彷徨う心

 全力疾走の末に力尽き、タクトは膝を折って芝生に倒れこんだ。ずっと抱えていた荷物を放り投げて、胸を激しく上下させて吸ったばかりの息を吐く。
 身体中のあらゆる汗腺から汗が噴き出して、制服のシャツに大きな染みを作り出していた。肌に張り付いて不快なそれを、けれど引き剥がす余裕すらなく、彼はあらゆる筋肉が悲鳴をあげるのを他人事のように聞きながら、睫に輝く雫に顔を顰めた。
 大の字に寝転がって、徐々に落ち着き始めた鼓動にホッと頬を緩める。目に落ちそうだった汗を払い除けてしばらく呆然と、抜けるように青い空を見上げ続ける。
 綿菓子のような雲が泳ぐ様は、波も穏やかな海に似ていた。呼吸の間隔を長くして心を鎮め、タクトはどうしてもその青さから連想してしまう人物にかぶりを振った。
 頭から追い出して、冷たい芝生の心地よさに身を委ねる。
 遠くでチャイムが鳴っている。しかし直ぐには起き上がれそうになくて、彼は今日の時間割を思い浮かべながら風任せに流れて行く雲の行方を追いかけた。
 首を右から左へ揺らして、鼻先を擽る緑の葉へと視線を移し変える。焦点が合わずに輪郭がぼやけているそれを、少しの間だけそのままにして、やがて浮かせていた首をコトンと落として再び空を仰ぐ。
「あー……」
 授業が始まってしまった。無遅刻無欠席の記録を更新中だったのに、こんなところで途切れてしまった。
 三年間、皆勤賞を狙っていたのに。
 間延びした声をあげて、タクトは投げ出した腕を上下に振った。勢いをつけて身を起こし、跳ね上げた踵で地面を抉って土を撒き散らす。
 千切れた草が風に舞って、咎めるように爪先に着地した。
 地面に座ったは良いものの、立ち上がる気分にはまだまだなれそうになかった。起こした膝を胸に寄せて抱き締めて、背中を丸めて自分の身体を小さくまとめあげる。
 何処をどう走って来たかすら覚えていないが、現在地を確認すれば、なんて事はない、旧校舎近くの空き地だった。
 真新しい、近代的なデザインの本校舎から少し離れた場所にある、木造校舎。その影が緩やかに伸びて、タクトの足元まで迫っていた。
 演劇部や科学部の部室も、此処にある。年季が入って古めかしい外観をしているが、頑丈に作られているので今でも充分、使用に耐えた。
 タクトは真っ白い砂で覆われたグラウンドの片隅の、あまり手入れが行き届いていない草地に座っていた。転がした鞄が天地を逆にして、彼の右手で哀れな姿を晒していた。
 あの中に弁当が入っていなくて良かった。心底思いながら、あちこちに付着した砂粒を払い落とし、重い腰を持ち上げる。
「よっ、と」
 自分に掛け声をあげて、ひっくり返っている鞄を拾う。あそこでワコに昼食のパンを託したのは、正解だったと言わざるを得まい。
 吃驚していた少女の顔を思い出して、タクトは自分の頭を雑に掻き回した。毛先が揺れるたびに、絡み付いていた細かな砂が落ちて行く。汚れてしまった襟も叩いて綺麗にして、この後を考えて憂鬱そうに肩を落とす。
 一時間目は完全に遅刻だが、まさか全部の授業をサボるわけにもいくまい。
 曲りなりにも彼は学生だ。制服を着てこの時間から繁華街をうろうろするわけにもいかないし、タクトが登校してきているのは、多くの生徒に目撃されている。
「どうしよう」
 ワコは、どう思っただろう。
 いや、最も気にすべきは、彼女ではない。
 もうひとつ盛大に嘆息して、タクトは痛いくらいに頭皮に爪を立てた。燃え盛る炎にも似た色の髪を何本か引っこ抜き、叫びだしたい不安定な心を痛みでどうにか誤魔化す。
 駆け出す間際に見えたスガタの、哀しそうな表情。それはもしかしたら思い過ごしの、目の錯覚かもしれないけれど、タクトの胸には寂しげに顔を歪める友人の姿が、はっきりと刻み付けられてしまった。
 拭っても、消えない。
 いつも通りに出来るはずだった。そうしようと決めていた。
 心構えは出来ていたし、準備も万端だった。
 だのにいざ当人を前にした途端、なにもかも頭から吹き飛んでしまった。
「絶対、変に……思われた、よな」
 あのタイミングで逃げ出したのだから、変に、どころの話ではない。
 目が合った途端に今朝方の夢が鮮烈に蘇って、じっとなどしていられなかった。愛想よく対応して、教室まで並んで歩くなど到底不可能だった。
 スガタはなにも悪くない。それなのに彼に、あんな顔をさせてしまった。
「ああ、もう。僕の馬鹿」
 何もない空間を蹴り飛ばし、落ち込むままに声を発する。
