懐かしさがこみ上げる校門を潜り抜けて入った建物は、シンと静まり返っていた。
長期休暇期間中だから、人気は乏しい。部活動に勤しむ生徒と何人かすれ違いはしたものの、スーツ姿というのもあって、さほど不審がられることはなかった。
玄関で上履きに履き替えるシステムは、変更されたらしい。下足のまま入れるようになっていたのには、正直面食らった。
正門傍にあった電話を使って卒業生である事を告げて、職員室に立ち寄って正式に学校内を歩き回る許可を得る。渡された腕章は青色だったが、黒いスーツの袖に通すと、なんだか誰かを思い出しておかしかった。
風紀委員はまだあるらしい。だけれど一時期に比べれば、随分と平和的なものになったようだ。
職員室にいた教員は、全員知らない顔だった。校長も、教頭も何度か変わったと聞いた。一番の古株だという男性教諭も、並盛中学校に赴任して来たのは八年前だという。
「結構変わってるな」
外から見た時は分からなかったが、実際に中を歩いてみたら、記憶と異なっている部分が多数見受けられた。下駄箱の列が無くなっていたのが何よりの違いだし、教室の配置も、覚えているものとはかなり変わっていた。
一年生が最上階で、学年が上がるにつれて下の階に移動するのは、当時と同じだ。けれど空き教室が増えている。地区の子供の数が減った影響だろう。
「A組は、まだ此処か」
余った教室は、物置代わりにされているか、パソコンを並べての情報リテラシーの授業に使う部屋に生まれ変わっていた。
だがクラスの先頭に当たるA組だけは、十年前となんら変わることなく、そこに存在していた。
古びたドアに手をかけて、少し力を入れて右に動かす。滑りが悪いのは、相変わらずだ。
「獄寺君が、派手に壊したんだよな」
ランボが学校に入り込んで、学校全体で盛大な鬼ごっこに発展した時だったように思う。その時に出来た大きな傷は、他の傷に紛れて目立たなくなってはいたが、まだくっきり残っていた。
軽く膝を曲げて手を伸ばし、そっと触れれば、乾いた感触が指の肌に広がった。
目を閉じれば、まるで昨日のことのように思い出せる。教室で受けた退屈な授業も、窓から見上げた真っ青な空も。
屋上で浴びた涼しい風も、サッカーの試合で転んで盛大に膝を擦りむいたことだって。
意外に覚えているものだ、記憶力の低さには定評があったのに。
二年A組の教室にふらふらと迷い込んで、ドアも開けっぱなしにして中央へと進み出る。現在進行形で学校に通っている生徒らは、教室を大切に使ってくれているらしい。床は磨かれて、埃もあまり落ちていなかった。
締め切られた窓と、それを覆うカーテン。こちらは流石に黄ばみが目だった。
「懐かしいな」
夏場、日直がカーテンを閉め忘れて帰った翌日は、悲惨だった。蒸し風呂のようになった教室で受ける授業は、到底集中出来るわけがなかった。
今は全教室に空調が完備されていた。自分たちの頃にはこんな豪華なもの、存在しなかったのに。
求める運動はあったが、実現には至らなかった。そんな事も思い出しながら、彼は天井に向けていた視線を足元に落とした。
居並ぶ机は、新しいものと、年季が入っているものが半々。壊れた分から取り替えているようで、色鮮やかなものもあれば、かなり薄汚れて汚いものもあった。
誰かが彫刻等で掘ったと思われる穴や、落書きがあちこちにあった。後から使う人の事を考えて掘ったとは、到底思えない。
かなり薄くなっている相合傘を見つけて微笑んで、彼は戯れにその傘の部分を撫でた。
三角形の真ん中に線があったら、真ん中で割れてしまうから、縁起が悪い。そんな可愛らしいことを真剣に信じていた時代が、彼にもあった。
「俺も、沢山書いたなぁ」
