夢だと云って

 砂を踏む感触が、足の裏にダイレクトに伝わって来た。
 右を見れば寄せては返す波が、白い飛沫を伴って、ざ、ざ、と音を響かせていた。
 波打ち際ではなくて、少し陸地よりの乾いた浜辺をゆっくりと進んでいた。靴は履いていない。手にも持っていなかった。
 点々と刻まれる足跡は、ひとり分。そして自分が歩を進めると、後にはふたり分残された。
 誰かが前を歩いていた。歩幅は少しだけ、あちらの方が広い。
 それが急に悔しくなって、一歩を心持ち大きくしてみた。しかし慣れない砂地に悪戦苦闘を強いられて、なかなか巧く行かない。
 不貞腐れた顔をして前を行く背中を睨み付ける。いった誰なのか不思議に思うが、さほど距離があるわけでもないのに視界はぼやけて、輪郭はあやふやだった。
 だけれど、知っているような気がした。いつも見ている背中のような気がした。
 誰だっただろう。分かるのに、思い出せない。
 砂に足を取られそうになりながら、どこまでも続く砂浜を黙々と歩き続ける。不思議と疲れは覚えなかった。最果ては見えない。振り向けばふたり分の足跡が、まるで寄り添うように並んでいた。
 あ、悔しい。
 何故か、そう思った。
 過ぎ去った道は隣り合わせなのに、実際の自分たちは離れている。それが意外にショックで、ショックを受けていること自体もある意味衝撃的で、これは是が非でも追いついてやらなければ、と思った。
 ただ、走り出しはしなかった。向こうが歩いているのだから、駆ければ簡単に追い越せるのは分かりきっている。だから、なのかもしれない。歩いて、自分のペースで追いついてみたかった。
 ズボンのポケットに両手を押し込んで、追い越してやったら向こうはどんな顔をするだろうと考える。間抜け面を見せてくれるかもしれないと思うと、なんだか楽しくなった。
 追いつきたい。
 並びたい。
 隣に行きたい。
 目を閉じて、強く願う。細波が耳を擽り、潮の香りが心地いい。
 ああ、これは南十字島の砂浜の音色だ。本土で聞くのとは明らかに違う潮騒に心を躍らせて、ずっとこの島に居られたらと祈り、微笑みを浮かべる。
 瞼をそうっと持ち上げれば、あれほど遠かった背中がもうそこにあった。
 あれ、と首を捻る。向こうがペースを落としたのかと考えるが、歩幅は一定しており、リズムに変化も見られない。
 ワープでもしたかな、と首を傾げるが、分からない。だから答えの出ない摩訶不思議な現象の検証はさっさと諦めて、これ幸いと早足になった。
 あと少し。
 もう少し。
 距離が狭まるに連れて気持ちが高揚して、興奮に頬が紅色に染まった。
 嬉しくて、自然と顔が綻ぶ。
 息を弾ませて笑って、前後にテンポ良く揺れている腕を捕まえようと手を伸ばす。
 ぎゅっと握った感触は、力強く頼もしかった。
 ピクリとして、相手が足を止めた。これでようやく顔を拝めると、長い、長い砂浜の終着点手前で、タクトは目を輝かせた。
 潮風に煽られて青い髪が揺れていた。日焼けとは無縁の白い肌が陽光を反射してキラキラと眩しい。
 口元だけが妙にはっきりと目に映るのに、肝心の鼻筋から上は靄がかかっているようだった。見えないのが残念で仕方がなくて、もっと近付けばちゃんと見えるようになるかと期待を込めて距離を詰める。
 一歩前に出る。
 あちらも、タクトに迫った。
 薄い唇が開いて、言葉を紡ぐのが分かった。だのに波の音しか聞こえない。耳が可笑しくなったのかと怪訝にしながら、ゆっくりと動く唇を見詰めて音を探ろうとする。
 名前を呼ばれている。
 そう理解した瞬間、勝手に口が開いていた。