 今一度がっくり肩を落として項垂れて、彼は二分近く、己の爪先ばかりを見詰め続けた。
「あー、……もう」
 スガタの件をこの先どうするかはひとまず脇に置くとして、タクトは教室にいかなければならない。窓辺の机に座り、授業を受けて、単位を確保しなければいけない。
 学生という身分の不便さを痛感して、彼は唇を噛んだ。
「席替え、してないよね」
 タクトの席は窓側、後ろから二番目。
 スガタの席は廊下側、後方。
 つまるところ、教室の後部ドアから中に入った場合、彼の傍を通らなければならない。
 前方のドアから入る、という手段もあるけれど、後ろよりの席に座っているタクトとしては、遠い扉を使うのは避けたかった。
「ないよなー」
 始業式はついこの前終わったばかりだ。それから一度も席替えをしていないのだから、夏休みに入るまで、恐らく配置はこのままだろう。
 いっそ隣の教室から入ってベランダに出て、窓から出入りしてやろうか。そうすればスガタは避けられるが、クラスメイトから奇異な目で見られること請け合いだ。
 妙案かと思ったものの、それの方がよっぽど移動が面倒臭い。結局は前方ドアを使用するより他なくて、だけどそれだと余計にスガタを避けることになると気づき、タクトは臍を噛んだ。
 変に思われたくはない。
 彼のことが嫌いなのではない。むしろ、逆だ。
 但しその感情は、スガタの言う「好き」と種類が違う。彼は友人として、好きだ。大切だ。
 その筈だ。
「なんだって……」
 それなのに、自分に言い聞かせるたびに胸がもやもやする。チクチクする。
 結論など最初から出ており、答えは未来永劫変わることはない。にも関わらずスガタの哀しげな顔を思い出すたびにハンマーで殴られたみたいに心が揺れて、眩暈がした。
 口元を手で覆い隠し、タクトは自分の顔が赤くなっているのを自覚した。火照った肌を指で擽り、爪先を軽く噛んで舌で押し返す。
「ぜんっぶ、あの夢の所為だ」
 今朝早くに目を覚ます原因となった、空気を読めない不届き者の夢の所為で、なにもかもが台無しだった。
 ただ、夢はその人の願望を表す、とも言う。ならば自分はスガタとくちづけたいのかと想像して、彼は薄ら寒いものを覚えて震え上がった。
「ないない、ない!」
 それだけは絶対ありえないと叫んで、自分自身を抱き締めて地面を何度も蹴り飛ばす。
 八つ当たり去れた草が大地に横たわって、それで溜飲を下げたタクトは、荒い息を吐いて何もないのに唇を拭った。
「……イテ」
 摩擦に負けた薄い皮膚が鈍い痛みを発して、それで腕を下ろしてやり場のない手をぎゅっと握り締める。
 何処に置けばいいのだろう、この名前のない不明瞭な感情を。
 タクトはスガタを、友人だと認識していた。
 だけれどスガタは、そうではなかった。
 これは裏切りなのだろうか。自分たちの間にあると信じた友情は、実は最初から実在しない空虚なものだったのか。
「違う」
 制服の上から胸を掻き毟り、タクトは呻くように呟いた。
 タクトはスガタを信頼していた。その逆もまた、然り。自分たちは、ワコも含め、秘密を共有しあう仲間だ。
 ネクタイを跳ね除け、シャツの隙間から素肌を探り当てる。刻まれた十字の中心を抉り、突き刺さる苦い痛みに唇を噛み締める。
 袋小路に迷い込んだ想いが出口を見出せずにいるのは、そもそものところ、分からない部分が多過ぎるからだ。
 その中でも最大の疑問が、タクトの前に立ち塞がって同じ場所を延々とぐるぐる回らせている。
「スガタの、馬鹿野郎」
 そもそもタクトを好きだと言った彼は、タクトをどうしたいのだろう。
 その辺のカップルのように手を繋いで歩きたい、とでも言うのか。
 それとも不忍の恋を繰り広げたいのか。
 昨日の彼からは、その辺がなにも聞けなかった。一方的に言うだけ言って満足している彼を前に、タクトが何もいえなかっただけなのだけれど。
 自分から訊くのが恐くて、彼から言ってくれるよう願っているうちに、分かれ道に出てしまった。有耶無耶なまま別れて、一夜明けてもタクトは彼の告白を引きずっている。
 はっきりとした答えが欲しいと思うのは、いけないことだろうか。
「スガタ……」
 今日は朝からずっと、彼の事ばかり考えている。頭の中を埋め尽くす穏やかな微笑みを打ち消して、タクトは鞄を握り締めた。
 教室にいかなければ。あれこれ思い悩んでいるだけでも、時間はどんどん過ぎて行く。
 腕時計を見れば、一時間目は既に半分が終わっていた。今からゆっくり歩いていけば、終了のチャイムとほぼ同時に到着出来る。
