善哉

 外は木枯らしが吹き荒れているようで、時折ゴンゴン、と煽られた窓が大きな音を立てた。
「さっむ~」
 屋内に在りながら、長袖のシャツを二枚重ねた上にトレーナーという出で立ちの少年は、照明も消えた台所で足踏みし、爪先から登ってくる冷気を懸命に追い払った。
 朝昼晩の食事中は暖房が入るようになって久しいこの部屋も、それ以外は基本的に空調は止まっている。奈々以外に活動する人間が少ないからで、昨今なにかと騒がしいエコという面も無論だが、光熱費の削減という意味合いも非常に大きかった。
 目の前でしゅわしゅわ言っている薬缶に視線を移し、青白い炎が轟々と唸る様に目を細める。試しに両手を翳すと、湯気を吐く鉄瓶は思った以上に温かかった。
「ぬっく~~」
 さっきとは正反対の言葉を吐き、丸めていた背筋を伸ばして彼は至福の表情を作った。だらしなく目尻を下げて頬を緩め、そろそろ良いだろうかと恐る恐る蓋を外して中を覗きこむ。
 底から沸き起こった気泡が水面で弾け、ぐらぐらと湯立つ様が真っ白い水蒸気の向こうに見えた。
 瞳を濡らす湯気に慌てて首を引っ込め、彼はたたらを踏んで蓋を戻した。最大火力だったガスを消し、元栓もしっかり閉めてから、熱を持っている取っ手部分を慎重に起こす。
「外、寒そうだな」
 何気なく見やった台所の窓は、白く濁る空と枯葉を一枚引っ掛けた庭木の姿を映し出していた。
 暦はもう冬で、半年前までのぎらぎら照っていた太陽も、まるで嘘のように大人しい。気温は一気に下がり、朝晩の冷え込みは日を追うごとに増している。
 目を覚ましてから布団を出るまでの時間もが徐々に長引き、必然的に遅刻の回数が増えてしまうのが、この季節の最大の悩みどころだ。
 まだ熱い湯をこげ茶色の容器に注ぎ、ヤカンを置いた手でスプーンを握る。日頃は味噌汁を入れるのに使っている椀の内側で、小豆色の液体が白い泡を浮かべて渦を巻いた。
 澱みなく顆粒が全て溶けたと、スプーンから伝わる手応えで確かめ、彼は満足そうに頷いて銀の匙を引き抜いた。表面にこびり付く甘い雫を舐め、今度は箸を片手に持ち替える。
 空いた手で椀の底を支えて持ち上げ、彼はいそいそと開けっ放しの戸口から廊下に出た。
 家の中は驚くほどに静かだった。
 子供たちは炬燵で川の字になって昼寝中で、奈々はこの隙に、とスーパーまで夕飯の買出しだ。リボーンとビアンキは、二階にある女性陣の寝室で、DVD鑑賞中の筈。
 宿題は、昨晩と今朝のうちに終わらせた。今のところ、鬼家庭教師ことリボーンから追加の課題は無い。お陰で寒空の日曜日、珍しく午後の時間が丸まる空いてしまった。
 こんなことは滅多に無くて、だからこそ逆に戸惑ってしまう。好きなだけゲームが出来るというのに、何故だかその気になれない。
 子供たちを起こさぬように足音を忍ばせて階段を登り、彼は誰も居ない自室の、絨毯を踏みしめた。
 耳を澄ませば壁越しにテレビの音声が聞こえてくる。それ以外は風が窓を打つばかりで、物寂しいくらいだ。
「なにしようかな」
 持って来た椀に箸を沿えてテーブルに置き、膝を折って胡坐を作る。湯気を放つ甘い汁粉に息を吹きかけ、彼は誰に言うとでもなしに呟いた。
 コン、と。
 またも風が吹き、ベランダに面する窓が硬い音をひとつ響かせた。
 照明の消えた部屋は薄暗く、窓もカーテンを閉めているので外の様子は見えない。なにをするにしても灯りは必要で、彼は腰を捻ると膝立ちになり、壁際ににじり寄って腕を伸ばした。
