山茶花

 窓の外を駆ける風は勢いを強め、巻き上げられた砂埃を避ける生徒の姿がちらほらと見られた。
 応接室から校庭を見下ろして肩を竦めた雲雀は、視線を屋内に戻し、静か過ぎる空間に目を細めた。
 執務机のその向こう、革張りのソファに挟まれたテーブルにはノートや教科書といった勉強道具が、まるで統制が取られないまま散らばっていた。赤色のシャープペンシルが今にも落ちそうなところで踏ん張っており、これらの持ち主がいかに慌てて出て行ったのかが窺える。
 約十分前の出来事に思いを馳せ、雲雀はまだ戻らない少年の幻をソファに見出し、苦笑した。
「僕とあろう者が」
 くっ、と喉を鳴らして些か自嘲気味に呟き、コマ付きの椅子を引いて腰を下ろす。腿の上に両手を添えて背凭れに身を預けると、体重を受け止めた椅子がギシ、と低い音を立てて軋んだ。
 天井を仰ぎ見て蛍光灯の眩さに瞼を閉ざし、そう広くも無いが狭くも無い応接室の外に意識を傾ける。視覚を遮断してやれば、他の器官が集中力を増して、耳は微かな音さえも拾い上げた。
 誰かが歩く音、それも少し早足で。
「帰って来たかな」
 鼓膜を震わせる軽快なリズムに胸を高鳴らせ、雲雀は肘掛に両手を添え、斜め後ろに傾いでいた姿勢を真っ直ぐに戻した。執務机に肘を立てて両手を結び合わせ、彼がドアを開けた瞬間真っ先に見えるように位置取りを済ませる。あとは気持ちを鎮めて、その瞬間を待ち構えるのみ。
 いったい何を買って来るか、想像を巡らせるだけで楽しい。
 残り五秒、四秒、三秒。
 心の中でひとりカウントダウンしながら、雲雀はそわそわと机の下の足を擦り合わせた。
 一秒。
 来る。
「きょーやー!」
 目を閉じ、綱吉の帰還に合わせて微笑もうとしていた頬の筋肉が、刹那、妙なタイミングで凍りついた。
 半笑いの引き攣った顔を目の当たりにした人物が、右手をドアに預けたまま後ずさる。ノックも無しに入って来た時の勢いは何処へやら、冷や汗を流したその人物もまた、頬を痙攣させた。
 険悪な、非常に気まずい空気が応接室に満ち溢れる。学校近くを走る石焼芋販売の声がなんとも間抜けで、雲雀は結んでいた手を解き、机に押し当てた。
 薄い灰色の、首周りには白いファーが踊るダウンジャケットを羽織った金髪の青年が、左手で頭を掻きながら乾いた声で笑った。
「あ、あは、あははは……――ようっ」
 非常にワザとらしく場を取り繕い、今のはなかったことにして右手を振って挨拶する。腹から響かせた元気の良い声に対し、雲雀はげんなりした様子で額に指を置いた。
 どうして、よりによって。
「何の用」
 下を向いたまま低い、ドスの利いた声で問うが、それしきでこの男が怯むわけがないのは、既に学習済みだ。
 ディーノは瑪瑙の瞳を細めてニタリと口を横に広げ、応接室に入ると素早くドアを閉めた。
「あれ、ツナは?」
 そうして早速雲雀から視線を外し、応接セットを見て小首を傾げた。人の質問を無視する彼の物言いから、その目的を悟って雲雀は深い溜息をついた。
「出てる」
「ふ~ん」
 生憎と、ディーノが会いたがっていた人物は席を外している。しかしテーブルに放置されているテキスト類から、いずれは此処に帰って来るだろうと予測して、彼は気にした様子もなく誰も座っていないソファに、主の断りなく腰を下ろした。
 落ちそうになっていたシャープペンシルを抓み、顔の前でくるくると回転させる。けれど、部下が居ないからだろう、キャッチに失敗してとんでもない場所に弾き飛ばしてしまった。
「おおっと」
「何しに来たの」
 細長いペンをお手玉する彼に肩を落とし、呆れ口調で雲雀が重ねて問う。綱吉を待つつもりなら大人しくしていればいいものを、誰かと一緒で、いい大人でありながらディーノは落ち着きが無い。
 手の掛かる大きな子供に渋い顔をして、雲雀は椅子を軋ませた。
