呼び出しを受け、指定されたホテルに到着したのは午前九時を少し回ったところだった。
停車した黒塗りの車の後部座席で身を起こした雲雀は、颯爽と駆けつけたドアマンに手を振って不要だと合図を送り、右腕にロングコートひとつを引っ掛けて自分で開けたドアを降りた。
寒風吹きすさぶ外界を早足で駆け抜け、回転式の扉を潜り抜ける。そうして物珍しげに豪奢な内装を見回す振りをして、ごく自然に視線を左右に揺らめかせた。
屋内は当然の如く暖房が入っており、乾燥した空気が嫌になるくらい喉に引っかかった。
正面には、どうやって運び込んだのか、本物の樅の木を使った巨大なクリスマスツリーが飾られていた。白い綿が雪の代わりを果たし、枝の先には大小さまざまな形をしたオーナメントがぶら下がっている。
外も明るいというのに、電飾がキラキラと眩い光を発していた。若い女性がふたり、その足元に立ち、うっとりとした表情でカメラを構えているのが見える。
正面ロビーは宿泊客でごった返していた。
フロントには十数人の列が出来ており、制服姿の男女が応対に追われて忙しくしていた。反対側に目を向けると、一寸した喫茶コーナーが儲けられており、老若男女が新聞や書籍を広げ、ゆったりとした時間を過ごしていた。
どこかに隠されたスピーカーから流れてくるメロディは、異国のクリスマスソングだ。
「何度見ても、悪趣味だね」
日本のホテルも大概だが、外国のホテルも負けていない。天井からぶら下がるシャンデリアも豪華と表現するより他無くて、侘び寂びの情緒を好む彼にとって、ここは己の趣味に反する場に違いなかった。
過剰とも思える装飾や、眩しすぎる照明に首を振り、彼はコートを左腕に持ち替えた。裾が擦れないよう注意しつつ、白く磨かれた大理石の床を踏みしめる。
ホテルへの悪口が聞こえたのか、何人かの男が彼に視線を向けた。
いずれも黒、或いはそれに準ずる衣服を身に纏い、うち八割が色の濃いサングラスをかけていた。新聞を手にソファに座る者、または壁際に立ってベルボーイが荷物を引き取りに来るのを待っている者まで、様々だ。
突き刺さる無粋な眼差しに嘆息し、雲雀は何もしていないに関わらず疲れた顔をして肩を竦めた。
ホテルに足を踏み入れた瞬間から、ロビー全体に立ち上る不穏な気配は感じていた。一見するとサラリーマンのような男ですら、雲雀にそうと知られない程度に注意を向けて、一挙手一投足を監視している。
もっとも、宿泊施設であるホテルに手ぶらでやって来る男も、充分怪しかろうが。
到着したばかりのタクシーから降りた男女が、談笑しながら彼の脇を通り抜けていった。大きなキャリーバッグが立てるゴロゴロという音が、賑やかでありながらどこか荘厳な雰囲気を醸し出す場に、無作法に轟いた。
彼らに一瞥をくれて肩を落とした雲雀は、チン、という軽いベルの音に心惹かれるものを覚えて顔を上げた。
若い男がひとり、到着したばかりのエレベータから降り立った。何かを探すようにきょろきょろして、落ち着きなくロビーへと近付いて来る。
「あっ」
そうして不意に甲高い声を発して、その場でぴょん、と飛び跳ねた。
丁度彼が顔を向けていた方角にいた雲雀は軽く驚き、眉目を顰めながら小走りに駆け寄って来る青年の方へ歩を進めた。
クリスマスで賑わう異国のホテルに、何故自分が呼び出されたのか。
その理由が、これでようやく分かる。
「ヒバ、リ、キョウ……ヤ、サマ?」
「そう」
残り二メートルを切ったところで、青年の方から足を止めた。肩を二度上下させて息を整えてから、左胸に右手を当ててたどたどしく問いかける。
やや鼻につく発音は、日本語に不慣れだからだろう。金髪碧眼の容貌は、何処からどう見ても日本人ではない。
アクセントが異なる所為で、自分の名前ではないようだ。だが彼が懸命に学び、覚えて、操ろうとしているのが分かるので笑わないよう心がけて、雲雀は鷹揚に頷いて返した。
