冬芽

 数ヶ月前までは緑に覆われていた樹木も、すっかり葉を落として丸裸だった。
「うわーい」
 お陰で空がいつもより広く見えて、頭上を仰いでいた綱吉は聞こえて来た歓声に肩を竦めた。
 疲れを訴える首の骨を鳴らし、正面に向き直る。前方のブランコは、さっきからキィキィと喧しい音を奏でていた。
「見て見て、ツナ兄ぃ」
「あんまりやり過ぎるなよ」
 小さな板に足を踏ん張らせ、フゥ太が立ち漕ぎをしている。座ってやるよりもずっと勢いが出ており、彼の身体は前後に激しく往復していた。
 近付くと危ないため、綱吉はブランコを仕切る柵よりも幾らか後退した。隣のブランコではランボが、フゥ太の真似をしようとしてバランスを崩し、敢え無く頭から地面に落下していた。
「もー」
 小さい子はどうして危ない事をやりたがり、真似したがるのだろう。呆れ半分に肩を竦め、綱吉は鉄製の鎖を揺らすフゥ太を避け、大回りにランボの傍へ駆け寄った。
 既に自力で起き上がっていた幼子は、頭の後ろに大きなタンコブを作り、大粒の涙を目に浮かべて鼻を愚図らせていた。
 巧く息継ぎが出来ないのだろう、えぐえぐとしゃくり上げる音が凄い。必死に泣くのを我慢しているのが感じられて、片膝を折って屈んだ綱吉は、傷口に触れぬよう注意しながらランボの頭を撫でてやった。
「びぇぇえぇぇぇー!」
 途端、堰を切ったかのように五歳児が大声で泣き始めた。
「わ」
 堪え切れなかった涙がボロボロと溢れ出して、両手両足を振り回しながら癇癪を爆発させ、喚き散らす。喧しいことこの上なくて、綱吉は慌てて手を引っ込めて耳を塞いだ。
 真横から音波攻撃を食らって、ブランコを漕いでいたフゥ太も怯み、鎖を持ったまま身を竦めた。
 足がぐらつき、横板が波を打つ。あっ、と思った彼は急いで鎖を取る手に力を込め、膝を曲げて重心を低くした。
 一回転しそうなところまで跳ね上がっていたブランコは、ゆっくりと振り子の幅を狭めていった。擦れ合った鎖が放つ甲高い音も徐々に小さくなっていって、それにあわせてランボの愚図る声も大人しくなった。
「よいしょ」
 前後に五十センチばかり揺れる程度になったところで、フゥ太はひと息にブランコを飛び降りた。両足で綺麗に着地して、腰にぶつかった、本来は座るべき板に顔を顰める。
 声は小さくなったが、涙が止まったわけではないランボをあやしながら、綱吉は短い距離を駆けてきたフゥ太を睨み付けた。
「こら。危ないだろ」
「ええー?」
「ランボが真似するんだから」
 怒られるとは思っていなかった彼は頬を膨らませたが、未だ泣き止まない弟分の名前を出されたら黙るしかない。
 空に近づけた気がして気持ちが良かったのだが、確かに手足が短いランボが立ち漕ぎをするのは、危ない。現に彼は転倒して、頭をぶつけている。
 ぷっくり膨らんでいる後頭部に目をやって、フゥ太は両手をぎゅっと握り締めた。拗ねたいけれども、綱吉の前で駄々を捏ねたらまた叱られてしまう。自分よりもっと小さい子は得だと、綱吉にしがみ付いているランボにも目をやって、彼はぷいっ、と顔を背けた。
 小生意気な態度に綱吉は肩を竦めるに留め、ランボを抱えて立ち上がった。
「どうぞ」
 言って、数歩下がる。
 ブランコ前が空いて、遠くから眺めているだけだった少女らが一斉に顔を綻ばせた。
「あ……」
 順番待ちが出来ているのにも気付いていなかったフゥ太は、嬉しそうに綱吉との間に走りこんできた女の子に、しばし呆然と立ち尽くした。
 彼が下がると、まだ揺れているブランコに、別の少女が急ぎ駆け込んできた。表面の汚れをサッと手で払い除けて、スカートが捲れない程度に漕ぎ始める。
「ありがとう」