 人をガッカリさせた罪は重い。そもそも入って良いとはひと言も言っていない。腕組みをし、足も右を上にして組んだ彼を右に見て、ディーノは悪びれもせず、綱吉のシャープペンシルを揺らした。
「んー? ツナ、まだ帰ってないって聞いたから」
 やっぱり、と予想が違えなかったのにがっくり肩を落とし、雲雀は黒髪を梳き上げて鬱陶しそうに目の前の男を睨んだ。
 ディーノは普段、イタリアで生活している。しかしなにかと理由をつけて、遠く離れた島国に頻繁に訪ねて来ていた。
 目的はただひとつ、可愛い弟分である綱吉に会うこと。
 綱吉は彼を慕っており、頼りになる兄貴分と認めている。それ以上でも、それ以下の関係でもない。しかしディーノの方は、果たしてどうだろうか。
「それでわざわざこっちに? 暇なんだね」
 沢田家の自宅に一旦立ち寄り、そこから中学校まで足を伸ばした彼の苦労を、雲雀は鼻で笑い飛ばした。
 言われた方はその瞬間だけ明らかにむっとしたが、五つ以上年下相手に本気で怒るのも馬鹿馬鹿しいと自分を諌める。改めて室内をぐるりと見回したディーノは、開きっ放しのノートを引き寄せ、非常に読み取りづらい文章に微笑んだ。
 ミミズがのたくったような文字は、アルファベットだ。
「ツナ、英語なんか勉強しないで、イタリア語やればいいのに」
「現時点での国際標準は英語だよ」
 ディーノは綱吉がマフィアの後継者となり、いずれイタリアに移住すると信じて疑わない。その、勝手に決めたレールを歩かせようとする彼の傲慢は聞き捨てならず、雲雀は棘のある口調で返し、机の角を拳で叩いた。
 綱吉はこの先もずっと、並盛町で暮らすのだ。家族と一緒に、この平和な町で、マフィアなんてきな臭いものとは無縁の生活を送るのだ。
 もっともこれとて、ディーノに言わせれば、雲雀の我が儘でしかない。
 言い返されて口を尖らせ、子供じみた拗ね方をした彼を笑い、ディーノは綴りが間違っている英単語に矢印を引き、正解を下に書き足した。
 彼の母語はイタリア語だけれど、英語も、フランス語も、無論日本語だって支障なく操れるのは、すべてリボーンの教育の賜物だ。いずれは綱吉もそうなると、まだまだ未完成の弟弟子を脳裏に思い浮かべ、彼は幸せそうに目尻を下げた。
 さっきまでは綱吉の帰りを、今か、今かと待ち侘びていた雲雀だけれど、こうなってくるといっそ帰って来ない方が良い気がしてきた。荷物は後で家に届けるから、応接室には寄らずに真っ直ぐ家に帰るよう連絡したくなってくる。
 最強のヒットマンを自称する赤ん坊のリボーンを師に持つ点が共通しているからか、綱吉はディーノにとても懐いている。そのディーノは、部下と同席しないとてんで力が出ず、綱吉を上回るダメっぷりを発揮する奇妙な体質の持ち主だ。
 今もまた、綱吉の宿題を勝手に手伝ってやろうとして、書き損じた箇所を消しゴムで消し、勢い余ってノートを破いている。どうしてじっとしていられないのかと痛む頭を抱え、雲雀は苦々しい思いでドアに目をやった。
 折角ふたりきりで、日暮れに向かう放課後を過ごしていたのに、思わぬ邪魔者が乱入して来た。外を見れば太陽は西に大きく傾き、明日の快晴を予報して、棚引く雲を鮮やかな朱色に染めている。
 風はまだ強く吹いているようで、カタカタと窓枠を叩く音が細切れに響いた。
 何時まで経っても終わらない宿題に飽きてシャープペンシルを投げ出し、気分転換がしたいと言った綱吉に、ならばと買い物を頼んだのは雲雀だ。
 応接室には飲料が多数取り揃えられており、綱吉自ら淹れてくれるコーヒーは雲雀のお気に入りだった。けれどたまには違うものも飲んでみたいと、学外に設置されている自動販売機で缶コーヒーを買って来るように依頼した。
 ついでに綱吉も、好きなものを選んでくるように言って、百円玉を三枚渡した。それから間もなく十五分、中学校から最も近い自動販売機まで、ゆっくり行っても帰って来るのには充分過ぎる時間だ。