「ぎくしゃくは、したくないな」
 首を竦めて寂しそうに呟き、タクトは快晴の空を仰いだ。

 十分足らずの休み時間でも、教室は充分賑やかだった。
 そっと廊下から様子を窺って、首を伸ばして景色を眺める。二時間目開始目前でありながら通学鞄を抱えた彼を見て、行き交う生徒らの何人かは怪訝な顔をした。
 気持ちは分からないでもないが、あまり注目されたくなかった。タクトは突き刺さる好奇の視線を避けて足を前に繰り出すと、開けっ放しのドアを大股で潜り抜けた。
「あっ」
 瞬間、甲高い声が真横から飛んできた。
 思わずぎょっとしてしまい、左足が後に続かない。なんとも不恰好な体勢で凍りついた彼の右手では、椅子に横座りした少女がタクトに向かって人差し指を伸ばしていた。
 人を無闇に指差してはいけないと、教わらなかったのだろうか。
 今は海辺の神社で、祖母とふたりで生活している少女になんともぎこちない笑顔を浮かべ、タクトは肩に担いでいた鞄をゆっくり下ろした。
「タクト君。お腹、大丈夫?」
「へ?」
 椅子を引いて立ち上がったワコに唐突に聞かれて、面食らった彼は小一時間前の出来事を思い出して嗚呼、と頷いた。
 彼女の手には、皺の寄った紙袋が握られていた。パン屋の店名が辛うじて読み取れる袋の中には、タクトの大事な昼食が入っている。
 トイレに行く、と言って彼は一時間目をサボった。咄嗟の言い訳を信じたのなら、彼が個室便所に引き篭もっていたと思うのも無理はない。
 実際はそんな事は全然なかったのだが、堂々と授業をボイコットしたともいえなくて、タクトは愛想笑いを浮かべて彼女に手を伸ばした。渡された袋は、心なしかちょっと軽かった。
「食べてない?」
「食べてないよ! ……ちょっと、覗いたけど」
 袋の皺が増えているのは、間違いなくその所為だ。食いしん坊の大声の反論に肩を揺らして笑い、タクトは自分の心が急速に晴れていくのを感じた。
 大丈夫、出来ている。
 普段通りに、自分は。
「保健室には行ったのか?」
 だのに安らぎは一瞬で過ぎ去り、和いでいたタクトの心は唐突の嵐に見舞われて、視界は失われた。
 何も見えない、真っ暗闇に突き落とされて、彼は取り戻したばかりのパン入りの袋を指先から滑らせた。
「あっ」
 食べ物に関しては反応が早いワコが鋭い声をあげ、膝を折って屈んだ。拾ってくれた彼女に礼を言うのも忘れ、タクトは不自然過ぎる動きで折り畳まれた袋の口を握り、温い唾を飲み込んだ。
「タクト」
「あ、ああ。うん、もう平気だから」
 全身に緊張を漲らせる様が、傍目からもよく分かる。
 脂汗を流す彼を複雑な思いで見詰めて、スガタは一度として自分を見ようとしないタクトに小さく首を振った。
「そうか」
「そうそう」
 短い相槌を打つと、タクトはすぐさま元気印を発揮して声を大きくした。
 ただ、彼は依然としてワコの方ばかりを見ていた。入り口すぐの所に陣取る青い髪の青年には、一切視線を向けようとしない。
 どこか無理をしているようにも映るタクトに小首を傾げ、ワコは抱いた違和感の正体を探ろうとスガタを見た。
 彼もまた、タクトを見ないようにしていた。
 タクトが教室に入って来た時こそ目をやったが、今は不自然なくらいに遠くを、人が行き交う廊下ばかりを眺めている。
 言葉を交わしながらもそっぽ向き合っている彼らを前に、ワコは眉を顰めた。
「どうしたの?」
 両者の間からは若干ぎすぎすした、嫌な感じの空気が漂っている。傍に居ると自分まで感染しそうで恐くて、彼女は自分の席まで後退し、ドスン、と勢いつけて椅子に腰を落とした。
「えー? どうもしないけど」
 両手を膝に置いた少女の問いかけに、タクトは苦笑して、スガタは答えない。
 明らかにおかしいふたりの反応に、少女は悲しそうに瞼を伏した。
「なにかあった?」
「なにかって、なにがー?」
「だからそれを、今」
「タクト。授業が始まる」
「おっと。いけね」
 思い切って問いかけても、タクトははぐらかしてしまう。焦れて苛立ち、声を荒げた彼女を遮る格好で、嫌に冷えたスガタの声が割り込んできた。
 ワコの追求を躱し、これ幸いと彼は鞄を持ち直して歩き出した。会話は中途半端なところで終わりを向けて、苦いものだけが三人の中に残される。
 窓際の机に鞄を下ろしたタクトは、早速遅れてきた理由を早速クラスメイトに問われ、両手で腹を抱えこむ仕草をした。瞬間、ドッと笑い声が起こって、教室はにわかに活気付いた。
 だけれど、気のせいだろうか。