 惚けていたらお礼を言われて、彼は一瞬なんの事か解らなかった。
「フゥ太」
 呼ばれて、顔を上げる。ランボを地面に下ろした彼に手招かれて、フゥ太は少女らの邪魔にならないように後ろから回りこんだ。
 寒空の下でも、公園は盛況だった。
 小学生低学年の男の子が、広場でボール遊びに興じている。砂場には幼稚園児くらいの子供が数人団子になっており、滑り台からはひっきりなしに歓声が聞こえて来た。
 かなりの長い時間、フゥ太はブランコを独占していた。漕ぐのに夢中になって、少女らが寒さに震えながら待っていたのにまるで気付かなかった。
 綱吉の傍に寄って、彼はダッフルコートの背中に思い切り抱きついた。
「うわっ」
 ランボに気を取られていた綱吉が裏返った声で悲鳴をあげて、仰け反ってたたらを踏んだ。ランボの泣き声だけでも充分注目の的だった彼は、再び向けられた怪訝な視線に首を竦め、悪戯ばかりするフゥ太の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
 仕返しされても嬉しそうにして、フゥ太は微笑んだ。
「ごめんね、ツナ兄」
「うん? ん、まあ、いっか」
 先ほど彼を叱ったばかりだというのも忘れて、綱吉は小首を傾げた後、自分に向かって頷いた。
 拗ねていたフゥ太の機嫌が直ったのをよしとして、未だ涙ぐんでいる幼子へと意識を傾ける。ランボは大量の涙と鼻水、挙句に涎で顔をぐちゃぐちゃにしていた。
「あー、あぁ。これは、洗った方がいいな」
 出かける間際に奈々が持たせてくれたハンカチと見比べて、綱吉は苦笑した。これっぽっちの布ひとつでは、とてもではないが全て拭い取ってやれそうになかった。
「びぇ……っ」
「あー、もう。泣くなってば。男だろ」
 綱吉の呆れた表情に何を思ったのか、五歳児がまた愚図り始めた。見る見る潤んでいく眼に嘆息を重ね、綱吉は牛柄の服に角を生やした幼子の頭を優しく撫でた。
 男、という単語に反応して、ランボが肩を震わせた。奥歯を噛み締めて、鼻を膨らませて零れそうな涙を必死に堪え始める。
「が、ま、ん」
「そうそう。ランボは強いな」
 お調子者で明るく元気なランボだけれど、まだまだ身体は小さく、行動は幼い。
 直ぐに泣いて、駄々を捏ねて、人に迷惑ばかり振り撒く。鬱陶しいが、だからといって放っておくわけにもいかない。
 適度に持ち上げてあやして、綱吉は忙しく周囲を見回した。
 響き渡る歓声に視線を上向けて、公園の設備を右から順に確かめていく。遊具が大半だけれども、広場を挟んで反対方向に水飲み場があるのが見えた。
 あそこでハンカチを濡らせばいい。みっともなく鼻を垂らしている五歳児に手を差し伸べて、綱吉はフゥ太も伴って歩き始めた。
 飛び交うボールを避けて身を屈め、急ぎ足で砂埃が舞い散る広場を通り抜ける。途中からランボは自力で走り、綱吉の前に出た。
「こら、ランボ。そっちじゃないよ」
「ぎゃはははは、ぎゅいーん!」
 両手を広げ、飛行機を真似て旋回しながら広場に点在する子供達の間をすり抜けていく。ちょっと前まで痛がって大泣きしていたのが、まるで嘘のようだ。
 しかもあんな鼻水だらけの顔で、もし誰かにぶつかったらと思うと、ヒヤヒヤして生きた心地がしなかった。
 ハンカチを握り締めた綱吉が怒鳴って、大股で追いかけてその首根っこを捕まえてようやく大人しくなる。ランボの足がまだ短いからこそ、綱吉も楽に彼に追いつけた。
「ぎゃー! 放せっ、放せ、ツナー」
「暴れんなって。ほら、また垂らして」
 今度は泣いたからではなく、寒いからという理由で鼻水を盛大に垂らしたランボに何度目か知れない溜息を零し、綱吉はじたばた暴れる赤子を引きずって水飲み場まで歩を進めた。