 物憂げな視線をドアに投げ、瞬きひとつでディーノに移し変える。彼は破いてしまったノートをなんとか修復しようとして、余計酷い有様にしていた。
「恭弥、セロハンテープ無いか?」
「あっても貴方には貸さない」
「意地悪言うなよ~」
 頼む、と両手を合わせて拝むポーズを作った彼に嘆息し、雲雀は眉間の皺を深くした。
 これ以上ディーノに任せると、綱吉のノートが二度と使えない代物にされてしまいそうだ。しかし渡すよう言ったところで、素直に応じる人物でもない。
 最終的に泣くことになるのが綱吉であるのだけは、確実だ。
「あの子のノートに勝手なことした、貴方が悪いんでしょう」
 きつめの口調で叱責し、椅子を軋ませ立ち上がる。机を思い切り殴りつけた彼の怒気にビクリとして、ディーノは反論出来ずに項垂れた。
「だってよー……」
「だって、じゃないよ。まったく」
 指を弄り回してぶつぶつ文句を言う彼に呆れ果て、前髪を梳き上げた雲雀は、微かに聞こえたように思う鼻歌にどきりと心臓を跳ね上げた。
 ディーノの時よりも軽い足取りで、廊下を駆けてくる存在がある。それは五秒とせず応接室の前に辿り着き、
「ただいまー、です」
 軽やかなリズムを刻んで、勢いよくドアを開けて飛び込んできた。
 本日二度目となる、雲雀の凍りついた表情にきょとんとして、右手でドアノブを握った綱吉が小首を傾げた。頭の上では大きなクエスチョンマークが右に左に踊っており、琥珀の目を真ん丸にした彼は不思議そうに身を揺らした。
 紺色のベストの裾を丸めて左手で掴んでおり、垂れた布地が宙ぶらりんに浮いている。不安定に泳いでいるところからして、そこに買って来たものを入れているのだろう。
 連絡を入れる前に帰って来てしまった彼に力なく項垂れ、雲雀は机に両手をついた。
 反して元気になったのはディーノで、前ばかり見ている綱吉の横顔に向かって手を振り、自分の存在をこれでもか、と言わんばかりにアピールするのを忘れなかった。
「ツナ」
「へ? え、あれ。ディーノさんだ」
 大声で呼びかけられて、呆然としたまま綱吉が視界に飛び込んできた金髪に目を剥いた。海外在住の彼がどうして此処に居るのか咄嗟に理解出来ず、夢見心地の呟きに、青年は満面の笑みを浮かべ、自分は本物だと胸を叩いた。
「元気だったかー?」
「あ、ええ? なんで、ディーノさんが」
「ツナに会いたくなって、来ちまった」
 三度瞬きを連続させ、数秒の間を置いてもう一回。それでやっと彼が幻覚ではないと知って、綱吉はベストを握る左手を外しかけた。
 落ちそうになった中身がぶつかり合う震動ではっとして、慌てて力を入れ直す。寒い空気が流れ込んでくるのでドアを閉めて廊下と空間を遮断し、三歩前に出た綱吉は、ソファを回り込んで大股に近付いて来る青年を見上げ、ふにゃりと笑った。
「また、そんな事言って。お仕事ですか?」
 ディーノの説明を真に受けずに聞き流し、綱吉は運んでいるうちに幾らか冷めた温飲料を片手にひとつずつ持った。右手には黒っぽい缶を、左手には赤と紫の中間の色のものを。
 返す言葉に詰まったディーノの脇をすり抜け、約束通り買って来たと彼は執務机を前に立ち尽くしている雲雀に黒い缶を差し出した。ブラックの、最近発売されたばかりの製品だ。テレビでコマーシャルが流れているのを、綱吉の部屋で見た事がある。
「ありがとう」
「これ、お釣りです」
 礼を言って手を差し出すと、缶は机に置かれ、代わりに小銭を何枚か載せられた。金属がぶつかり合う音が肌に伝わって、綱吉の体温を吸った硬貨を握り、雲雀ははにかんだ。
「いいのに」
「倍返しにされそうで、怖いから」
 少額なのだから、別段返却されずとも気にしない。言うと、綱吉は小さく舌を出して笑った。