 立っていれば難なく届く高さにあるスイッチを、滑稽なほど懸命に押して照明を入れる。パッと天井に光が走り、眩さに目が眩んで瞼を閉ざす。足元に落ちる影は一気に濃くなって、瞬きを繰り返した彼は息を吐いて背筋を伸ばした。
 コンコン、とまた窓が鳴る。台所で見た外の様子は、風は強いものの暴風吹き荒ぶというものではなかった。
 こんなに頻繁にガラスが叩かれるのは、流石に妙だ。眉根を寄せ、立ち上がった彼は、テーブルを越して反対側の窓辺まで大股に歩を進めた。
「なんだろ」
 小石が巻き上げられて当たっているにしては、音が大きい。怪訝にしながら窓を覆うカーテンの裾を抓み、ちょっと様子を窺うつもりで捲ってみる。
 窓の向こうにもカーテンがあった。
「……」
 否、そんなわけがない。
 弱いながら日差しがある中で、何故あんなにも部屋が暗いと感じたのか。苦虫を噛み潰したような顔を作り、綱吉はまた聞こえた窓を叩く音に唖然とした。
 間隔は段々短くなり、早く、と急かしてくる。
「もう……」
 深々と溜息をついて額を片手で覆った彼は、もうちょっと分かり易い合図をくれればいいのに、と肩を落とし、掴んだままのカーテンを左に向かって鋭く引っ張った。
 シャッ、とレールを走る音が室内に響き、白い光が視界の端から溢れ出した。ただし彼の前方、ほぼ正面だけは暗いままで、黒い影が覆っていた。
「遅い」
 ゴンッ、とひと際強く窓を叩かれ、眉間の皺を深めた青年の声に思わず首を引っ込める。遅いもなにも、窓をノックされたところでそこは出入り口ではないのだから、分かるわけがなかろうに。
 理不尽な苦情を浴びせられ、一瞬このまま外に放置してやろうかと考えたが、後が怖いので止めておく。渋々錠を外すと、窓ガラスが左に流れて行った。
「さっむ!」
「邪魔だよ」
 吹き込んだ冷風に竦みあがり、両手で身体を抱いて凍えていたらまた素っ気無い声が降って来た。腰の高さにある窓枠を乗り越えた青年が、黒髪を風に靡かせながら退け、と言わんばかりに右手を振っていた。
 どこまでも自分勝手な彼に閉口して、仕方なく場所を譲る。土足のまま上がりこんだ青年は、周囲を見回してから後ろ手に窓を閉めた。
 部屋に篭もっていた暖気はこの一瞬で悉く逃げ去り、寒風に晒された肌は鳥肌を立て、一秒でも早く温めてくれるように訴えかけてくる。その場で足踏みをした彼は涼しげな顔をしている青年をひと睨みし、靴は脱いでくれるよう頼んで踵を返した。
 それまで綱吉の部屋には暖房が入っていなかったが、客が来たのだから奈々も文句は言うまい。そう自分に言い訳して、天井近い壁に設置された空調のスイッチを押して振り返る。
「ヒバリさん、靴」
「何処に置くの」
「……だったら、玄関から来ればいいのに」
 窓辺で仁王立ちしたままの青年の姿にがっくりと肩を落とし、指摘すれば彼は不貞腐れた顔で言い返した。腕組みをして、偉そうに踏ん反り返っているが、言っている事は滅茶苦茶だ。
 自分から動く気は皆目無いらしい。最初から分かっていたとはいえ落胆は拭いきれず、仕方無しに本棚の最下段から使い古された新聞紙を引き抜き、広げて差し出してやった。
 そこに脱いだ革靴を並べ、雲雀は羽織った学生服を揺らして絨毯が敷かれた部屋の中心部に一歩踏み出した。 
「来るなら来るって、そう言ってくれてたら」
「近くまで来ただけだから」