切れ長の目を眇めて接客用の笑顔を浮かべてやれば、金髪の青年は見るからにホッとした顔をして、エレベータホールに向き直った。
「コチラニ」
促され、雲雀は後ろを気にしつつ歩き出した。
それまで背中に突き刺さっていた無数の視線が一斉に外れた。見れば全て、入り口方面に向け直されている。ホテルに入ってくる人間全てに注意を払っている、その数はざっと三十を下らない。
気配に敏感な人間にとっては、息苦しくてならないだろう。物々しい雰囲気に苦笑を浮かべ、雲雀は自分を呼び出した男に会うべく、エレベーターに乗り込んだ。
ランプは三十七階にひとつ灯るだけ。超高層タワーを持つこのホテルの最上階は、数字を信じるなら四十二だ。
日本では語呂が悪いからと忌避される数字だけれど、漢字文化を持たない国であるが故にお構いなしだ。その代わり、十三階が存在していない。
足元がせり上がって来るような違和感を大人しく受け止めて、雲雀はそう時間を経ずに開かれた扉を抜けて、ふかふかの絨毯が敷き詰められた廊下に居場所を移した。
出た先の小規模なホールでは、真っ赤なドレス姿の婀娜な女性がひとり、窓の向こうの冬空を眺めながら優雅に寛いでいた。
「アレもか」
一般客が大勢宿泊している中で、違和感が無いように多種多様に取り揃えられているのだろう。一瞬向けられた鋭い視線に溜息を零し、雲雀は青年の案内のもと、奥まった場所にあった部屋の前に立った。
青年が代わりにベルを押して、十秒と経たないうちにドアが内側から開かれる。
「よう、元気そうだな」
「君も」
隙間から顔を出したのは、長い揉み上げをくるりと一回転させた、スーツ姿の男だった。
黄色いネクタイを締め、ジャケットのボタンは全て外している。着崩していても野暮に感じられないのは、男の持つ独特の空気のお陰だ。
久方ぶりの邂逅に、雲雀も表情を緩めた。作り物ではない笑顔を浮かべた彼を見上げて、間に立っていた青年は居心地悪そうに身を捩った。
「オ、オツレシ、タデス」
ぎこちない日本語を述べて一礼し、退いて雲雀に道を譲る。リボーンはドアを大きく開けると中に入るよう促して、青年には目配せで立ち去るよう指示を出した。
彼は咄嗟にイタリア語で何かを告げ、仰々しいまでに畏まった後、踵を返そうとして出した足を引っ込めた。
「?」
真っ直ぐな視線を向けられて、雲雀が首を傾げる。何かを訴えかけるかのようにじっと見詰められて、彼は愛想笑いを浮かべて発言を許可した。
「なに」
「ボス、ヨロシクオネマシス」
問いかけると彼はまたもや畏まり、切羽詰った表情で早口に捲くし立てた。
間違った日本語を指摘してやるべきかで迷ったが、言う前に彼はくるりと反転して廊下を駆けて行ってしまった。忙しない背中を苦笑と共に見送って、雲雀はリボーンが開けて待っているドアを潜った。
オートロックが掛かる音を聞いて室内に目を向ければ、中はそこそこ広いツインルームだった。
片方のベッドに荷物が広げられ、人が寛いだ形跡があった。奥の窓辺には小さなテーブルと、向かい合う形でソファが置かれている。テレビの電源は入っておらず、カーテンも開け放たれて外の光が眩しい。
まだ午前中なのを思い出して頷き、雲雀は勝手にハンガーを借りてずっと手に持っていたコートを吊るした。
「わざわざすまなかったな」
「君の頼みだからね」
作業の合間にリボーンに謝罪され、雲雀はコートの皺を撫でて伸ばしながら言った。見れば彼はワインセラーから赤ワインのボトルを引っ張りだしたところで、反対の手には磨かれたグラスがふたつ、器用に握られていた。
しかしこんな時間から、それも洋酒を口に入れる気にはなれず、雲雀は首を振って断り、見晴らしの良い窓辺に歩み寄った。
ふたつ並んだグラスのうち、片方にだけ血の色をした液体を注ぎ、リボーンは席を勧めて自分もソファに腰掛けた。
「それで?」
