夕なぎ

 どこかで猫が鳴いている。
「おっ」
 耳聡く反応したタクトが顔を上げ、道端に落ちていた小枝を踏み潰した。パキリと折れたそれに気を取られたスガタは、唐突に駆け出した友人に面食らい、目を丸くした。
 俯いていた視線を上向かせ、颯爽と走っていく背中を追いかけて瞳を泳がせる。長い脚をこれでもか、というくらいに伸ばしてガードレール代わりの石を飛び越えた彼は、反対側の歩道に素早く移動して爪先立ちになった。
「来い、来いー」
「……ああ」
 いったい何があったのかと思ったが、単に野良猫を見つけただけのようだ。最初の声が聞こえなかったスガタは、唐突過ぎるタクトの行動に呆れて苦笑し、左右を確認してから道を横断した。
 もっとも、裏路地の細い通りに車など滅多に入って来ない。
 自分たち以外に人影すら存在しない空間に肩を竦め、スガタは猫撫で声で獣を誘う少年の斜め後ろについた。
「チッチ、チッ」
 舌を鳴らし、左手を揺らして懸命に誘いかける彼であるが、肝心の猫はといえば石積みの塀の上にどっしり構え、まるで相手にしていない。大きく欠伸をして尻尾を悠然と振り、瞼を閉じて寝る体勢を整えている。
 人を馬鹿にしているかのような態度にタクトはむっとして、高く掲げていた腕を下ろした。
「むー」
 白い毛並みに、頭と背中の一帯に黒っぽい模様が入っている。後ろ足だけ白い靴下を履いたような色合いの獣は、野良猫でありながら丸まると太り、貫禄は充分だった。
「フラれたな」
 見向きもしない猫に目を細め、スガタが呵々と笑う。振り返ったタクトは拗ねた顔をして睨んできたが、本気で怒っているわけではないようだった。
「今日は偶々、調子が悪いだけだよ」
「へえ?」
 いつもなら猫の方から寄って来る。そう嘯いた彼にスガタは可笑しそうに肩を揺らし、ずり落ちそうになった鞄を掴んで担ぎ直した。
 タクトはまだ猫に未練があるようだったが、もう一度呼びかけても反応してもらえず、諦めて引き下がった。
 後退して、其処に居たスガタにぶつかってしまい、彼は慌てて横に跳んだ。咄嗟に受け止めようとしたスガタは、無意識のうちに持ち上げていた右手のやり場に困り、何度か握る、開く、を繰り返した後に脇に垂らした。
「ごめん」
「いや、構わないよ」
 謝られて、首を振る。少し驚いただけで、痛くはなかった。そう早口に、まるで言い訳のように告げてやれば、タクトは目に見えてホッとした顔をして照れ臭そうに笑った。
 穏やかな日差しの中、弾けるような笑顔が眩しい。目を細めて微笑み、スガタは歩き出した彼の隣に並んだ。
「人間の、女の子のようにはいかなかったな」
「は?」
 皮肉を込めて呟くと、聞こえたタクトが変な顔をした。
 分かっていない様子で口を大きく開き、緋色の瞳を丸くしている彼の脇腹を肘で押してやる。スガタの思わぬ攻撃に怯み、タクトは急いで路肩へと寄った。
 スガタは歩くペースを緩めた赤髪の少年にあわせ、足の運びをゆっくりにした。
「青春を謳歌してるんだろう?」
「別にモテモテとか、そういうんじゃ」
 肩に担いでいた鞄を前に回して抱き締めて、タクトは嫌味に反論して頬を膨らませた。
 だが実際のところ、彼に対する女子の人気は高い。
 ワコの友人であるルリは何かにつけてタクトにアプローチを欠かさないし、演劇部に入って来た二組のヨウ・ミズノも明らかにタクト狙いだ。
 彼の周囲には、常に女子の影がある。
「けどさ。それだったら、スガタのが凄いじゃん」
「僕が?」
 聞いた話、シンドウ・スガタにはファンクラブなるものがあるらしい。
 南十字学園の女子から絶大な人気を誇る彼に皮肉られるのも癪な話で、タクトは飄々としている友人をねめつけると、面白く無さそうに落ちていた小石を蹴り飛ばした。
「タクトには負けるよ」
「いやいや、お前の方が凄いって」
 明るく行動的で、誰とでも気軽に話をするタクトと、控えめで落ち着きがあり、どこか近寄り難い雰囲気があるスガタ。
 タクトに恋心を抱く少女らは、彼のそのフランクな性格を利用して積極的に話しかけてくる。だからタクトの周りは、いつだって騒がしい。
 対してスガタは、あまり騒がれるのを好ましく思っていないと皆に受け止められており、遠くから遠慮がちな視線を投げる少女らが圧倒的に多かった。
 そんなわけで、スガタの近辺にワコ以外の女子の影は薄い。
 人差し指を立ててくるくる回し、妙に偉ぶった口調で説明を終えたタクトは、ふと自分をじっと見詰める眼差しに気付き、怪訝に眉を顰めた。
「なに?」
「いや。そんな風に思われてたんだな、って」
 人様から自分に対する印象を聞く機会など、殆どない。
 楽しげに笑って言い放ったスガタに呆れて、タクトは顔の横で手を振った。
 付き合いきれないと軽口を叩き、時折見かける、スガタに向けて熱い視線を放っている少女らを思い出す。