 目的があって来たのではないので、連絡も断りも入れなかったのだと尊大に言い放ち、雲雀は勧めてもいないのに勝手にテーブルの前に腰を下ろした。置かれているものを順番に眺め、椀に添えられた箸を指で小突く。
 慌てて彼から引き剥がすと、面白くなかったようで雲雀は頬を膨らませた。
「沢田」
「ヤです。あげません」
 部屋に入れてはやったが、だからといって好き勝手して良いという許可を下したつもりはない。そこは譲れないと強固に反発し、綱吉は雲雀に対抗して奥歯を噛み締めた。
 空調が唸り、温められた空気が室内に流れ始める。そよぐ春風を思わせる暖気に頬を撫でられ、それを慰めに綱吉は腕を引いた。
「それにヒバリさん、甘いの好きじゃないでしょ」
 雲雀とは反対側に椀を置き、両手で包み込んで綱吉が呟く。上目遣いの問いかけに彼は右の眉を僅かに持ち上げ、数秒過ぎてから首を振った。横に。
「嘘だ」
「平気だよ。……少しなら」
「それ、平気って言いません」
 即座に綱吉は甲高い声を発し、座を崩した雲雀が立てた膝に手を置いて告げる。反対の膝は床に添えるよう横倒しにし、偉そうに踏ん反り返るが、顔はかなり不満げだ。
 学生服の下は白い長袖シャツ一枚。制服は肩から羽織っているだけなので、冷風を防ぐには少々心許ない格好といえた。
 改めて彼の顔をじっと見詰めると、心持ち肌色が優れず、色白具合に拍車が掛かっているように思われた。
「なに」
 固く引き結ばれた唇も色素が沈殿して紫に近く、眺めながら考えていたら、不躾な視線に気付いた雲雀が機嫌の悪い声で問うた。
「えっ」
 訊かれて初めて、穴が空くほど見詰めていたと気付いた綱吉は、上擦った声をあげて頬を赤く染めた。他意はなかったのにとてもそうは思えない反応をしてしまい、それにも慌てさせられて、彼は誤魔化しに苦笑しながら下を向いた。
 不覚にも跳ね上がった心臓を悟られないよう懸命に宥め、小豆色の中に浮かぶ白い物体に視線を集中させる。
「沢田」
 目が合った途端に乾いた笑みを浮かべて俯かれるのは、あまり心証宜しくない。機嫌を損ねた雲雀に名前を呼ばれ、恐る恐る視線だけを彼に戻せば、雲雀は僅かに身を乗り出し、人差し指を伸ばして椀の縁を突いた。
 載っているだけの箸が少しだけずれて、最初に比べれば格段に減った湯気に、綱吉は唇を捏ねた。
「分かりましたよ、もう」
 欲しいと言い張る彼に逆らい続けるなど、綱吉には出来ない。痺れを切らしてやけくそ気味に叫び、彼はふっと息を吐いて表情を緩めた雲雀に臍を噛んだ。
 そんな顔をされると、悔しいことにもう怒れない。
 じわじわとせり上がって来る気恥ずかしさに頬を染め、綱吉は勢い良く立ち上がった。
「沢田?」
「ちょっと待っててください」
 湯は、先ほど沸かした分がまだ少しだけだが残っている。注ぎ足して火にかければ、そう待たずに沸騰するはずだ。
 大人しくしているよう頼み込み、琥珀の目を僅かに潤ませた綱吉は雲雀が首肯するのを確認して、慌しく部屋を飛び出した。階段を駆け下りて台所に飛び込み、先ほど漁った棚の引き出しに手を掛ける。
 そうして彼は、途方に暮れた。
 もっと遅い戻りだと思っていた雲雀の予想を裏切り、綱吉は部屋を出て一分とせずに二階に戻って来た。往路の元気の良さはすっかり影を潜め、とぼとぼと、落ち込んでいる様子が窺える鈍い足取りだった。
「どうしたの?」
「……どうぞ」