 彼の一メートルほど後方を、フゥ太がついて回る。両手は後ろに結んで、にこにこと笑顔を絶やさない。
「フゥ太、ランボ捕まえてて」
「分かった」
 縦に細長い水道は、上にしか蛇口が無い。硬い栓を握って捻ると、ぴゅっ、と、糸のような水が天に向かって飛び跳ねた。
 逃げたがるランボはフゥ太に任せ、綱吉は凍えそうに冷たい水におっかなびっくり、ハンカチを浸した。弧を描く軌道に布を重ねると、行き場を失った水が下に向かって逃げて行く。
 もういいかと思って手を引っ込めるが、ハンカチの大部分はまだ乾いたままで、繊維は考えていたほど水分を吸収してくれていなかった。
「あっれ」
 軽く湿った程度のハンカチを親指で凹ませて、綱吉は首を傾げた。フゥ太はそんな彼を不思議そうに見上げて、ランボから気を逸らした。
 束縛が緩み、ランボはおっとっと、と前のめりにジャンプを繰り返した。
「あー、ランボ。ダメ!」
 するりと指の間をすり抜けて行った弟分に、フゥ太が甲高い悲鳴を上げた。空っぽになった両手を叩き合わせ、自由を取り戻した喜びにはしゃいでいる男の子を必死に追いかける。
 綱吉は半ば惚けた顔をして、ちっとも落ち着きのない弟達に肩を落とした。
「……もう」
 血の繋がりはない、ただの押しかけ居候でしかないが、今や彼らは家族の一員だった。すっかり並盛町に馴染んでいる彼らに頬を緩め、綱吉は湿って冷たいハンカチを絞った。
 布が掌に食い込んで、少し痛い。赤くなった肌を振って雫を散らして、遠くから響いた少女の悲鳴に顔を上げる。
 何事か、と考えるまでもない。
「え、ちょっ」
 上擦った声を出して、彼はぶるりと背を震わせた。
 黒服の集団が、公園に入り込もうとしていた。学生服だが、風紀委員とは形状が異なる。髪型も、リーゼントではない。
 襟に光る校章は、並盛中学校のものではなかった。髪色は茶色や金髪が多いが、手入れを怠っているのか、斑になっている者もそれなりの数に登った。
 全員、明らかに綱吉よりも年上だ。高校生かもしれない。
 蜘蛛の子を散らすように、遊んでいた子供達が一斉に反対側の出口へと殺到する。持ち主に見捨てられたボールが弾んで、ぞろぞろと群れ立つ不良たちの足元に転がっていった。
「ケッ」
 行き場を見失ったボールに目をやった先頭の男が、徐にそれを蹴り飛ばした。
 溜めもなにもなかったのに、凄まじい速度に乗ってボールは近くにあった滑り台の土台にぶつかった。ボコリと凹み、跳ね返って、地面に倒れ伏す。
 明後日の方向に去っていったそれに舌打ちして、汚い金髪にサングラスの男は唾を吐いた。
 なぜ、よりによってこのタイミングで、この場所に。距離があったのと、状況把握に遅れた所為でその場から動けずにいた綱吉は、ハッと息を吐くと同時に大事な事を思い出し、慌しく首を左右に振った。
 ランボと、フゥ太は何処へ行ってしまったのか。
 凄みを利かせた不良たちは、合計で六人。ガラの悪そうな顔をして、居残っていた子供達を威嚇してずんずん進んで行く。
 単純に公園を通って反対方向に行きたいだけなら、なにも年端も行かない子を脅す必要はない。今のところ喧嘩を始める様子はないが、もしかしたら此処に誰かを呼び出しているのかもしれなかった。
 それにしたって、こんな真昼間から遣らなくても良いものを。
 綱吉が通う中学校を統率する凶悪な人物を思い浮かべ、綱吉は疲れた顔をして溜息をついた。
「っと、そうだ」
 一瞬忘れかけて、彼は目を瞬いた。ランボの行方を求めて、後ろを振り返る。
「おっさん、おっさん。なにやってんの?」
「げっ」
 刹那、前方から聞きなれた子供の声が響いて、綱吉は全身の毛を逆立てた。