ノートの片隅や、教科書の後ろの方。人に見られないような場所に、こっそりと。
幾ら心の中で願ったところで、行動に移さなければなにも変わらない。本当は分かっていたけれど、勇気がなくて、ただ胸に秘めるだけで終わってしまった恋も幾つかあった。
手首に結んだミサンガが擦り切れて自然と解けたら、願いが叶う。
新品の消しゴムに好きな人の名前を書いて、誰にもばれずに最後まで使いきれたら恋が成就する。
試したおまじないは、数知れない。ただどれも、達成できなかった。
だから未だに、実りある恋愛が出来ていないのだろう。もっとも、一番の要因は、見込みが無いと分かった途端に諦めて、後ろを向いてしまうからなのだが。
とっくに成人して、もう良い大人なのだから、自分の性格もよく分かっている。
幸か不幸か入社試験などというものは受けずに済んだが、もし面接があったとしたら、こういう気弱な部分を真っ先に指摘されて、落第点を押されていたはずだ。
「だよねえ」
まっさらなリクルートスーツに身を包み、緊張でガチガチになりながら、言われっ放しで恐縮している自分を想像する。実際にあった事のように簡単に頭に光景が浮かんで、彼は苦笑を浮かべて頬を掻いた。
もしこの血筋に産まれていなかったら、今頃はニートの引き篭もりだったかもしれない。
もっとも、そちらの方がまだ人に、自慢にはならないものの、大っぴらに言える。
転職を志す際、前職はマフィアのボスでした、と正直に書いたところで、きっと誰も信じない。
「やめちゃおっかなー」
適当な席を選んで椅子を引き、腰を下ろす。木製の座面は硬く、尻を置くと骨が当たって座り心地はなんとも悪かった。
椅子の脚の長さが足りていないのもあって、どうも安定しない。机の下に膝を入れようとしても、引き出し部分にぶつかって、つっかえてしまう。
「イテ」
何度か挑戦してみたものの、膝がゴンゴン当たるだけで、なんともならなかった。内股気味に足を広げてみても、結局机を支える脚が邪魔で、巧く行かない。
「俺、よくこんなのに座って眠れたよな」
机も低すぎて、すらすらと物を書けそうになかった。試しに突っ伏してみるが、腰を深く曲げなければならないので辛い。
安眠するどころの話ではない。直ぐに背筋を伸ばして姿勢を正し、彼は勝手をしてしまった机の、現在の持ち主に心の中で詫びた。
引き出しの中に手を入れてみれば、教科書でいっぱいだ。英語の辞書まである。裏表紙に名前が記されていたが、当然知るわけがない。
個人情報だと首を振って、ページを開くのは諦める。元あった場所に戻して机を叩き、勢い良く立ち上がる。
実感は無かったけれど、一応、ちゃんと成長していたらしい。
中学生時代にはサイズがぴったりだった机や椅子が、今は小さいのが嬉しくて、照れ臭くて、少し残念に思う。
制服にも袖を通してみたくなったが、それはさすがに無理があるだろう。当時着ていたものはもう残っていないし、身体の大きい生徒に借りるとしても、きっと似合わない。
あれは、十代の自分達だったからこそ身につけられたものだ。
「今は、これが制服みたいなもんだしな」
呟いて上着の袖を撫で、紺色の腕章を抓んで笑う。白抜きで記された「見学者」という文字は、黒いスーツにあまりにも不釣合いだった。
腕章が似合う人は、ひとりで良い。昔に比べれば少しは丸くなったものの、依然としてつっけんどんとした態度は変わらない人物を思い浮かべ、彼は肩を竦めた。
中学校を卒業しても、風紀に関わり続けている人が今の自分を見たら、なんと言うだろう。
「暫く会ってないな」
守護者のひとりとはいえ、彼の行動を束縛する権限は誰も持っていない。自由気ままに、思うままに。