「スガタ君」
 あそこで笑っているタクトの表情には、微妙に影がある。心の底から生きる事を楽しんでいるとは、どうしても思えなかった。
 なにか原因があるとして、そこにスガタが関わっているのは先ほどのやり取りからして明らかだ。彼女は意を決して幼馴染を振り返ったが、当のスガタは誰よりも早く次の授業の準備を始めて、教科書を捲っていた。
 しかし心此処に在らずとでも言うのか、彼の手は絶えず動くのに、意識は拡散して他所に向かっていた。
「スガタ君?」
 ぼんやりしている彼に不安を膨らませ、ワコは緩く握った手を胸に押し当てた。残る手をもそこに重ねて手首を掴み、クラスメイトと雑談に興じている少年の横顔を心配そうに見詰める。
 カタン、と音がして彼女はハッとした。
 下を見ればスガタのシャープペンシルが、床の上に転がっていた。
「あぁ」
 しまった、とでも言わんばかりに呟いて、スガタが椅子を引いて足元に手を伸ばした。
 彼らしくない。いつものスガタなら、落ちる前に気付いて手で防いでいたはずだ。
「ねえ。タクト君と何かあった?」
「なにかって、なにが?」
「もう。どーしてそんな風に言うかな」
 タクトと同じ遣り方で誤魔化そうとする彼に頬を膨らませ、ワコは椅子を軋ませた。
 スガタは曖昧に笑って首を横に振った。なにもない、そう態度で伝えようとしているが、表情も、眼差しも、それが嘘だと告げていた。
 彼の視線は不意に脇へ流れ、眩しい陽射しが差し込む窓辺へと注がれた。その向こうはベランダで、長い庇が直射日光を遮っている。だから日中でもカーテンは不要だが、彼が見詰めているものが海や空であるわけがなかった。
 タクトが級友らと仲良さそうに冗談を言い合ってか、互いに小突きあっていた。
 他愛もない話題を口にして笑い、それに対してまた誰かが何かを言う。スガタとは一向に繋がらなかった会話が、あそこには存在していた。
 言葉もなく佇むスガタの横顔は、どこか寂しげだ。
 そして諦めにも似た感情が、ほんの僅かに滲み出ている。
「ねえ」
 ワコは痺れを切らし、彼の机を思い切り叩いた。
 どん、と机自体が揺れて、流石のスガタも彼女に意識を傾けた。穏やかそうに見えて実際はそうではない笑顔を向けられても嬉しくなくて、彼女はハリセンボンに負けないくらい頬を膨らませ、椅子から腰を浮かせた。
 詰め寄ってくるワコに苦笑で応じて、スガタは一瞬だけ頭上に注意をやった。スピーカーからチャイムが鳴り響き、教室内のざわめきが一層強くなった。
「ワコ」
 座るよう促す声に、彼女は「分かっている」と大声で応じた。
 偶々傍を通り掛ったクラスメイトがぎょっとする。むっとしている彼女の代わりにスガタが謝罪して、その態度にも腹を立てたワコはわざと床を踏み鳴らした。
 行儀の悪い少女を宥め、スガタは徐々に静かになっていく教室を見回した。
 タクトも席につき、鞄から筆記用具を取り出そうとしていた。翳りを帯びた表情は、スガタの思い過ごしではかなろう。
 そのまま数秒間見詰め続けていたら、不意にタクトが顔を上げた。何かを思い出したかのように視線を上下させて、鞄に入れていた手を引っこ抜く。
「っ」
 そうしていきなり首を巡らせて、廊下側を見た。
 頬杖ついていたスガタの手が、顎が離れた。
「わ、わあっ」
「って、おいおい、タクト。どうした?」
「またトイレで引き篭もりかー?」
 目が合った瞬間仰け反ったタクトが椅子から落ちて、後頭部を窓ガラスに激突させる。
 ひっくり返った彼の起こした騒音に、折角静かだった教室がまた騒がしくなった。前の席のケイトがやや迷惑そうに眉を顰め、カナコは恐縮している彼に楽しそうに笑いかける。
 誰も、彼が倒れる寸前に何が起きたのか知らない。
 教室の反対側でスガタが息を潜め、苦悶に顔を歪めている事にすら、ワコ以外気付こうとしない。
「スガタ君」
 矢張りふたりの間に何かあったに違いない。確信を強めた彼女に声を潜めて話しかけられて、スガタは慌てて感情を消し、いつもの穏やかな表情を作り上げた。
 まるで仮面だ。鮮やか過ぎる変貌に臍を噛み、少女は窓際でしょんぼりしている少年に目をやった。
「なにもないよ、ワコ」
「え?」
「本当に、なにも。ただ、……そうだね。恐がらせるようなことは、言ったかもしれない」
 秘めておけばよかった。なにもかも隠して、誰にも見付からない場所に閉じ込めておけばよかった。
 今更後悔したところでなにもかも手遅れだけれど、許されるなら時を巻き戻して、昨日の帰り道での出来事をなかった事にしてしまいたい。