 恐いもの知らずの幼子は、あろう事か集団を形成している不良らの足元に立ち、そのひとりに薄汚れた指を向けていた。
 つんつん、と脛を小突かれた男は血走った目を見開き、怯えるどころか楽しそうにしている五歳児に険のある眼差しを向けた。
「ンだ、このガキ」
「ガキじゃないぞ。ランボさんだぞ!」
「うあ、ああぁぁあ」
 罵声を浴びせられても平然として、逆に言い返して胸を張る。偉そうにしているランボを遠くから眺めて、綱吉はガタガタと膝を震わせた。
 頻繁になにかしらトラブルを起こす彼だが、その傍若無人ぶりは今日も絶好調だ。恐い容姿にはある意味慣れているランボは、短ランに茶髪、耳と鼻にピアスがある男の膝を何度も叩き、ぽかんとしている彼らを盛大に笑い飛ばした。
 とても見ていられなくて、綱吉は右往左往して濡れたハンカチに爪を立てた。
 早く彼を、あそこから連れ出さなければ。
 何かあってからでは遅い。それは分かっている。
 だのに臆病風に吹かれて、足は動かなかった。
「あの、馬鹿っ」
 悪態をついたところでどうにもならないのに、それでも身体は命令を聞いてくれない。
 殴られるのは恐い。痛い。そもそもランボが自分から近付いていったのだから、彼がどうなろうと綱吉の知ったことではない。
 悪魔が耳元で囁く。綱吉はかぶりを振り、強く奥歯を噛み締めた。
 恐怖に心臓が竦んで、頭の中に逃げ込んできた。耳元でバクバク言っているそれに歯軋りして、鼻を膨らませて閉じたがる眼を開く。
「なんだ、なんだー? ひょっとしてお前ら、ランボさんの部下になりにきたのかー?」
 どこをどう解釈したら、そんな突飛な発想に行き当たれるのだろう。
 まったくもって不可解なランボの思考回路にがくりと項垂れて、綱吉は眉間の皺を指で解きほぐした。
 もっとも、落胆できたのは綱吉ひとりだ。流石はウザいマフィアランクの上位に名を連ねるだけあって、ランボを取り囲む空気はにわかに冷えていった。
 不穏な気配に気付きもせず、角を生やした五歳児は高笑いを繰り返し、鼻水のついた手で男を小突いた。
「ん? んー? どした? 返事しろーい」
「こンの、ガキがっ!」
 ピクピクとこめかみを引き攣らせて、我慢の限界を超えた男が吼えた。
 汚された右足を高く掲げ、もじゃもじゃ頭のランボを踏み潰さんと構える。
 遠巻きに見守っていた子供達は、これから起こるだろう凄惨な事件に怯え、両手で顔を覆った。
「おやぁ?」
 分かっていないのはランボだけで、彼は間抜けに目を丸くして、押し迫る危機にも無防備だった。
 逃げようともしない牛の子に、誰かが悲鳴を上げた。
「――っ!」
 ザッ、と砂埃が波のように駆け抜ける。一瞬視界が煙に覆われて、鼻ピアスの男は幼い子供の姿を見失った。
 手応えを感じないまま足は地面に叩きつけられて、骨に響いた痛みに顔を引き攣らせる。周囲にいた他の不良らも目を見開いて、きょろきょろと挙動不審に首を巡らせた。
 はっ、と息を吐き、綱吉は間一髪セーフに温い汗を流した。
「し、死ぬかと……」
 掠れた小声で呟き、腕の中でじたばたもがいているものをぎゅうっ、と強く抱き締める。
 もじゃもじゃの感触は決して快いものではないが、ここで手を放せばもっと酷いことになるのは明らかだった。
「むー、んぐ、むー!」
「あぁ?」
 息もろくに出来ないランボを脇に抱えて、綱吉はしゃがんだまま後退を図った。しかし逃亡が達成される前に不良のひとりに発見されて、彼はビクリと顔を強張らせた。
 踏まれる寸前のランボを横抱きに引っつかんだは良かった。が、なんの解決にもなっていない。むしろ状況は悪化して、綱吉は浴びせられる合計六人分の視線に竦みあがった。