独自の立場を保ち、独自の視点を持ち、独自の考えで行動する。
あんな風になりたかった。
「ヒバリさん」
元気にしているだろうか。
もしかしたら会えるかもしれないと、そんな儚い願いを込めて賭けに出てみたのだが、無駄足だったようだ。
彼は小さく吐息を零し、くすんだ色合いのカーテンを開くべく窓辺へと歩み寄った。黄ばんで、端が解れてしまっている布を抓もうとして左手を肩の高さまで掲げる。
その細い手首を。
「――っ!」
ガシャン、といきなり飛んできたものが拘束した。
「へ? え、わ。うわ」
虚を衝かれ、一瞬何が起きたのか理解出来ない。零れ落ちんばかりに目を丸くした彼は声を上擦らせ、手首に絡み付いて離れない銀色の輪を右手で引っ張った。
しかしびくともしない。頑丈に出来ているそれは、手錠に他ならなかった。
「いたっ」
しかも棘がある。下手に動かせば皮膚に刺さり、骨まで達しそうだ。
輪はひとつだけで、細長い鎖がずーっと遠くまで長く伸びていた。小さな輪が繋ぎ合わさっているその先に目を向ければ、いつの間に現れたのだろう、教室の戸口にひとりの男が立っていた。
黒いスーツに身を包み、闇にも負けない漆黒の髪をした男が不遜な笑みを浮かべて佇んでいる。その右手には、彼の手首に絡み付いているのと同じ銀の輪が握られていた。
彼が振り向いたと気付いて口角を歪め、笑みを深くしてぐっ、と手錠を取る手に力をこめる。
引っ張られて、彼は窓辺でたたらを踏んだ。
「な、んで」
こんな奇妙な武器を扱う人間も、この世にひとりで充分だ。
久しく会っていなかったものの顔を忘れるわけがない。だけれどまさか、本当に現れるとは思わなかった。
掠れた声で悲鳴を上げた彼に目を細め、男は顔の横で手錠を揺らした。
「住居侵入罪の現行犯で、君を逮捕する」
「学校は住居じゃありません!」
不敵に言われて、反射的に彼は怒鳴っていた。
天性のツッコミ体質が恨めしい。うっかり合いの手を入れてしまった自分をひたすら悔やみながら、彼はムッとしている男に肩を落とした。
もっとも、この学校はあの人の家同然だった。応接室に居座り、夜遅くまで此処で過ごしていた。いつ自宅に戻っているのかと、不思議に思うくらいだった。
懐かしいやり取りもつぶさに思い出されて、甘酸っぱい郷愁が胸に広がる。
ただそれも、じゃら、という鎖の音で瞬く間に立ち消えてしまった。
「建造物侵入」
「どっちも同じ……っていうか、不法じゃありません。ちゃんと許可は貰ってあります」
良く見ろ、と袖に通した腕章を見せてやるが、向こうはまるで意に介さず、手錠を繋ぐ鎖を無遠慮に引っ張った。
つんのめり、倒れそうになったのを堪え、仕方なく足を戸口へと向ける。同時に男も部屋に入って来た。
腕章のある、なしだけを問題にするなら、在学時代と逆だ。何もぶら下がっていない黒スーツの左腕をぼんやり眺め、彼は教室最後尾のほぼ中央で足を止めた。
五十センチ強の距離を残し、あちらも立ち止まった。見下ろされて、突き刺さる視線が痛い。
「久しぶり、沢田綱吉」
「こちらこそ。ヒバリさん」
フルネームで名前を呼ばれて、綱吉も言い返す。軽く頭を下げて会釈をしたのは、綱吉だけだった。
手錠はまだ外してもらえない。いい加減引っ込めて貰いたくて束縛されている腕を肩の高さで左右に揺らすが、雲雀は涼しげな表情をして笑うだけで、願いを聞き届ける意思は感じられなかった。
「ヒバリさん」
「逮捕するって、言っただろう」
「ものの譬えとばかり」
彼なりのジョークかと思っていたら、本気だったらしい。棘のある口調で告げられて、綱吉は軽く肩を竦めて溜息をついた。