 一緒に帰ろうと誘う、無邪気な彼の申し出を断ってさえいれば、きっと今日もこれまでと同じように、彼の隣で何食わぬ顔をして過ごせたに違いない。
 王の柱の力を使えば、或いは可能か。だがそんな利己的な望みの為に使って良いものかの判断は、最後までつかなかった。
 寂しげにポツリ言った彼を盗み見て、ワコは眉を顰めた。
 詳細を聞きたかったが、タイムリミットが来てしまった。教室前方の扉から数学の担当が入って来てしまって、日直の号令に、生徒が一斉に起立した。
 彼女も遅れて立ち上がり、一礼して座り直す。
 その寸前に後ろを窺ってみたが、スガタはすっかりいつもの彼に戻ってしまっており、表情から胸の内を読み解くのは難しかった。
 まただ。
 彼はまた自分から壁を作って、他を寄せ付けない。
 哀しいことがあっても、苦しいことがあっても、それを顔に出したり、声に出したりしない。全部自分の中に閉じ込めて、押し殺してしまう。
 そんな事をしたってちっとも楽になれないのに、彼は涙のひとつすら流さないのだ。
 授業中も、ワコは時々後ろを気にかけて、そうと知られないようにスガタを窺った。彼は案の定授業に集中出来ないらしく、度々物思いに耽り、手からシャープペンシルを取りこぼしてはノートに転がしていた。
 大抵の場合、その時の彼の視線は、窓際に向いていた。
 誰かを気にして、誰かを思っている。
 分かり易く、そしてとても解り難い彼の心を汲み取って、ワコは真っ白いままのノートに鉛筆の先を押し当てた。

 鴎の声がする。
「此処にいた」
「ワコ」
 昼休みは半分を過ぎ、タクトの手には空っぽの袋だけが残されていた。空気で膨らんでいるだけの紙袋をちらりと見て、ワコは屋上のフェンス際に佇む少年に歩み寄った。
 陽射しは心地よいが、なにぶん風が強い。食事をするにはやや不便な場所にひとり構えていた彼の隣に並んで、ワコは風に煽られる髪の毛を右手で押さえ込んだ。
 彼女はまだ髪が短いから良いが、ケイトくらい長くなると、風が強い日は大変だ。
 凛とした幼馴染を思い浮かべ、ワコはフェンスに背中から寄りかかった。
 傍にスガタの影はない。慌しく屋上を見回していたタクトはその事実にホッとすると同時に、言葉では巧く表せない苦い感情を唾と一緒に飲み込んだ。
「教室で食べなかったんだね」
 昼休みが始まると同時にタクトは席を立ち、此処に来た。
 横殴りの強風を嫌い、見晴らしの良い屋上は意外にも生徒らに人気が無い。人目を避けるには好都合の場所で、遠くばかりを眺めていたタクトは、思いがけない訪問者に驚き、暫く返事すら出来なかった。
 目を細めた少女にハッとして、気まずさを覚えて俯く。フェンスを握る手に力を込めたら、視界に黒い影が紛れ込んだ。
「タクトくーん?」
「わわ!」
 横から身を乗り出した彼女に顔を覗き込まれて、タクトは仰け反って避けた。
 形の良い唇に無意識に目がいって、急いで逸らす。空の袋を丸めて背中に隠した彼に肩を竦め、ワコは笑った。
「失礼だなー」
「吃驚させないでよ」
「あはは。ごめんね」
 いきなり顔を寄せられたら、誰だって驚く。
 声を尖らせたタクトにワコはカラカラと笑って手を振り、フェンスに身を委ねて晴れ渡る空を仰いだ。
 ルリや、他の友人の姿もない。彼女はひとりで、タクトを探して此処に来たらしい。
 目的は、分かっている。
「どうしたの」
 それでも問わずにいられなくて、堪え性のない自分に苦笑する。
 にこやかに訊ねられた方はちょっと面食らい、目を丸くしてから控えめに微笑んだ。
「スガタ君と、喧嘩でもした?」
「どうして?」
「ふたりとも、凄くぎこちないから」
 遠慮のない質問に、タクトは首を右に倒した。
 それで誤魔化せたらよかったのだが、ワコは諦めない。教室では言えなかった事を正直に声に出し、返答を求めて真っ直ぐにタクトを見詰める。
 気後れもせず、変に相手を気遣ったりもしない。自分が知りたいから、訊く。その姿勢は傲慢にも見えるが、タクトには清々しく思えた。
 スガタが内向きに思いを向けるのだとしたら、彼女は外向きに発散するタイプだ。そしてタクトも、本来は彼女同様にあれこれ溜め込むのを嫌い、思ったことは即座に声に出す方だった。
 だのに、この有様はなんだろう。
 客観的に自分を見詰めて、彼は自嘲の笑みを浮かべた。
「タクト君?」
「そう見える?」
「見えるから訊いてるんだよ」
「……ああ、そっか」