 鳥肌を立て、一方ではダラダラと温い汗を流して頬を引き攣らせる。なんともぎこちない笑顔を浮かべた彼は、ズ……と足を前に繰り出した不良たちに首を振った。
「ごっ、ごめんなさい。こいつ、えっと、その。馬鹿で。謝りますから、どうか」
 骨をポキポキ鳴らす者、睨みを利かせて斜に構えるもの、じわじわと距離を詰めて来るものもいる。
 そんな中、一縷の望みに賭けて、綱吉は土下座する勢いで頭を下げた。
 トラブルの発端となったランボも、地面が額に擦れるくらいに無理矢理頭を下げさせる。手の中でぶるぶる震えている子供を可哀想と思いつつも力は緩めず、綱吉は見逃して貰えるよう切に祈り、きつく瞼を閉ざした。
「ほんっと、ごめんなさい。後でよおーっく、言い聞かせておきますから」
「あぁン?」
 ドスの利いた声が綱吉の脳天に圧し掛かる。
 顎を突き出し、地面に平伏している少年を蔑む目で見下ろして、男たちは不意にげらげらと、お世辞にも品が良いとは言えない嗤い声を立てた。
 それでも綱吉は、これしきの屈辱で見逃して貰えるのならば、と必死に堪えた。
 正直に言えば腸は煮えくり返り、今すぐにでもこいつらを殴り飛ばしてやりたかった。子供達が平和に遊んでいた公園を荒らし回る不届き者に、天罰を下してやりたかった。
 だが、哀しい事に綱吉にはその力が無い。
 いや、あるといえば、ある。ただ発揮できないだけで。
 物騒極まりない銃器を手に、綱吉に死ぬ気弾を撃ち込んで来るあの赤ん坊は、今頃沢田家のリビングでコタツに足を突っ込み、ぬくぬくと心地よい時を過ごしているに違いない。
 邪魔だからと、ランボ共々家を追い出された恨みを思い出して、彼は奥歯を噛み締めた。
 さしたる力も無いくせに、無謀な正義感を振り翳すから痛い目に遭うのだ。反省するのにちっとも改められない自分の性格も悔やみ、綱吉は耳障りな嗤い声から意識を切り離した。
 周囲が静かになる。
 それは、錯覚ではなかった。
「お前らなんか、公園から出ていけ!」
 誰かが群れ立つ不良たちに向かい、勇気を持って叫んだのだ。
 鼓膜を突き抜けていった甲高い声にハッとして、綱吉は顔を上げた。瞬きを三度繰り返し、声の主を探して視線を彷徨わせる。
 束縛が緩んだランボが腕の中で噎せて咳込んだ。が、そちらに気を払う余裕もなく、彼は呆然と、握り拳を胸に押し当てて気張っている少年に見入った。
 綱吉よりもずっと色の薄い茶色の髪に、お人形めいた整った顔立ち。
 まだまだ可愛らしい、という表現が相応しい年代であるけれど、あと十年もすれば背も伸びて、見目麗しい青年に成長を遂げるだろう。
 いつも明るく、元気で、自分より小さな子の面倒も嫌がらず積極的に手伝う。奈々には良いお兄ちゃんだと頻繁に褒められて、その都度綱吉のコンプレックスを甘く擽ってくれた。
 嫌いなわけではない。あそこまで純粋に慕われて、嬉しくないわけがない。
 ただ此処に来て彼までしゃしゃり出てくるとは思っていなくて、綱吉は目を見開き、絶句した。
「出てけ! お前らなんか、お前らなんか……ツナ兄が一発でやっつけちゃうんだからな!」
 振り翳した拳を自分の太腿に叩きつけ、フゥ太が怒鳴った。
 自分でも何を言っているのか良く分かっていないようで、言葉の繋がり方が微妙に可笑しい。いったいいつから、綱吉は彼らを打ちのめす役目を任せられたのだろう。
 ただそれを指摘する余裕は綱吉にはなくて、恐怖を堪えてぎゅうっと目を閉じている弟分を呆然と見詰め、彼は唇を戦慄かせた。
 無茶を言うな、だとか。
 出来るわけがない、だとか。
 そういう台詞が頭の中に浮かぶのに、どれも声にならなかった。
 余計な事を言って不良らを余計にいきり立たせる彼に、小さな苛立ちさえ覚える。同時に、彼にあそこまで言われて何も出来ない自分はひたすら格好悪くて、情けなく感じられた。