 自分用に買って来た缶を両手で大事に包み持ち、くるりと反転してテーブルへ向かう。そしてディーノが滅茶苦茶にしたノートの残骸に吃驚し、真っ先にドア前で頬を掻いている青年に目を向けた。
「いや、これは俺じゃなくて」
「ヒバリさんがこんなことするわけ、ないでしょ」
 すまし顔でそっぽを向いた雲雀に罪をなすりつけようと口を開いたディーノだが、皆まで言わせて貰えず、険しい綱吉の眼差しにしゅん、と頭を垂れた。
「当たり前でしょ」
 勝手に人の所為にされるのは迷惑極まりなく、信じてくれた綱吉を嬉しく思いながら、雲雀は悔しげに睨みつけてくる男に勝ち誇った笑みを返した。
 少し温くなった缶コーヒーのプルタブを起こし、流れてきた香ばしい香りに喉を鳴らす。昔の缶コーヒーは拙くて飲めたものでは無かったが、最近は色々と改良されているようで、多少はマシなものが出て来ている。
 綱吉が選んでくれたこれはどうだろうかと、淡い期待を胸に彼は缶を傾けた。
「どうです?」
「いいんじゃない?」
 綱吉も内心ビクビクしながら、雲雀の感想を待つ。恐々問うた彼に微笑みながら短く返し、濡れた縁を指で拭うと、途端に綱吉の表情がパッと花咲いた。
「良かった」
 心底嬉しそうに目尻を下げた綱吉が、温かい缶に頬擦りをしてくるりとその場でターンを決める。遠くまで買いに行った甲斐があったと呟かれて、それで戻って来るのが遅かったのだと、雲雀は納得した風情で頷いた。
 椅子に座り直し、わざわざこれひとつを入手する為に遠出をしてくれた綱吉に感謝の言葉を改めて告げる。彼は蜂蜜色の髪の毛を波立たせ、ソファに腰を下ろした。
 破れているノートを閉じ、その上に教科書を重ね、行方知れずのシャープペンシルを探して視線を泳がせる。
「これか?」
「そう、これです」
 すかさずディーノが、持ったままだった赤いシャープペンシルを差し出した。
 疑問も抱かずに受け取って、筆入れの中へ。テーブルを手早く片付けてから、綱吉もいそいそと買って来た缶飲料のプルタブに指を引っ掛けた。
 赤い粒々の写真が表面に印刷されており、商品名には筆で書いたようなフォントが使用されていた。
「それは?」
「えへへー」
 向かいに座ったディーノが、見慣れない飲み物に興味津々に問う。完全に居座る心積もりで居る彼の横顔を睨み、雲雀は不機嫌に眉根を寄せた。
 もとよりディーノの目的は綱吉なのだから、綱吉が応接室から出て行かない限り、彼も此処に留まるのは最初から分かりきっていたことだ。ふたりきりの時間を邪魔する存在に腹が立たないわけがなく、出来るなら力ずくで追い出してやりたい。
 ただそうすると、綱吉が嫌な顔をするのだ。
「お汁粉です。見たことないです?」
 缶を上下に振って中身を掻き混ぜた綱吉が、言いながらプルタブを起こした。名前を聞くだけで口の中が甘くなり、雲雀は嬉しそうに砂糖たっぷりの液体を飲み込んだ綱吉の横顔に嘆息した。
「オシルコ、シルコ? ああ、日本のカポダンノの」
「カポ……お正月かな? それは多分お雑煮の事だと思いますけど、うん、あながち外れじゃないですね」
 ディーノはディーノで、イタリアには無い食べ物の名前を懸命に頭の辞書から捻り出していた。腕組みをして考え込むこと数秒、突然ぽん、と手を打って高い声で思い当たる節を口ずさんだ彼に、唇を拭った綱吉は緩慢に笑った。
 小豆と砂糖を煮詰めて作る、甘い、甘い飲みもの。餅や白玉が入っている場合もあるが、缶飲料ではそこまで再現するのは無理があろう。
 説明に苦慮し、最終的には諦めてしまった綱吉から視線を外し、雲雀は半分程になったコーヒーを胸元に引き寄せた。底を回すように振って、苦味を喉に押し流す。
「美味いのか?」
「俺は好きだけど、……ヒバリさんは、あんまりでしたっけ」
「うん」