 スガタが王のサイバディ、ザメクとアプリボワゼして永劫の眠りに就いたと思われ、そして奇跡的に目覚めた後。
 教室でルリに言われた言葉が脳裏を過ぎり、タクトはフェンスをギシギシと揺らした。
 状況は少し似ている。けれど違う。
 あの時はタクトが、三人の輪の中から爪弾きにされていた。孤独を感じて、ふたりの傍に行くのを躊躇した。
 今、一番の寂しさを覚えているのはワコかもしれない。不意にそんな事を思って、タクトは目を見張った。
「スガタは」
「うん」
「なにか言ってた?」
 遠くを見たまま、声が震えるのを必死に隠して呟く。
 ワコはタクトに倣って身体の向きを入れ替えると、フェンスを掴んだ腕を曲げ伸ばしして、爪先を網目に引っ掛けた。
 垂直の壁をよじ登った華奢な体躯が、タクトよりも高い位置に移動する。落ちないかと心配になったが、杞憂だった。
「なーんにも?」
 風に声が流される中、はっきりと聞き取れる音量で叫び、彼女は急にわっ、と両手を広げた。
 鳥が羽ばたくように風に身を任せ、タクトが慌てるのも他所に難なく着地を決めてしまう。短いスカートがふわりと膨らんだが、内側については残念ながら見えなかった。
 プリーツを撫でて形を整えた彼女は、乱れてしまった髪にも指を入れて手櫛で整え、鴎が飛び交う海辺へと視線を送った。
「なにもない、だって。タクト君と同じだね」
 教室でのスガタを思い返しながら、彼女は軽やかに言った。
 告げられた言葉の意味をどう解釈してよいか分からなくて、タクトは首を小さく縦に振ると、ぐっと息を殺して押し黙った。
 彼がなにかを堪えているところまで、スガタと同じだ。けれどその「なにか」について、ワコは立ち入る権限を持たない。
「ずるいな」
 男同士の秘密、というものを匂わされて、彼女は零し、なにも落ちていない足元を蹴った。
 上下する爪先から視線を持ち上げて、タクトはフェンスから離れた少女に首を傾げた。
「なにが?」
「だって、ずるいよ。私だけ退け者にしちゃってさ」
「そんな事は」
「あるよ。でも、いい。訊かないでおいてあげる」
 尊大に振舞って言い、彼女は胸を張った。偉そうに鼻を高くする彼女に呆れて苦笑して、タクトは吐き出そうとしていた言葉を飲み込み、肩の力を抜いた。
 露骨にほっとしている彼を追求せず、ワコは再びフェンスへと駆け寄り、身を乗り出して潮風に目を細めた。
「あのね。私ね、スガタ君のことなら、なんでも知ってるんだ」
 楽しそうに、なんとも大胆な事を大声で告白されて、タクトは呆気に取られて口をぽかんと開いた。だが彼女は海と空が交わる場所を見詰めたまま、髪の毛が風に掻き乱されるのも構わず、少し塩辛い空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 同じ島で産まれて、同じ島で育った。
 土地の繋がりは強く、しきたりやしがらみは尚のこと。
 幼くして婚約者という関係が出来上がっていたふたりは、まるで兄妹のように育った。
「だからかな。スガタ君は、訊いたら大抵のことは答えてくれる」
 好きなもの、嫌いなもの。スリーサイズは勿論だし、読んだ本の感想は訊いてもないのに事細かく語り聞かせてくれた。
 ワコが知らないのは、彼に訊いていないことだけだ。隠し持っているナイフの意味は、互いが背負う宿命の重さに負けて、結局自分から訊くのは叶わなかった。
 嫌な事を思い出して、彼女は言葉を切った。息継ぎを挟み、唾を飲み込んで咥内を乾かす。
「初めてだったんだよ」
「ワコ?」
「スガタ君が、私に嘘ついたの」
 いつだってワコには正直に、真摯に向き合ってくれたスガタが、今回に限って彼女から目を逸らした。
 上辺だけ取り繕って、誤魔化してやり過ごそうとした。
「……」
 彼女は依然、遠くを見たままだ。
 話を聞くうちに段々憂鬱さが増してきて、タクトは唇を噛んで左肘を右手で掴んだ。強く握り締めて、ぎりぎりと骨に沁みる痛みで外に出て行きそうな感情を堰き止める。
 奥歯を噛み締めている彼を盗み見て、ワコは嘆息と同時に肩を竦めた。
「あのね」
 別に咎めているつもりはないのだと、彼女は笑った。
 どうしてそんな表情が出来るのか分からなくて、タクトが困惑に眉を顰める。その顔が面白かったのか、ワコはケラケラと楽しそうに声を響かせ、膨れ面をしたタクトに睨まれて涙を拭った。
 苦しそうに息を吸っては吐き出して、深呼吸してからフェンスを降りて足をぶらぶらさせる。
 両手は背中に回して、彼女は唐突に姿勢を正した。