屋内だからか、リボーンはトレードマークでもあるボルサリーノを脱いでいた。滅多に見るのも叶わないトゲトゲの黒髪を正面に据えて、雲雀は左を上に脚を組み、膝に両手を重ね合わせた。
短く切った黒髪の下から、黒く冴えた瞳が覗いている。一部の隙も無い視線に微笑で答え、リボーンは乾杯、とひとりワイングラスを揺らした。
ひとくちだけ飲んで香りを楽しみ、中学生時代に比べれば随分と辛抱強くなった男を呵々と笑い飛ばす。
「赤ん坊」
「今でもそう呼ぶのは、お前だけだな」
「用が無いなら帰るよ」
説明を急かす雲雀を冗談交じりに宥め、ソファに座り直させた彼だけれど、なかなか本題に入ろうとしない。手にしたグラスを回して、波立つ赤い水面をただじっと見詰める。
焦れた雲雀が口を尖らせるのを見て、彼はようやく、グラスの中身をひと息に飲み干した。
「殺人予告があった」
テーブルに戻す、ガタンという音に紛れさせて呟く。
なんとも物騒なひと言にピクリと右の眉を持ち上げ、雲雀は怪訝に顔を顰めた。
誰の、とは言わない。雲雀が遠くイタリアの地に呼びだされた段階で、彼が話題に出す人物はひとりしか居ない。
「……そう」
十秒少々の沈黙を挟み、雲雀は納得だと言わんばかりに頷いた。
相槌を打ち、長い息を吐いて四肢の力を抜く。脚の左右を組み替えてソファに深く寄りかかった彼は、リボーンから天井、そして冬の空と雪が残る町並みを順に見やって、最後に背中を丸めて頬杖をついた。
ホテルの各所で見かけた物々しい警備は、その為のものだった。あの青年が去り際に残した台詞の意味も、これで理解出来た。
「犯人に見当は」
「さあな。だが、二十四日の今夜、アイツを殺しに行くというカードが届いたのは事実だ」
リボーンが口にした日程は、今日だ。黒く冴えた瞳を僅かに翳らせ、雲雀は口元にやった手をずらし、小指の先で顎を擽った。
彼の逡巡に不遜な笑みを浮かべ、リボーンはもう誰も居ない出入り口を顎でしゃくった。
「あの男がな」
「さっきの?」
「そう。あれがなかなか出来の悪い奴で、色々と失敗も多いんだが」
雲雀を此処まで連れて来た青年は、つい一年ほど前にボンゴレの傘下に加わったのだという。年齢が近いというのもあって、綱吉の世話をあれこれやらせることにしたのだが、誰かを髣髴とさせるほどに要領が悪く、不器用で、面倒ごとを多数引き起こしてくれた。
だが綱吉本人は、自分と被る部分があるからだろう、他の面々が苦言を呈するのも構わず、側に置いて可愛がった。
「ふぅん」
そんな情報は、正直雲雀にはどうでも良かった。確かにあの青年のそそっかしさや落ち着きの無さは、綱吉に通じるところがあると感じてはいたけれど。
だが彼は、綱吉ではない。
関心を抱く人間以外は基本どうでも良い雲雀の、相変わらずの態度に安堵にも似た表情を浮かべ、リボーンはワインボトルを取って顔の横で振った。
要らないと言われているに関わらず雲雀の分も注いでやり、睨まれたのも受け流してクッ、と喉を鳴らす。
思い出し笑いに眉を顰め、雲雀は腕組みを作って居丈高に胸を張った。
「殺人予告のカードも、彼が?」
「ああ。ツナ宛の郵便物の中から、奴が見つけた」
可愛がってくれているボスのためにと、あの青年も日々努力を続けている。イタリア語に未だ不便がある綱吉の為にと、自分から日本語の勉強を始めたくらいだ。
現在の彼のレベルは、平仮名と、漢字が幾つか読める程度。もっとも半年でそこまでいけたのだから、なかなか馬鹿に出来ない頑張り具合だ。
笑いを噛み殺しながら呟いてワインを煽ったリボーンを前に、雲雀は面白く無さそうに肩を落とした。
結局なんだかんだとしている間に時間が過ぎて、綱吉の居る部屋に通されたのは、正午を過ぎてからだった。
昼間から酒を飲みたがるリボーンを相手にして、つい食べ過ぎた。いつも腹八分目を心がけているのに、と少し前の自分を悔やみつつ、雲雀はスーツの上から腹を撫で、通された広いフロアをぐるりと見回した。