 質問を重ねるディーノに若干言葉を濁し、綱吉は背筋を伸ばして話題を振って来た。一瞬面食らった彼だけれど即座に頷いて返し、やっぱり、と控えめに笑う綱吉につられてはにかむ。
 何でもかんでも雲雀に繋げてしまう綱吉が面白くないようで、ディーノは拗ねた顔で頬杖を作った。
 時計の針は間もなく五時を指示そうとしていた。夏場とは違い、太陽は地平線に限りなく近付いて、空は徐々に暗さを増している。あと一時間もすれば周囲はすっかり暗闇に包まれるだろう。
 冬は一日が短く感じられて、物足りない。
 両手の指を汁粉の缶で温めた綱吉が、肩を丸めて中身を一気に飲み干す。あんな甘いだけのものをよくぞ平気で、と雲雀は呆れたが、甘いものを沢山摂取しているから、彼の存在自体も甘いのかもしれないと、そんな事を考えた。
 ふわふわの髪の毛は綿菓子で、琥珀の瞳は金平糖、そしてふっくらした唇はフルーツの砂糖漬けといったところか。
 どこもかしこも甘くて、柔らかくて、食べ飽きない。
 雲雀が唯一好む甘味こそが、沢田綱吉という名の少年だ。
 悩みの種は、彼の甘みに引き寄せられて、無数の蟻が群がってくること。隙を突いて綱吉を頭から丸齧りしようと画策している連中の、なんと多いことだろう。机の下で右を上に足を組み、雲雀はさっきから必死に綱吉に話しかけている男を睥睨した。
 外人特有なのか大袈裟な身振りを交え、唾さえ飛ばす勢いで言葉を連ねている。それに逐一頷き、合いの手を返している綱吉の付き合いの良さに肩を竦め、雲雀は温くなったコーヒーを全部胃に流し込んだ。
「今度、買ってみるかな」
「母さんに頼めば、作ってくれると思いますよ。チビ達も喜ぶし」
「へ~。そういやママン、今日はすき焼きだって言ってたぜ」
「そうなんですか? やった、お肉だ。そういえば、ディーノさんは、夕飯はどうするんですか?」
「ママンが、折角だから一緒にって」
「そうなんだ。うっわ、今日は一段と大人数になるな~」
 ただでさえ沢田家には居候が多くて、賑やかだ。群れを嫌う雲雀は綱吉の部屋を頻繁に訪ねこそすれ、子供たちの陣地と化している階下にはあまり足を伸ばさなかった。
 そこにディーノも加われば、当然彼の部下である髭の男も代表でついてくる。綱吉が言う通りの大所帯で、肉の争奪戦は凄まじいものとなろう。
 愚鈍な綱吉は食べ損ねるに違いなく、皿を片手に箸を齧っている姿が思い浮かんだ。
「俺の分分けてやるから、心配すんなって」
 自分が一緒に食卓についたなら、他を蹴散らしてでも綱吉の皿を山盛りにしてやれるのに。そんな想像をした雲雀の心を読んだわけではあるまいが、ディーノが己の胸を叩き、任せろと言わんばかりに親指を立てた。
 台詞を持っていかれてしまい、雲雀が露骨にムッとする。ちらりとこちらを見た瑪瑙の瞳は、底意地の悪い笑みを浮かべていた。
 甘すぎるくらいの汁粉を飲み干した綱吉が、執務机を前に苛立っている雲雀を見上げて肩を竦めた。
「さっきから、五月蝿いよ」
 空の缶を指で弾いた雲雀が、頬杖を崩さぬまま低い声で言った。
 怒っていると分かる迫力に綱吉がビクッと身を震わせるが、彼はそれに気付かない。不機嫌さを顔に出し、招いても無いのに部屋に居続ける男を睨みつける。
「さっさと帰れば? こっちは忙しいんだよ」
 彼の声が神経に障って、さっきからちっとも風紀委員の仕事が片付かない。机の角に積み上げられた資料の山を指差した雲雀の台詞に、しかし反応したのは言われたディーノではなかった。
 汁粉の缶を置き、入れ替わりにノート類を膝に抱えた綱吉が、ソファに寄りかからせていた鞄を取って広げた。
「そ、ですね。もう暗いし」
 下を見たままぎこちなく言葉を吐いた彼に驚かされ、雲雀が椅子の上から身を乗り出す。
「いや、君は」
「あんまり長居しちゃ、邪魔ですよね」
 遠慮がちに告げて、綱吉が微笑む。手早く帰り支度を整える彼を止めることが出来ず、雲雀は宙に浮かせた右手を机に落とした。