「こんな事言ったら、ホントはダメなのかもしれなけど。私ね、嬉しかったんだ」
 春の爽やかな風を思わせる微笑みに、タクトは面食らって目を見開いた。
 彼女はスガタが嘘をついたとはっきり言った。その嘘とは、タクトとの間に何かあったのではないかとの疑問に「何もない」と答えたことに他ならない。
 タクトも同じ事を彼女に言った。
 ならばタクトの返答も、彼女の中では嘘として処理されている。
 それなのに、どうして笑っていられるのか。自分だけ話に混ざれず、のけ者状態になっているというのに。
「ワコ」
「ああ、誤解しないでね。嘘つかれるのは、やっぱり哀しいよ。でも、ね」
 誰だって、正直なままではいられない。人に言えないことの一つやふたつ、胸に抱えていてもなんら不思議ではない。
 だがスガタは、その誰にも知られたくないことは、ずっと自分の胸の中だけで処理してきた。悩んでいる事すら周囲に悟らせず、ひとりで解決したがった。
 あんな風に露骨な嘘で取り繕って、茶を濁そうとする彼は珍しい。
 ほかの事ならもっと上手に隠してしまえるのに、今回ばかりはそれが出来ずにいた。注意力は散漫で、直ぐに遠くを見詰めて溜息ばかり繰り返している。
「…………」
 授業中のスガタを語って聞かせてくれる彼女に、もう何も言わないでくれ、とは流石に頼めなかった。
 そんな風になっている彼の横顔が、実際に間近で見たわけでもないのに、嫌にはっきりと、タクトの頭の中に浮かび上がった。照れ臭そうにはにかむ顔や、嬉しそうに頬を緩めるところまでもが順々に展開されて、勝手に顔が赤くなる。
 広げた右手で口元を覆った彼に目を細め、ワコは急に噴き出した。それで余計に恥ずかしさが増して、タクトはうろたえて意味もなく首を横に振り回した。
「タクト君は、凄いね」
「……へ?」
「だって、あのスガタ君と友達になれちゃうんだもん」
 右往左往している彼を前に咳払いをひとつして、気持ちを整えたワコが穏やかに言った。
 褒められているのだろうか。微妙にスガタを貶しているようにも聞こえる一言に目を点にして、タクトは火照った頬をペチン、と叩いた。
 そう、友達だ。
 自分たちは友人同士だった、筈だ。
「ともだち、か」
「彼って、ああいう人でしょ。だからあんまり、ね」
 ワコが言いたい事は、大体分かる。
 島の有力者の息子で、豪邸に暮らし、眉目秀麗で欠点らしい欠点はおおよそ見当たらない。
 古武術の師範代を勤め、一方では芝居に打ち込んで観客を魅了する。女子からの人気は絶大で、嫌味のない性格で男子からの信頼も厚い。
 だが心を許しあえる本当の友人には、恵まれなかった。
 王のサイバディのシルシを持って生まれた彼は、赤子の段階からすでに特別だった。その役目を知らず、無邪気なままでいられた時間は短い。よく笑う子供だったという彼も、五年前の誕生日の際に己に課せられた宿命を知らされた後は、感情を仮面の下に隠すようになっていった。
「タクト君が来る前のスガタ君は、ちょっと、恐かった。笑わないし、怒らないし、なんでもかんでも受け流して、色んなことに正面から向き合うのを避けてたと思う」
 新たな人間関係を築くのを拒み、教室で喋る知人はいても、放課後を共に過ごして他愛もない話題に鼻を咲かせる友人は、ひとりも持たなかった。
 ワコがあれこれ連れまわして、巻き込んでいかなかったら、スガタはひょっとしたら引き篭もりになっていたかもしれない。
 そう言った彼女は笑っていたが、目は暗く沈んでいた。
 その頃のスガタを、タクトは知らない。
 考えもしなかった。
「……そう。なんだ」
 ネクタイの上から胸元を弄り、刻み付けられたシルシをなぞって、タクトは俯いた。
 今のスガタからは想像がつかない。タクトの前で彼は、大口を開けこそしないがよく笑い、良く怒り、良く拗ねて、軽口を叩いては人をからかい、生きる事を楽しんでいた。
 確かに彼の境遇には不幸な面がある。だけれどそれを笑って受け入れられる余裕が、はっきりと感じられた。
「タクト君のお陰だよ」
 スガタが今の彼になれたのは、タクトが島に来たからだ。
 事も無げに言って、ワコは両手を腰に当てた。
 何故か誇らしげな彼女をいぶかしみ、タクトはもう一度頬を叩いた。その上で人差し指以外の四本を折り畳み、爪先を自分へ向ける。
 ワコは鷹揚に頷いて、彼の方へぴょん、と飛び跳ねた。
「凄いね、タクト君は。私が、何年かけても出来なかった事、簡単にやっちゃうんだもん」