当分外してもらえそうにない。このまま何処へ連行されるのかと想像してこめかみの鈍痛を堪えた彼を見詰め、雲雀は右手を腰に据えて壁の方に顔を向けた。
呆れが混じった横顔を見上げ、綱吉が首を傾げる。
「ヒバリさん?」
「またフラれたんだって?」
「違います。偶々、今回は縁がなかったってだけで」
「それを、フラれたって、世間では言うんだよ」
「うぐぐ」
吐息と一緒に呟かれたひと言が、巨石となって綱吉の頭に落ちてきた。ズゴン、と重い音を立てた後に真っ二つに割れて砕けた岩の間から顔を出して、彼は奥歯を噛み締めて鼻を膨らませた。
まったくもってその通りなので、反論出来ない。怒鳴り散らしたい気持ちを必死に押しとどめて拳を硬くした彼は、肌にチクチク刺さる手錠の痛みに不意に泣きたくなった。
「もっと、オブラートに包んでください」
雲雀の言葉はいつだって飾らなさ過ぎて、聞かされる方は胸に詰まって辛いのだ。
鼻声で訴えた綱吉に肩を落とし、彼は黒髪を掻き上げて目を細めた。
「包んだところで、どうせ全部本当のことなんだから」
変に遠回しに告げるよりも、直球で攻めた方が痛みが少ない場合だってある。どっちもどっちだと言い切られて、綱吉は上唇を噛み締めた。
涙だけはどうにか堪えて、鼻から息を吸って口から吐き出す。その間雲雀は人差し指に引っ掛けた手錠をくるくる回して、最初に比べれば随分短くなった鎖を揺らした。
動きが伝わって、綱吉の手首に絡む輪もがふらふらと当て所なく動く。都度棘が刺さって、これではまるで拷問だ。
「誰に聞いたんですか」
いっそ殴ってくれた方が、気分的に楽だ。ただ痛いのはやっぱり嫌で、気を紛らせようと不貞腐れたまま問えば、雲雀は右の眉を少しだけ持ち上げ、顔を顰めた。
「なにを?」
「俺が」
「ああ、フラレた話?」
「それは言わないで!」
綱吉は一週間ほど前に、とあるマフィアの令嬢と見合いをした。
しかし昨日、正式に断りの連絡が届けられた。
怒鳴ると同時に右手で顔を覆い隠した綱吉は、さめざめと泣くフリをして弱々しくかぶりを振った。
これはボンゴレの中でもその中枢を担う、一部の人間しか知らないことだ。天下のボンゴレ十代目が失恋記録を絶賛更新中だという情報は、最早恥でしかない。
あまつさえ同じ日に、別の報せが届いた。
「結婚するんだってね」
「それは、どこから」
「笹川了平から」
「ああ、そっか。お兄さん、ヒバリさんと仲良かったし」
招待状を出した当人は、まさか綱吉の出来たばかりの傷に塩を塗る結果を招いたとは思ってもいるまい。彼女は今幸せの絶頂にいるのだから、綱吉も表面上は冷静さを保って、祝電を打つ準備だけを部下に依頼した。
結婚式には参加しない。出来るわけがない。
真っ白いウェディングドレスを着た彼女の隣に立つのは自分だと、中学生時代はそればかりを妄想していた。
実現には至らなかった幼い恋心に蓋をして、綱吉は前髪をくしゃりと握り潰した。
あの時、ああしておけば。こうしておけば。後悔が山のように押し寄せて来て、綱吉を飲み込んだ。潰されて、壊れてしまいそうになって、慌てて逃げ出して、気がつけば日本に居た。
「君のところの番犬が、こっちに来ているはずだと五月蝿くてね」
「……すみません」
それで彼は手錠を外そうとしないのだ。枷を取り除いた瞬間、綱吉が逃げ出すかもしれないから。
そんな無謀なことはしないのに。
イタリアに残して来た獄寺の、心配そうな顔が脳裏を過ぎる。今頃綱吉が抜けた穴を補おうと、あちこちを相手に頭を下げて、奔走してくれているに違いない。
「胃潰瘍、治ったばっかりなのにな」
この五年ほどですっかり胃薬とお友達になってしまった彼に苦笑して、綱吉は視線を感じて雲雀に向き直った。