 ふたりのやり取りを見て、ディーノがまたもしたり顔を作った。
「そうだな、帰るか。ったく、恭弥は冷たいよな~」
 筆箱を取って手渡してやりながら、これ見よがしに大きな声で言って目尻を下げる。受け取った綱吉の表情は、俯いているために雲雀からは見えなかった。
 元はといえば彼の所為なのに、何故か雲雀が悪者にされてしまっている。納得が行かなくて怒鳴り散らしたい気持ちに駆られるが、今此処で暴れればそれはただの八つ当たりでしかない。
 そんな見苦しいところを綱吉に見られるのも嫌で、彼は懸命に感情を押し殺すと、トンファーを握ろうとしていた手で太腿を殴った。
 夕焼けが薄くなり、藍色の闇が音もなく忍び寄る。いつの間にか外よりも、照明の灯る室内の方がずっと明るくなっていた。
 鞄のファスナーを閉めた綱吉が、ゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ、ヒバリさん。また明日」
 綱吉が帰るとあれば、ディーノも応接室に用は無い。一足先にドアに出向いた彼は、腕を伸ばせばノブに届くところで足を止め、悔しげにしている執務机前の雲雀を振り返った。
 この後の時間、綱吉は自分が独占する。それが嬉しくて仕方が無いようで、にやけた顔を隠しもしない。
 腹立たしいことこの上ないのにどうにも出来なくて、拳を震わせて堪えた雲雀は、ふと、視線を感じて顔を右に流した。
 鞄を右肩に担いだ綱吉が、出入り口に佇むディーノではなく、部屋の奥にいる雲雀の方へ歩み寄ろうとしていた。
「綱吉?」
「これ、ゴミ。捨てておきますね」
 空になったコーヒーの缶をひょいっと抓み取り、汁粉の缶と一緒に左手に持った彼が笑った。
「あ、ああ」
 後始末のことは考えていなくて、予想外の綱吉の行動に戸惑いながら、雲雀は浅く頷いた。
 気をつけて帰るよう言って、待ち草臥れているディーノを尻目に綱吉に手を伸ばす。けれど触れる直前にするりと逃げられて、またも指先は空を掻いた。
 間にある執務机が邪魔で、綱吉は両手にそれぞれ荷物を抱えたまま右から窓辺に回り込んだ。惚けている雲雀の左側に立ち、脛を軽く蹴って自分に注意を向けさせる。
「ツナ」
 まだか、とディーノが呼ぶ声を無視し、彼は戸惑っている雲雀を下からじっと見詰めた。
「ヒバリさん、眉間の皺、癖になっちゃいますよ」
 いつまでも顰め面をしていたら、取れなくなってしまう。折角綺麗な顔をしているのだから、と相好を崩した彼にきょとんとして、ワンテンポ遅れて雲雀は左手で額に指を置いた。
 綱吉が笑う。背伸びをする。
 西の空に僅かに残る光が、ふたりの姿をディーノから隠す。
「糖分不足ですよ、ちゃんと補充してくださいね」
 甘いものが足りないから、苛々するのだ。距離を狭める綱吉に半眼した彼に向かってそう囁き、綱吉は琥珀の瞳を瞼の裏に隠した。
 身長差を爪先立ちで補って、コーヒーの苦味が残る唇に、そっと、触れる。
「っ!」
 重なり合った柔らかな、それでいて甘い感触に雲雀は目を見開き、ドア前のディーノも顎が外れんばかりにぽかん、と口を開いた。
 綱吉ひとりだけがしれっとした様子で微笑み、僅かに頬に朱を走らせて身を引いた。
 くるりと踵を軸に反転し、鞄を振り回して小走りにディーノの元へと駆け寄る。
「お仕事頑張ってくださいねー」
 その間際、振り向いた彼の元気の良い声に我に返って、雲雀は甘い唇に指を這わせた。
 じわじわと恥かしさが広がっていく。顔が熱い。
「ツナ、ツナ。俺には?」
「ディーノさんは、俺のノート破いたから、なんにも無しです」
 期待を込めて金髪の男が己を指さし、問う。だけれど密かに根に持っていた綱吉の冷たいひと言に、ドアを開けてやったディーノはしょんぼりと項垂れた。

2009/11/21 脱稿