 名前を呼び返した。それなのに、その名前が耳に入って来ない。どうして聞こえないのかと頭の中で必死に考えるのに、身体は思いに反して自動的に動き、意識を置き去りにした。
 もう片手を伸ばして肩に乗せて、首に絡める。
 背中に回った向こうの手がタクトの腰を引き寄せて、触れ合った肌の確かさと、肉質の硬さにどきりとした。
 顔を上げる。まだ見えない。
 見えない。
 タクト、と。
 聞こえない音を刻み続ける唇に吸い寄せられて、瞼を下ろす。
 その瞬間、思い出した。
「――うわぁっ!」
 被っていた布団を跳ね退けて、タクトはベッドの上で飛びあがった。
 何も無い空中を両手で掻き毟り、それを十秒近く繰り返した後に目を瞬かせ、現実を思い知る。
「あ、……あれ?」
 きょとんとしたまま首を傾げて、彼は何度も瞬きしながら空っぽの両手を膝に落とした。
 心臓はバクバクと破裂しそうな勢いで鳴動して、全身から滲み出た汗が寝間着にしみこんでなんとも気持ちが悪い。呼吸のひとつさえままならなくて呆然としていたら、薄い壁越しに隣室の男子の怒鳴り声が聞こえた。
「五月蝿いぞ、タクト!」
 絶叫と共に我に返った彼はそれでも暫く惚け、唖然としながら薄暗い部屋の壁を凝視し続けた。油の切れたブリキ人形のようにぎこちなくギギギ、と首を回して物の少ない室内を見下ろし、此処が紛れもない現実世界だと実感を強める。
 間違ってもゼロ時間ではない。カーテンの向こうから覗く朝日と共に、どこからともなく鳥の囀りが聞こえた。
 身体中のありとあらゆる血管が、怒涛の勢いで血液を押し流している。パンクしそうな心臓をシャツの上から握り締めて、タクトは充血した眼を瞼の裏に隠し、落ち着かせようと深く長く、息を吐いた。
「夢、……か」
 言葉に出した途端に実感が増して、遅れて安堵がやって来た。ホッと胸を撫で下ろして脂汗を拭い、彼は頭の上すれすれのところにある天井を手で押し返した。
 足元に吹っ飛んでいた布団を引っ張りあげて、現在時刻を確かめようと時計に目を落とす。午前六時の、少し手前だった。
 なるほど、これなら隣室の友人が怒るのも無理はない。納得した彼は、すっかり静かになった壁向こうに手を合わせて謝罪し、もう一眠りするか迷って、掛け布団を抱き締めた。
 布は薄く、弾力に乏しい。呆気なく真ん中で折れ曲がり、頭がくたりと倒れてしまう。
 馬鹿みたいにリアルだった夢とつい重ね合わせてしまって、タクトはハッとして、慌てて首を振り回した。
「いやいや、いやいや!」
 あそこで目を覚ましたのは、我ながらナイスタイミングとしか言いようがない。たとえ夢であっても、同性とキスをするのは、出来るならばご遠慮願いたかった。
 そう思うのに、夢のように身体は勝手に動き、指はひとりでにかさついた唇に触れていた。
 実際に触れられたわけではない。現実でも、夢の世界でも、此処はまだ無事だ。
「……え?」
 近い場所を見ているのに遠くを眺めている気分に陥っていたタクトは、ふと思い至り、自分の思考に唖然とした。
 まだ無事、と思うという事は、いつか奪われるかもしれないという前提で考えている、ということだ。しかもその相手がよりにもよって、島に漂着して初めて出来た友人と来た。
 青い髪の、涼しげな笑みを浮かべている人物を脳裏に思い浮かべ、タクトは沸騰中のヤカンのように湯気を吐いた。
「や、いや。っていうか、そんなわけ、あるわけ。あるわけ……――」
 懸命に言い訳がましく言葉を並べ立てるが、どうしても否定の言葉に繋がってくれない。喉の奥で引っかかっている「ない」のひと言がどうやっても出てこなくて、彼は乾燥している喉を気にして、何度も唾を飲み込んだ。