「ちょっとは構ってやれよ。ファンサービズだって大事なんだろ?」
「興味が無いのに愛想良くするのは、人としてどうかな」
「えっ」
 年頃の男子たるもの、異性への興味は尽きないはず。
 だからこのスガタの態度には吃驚させられて、タクトは素っ頓狂な声をあげて目を見開いた。
 零れ落ちそうな緋色の瞳に口を尖らせ、スガタは緩く握った拳を彼の頬に擦りつけた。
 勢いのないパンチを食らって、タクトは両手をズボンのポケットに捻じ込んだ。ピンク色のネクタイをゆらゆら揺らし、猫背になって一歩の幅を広くする。
「それって、ワコ一筋って事?」
「違うよ」
「違うの?」
 許婚が居る、それも彼に近付くのに女子が二の足を踏む理由のひとつだ。
 親同士が一方的に決めた約束であり、以前聞いた時はスガタ自身、この取り決めに対して懐疑的だった。けれどふたりは実際に仲が良いし、付き合っている、と言われれば素直に信じてしまいそうな距離の近さだった。
 だからこうもあっさり否定されるとは思っておらず、タクトはきょとんとして、彼を不思議そうに見詰めた。
「じゃ、いるの?」
「なにが?」
 スガタは時々、ワコの横顔をじっと見詰めている事があった。その時の彼の目は嫌に真剣で、気付いたタクトが話に参加するよう誘うのさえ、躊躇させられるくらいだった。
 瞬きの回数さえ減らして見詰める相手の事を、嫌いなわけがない。そう思うと気が重くなって、憂鬱になる日もあったのに。
 予想が外れて唖然としているタクトに肩を揺らして笑い、スガタは何も答えず、ただ彼の額をちょん、と押した。
 誤魔化されて、釈然としないままタクトは上唇を噛んだ。猫のみならず、スガタにまで馬鹿にされた気分に陥って、膨れ面をして先を行く青い髪の背中を追いかける。
 けれど横に並ぶ寸前、ふと思い出した会話に意識を絡めとられ、彼は歩みを止めた。
 浮かせた手を口元にやって、表情の半分を隠す。立ち止まった彼に気付き、スガタは直ぐに振り返った。
 真っ直ぐに見詰めてくる視線にどきりとして、タクトは指を引き攣らせた。
「あの、さ」
 あの日。
 綺羅星十字団のサイバディに取り込まれたスガタが、逆に主導権を乗っ取ってタクトのタウバーンと闘った日。
 崖の上での口論で、スガタは言っていなかったか。
「ん?」
 声を上擦らせたタクトから目を逸らさず、彼はちょっとだけ首を右に倒した。
 真っ直ぐな眼差しに、臆した心が早鐘を鳴らしていた。心臓がドクドク言って、本能が真っ赤なランプを回転させて警告を発している。
 訊くべきではないと、心が懸命に訴える。だのに危機回避能力を上回る好奇心と、確かめたいという気持ちが、喧しい警鐘を押し退けてタクトに口を開かせた。
 視線を感じたら、いつも其処にスガタが居た。彼はワコが好きだと思っていたから、それが変だとは感じなかった。むしろ当たり前だと思っていた。
 スガタがワコを見ていると思った時は、大抵タクトがワコの傍に居る時だ。
「お前の、ええと、好きな人って」
 恐る恐る自分に人差し指を向け、問いかける。
「えっと。……――僕?」
 そんなわけがない、と思いつつ。願いつつ。
 頬を引き攣らせてぎこちない笑みを浮かべた彼をぽかんと見詰め、スガタは暫く停止した。
 温い風が吹き抜ける。また何処からともなく猫が鳴く声がしたが、今度ばかりはタクトも動かなかった。
 しばし無言で見詰め合って、耐え切れなくなったタクトがははは、と乾いた笑い声を響かせた。
「タクト、お前……」
「はは。そんなわけ、ない、よな?」
 幾らなんでもありえない。自意識過剰も良いところの発言に、スガタは呆れ返っている。
 そう信じたかったのに。
「もしかして、気付いてなかったのか?」
「――はい?」
 むしろスガタの方が、信じられないと言わんばかりの顔をして言った。
 ふたりしてきょとんとしてから、タクトは人差し指を意味もなくくるくる回した。聞き間違いを疑ったが、生憎と耳の掃除は昨晩したばかりだ。
 数秒間揃って絶句して、先に立ち直ったのはスガタだった。
 青い髪を優雅に掻き上げ、肩を竦めて嘆息する。
「参ったな。とっくに気付いてるものとばかり思ってたのに」
「え、……え?」
「だけど、嬉しいよ。僕の気持ちに気付いてくれて」
 状況に理解が追いつかず、頭がパニック状態のタクトを他所に、スガタは爽やかな笑顔を浮かべて白い歯を輝かせた。
 よろしく、と手を差し出されたので、つい深く考える事無く握り返してしまう。その手をいきなり引っ張られ、つんのめったタクトはふらつき、敢え無く待ち構えていたスガタの胸に倒れこんだ。
「わ、……っ」
 ぎゅうっと抱き締められて、夏の風に紛れた自分とは違う匂いにどきりとする。
「好きだよ」
 耳元で囁かれた声が聞こえなかったフリをして、タクトは勝手に赤くなる顔を伏して隠した。

2010/12/23 脱稿