目が合うと、彼はパッと顔を背けた。眇められた黒い瞳が他所を向いてしまったのが寂しくて、綱吉は空っぽの左手を緩く握った。
掴むものを探した指は、結局なにも見つけ出せなかった。手首に巻かれた手錠が重い。そんなに大きなものでもないのに、ずっしりと来て、此処にいるのが辛くなる。
「どうして?」
投げかけられた質問が何に対してなのか、綱吉は良く分からなかった。
顔を上げ、雲雀を探す。遠くに行ってしまったように感じた彼は、思った以上に綱吉の近くに立っていた。
距離が詰まっている。磨かれた床を踏みしめる彼の靴の位置を確かめて、綱吉は右手を左胸に押し当てた。
上物のスーツに皺を作って、乾いた喉を唾で潤す。
「どうしてでしょう。なんか、気付いたら飛行機に飛び乗ってました」
パスポートとクレジットカードを一枚、ポケットに捻じ込んで、他には何も持たずに城を飛び出した。後先考えずに空港に行って、席が余っている飛行機を探して乗り込んだ。
機内では夢も見ないくらいに深く眠りについて、地球を半周して日本に着いた。
着いてしまってから、自分は何をしているのだろうと我に返った。
探したが、イタリアへの直通便は当分満席。キャンセル待ちに賭けようかとも思ったが、空港でじっとしているのも勿体無い気がした。
そうしていつしか、彼は並盛町に足を向けていた。
実家を訪ねてみようかと思った。母にも久しく会っていない。ただ父がいるかもしれないので二の足を踏んでいたら、学校の校舎が見えた。
そのままふらふらと近付いて、正門の呼び鈴を鳴らして、職員室に立ち寄って。
計画性はない。思いつきの、行き当たりばったりの行動だ。
だから雲雀に会えるとも、本当は思っていなかった。
「なんか、懐かしくて。寄るつもりはなかったんですけど」
会えるわけがないと諦めていた。でも、会えるような気がした。
超直感というほど大それたものではない。むしろ祈りにも似た、切望だった。
会いたいと思った。
彼に。
「ヒバリさんは」
訊こうとして、綱吉は途中で止めた。獄寺に頼まれて綱吉を探しに来たと、先ほど教えられたばかりだったのを思い出したからだ。
気付かずにそのまま口にしていたら、きっと馬鹿にされた。昔よりも馬鹿さ加減に磨きが掛かったとでも言われて、笑われるのがオチだ。
情景を想像していたら、自然と頬が膨れた。勝手に拗ねている彼に小首を傾げて、雲雀は銀の鎖をチャラ、と鳴らした。
「結婚したいの?」
囁くように問いかけられて、綱吉は一瞬耳を疑った。だが見上げた先の青年は真剣な表情を崩しておらず、聞き損じではなかったと判断する。
彼の口からそんな単語が飛び出す日が来るなど、ちょっと信じられない。十年前の、風紀委員の腕章を手に学校を我が物顔で歩き回っていたあの彼が、だ。
暫く惚けてから、綱吉はぷっ、と噴き出した。
「別に、そこまで突き抜けて考えてはいませんよ」
ただ周囲が五月蝿いだけだ。特に、還暦を過ぎた幹部らは。
自分の目が黒いうちにやや子を腕に抱かせろだの、なんだの、顔を合わせる度になんとも姦しい。見合いの席も、過半数が彼らのような老人らが趣味で設けたものばかりだ。
もっとも、呼ばれて来る女性はいつだって、それなりに乗り気だった。
天下に名を轟かせるマフィアの後継者と聞けば、誰だって興味は持つし、その財力を期待して擦り寄ってくる。
隣にはべらせておくだけなら、そういう女でも問題なかった。ところがお互いそういう間柄だと割り切っているはずなのに、女の側はぞんざいに扱われると怒った。
趣味でない、欲の塊のような女にまで優しくしてやれる程、綱吉の心は残念ながら広くなかった。そんな意識が伝わるのだろう、自然と女の方から離れて行った。