 黙り込むと同時に視線は手元に戻って、下を向いた。ベッドの上で項垂れて小さくなって、布団を抱えたまま背中を丸める。
 立てた膝に顔を伏して視界を闇に染めれば、思い浮かぶのは全て昨日の出来事だった。
 放課後の、帰り道。わざと遠回りになる道を行こうと誘ったのは、タクトだった。
 島は意外に広くて、地形も起伏に飛んでいる。充実した学園生活を送る一環として、島の道全てを踏破してみせると意気込んだ彼は、案内役として出来たばかりの友人を誘った。
 部活もない日で、暇をしていた彼は二つ返事で頷いて、同行を快諾してくれた。
「冗談、きついよ」
 その友人に、告白された。
 好きだと言われた。
 気付いていなかったのかとまで聞き返されて、答えられなかった。
 主に許可なく赤く、熱くなる顔を布団越しに膝に押し付けて、タクトは頭の中で喧しく反響している彼の声を遠くに投げ飛ばした。だけれど目に見えない壁にぶち当たって、あっさり戻って来て前以上に騒ぎ立てる。
 思い出したくないのに忘れられなくて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、朗らかに微笑む親友の顔目掛けて拳を入れた。
「うわあっ」
 そうしてバランスを崩して、もう少しでベッドから転げ落ちそうになって肝を冷やした。
 下に物置を備えたベッドは、床から一メートルちょっとの高さにある。落ちて打ち所が悪ければ、捻挫程度では済まない。
 想像したらまた心臓がバクバク言い始めて、五体満足の自分自身にホッと胸を撫で下ろした彼は、ベッドの縁を掴んで足を前に蹴り出し、梯子へと身を乗り出した。
「んー……」
 最後の一段は飛び降りて、両足で着地と同時に腕を高く掲げる。背中を反らして骨を鳴らした彼は、窓を覆っていたカーテンを一気に右に薙ぎ払って、眩い光を室内に招き入れた。
 空は快晴、雲ひとつない。
「もう、やめやめ。折角良い天気なんだから、悩んでないで、青春を謳歌しないとな」
 ウジウジするのは性に合わない。そう叫んで大きく伸びをした彼は、またもや隣の部屋の住人に怒鳴られて首を竦めた。
 寮で定められている起床時間にはまだ早いが、外はもう充分明るい。誰も居ない洗面所で顔を洗い、歯を磨いて、部屋に戻って制服に着替えた彼は、朝食を買う為の資金を財布に追加して、誰よりも早く寮を出た。
 水平線すれすれのところを泳ぐ太陽を目印に、人気の乏しい道をのんびりと進む。肩に担いだ鞄には勉強道具一式に加え、体育の授業で使う体操着入りの袋がぶら下がっていた。
 それをゴム鞠みたいに背中でポンポンさせる彼が真っ先に向かったのは、学校ではなかった。
 朝食、及び昼食を確保すべく、朝の早い時間から営業しているパン屋を目指す。以前にワコが教えてくれた、彼女お気に入りのパン屋のシャッターは、まだ朝七時半だというのに既に全開だった。
 近付くに連れて、小麦の焦げる芳しい匂いが鼻腔を擽り、否応なしに食欲を刺激された。タクトは湧いて出る唾をひと息に飲み干すと、好物のメロンパンを求めて早足で自動ドアを潜り抜けた。
 焼きたてのパンはどれもふわふわしていて、まるでマシュマロのような触り心地だった。
 冷めても美味しいが、竃から出したばかりのアツアツも、譬え難い味わいがある。そんなパンをいつもよりひとつ多く購入して、レジで支払いを済ませた彼は、幸せいっぱいの顔をして横断歩道を駆け足で通り抜けた。
 人通りも、店に入る前よりはいくらか増えていた。