ホテルの最上階には、部屋はひとつしかない。ここにこの日泊まる筈だった本当の客は、今頃どこかのクルーズ船に乗って、ホテルよりも豪華な一日を楽しんでいる頃だろうか。
色々と想像を巡らせるが、それらは全て、雲雀の与り知らぬところで起きた出来事だ。
自分には関係ないと首を振って、彼はエレベーター出て直ぐのところに構えていたドアのインターホンを押した。
鍵は、中に居る人間が好きなようにロックを外せる。開いた合図として赤いランプが緑色に変わったのを見て、雲雀は獅子を模った彫刻のドアノブを握った。
回さずとも、押すだけで扉は開いた。
完全自動ドアではないけれど、軽い力でも反応するように補助はされているのだろう。分からないなりに推理して、雲雀は開かれた明るい空間に目を細めた。
真正面はほぼ一面窓ガラスで覆われており、真っ青な冬の空が果てしなく広がっていた。その手前にはゆったりとした横幅のソファが置かれ、座って景色を楽しめるように配慮されていた。
だがそこに、人の姿はない。手前のテーブルセットにも人影はなく、ドアの鍵を外した人物は近くに見当たらなかった。
広大なリビングルームの両側にも扉があって、それぞれ個別の部屋に繋がっている。そのどちらかに居るだろうと当たりをつけて、雲雀は腰に手を当てて嘆息した。
部屋の間取りまでは聞いていない。ひとまず右を選ぶことにして、彼は大股で部屋を横断した。
ホテルという環境というのもあって生活臭が殆どせず、なんとも落ち着かない。質素倹約を好む日本人体質の雲雀には場違いすぎて、じっとしていたら蕁麻疹が出て来そうだった。
痒みを覚えた腕をスーツの上から引っ掻いて、彼は奥歯を噛んで閉ざされていたドアを開けた。
「ふわっ」
そして思いがけず近いところから響いた声に驚き、目を見張った。
「わ、あ、……え。えぇ?」
素っ頓狂な声が頭の天辺を突き抜けていく。零れ落ちそうなくらいに真ん丸く見開かれた琥珀の瞳に唖然として、雲雀はうっかり、強く握ったはずのドアノブから手を滑らせた。
目の前でドアが閉まった。パタン、という控えめな音がなんとも滑稽だ。
一瞬現れ、そしてドアに阻まれて消えた間抜けな顔を探し、雲雀は何度も瞬きを繰り返した。唾を飲んで喉の渇きを誤魔化し、ドクドク言う心臓を宥めながら恐る恐るノブを捻って、押す。
変わらずそこに立っていた青年は、再度現れた雲雀に目をぱちくりさせたかと思うと、いきなり爪先立ちになって後ろ向きに駆け出した。
器用で、且つ奇怪な行動を見せた人物に呆れ、雲雀は盛大な溜息をついた。
「……やあ」
「ひ、ヒバリさん!?」
押し寄せる疲労感に苛まれつつ、右手を掲げて軽く左右に揺らす。しかし挨拶をされた方はまだ現実が信じられないのか、上擦った声を響かせて向かい側の壁に背中を押し付けた。
こうも露骨に怯えられると、流石の雲雀も傷つく。手を下ろしてポケットに捻じ込んだ彼は、広々とした空間を見回して肩を竦め、足元に落ちていた紙の束を拾い上げた。
イタリア語で記されたそれは、どうやら土地売買にまつわる法律関係の資料らしかった。
「うあ、わ。え、ええ?」
但し本物ではなくて、あくまでも試験用の模擬問題だ。長文の後に幾つか項目が設けられており、最終ページでは手書きの下手糞なアルファベットが、ミミズのようにのたうちまわっていた。
綴り間違いを見つけて口をヘの字に曲げた雲雀の耳に、気に触る高音がひっきりなしに飛び込んでくる。手元から視線を持ち上げて、彼は壁に張り付いている青年に首を振った。
「な、なんで」
「君が呼んだんじゃないの」
「俺が? ヒバリさんを!?」
クリスマスを前にして舞い込んだ一枚の予告状。
名だたるマフィアを束ねるボンゴレファミリーの次期党首に内定している沢田綱吉を、十二月二十四日の夜に殺しに行く。そう不遜に告げる殺人者から彼を守る為に、ボンゴレは総力を結集し、このホテルの最上階を借り上げた。
