繰り返す。何のことだか分からなかった綱吉は一瞬面くらい、彼が来てからの一連のやり取りを振り返った。
量の減ったアップルパイと、温い紅茶と、パイ生地のこびり付いたフォークとを順番に見て、最後にまた雲雀の顔を。
意地悪く、それでいて意味深な笑みを浮かべた彼を前に数秒間沈黙し、直後。
「いあっ!」
思い当たる節に行き着いて、ぼふん、と本日三度目の噴火を果たした。
真っ黒に焦げた煙を耳から吐いて、頭をクラクラさせる。
「だから、今度、作って」
「そんなぁ……」
頬杖をついた雲雀ににっこり微笑まれ、彼はまたもテーブルに突っ伏した。
林檎を片手に悪戦苦闘する、数日後の自分の姿を思い浮かべながら。
2009/11/29 脱稿