 スーツ姿の人はあまり居ない。この島には鉄道が無いので、電車に間に合わないと息せき切らして走る人はひとりも存在しなかった。
 浜辺沿いの道を行けば、漁を終えたばかりなのだろうか、網の手入れに勤しむ漁師の姿が見受けられた。
 島全体の時間が、本土に比べてゆっくり流れているようだった。全体的にのんびりしていて、時間に追われてあくせくしていた頃の自分がまるで嘘のように、毎日に余裕がある。
 朝、布団から出るのが苦痛でなく、テレビゲームや面白い漫画がなくても殊更不満を感じない。
充実した学生生活、というものを、自分はちゃんと送れているようだ。勉強に、部活に忙しくして、生涯にわたって付き合っていけそうな友人にも多数出会えた。
 あと足りないのは交友資金稼ぎのアルバイトと、恋愛くらい、だろうか。
「……!」
 誰も居ないバス停に到着して、時刻表を確認していたタクトは、唐突に瞼の裏に蘇った青年の姿にドキリとして顔を強張らせた。
 挙動不審に視線を左右に走らせて、近くにその人物が居ないのを確かめる。鞄とは別にして、胸に抱えていたパン入りの袋を潰してしまいそうになって、彼は慌てて腕の力を緩めた。
 跳ね上がっていた肩を落として安堵の息を吐き、無人の青いベンチの真ん中に腰を下ろす。左に鞄と体操服が入った袋を置いて、やや湿って皺だらけの袋の口を開く。
 取り出した焼きたてメロンパンに齧りついた彼は、未だ目の奥でチカチカしている光にげんなりしながら、何気なく高台の方面に顔を向けた。
 こんもりと生い茂る緑の只中に、屋根の一部だけが見え隠れしていた。あの広大な屋敷に暮らす青年も、今頃テーブルについてひとりで朝食を摂っている最中なのだろうか。
「……え?」
 ぼやっとしたまま物思いに耽っていたタクトは、今、自分が考えた内容を思い返して唖然として、噛み千切る寸前のメロンパンの欠片を取りこぼしてしまった。
 膝の上で跳ねて、アスファルトで舗装された路上へと転がり落ちて行ったそれは、もう食べられそうにない。島に生息する無数の鳥たちの餌にしてやる事に決めて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をして頬をぺちり、と叩いた。
「なんでそこで、スガタなんだよ」
 あんなに大きなテーブルに座るのがひとりだけというのは、なんとも寂しい。
 それだったら商店街へ来るよりも、彼の屋敷に行けばよかった。
 そんな風に考えた自分が信じられなくて、タクトは自然と赤くなる頬を今度は思い切り抓った。
「いって」
 爪が食い込む痛みに悲鳴をあげて、左手に持っていたメロンパンの真ん中を握り潰す。細かい屑が次々にズボンに零れ落ちて、後から気付いたタクトは何をやっているのかと、自分に呆れて溜息を零した。
 昨日までは、こんな事にはならなかった。
 スガタの家に遊びに行くなどいつもの事で、朝食や、夕食をご馳走になったのだって数え切れないくらいある。
 それはなんら可笑しなことではなくて、変だと考えたこともなかった。おいで、と言われたから素直にご相伴に預かっただけで、その裏に格別ななにかがあるとは考えもしなかった。
「あいつ、いつから」
 友人として巧くやっていたつもりだったのに、そう思っていたのは自分だけだったのか。
 そんな事を考えたら急に哀しくなって、タクトはまとまらない思考と感情を薙ぎ払おうと、甘い皮のメロンパンに噛み付いた。
 昨日のスガタは、いつもとなにも違わなかった。
 抱き締めて来た後も、特に態度を変えたりしなかった。
 解放されて、惚けて言葉も出ないタクトに、彼は帰ろう、と言った。