そして稀に、この人なら添い遂げても良いかもしれない、と綱吉が思った相手も、会う回数を重ねれば重ねるほど疎遠になっていった。
勇気を出してそのうちのひとりに理由を問うたら、こう返された。
「真剣みが足りないらしいです、俺」
本気で好きだと思ってくれていると分かるほどの熱意、そういうものが綱吉には欠けているらしい。
言われてみればその通りのようで、違う気もした。綱吉からすればどの恋も真剣だったのに、彼女らには軽く感じられた。
この差が何かを考えて、結局最後に行き着く答えはひとつだった。
「まだ好きなの?」
「いいえ。それはないです」
共にバージンロードを歩くのを夢見た少女との恋だって、今と同じだ。だから彼女は綱吉の元を去り、別の恋を選んだ。
きっぱり言い切って首を振った綱吉を怪訝に見て、雲雀は淡い髪色をした少女の顔を頭の中から追い出した。
綱吉は少し右にずれて、肩から壁にぶつかっていった。斜めに凭れ掛かり、手首に絡みつく手錠を右手で小突いて、その棘に人差し指を押し当てる。
突き刺さらない程度に先端を弄り回して、彼は相好を崩した。
「ヒバリさんって、当たって砕けたこと、ありますか」
「僕はいつだって、砕いてきたよ」
「そういう意味じゃなくて」
確かに雲雀は、向かって来るもの全てを叩き返し、砕いて出来た道を歩いてきた。但し綱吉が聞きたいのはそんな物騒な話ではなく、誰かに思いを、玉砕覚悟で伝えたことがあるかどうか、だ。
言葉を補った彼に眉を顰め、雲雀は口を尖らせた。
「君はあるの?」
逆に聞き返されて、綱吉は照れ臭そうにはにかんだ。
「あるけど、……ありません」
「?」
正反対の答えを同時に並べた彼に怪訝にして、雲雀は何も書かれていない黒板を叩いた。
ドンッ、と大きな音がして、振動が伝わった綱吉の体がちょっとだけ跳ねた。激しく波打った鼓膜が、頭に想像上の痛みを訴えかける。奥歯を噛んで堪えた彼は、相変わらず短気な雲雀に肩を竦め、手錠の棘を抓んだ。
ちくりとした痛みは、今までの中で一番大きい。
手首を返してみれば、少しだけ血が出ていた。
彼はそれをじいっと見詰めて、力なく肩を落とした。
「当たる前に、砕けちゃったから」
「沢田綱吉」
「最初から砕けるのが分かってたのに、好きになっちゃった人が居るんです」
砕けるくらいなら、当たらないようにしようと決めた。
どうせ叶わないからと、忘れたくて別の恋を探した。
だけれど燻り続ける想いを消すことが出来なくて、それを悉く女性らに見抜かれてしまった。
本気で好きになった最初の人よりも、もっと好きな人が出来るのを本能的に恐れていた。真剣みが足りないというのには、そういう意味合いも含まれているのだろう。
「興味ないな」
「ですよねー」
人の恋愛話など、関心が無い人にはつまらないだけだ。
案の定の相槌に綱吉は無理をして笑って、泣きそうな自分を仮面の奥に引っ込めた。
雲雀もまた黒板に背中を預け、長い脚を前に出して天を仰いだ。綱吉を束縛する手錠をしっかりと握り締めて、鋭く尖る棘に親指で触れる。
「どうして当たりに行かなかったの」
目を合わせぬまま問うた彼の横顔から視線を外し、綱吉はふたりを繋ぐ鎖を右手で掴んだ。雲雀の手に掛かれば伸縮自在のものも、綱吉には反応すらしない。
冷たくて硬い金属の感触を確かめて、これが違うものであったなら、と願ってしまいそうになる。
「砕けるのが分かってて、行く馬鹿はいませんよ」
「昔は良く言ってたじゃない。死ぬ気で、って」
中学時代、綱吉はよく下着一枚で学校や町内を走り回っていた。
アルコバレーノのひとり、黄色いおしゃぶりを持つリボーンが操っていた死ぬ気弾は、死ぬ間際に胸に抱いた後悔を糧として人を蘇らせる奇妙な効果があった。