 頬に掛かる髪を耳に預けた彼女の横顔は、心持ち寂しげだった。
「ワコが出来なかったこと、って」
「うん」
 小さく頷いた彼女をじっと見詰め、タクトはふたりに初めて会った日の事を思い出した。
 フェリーに間に合わなくて、泳いで海を渡ろうとしたタクトの無謀さ知り、スガタは腹を抱えて笑った。
 笑っていた。
「いいな、男の子って」
 ぽつり呟かれたワコの声は聞こえなかったフリをして、タクトは口元にやった指を思い切り噛んだ。
 どうしてだろう、無性に彼に会いたかった。
 声を聞きたかった。
 笑いかけて欲しかった。
「スガタ」
「だからね。私としては、タクト君とスガタ君がギクシャクしてるっていうか、そういうのは、嫌なんだ」
 零れ落ちた呟きを上書きして、ワコが努めて明るい声を出して言った。両手を勢い良く叩き合わせて音を響かせ、ようやく辿り着いた本題にホッとした顔をする。
 ふたりとも、揃って喧嘩をしたわけではないと言った。
 だけれど、到底そうは思えない余所余所しさをお互いに発揮している。
 目も合わせようともしないふたりを見て、昨日までの仲の良さを知っているワコは不安でならなかった。
「嫌なの?」
「うん」
 訊かれて即答し、ワコは胸の前で左右の手を結び合わせた。
「スガタ君が前みたいになっちゃうのは嫌だし、タクト君が元気ないのも嫌。私、我が儘だから」
 どちらか片方が欠けても嫌なのだとはっきり口にして、彼女は真っ直ぐにタクトを見た。
 射抜かれた彼は暫く無言で立ち尽くし、鴎の鳴く声でハッとして瞬きを繰り返した。
 ワコはその間もずっと彼を見詰めていた。逃げるのを許さない強い眼差しが、彼女がどれだけスガタを、そしてタクトを案じているかを物語っている。
「ワコは、僕たちが喧嘩するのは、嫌なんだ」
「すっごく、嫌」
 小声での質問に吐き捨てるように言い切って、彼女は足元を強く蹴り飛ばした。
 その剣幕につい苦笑して、タクトは肩の力を抜いて息を吐いた。急に目の前が開けて、心が軽くなった気がした。
「だって、スガタ君は大切な人だもの。それに、タクト君だって。大事な人同士が仲が悪いのは、見てて辛いよ」
 尻すぼみに声が小さくなっていく。彼女は最後には項垂れて、顔を伏した。
 表情は見えないが、きっと泣きたいのを我慢しているに違いない。覗き込むような無粋な真似はせず、想像するに済ませ、タクトは肩を竦めて目尻を下げた。
 こうまで言われてしまったら、彼女の為にも奮起せねば男が廃る。
 正直言って、まだスガタと向き合うのは勇気が要ったが、このままで良いとは当然タクトも思っていない。
 きちんと話をしようと決めて、晴れ晴れとした顔で天を仰ぐ。
 見るからに雰囲気が変わった彼に、ワコは良かった、と胸を撫で下ろした。
「ごめんね、ワコ。心配かけて」
「ううん。そんな事ないよ。私こそ、でしゃばっちゃってごめん」
「なんだかワコって、スガタのお母さんみたいだね」
「ちょっとー。私、あんなにおっきな息子を産んだ覚えはないんだけどー?」
 茶化して笑っていたら、憤慨したワコが拳を高く振り上げた。パンチを避けて後退して、タクトは鳴り響くチャイムに意識を遠くへ飛ばした。
 昼休みが終わってしまった。次の授業がなんだったかを思い出そうとしたら、同じクラスのワコが先に声を張り上げた。
「あー! 大変、タクト君。次、体育だよ」
 すっかり忘れていたと叫んだ彼女になにより吃驚して、タクトは一歩反応が遅れた。慌てて駆け出した小柄な背中を見送って、急に足を止めて振り返られたのにも驚く。
 にっこり微笑んで、少女は小さく舌を出した。
「だからね、スガタ君のこと、恐がらないであげて」
「え?」
「遅刻、ちこくしちゃーう!」
 今から教室に戻って体操服を抱えて更衣室へ行き、着替えてグラウンドに集合。
 予鈴から本鈴までの僅かな時間で間に合うだろうか。
 否、そんな事は最早タクトにはどうでも良かった。
 ばたばたと足音を響かせてワコが屋上を出て行った後も、彼はその場に佇み続けた。
「スガタを、恐がる……?」
 一瞬何を言われたか分からなくて、声に出して復唱した途端にその意味を思い知る。
 唇が震え、目の前が真っ暗になった。
「僕が、スガタを?」
 誰がそんな事を言ったか。
 ワコではない。ならばひとりしか、いない。
「僕がスガタを、怖がってる?」
 自分が何にショックを受け、打ちひしがれているのかも分からぬまま、タクトは己の作り出す影を呆然と見詰めた。

2011/01/09 脱稿