 彼の手には、テーブルにあるのと同じ椀がひとつ握られていた。差し出されて受け取るが、馬鹿みたいに軽い。何故かは直ぐに分かった、中身が空っぽなのだ。
 これはどういう意味なのかと、雲雀は怪訝に眉を寄せて眼前の少年を見上げた。
「これ、お汁粉、……インスタントですけど」
「うん」
「もう残ってませんでした」
 申し訳無さそうに胸の前で両手を小突き合わせ、綱吉は膝をもじもじさせながら言った。最後にストン、と真下に腰を下ろし、足首を横に広げてしゃがみ込む。
 顆粒状にした汁粉に、干菓子のような餅もどきをセットにしたインスタントで、湯を注げば直ぐに完成のお手軽さ。わざわざ小豆から煮る必要が無いので便利だが、若干小豆の味が薄いのが難点といえば難点か。
 それでも、ちょっと小腹が空いた時のオヤツにはちょうど良くて、寒い季節になると買いだめしておくのが常になりつつあった。
 ところが、綱吉が先ほど作った分で、丁度在庫が切れてしまった。引き出しには中身の無い外袋だけが残されていて、どうして先に気付かなかったのかと、綱吉は心底落ち込んだ。
「で?」
 申し訳ないやら、腹立たしいやらで、混乱している綱吉の説明は何度か前後を行き来した。分かりづらいながらも要点を掻い摘んで頷いた雲雀は、だからどうして空の椀なのかと、最大の疑問を口にして実物をテーブルに置いた。
 綱吉の方へ押し出して返却し、真意を探って鋭い眼差しを向ける。
 琥珀の瞳を揺らめかせ、彼は下唇を噛むと、尻を浮かせてテーブルに手を伸ばした。
「だから……」
 一呼吸挟み、空っぽの椀を引き寄せて汁粉に満たされた椀と並べる。雲雀が見守る前で箸を利き手に構えた彼は、左手で重い方の木椀を掲げ、縦にした箸に寄り添わせた。
 先細る箸の先には、空の椀が待ち構える。若干心許ない手つきで、彼はゆっくり左手を傾けた。
「ああ」
 そういう事か、と綱吉の狙いをようやく理解し、雲雀は緩慢に頷いた。
 立てていた膝を倒し、胡坐を作って足首に手を置く。暖房が効いて部屋は充分温かく、厚着の綱吉の額には、緊張の所為もあろうが、汗が滲んでいた。
 息を殺してそうっと慎重に、零さぬように細心の注意を払いながら、彼は椀の中身を片側の椀へ注いでいった。箸の表面を伝い、小豆色の雫がとろとろと垂れていく。表層部分は冷めて薄い膜が出来ていたが、中心部はまだ熱を保持していたらしい、湯気の量は増えていた。
 微かに甘い匂いがして、綱吉は無意識に喉を鳴らした。
「これ、くらい?」
「さあ」
 ひとり分の汁粉を、ふたり分に。単純に量を半分に減らしただけだが、元々の汁気が多かったので、充分な量が互いの椀に満たされた。
 綱吉は縁を流れた雫に指をやり、掬い取って口に運んだ。箸に付着している分にも行儀悪く舌を伸ばして舐め取り、雲雀の呆れた顔に気付いて縮こまる。
「どうぞ」
「餅は?」
 見るからに甘そうな汁粉を差し出され、雲雀は水面に浮かぶものが無いのに眉根を寄せた。
 汁粉に餅はつきものだ。現に綱吉の椀には、餅もどきの白玉がふたつ、目玉のように浮いている。さっきまでは片方沈んでいたが、汁の容積が減ったので頭が水面を突き抜けたらしい。
 見た目があまりおいしそうではないが、アクセントになっているのは確かだ。お陰で綱吉の椀だけ、少し豪華に見える。