それにより綱吉は、自分の殻を突き破り、胸に秘めたまま表に出さずにいた様々な感情を人前に曝け出してきた。
だけれどたったひとつだけ、声に出さなかったことがある。
「人任せにしたくなかったんですよ」
死ぬ気状態になる為には、リボーンに頼るしかなかった頃だ。当時を思い出していたら段々可笑しくなってきて、同じくらいに切なくなって、綱吉はじわじわと滲み出る赤い血を親指の腹で拭った。
指紋の間に赤色が広がって、全体的に薄くなる。折角止まり掛けていたのに、触った所為でまた新しい血が一滴、ぷっくりと拗ねて顔を覗かせた。
最初から諦めしかなかった恋を未だに引きずって、前に進めない。
綱吉の時間は、十年前のあの頃から何も変わっていない。この学校の敷地から、一歩も抜け出せないままだ。
だからかもしれない。
学校に足を向けたのも、中に入ったのも。
今度こそこの恋を捨てて、区切りをつけようとして。
それなのにまた、惑わされている。絡め取られて、抜け出せない。
外れない手錠を掴んで揺らし、綱吉は皮肉な運命を笑った。
タイミングが良いのだか悪いのだか分からない登場の仕方をする雲雀を盗み見て、肩を竦める。
「当たって砕けたことはないよ」
「え?」
こうして隣に並ぶのも何年ぶりか。獄寺に一寸だけ感謝していたら、不意に言われて綱吉は面食らった。
きょとんとして、首を傾げる。横目で不機嫌そうに睨まれて、それで彼はやっと、自分が質問した内容を思い出した。
先に訊いたのは自分だった。すっかり忘れていた彼はハッとして、気まずげに身を捩った。
表情の変化で彼の思考を読んだ雲雀は、呆れ混じりに嘆息して、腕を組んだ。手錠は外さない。綱吉が逃げ出さないよう、短い鎖で繋ぎとめ続ける。
こんなものがなくたって、逃げないのに。
重い鎖を抓んで揺らして、綱吉は続きを待って畏まった。
緊張が顔に出ている彼に目を眇め、雲雀はふっ、と短く息を吐いた。
「でも、当たる前に逃げられたことならある」
「いたんですか」
「うん。居る」
雲雀に好きな人がいたことが、先ず驚きだ。
そして彼は今も、その人を想っている。
瞼を下ろした彼の横顔は、どこか楽しげだ。見詰めていたら切なさが募り、悔しさが勝って、綱吉は奥歯を噛んで頬を膨らませた。
彼に想われるだけでも幸運なことなのに、どうして逃げるのだろう。それに雲雀も、当たって砕くくらいの勢いで追いかければよいものを。
いや、追いかけて欲しくない。彼と知らない誰かが幸せそうに腕を組んでいるところなど、見たくない。
卑しい感情が膨らんで、制御出来ない。段々不機嫌になっていく彼に苦笑して、雲雀は銀の輪を人差し指で回した。
クン、と引っ張られて、綱吉は左腕を持ち上げた。
久しぶりに正面から向き合って、視線が交差した。真っ直ぐ見詰めてくる黒い瞳にどきりとして、綱吉は勝手に頬が赤くなるのを止められなかった。
「な、なんですか」
「近付いたら怯えるし、追いかけたら逃げるし。当たろうとしたら、今度は遠い国へ行くというし」
戻って来るのを待っていたら、十年が過ぎた。
いい加減痺れが切れたと、彼は笑った。
何故そこで笑うのかが分からなくて、綱吉は釣り上げられた左手と、そこに繋がる鎖とを同時に見た。
雲雀の左腕も、いつの間にか銀の輪に囚われていた。
「……え?」
頭の中でぱちん、と泡がはじけた。
なにかが分かった気がして、綱吉が目をぱちくりさせる。
不遜に笑って、雲雀は物分りの悪い彼の額を小突いた。
無粋な鎖を越えて、手を握られる。
「捕まえたよ、沢田綱吉」
もう二度と逃がさない。
そう嘯いて、彼は。
2010/12/26 脱稿