 手を差し出されたけれど、握り返さなかった。そのことについても、特に何も口にしなかった。
 好きだと告げる前と、ひとつも変わらなかった。
 分かれ道で、別れた。また明日と手を振られて、振り返した。
 そしてタクトはひとりで寮に帰り、自室で予習復習をして、夕食を仲間と食べて、テレビの前で雑談しながらバラエティーを見て、風呂に入って布団に潜り込んだ。
 バスがとろとろとしたテンポで近付いて来る。知らない間に四人ほど、バス停の傍に人が集まっていた。
 タクトは急いで食べかけのパンを口に放り込むと、咀嚼の回数もそこそこに飲み込んで、顎の周囲に張り付いた屑を払い落とした。
 停車したバスにいの一番に乗り込んで、前方のひとり掛けの席を確保して座る。塊のまま胃の中でゴロゴロしているメロンパンを宥めながら、彼は窓の外を流れる景色をひたすら見詰め続けた。
 昨日と違うところは、まるで見当たらない。蕾だった花が咲いていたり、盛りだった花が枯れてしまっていたりするくらいで、世の中の流れが大きく変容したとは言い難かった。
 スガタがタクトを好きだと言ったとしても、世界はなにひとつ昨日と変わらない。太陽が西から昇ることも、夕焼けが緑色になることも、ない。
「……どうしよう」
 そう自分に言い聞かせるのに、学校に近付くに連れて落ち着かなくなって、タクトは両手を膝に揃えて脂汗を流した。
 バスが停留所に着くたびに、大勢の人が乗り込んでくる。その大半は、タクトと行き先が同じだ。
 ピンク以外のネクタイも多い。知らない顔ぶれを忙しなく眺めて、その都度彼はホッと息を吐いた。
 スガタがバスを使わずに登校していると知っているのに、今日に限って使っているのではないかと考えると気が気でなかった。
「いつも通り、いつも通り」
 呪文のように口の中で繰り返し呟いて、体操服を袋の上から抱き締める。
 スガタは、返事を求めてはこなかった。
 爽やかな笑顔は、自分の気持ちを知ってもらえて嬉しいと、そればかりを告げていた。こちらの感情は二の次の彼を若干腹立たしく思って、何故自分が怒っているのかを考えて、タクトは押し黙った。
 学校に着けば、否応無しに彼と顔を合わさなければならない。
 その時、どんな顔をすれば良いのか。いつも通りを心がけて、昨日のあの一連のやり取りはなかった事にすればいいのか。
 普段のように軽く挨拶をして、軽口を叩きあって、ワコを交えて談笑して、放課後は一緒に部活に出て。
 果たして巧く出来るだろうか。
「……なんだって」
 もしかして、を先に口にした自分を激しく後悔しながら、タクトは見え始めた校舎に臍を噛んだ。
 どれだけ祈っても、願っても、バスは定刻どおりに学校前の停留所ぴったりに停まった。前後の出入り口が一斉に開いて、大勢の生徒が我先にと殺到する。
 混雑する扉前を座席から見詰め、タクトは最後にバスを降りた。
 真後ろで閉まったドアの音にビクリとして、首を竦めた彼の両脇を、同じ制服に身を包んだ生徒が大挙して通り抜けていった。
 一時間目の始業時間にはまだ余裕があったけれど、もう登校ラッシュが始まっていた。立ち止まっていたら後ろから来た誰かに肩をぶつけられて、たたらを踏んだ彼はよろめきながら身体の向きを入れ替えた。
 大きく解放された正門に、次々と若い男女が吸い込まれていく。その列に加わって、俯きながらバスの中でも繰り返していた呪文をひたすら呟き続ける。
 いつものように。
 普段通りに。
 世界の大局と同じで、スガタの思いはタクトの生活になんら係わり合いがない。