 口を尖らせた雲雀に、綱吉も似たような表情で応じた。箸は一本しか持って来ていない、そもそもこの汁粉は綱吉が自分ひとりで食するために用意したものであって、雲雀は横取りを狙った不届き者だ。汁だけでも半分分け与えられるだけ、贅沢だと思うべきなのだ。
 鼻を膨らませて道理を語り、綱吉がテーブルの縁を思い切り叩く。とろみのある液体は波立たず、代わりに細い湯気がゆらゆらとふたりの間を流れていった。
 白い煙が薄れて消えていく様を横目で眺め、雲雀は面白く無さそうに頬杖をついた。
「要らないなら、あげません」
「分かったよ」
 是が非でも譲るつもりはないらしい綱吉の食い意地に嘆息し、雲雀は諦めの境地に立ってふたつ並んだ椀を視界の中心に据えた。
 大量生産品で、尚且つ家族全員で使うものだから、形も、サイズも、色も、なにもかも同じだ。汁粉の量も殆ど同じに見える。汁気だけで言えば、餅が無い分雲雀に、と押し出された分の方が多いかもしれない。
 そこまで考えていなかったらしい綱吉の、ほくほくした顔をちらりと盗み見て、雲雀は小指の爪で唇を掻いた。
「法善寺みたいだ」
「……なんですか?」
 不意に思い浮かんだ情景に、言葉が自然と零れ落ちる。耳聡く音を拾った綱吉が小首を傾げるが、雲雀は答えずに椀を片方、手元に引き寄せた。
 表面に軽く息を吹きかけ、湯気を飛ばしてそっと口をつける。砂糖たっぷりの小豆の味が、記憶にある汁粉よりも若干薄いながらも咥内いっぱいに広がった。
 驚くほどに甘い。一人前を食したら、胸焼けを起こしそうだ。
 けれど寒波に見舞われた並盛の町を、薄着で歩き回っていた体にとっては、この甘味も、温かみも、萎えかけた魂を奮い立たせるに充分な栄養分だ。
「ふぅん。意外に」
「結構いけるでしょ」
 インスタントと聞いた時は、味気なさを想像したが、思ったほど悪くない。
 量の減った椀を見下ろして呟くと、何故だか綱吉が得意げな顔をして笑った。箸を右手に構え、少々硬くなった白玉を掬い取って口に入れる。とても美味しそうに食べる顔を眺めていると、雲雀まで幸せな気分になった。
 また外で風が吹き、ガタゴトと窓が鳴る。階下で物音がして、奈々の声が聞こえたような気がした。買い物から帰って来たのだろう、彼女もまた温もりを求め、眠る幼子の頬を撫でるに違いない。
「まあ、これはこれで、善哉……かな」
「なんですか、さっきから」
「知らない?」
 ひとりブツブツ言っている雲雀が正直薄気味悪くて、綱吉は甘ったるい飲み物で喉を潤して頬を膨らませた。箸の先で人を指差し、それは止めるよう行儀の悪さを指摘されて渋々手を下ろす。
 胡坐を崩してまた右膝を立てた雲雀が、口をつけた椀の縁をなぞり、ふっ、と鼻白んだ。
「そう、知らないか。確かに君は、本なんか読みそうにないしね」
「ぬがっ!」
 失礼な事をあっさり言い切られ、憤慨するがその通りなので強く出られない。こめかみに青筋を立てたが怒鳴りはせず、拳で自分の腿を殴るに留めた彼を笑って、雲雀は甘味を残す唇をぺろりと舐めた。
 上向かせた視線は壁時計に向かい、現在時刻を読み取った眼が鋭く尖った。
 木の椀を掬い上げ、まるで杯を煽るように一気に残りを飲み干す。短く息を吐いて胃袋に溜まった甘露を服の上から撫でた彼は、教えてもらえずに不満を露にしている綱吉に苦笑し、立ち上がった。
 虚を衝かれた綱吉が、真ん丸い眼をして首を傾げた。
「ヒバリさん?」
「そろそろ戻るよ。あんまりサボると、副委員長が五月蝿い」