 自分は「兄」なのだから、自分より弱くて小さな「弟」を守らなければいけない。
 血の繋がりだとか、そんなものは一切関係なかった。
「フゥ太」
「ツナ兄は、世界で、いっちばん。強いんだからな!」
 一片の疑いも抱かずに信じてくれている彼の為に、出来ることはなんだろう。
 声を張り上げ叫ぶフゥ太の言葉に胸打たれたものの、前方に立ち塞がる不良たちの壁は変わる事無くそこに存在し続けている。
 ランボを抱えたままで、どうやって太刀打ちできるというのだろう。リボーンが近くに来てくれていないかと期待するが、あの赤ん坊に頼るのも微妙に癪だ。
「へ~え? コイツがぁ?」
 嘲り笑う男が、フゥ太の言葉を受けて綱吉を顎でしゃくった。視線を向けられてハッとして、綱吉はいつの間にかランボが傍から消えている現実に目を瞬いた。
 見れば、泣きながらフゥ太の方へ駆けていた。
 ひとまず、あの子は無事だ。ホッとして胸を撫で下ろしていたら、目の前に黒い影が落ちた。
 ざり、と砂を踏む音に頬を引き攣らせ、彼は笑顔を凍りつかせた。
「あ、あは。あははは、はー」
「んで? どうやって俺らを退治してくれるんだい、勇者サマよ」
「いや、俺は別に、そんなつもりは……」
 ただ公園に集団でやって来ただけなのに、すっかり悪者扱いされてしまった不良たちが揃って綱吉を取り囲む。
 首と手を同時に振って空笑いを浮かべて誤魔化そうとするものの、険のある目つきは緩んでくれなかった。
 死ぬ気でない綱吉は、はっきり言って闘う力などない。貧相な体格に、貧弱な腕力、殴られれば簡単に吹っ飛ぶ体重しか持ち合わせていない彼に、対抗手段などあるわけがなかった。
 黄色いおしゃぶりの赤子が、そう都合よく登場してくれるとも思えない。
 何せ綱吉が此処に居るそもそもの原因は、コタツでダラダラしていたところを彼に追い出されたからに他ならないからだ。
「うっ……」
「ツナ兄!」
 駆け込んできたランボを受け止めて、フゥ太が鋭い声をあげる。彼が見ている前で襤褸雑巾のように殴られてへなっている自分を想像して、綱吉は背筋を震わせた。
 恐い。
 だが兄としての威厳を、少しくらいは発揮したい。
「こ、……子供達に、手を、出すな!」
 勇み、力み、声が上擦る。
 見事にひっくり返った怒号に、男たちは目を点にした。
 見るからに貧相な体格の中学生がひとりでいきがっているだけと、何も知らない彼らはそう思い込んでいた。
 琥珀の瞳に宿る固い決意、強い意志。なにものにも捻じ曲げられることのない信念。
 絶対に守ると誓う、揺ぎ無い心。
 だが男たちは気付かない。
 どれほど絶望的な状況に追い込まれようとも、決して折れないものがある事に。
「クズが」
「――っ!」
 吐き捨てられた一言にゾッとして、綱吉はヒクリ、頬を震わせた。
 強い眼差しが一瞬だけ怯み、脇へ流れる。振り上げられた拳が冬の太陽を隠し、拡散した光に目を焼かれ、綱吉は発作的に両腕を頭上に掲げた。
 背中を丸め、来るだろう一撃に備えて首を竦ませる。
 スローモーションの展開に、フゥ太はランボを抱き締めたまま息を飲んだ。
 遠巻きに見守っていた群集もが、予想しえなかった結末に唖然とした。
 ぶわっ、と吹き抜けた乾燥した風に、誰かが咳込んだ。砂埃を払い除けた手が退いた先に広がっていたのは、無惨な姿を晒す――黒服の一団だった。
「……え」
 ひゅん、と近いところで鋭い風が奔り、歯を食い縛っていた綱吉は目を忙しく開閉させた。
 長く止めていた息を吐き、上にやっていた手を下ろして拳を解く。肩の力が抜けて、膝が笑って一気に腰が沈んだ。