 好きだというのなら、言わせておけばいい。生憎と自分にはその手の趣味はなくて、可愛い女の子の方が断然好みだ。
「……だよ、な」
 期待に応えてやる義理はないとスガタを鼻で笑い飛ばして、タクトは重い鞄を肩に担ぎ上げた。
「おはよう、タクト君」
「ああ。おはよ、ワコ」
 校舎に入ったところで後ろから声が飛んできて、彼は足を止めて振り返った。
 人ごみの中に黄色の頭が見える。ショートカットの少女は器用に雑踏を掻い潜り、タクトの横までやって来た。
「あ、いいな」
 そして目敏く彼が抱える紙袋を見つけて、匂いだけで中身を察して大粒の瞳をキラキラ輝かせた。
 ナンバラのパンは、彼女も大好物だ。羨ましそうにしているワコからサッと袋を遠ざけて、タクトは意地悪く笑った。
「あげないよ」
「えー、ケチ」
 これは大事な昼食だ。ひとたび大食漢の彼女の手に落ちたら、取り返しのつかないことになる。
 もっともそれはワコも分かっているようで、二度ほど強請った後、彼女は大人しく引き下がった。
 朝から旺盛な食欲を見せてくれた少女との会話を楽しみ、タクトは顔を綻ばせた。これぞ求めていた充実の学園生活だとにんまりして、学年別の教室に向かう人の波に乗って廊下を進む。
「あ」
 並んで歩いていたワコが、急に声をあげて背伸びをした。
 彼女に注意を向けていたタクトも、つられる格好で視線を持ち上げた。
 ワコの利き腕が真っ直ぐ頭上に伸びて、左右に大きく揺れた。タクトと会った時よりも若干嬉しそうにしながら、可憐な歌声を披露してくれる口を開く。
「スガタ君、おはよう」
「!」
 幾らか通行し易くなった廊下の、前を行く生徒に向かって叫んだ彼女にハッとして、タクトは抱えていた荷物を落としそうになった。
 勝手に足が止まり、唇が震えた。瞬きを忘れた瞳が、ワコの声に反応した青年をスローモーションで映し出した。
 青い髪を揺らめかせて、シンドウ・スガタが廊下の只中で振り返った。
「あ……」
 漏れた声は誰の耳にも届かない。最初にワコを見たスガタは、直ぐに隣に立つ存在に気付いて穏やかに微笑んだ。
 いつもと変わらない笑顔なのに、心持ち嬉しそうに見えた。
「っ」
 ドクン、と心臓が強く嘶く。息苦しくなって、タクトは音を立てて唾を飲み込んだ。
「ワコ、おはよう」
 涼やかな声が鼓膜を震わせる。軽やかな挨拶に愛嬌を振りまいて、ワコはちょっと照れ臭そうに手を振る幅を小さくした。
 柔らかな日差しが窓から注ぎ、彼を照らしていた。眩しくて、直視できなくて、タクトは夢で見た彼を思い出して背筋を震わせた。
 息が出来ない。鼓動が五月蝿い。目がチカチカして、顔が火照って熱い。
「タクト」
『タクト』
 夢で聞いたのと同じ声がタクトを呼んだ。いつもと変わらないようで、ちょっとだけ嬉しそうに聞こえる声で、スガタが、タクトを。
「!」
 瞬間、カーッと足元から頭目掛けて羞恥心が駆け抜けていって、タクトは喘ぎ、抱えていたものを強く抱き締めた。
「ぼ、僕。トイレ、行ってくる!」
 スガタを正面から見られない。
 普段通りになんか、出来ない。
 スガタが来た道を戻り、ふたりの元へ歩み寄ろうとした瞬間、タクトは廊下全体に響き渡るほどの大声を張り上げて、持っていたパンをワコに押し付けた。
 咄嗟に受け取ってしまった彼女がぎょっとするのも構わず、言うが早いか教室とは反対方向へ駆け出す。
「ちょっと、タクト君?」
 どうしたのかとワコが問いかけるが、返事はない。
 埃を巻き上げて駆けていった背中を見詰め、スガタは誰にも気付かれないくらいに、悲しげに顔を曇らせた。

2010/12/28 脱稿