 袖も捲り、腕時計と時間がずれていないのを確かめて嘯く。来る時はいつも突然だが、帰る時も実に慌しい。
 もっとゆっくりしていくものと勝手に思い込んでいた綱吉は、暖房が入っているに関わらず冷たい風を浴びせられた気分になって、下唇を噛んで耐えた。
「そ、ですか」
「沢田」
 仕事ならば仕方が無い。風紀委員長として多忙な時間を過ごす中、こうやって隙を見つけて会いに来てくれただけでも、感謝すべきなのだから。
 ただ、分かっていても切なさと寂しさを覚えずにいられなくて、こんなことになるならば白玉のひとつくらい、譲ってやればよかったと後悔が胸を過ぎった。
 膝の上で両手を握り、涙ぐんでいる顔を見られたくなくて下を向いた彼を呼び、雲雀が窓辺で手招いた。
「ヒバリさん?」
 何時になく優しい声色に胸が高鳴り、彼は拳を硬くすると思い切って立ち上がった。髪の毛を掻き上げる仕草の途中で右目の目尻を擦り、薄ら浮かんでいた涙を弾いて足早に歩み寄る。
 広げた新聞紙の上で靴を履いた青年が、意味深に微笑んだ。
「いってらっしゃい、って、言ってみて」
「え?」
 左手は窓枠に伸び、錠をしてない窓を開ける準備は万端だ。そんな彼にいきなり言われ面くらい、綱吉はパチパチと二度瞬きを繰り返して間抜けに口を開いた。
 呆気にとられている綱吉に、けれど雲雀は同じ台詞を繰り返した。
「言って?」
 前のめりに姿勢を崩した彼に、耳元で囁かれて全身の産毛が逆立つ。背中をぞわっと悪寒が走り抜け、足が竦みそうになった綱吉は咄嗟に内股気味に膝をぶつけ合わせた。
 危うく腰を抜かすところで、どうにか持ち堪えるのに成功して恨めしげに目の前の男を睨む。意地悪く細められた黒い鏡に映し出される綱吉の顔は、熟した林檎以上に真っ赤だった。
「さわだ?」
「い、い……ぃ」
「聞こえないよ」
 最初と最後だけを音に出し、後は口の中でごにょごにょと誤魔化す。だけれど雲雀は許してくれず、もう一度言うよう催促し、綱吉の熱っぽい頬を人差し指で撫でた。
 触れた瞬間は冷たく、彼の指が辿った跡は熱い。唇を噛み締めて、遊ばれている自分に半泣きになりながら、綱吉は甘い唾を飲んで息を止めた。
「い、ってらっ……い」
 視線を脇に流しながら、もごもごと口ずさむ。所々で声が詰まって巧く発音出来なかった箇所もあったが、一応形になったと雲雀はご満悦で、目尻を下げて笑った。
「いってきます」
 そうして自分も返礼を述べ、綱吉の頭を大きな掌で包み込んだ。
 油断していた彼の身体を引き寄せ、触れ合わせる寸前に目を閉じる。長い睫を至近距離から見詰めることになった綱吉は、何が起きているのか分からずに目をぱちくりさせ、一秒半後に唇に触れた温もりに全身を毛羽立てた。
 爪先から頭の先へ電流が駆け抜け、淡いキスを落とした青年に向かって声にならない悲鳴をあげる。
「い、ひっ、ふぁ!」
「じゃあね」
 意味不明な雄叫びを上げた彼に喉を鳴らし、雲雀は殴られる前にと早々に退散を決め込んだ。窓を開けて冷たい風を室内に招き入れ、窓枠を乗り越えてあっという間にベランダからも飛び降りてしまう。
 追いかけようにも壁が邪魔で、綱吉は真ん丸い目をぐるぐるさせながら、一瞬で火照った肌を冬空に晒してどうにか冷ました。
 いったいどこの、新婚夫婦のつもりなのか。雲雀があんな事をするとは夢にも思っていなくて、両手で赤い頬を包んで綱吉は、蕩けそうに甘い唇を舐めて蹲った。

2009/11/21 脱稿