 どすん、と座り込んだ彼の背中に硬いものが触れた。いや、柔らかい、のかもしれない。
 仄かに暖かいそれから香る匂いにどきりとして、彼は地面でのた打ち回っている不良たちにも視線を走らせた。
 彼らには悪いが、胸がドキドキしていた。間違っても綱吉がこれをやったわけがない。出来るわけがない。
 では誰が、一瞬で六人の不良を薙ぎ倒すような芸当を披露したのか。
「っ、わ」
 脳裏に浮かび上がった人物像に跳び上がり、彼は膝を抱え、恐々と後ろを振り返った。
 カション、と硬い音をひとつ立てて、雲雀がトンファーを短く折り畳んだ。
 尻餅をついたまま呆然と彼を見上げ、綱吉が無音で口を開閉させる。リボーン以上に登場を期待していなかった人が現れて、まさかという想いが頭の中に渦巻いた。
 夢でも見ているのかと思ったが、触れた土の固さも、冷たさも、幻ではない。
 真ん丸く目を見開く彼を睥睨し、雲雀はムッと口を尖らせた。
「僕の並盛で、なに勝手なことしてるの」
 それは綱吉に向けられた台詞ではなかった。
 倒れ伏している不良たちは、何処からともなく現れた風紀委員によってひっ捕らえられ、公園から何処かへと連れていかれた。彼らがこの後どうなるのかについては、あまり考えたくなかった。
「ツナ兄」
 惚けたままでいたら、不意に名前を呼ばれた。
 はたと我に返り、駆けよって来るフゥ太たちを迎え入れる。
 思いがけない強力な助っ人に、綱吉は結局何もしなかったし、出来なかった。
 睨み返すのがせいぜいだった自分の小ささに肩を落としつつ、それでも慕ってくれる弟分を抱えて、顔を上げる。
 振り向けば雲雀が、早々に公園を立ち去ろうとしていた。
「あ、あの」
 まだ礼のひとつも言っていないのを思い出して、綱吉は圧し掛かる子供たちを退かし、立ち上がろうとした。
 上擦った声をあげた彼に一瞥をくれて、雲雀が足を止める。長めの前髪から覗く黒い双眸は、真っ直ぐ綱吉だけに向けられた。
「えと。その、あ、ありがとう、ございました」
「別に。君を助けたつもりはないよ」
 ぎこちない、少しだけ怯えを感じさせる口調に素っ気無く返し、雲雀があっさり彼に背を向けた。
「僕の前で群れている連中がいたから、咬み殺しただけだ」
「あ……」
 事も無げに言って、さっさと公園を出て行ってしまう。風に揺れる学生服を、見えなくなるまで見送って、綱吉はかさついた頬を手の甲で擦った。
 汚れてもないのにごしごしやっている彼の後姿を見上げて、フゥ太は誰も居ない公園から目を逸らした。
「僕、あの人、嫌い」
「フゥ太」
「嫌いだもん」
「そんな事言っちゃダメだ。助けてくれたんだから」
 雲雀はああいっていたけれど、それが本当なのかどうかはわからない。だから都合の良い方に解釈して、綱吉はぶすっと頬を膨らませる幼子をたしなめた。
 優しく頭を撫でて諭しかけられて、フゥ太はそれでも発言を撤回しなかった。
「きらいだもん」
 いつだって綱吉の心の一番高い場所を独占している人。
 綱吉によって打ち破られた以外は相変わらず鉄壁の、自慢のランキング能力。だけれどどれだけ条件を変えても、綱吉の心を占める人一位の座は変わらなかった。
 守りたい人、守られたい人。好きな人。大切な人。
 一生一緒にいたい人。
 知らなくても良い事を知ってしまった幼心は深く傷つき、それを知らない綱吉は今日もまた、フゥ太に優しくしてくれる。
 一番になれない腹いせを声に出して、それでまた傷ついて、彼は鼻を愚図らせて雲雀が去った方向を睨みつけた。
「好きじゃないもん」
 綱吉を困らせている。解っているのに止められなくて、彼は胸に抱く幼心の意味も知らぬまま、はらりと涙を零した

2011/01/16 脱稿