此処であれば、外から入ってくる人間の監視は容易い。超高層階であるので、壁を登って外から潜り込むのだって難しい。
此処に至る道はエレベーター、一基のみ。非常階段もあるけれど、そちらは用心棒を何人か張り付かせておけば事足りる。
まさに、篭城にはうってつけの場所だ。
しかしいかに堅牢な地とはいえ、どこかに抜け道があるかもしれない。落とし穴があるかもしれない。心配性の九代目は、万全を期すためにと、綱吉の傍にも信頼出来るボディーガードを置くことにした。
「リボーンが、強くて、気の置けない奴を用意する、とは言ってましたけど」
「ああ、そう」
すべてはあの元・赤子の企てか。さっきまで散々人を飲み食いに誘って来た伊達男を思い出して、雲雀は若干棘のある声で相槌を打った。
沢田綱吉を守る為には、彼と同等か、それ以上の力量の持ち主でなければならない。そして綱吉が緊張したり、怯えたりしなくて済むよう、出来るだけ気心の知れた相手を選ぶ必要がある。
最適なのが彼の守護者達なのだが、生憎と皆、予定が詰まっていた。そうでなくとも、今日はクリスマス・イブだ。
「ヒバリさん、……忙しかったんじゃ」
ようやく壁から離れた綱吉が、恐る恐る雲雀に歩み寄りながら問うた。声にはまだ幾らか動揺が残っており、微かに震えていた。
胸の前で指をもぞもぞさせている彼に心持ちむっとして、雲雀は手にした紙束を丸めて蜂蜜色の頭を叩いた。痛くないよう調整はしたが、反射的に首を引っ込めた彼は「痛い」と口走り、凹んだ髪の毛を撫でて上唇を噛んだ。
重力を無視して毛先があちこちを向いて跳ねた、癖だらけの髪型は今も変わっていない。多少なりとも大人の男としての風格が出てきてはいるものの、雲雀に比べればまだまだ見た目は幼い。
スーツではなくブレザーを着せれば、充分高校生で通じる。上着を脱いでベスト姿の彼は、ネクタイを外して襟元を広げて、リラックスした格好をしていた。
「君こそ、随分と忙しそうだね」
映画監督が台本を丸めて腕組みしているみたいに構えを取り、雲雀が不遜に言い放つ。何故か怒っている彼に小さく舌を出して誤魔化し、綱吉は後方に広がる室内を振り返った。
リビングルーム同様に窓が壁の大半を占めているが、こちらはブラインドが下ろされていた。横縞の光が木漏れ日となって室内に降り注ぎ、足りない分を天井のシャンデリアが補っている。
足元に落ちた影を踏み、綱吉は扉の前で仁王立ちを続けている雲雀に、ひとまず座るよう提案した。
此処にもゆったりと寛げるソファが置かれていた。しかし入って直ぐの壁際にあるので、景色は堪能出来そうにない。
その代わりに向かい側に大型スクリーンが吊るされて、好きなだけテレビ番組や、映画が楽しめるようになっていた。
もっとも、雲雀はそういうものに興味がないし、綱吉も娯楽番組を見て腹を抱えている余裕など、ない。
「忙しいっていうか、まあ、俺が馬鹿なのが悪いんですよね」
胸の前で人差し指を小突き合わせ、綱吉はスクリーン前のソファではなく、影を帯びたブラインド前に置かれた、重厚な机へと駆け寄った。
「てっきり、リボーンが答案を取りに来たのかと思った」
「ああ、それで」
インターホンを押しても綱吉が直ぐに出てこなかったのは、訪ねて来たのがリボーンだと思ったからだ。あの男ならば確かに、主の断りなく勝手に部屋に入って来るだろう。
けれどなかなか来ないので、出来上がったばかりのテストを持って出て行こうとしたところで、雲雀とばったり遭遇した。
事の成り行きを大雑把ながら理解して、雲雀は綱吉の後ろに続き、簡素ながら荘厳さも兼ね備えた机に持っていたものを置いた。
角が丸くなってしまったそれを引き寄せて、綱吉は革張りの椅子に腰を下ろした。
彼のサイズだと、椅子の方がずっと大きい。まるでランドセルに頭が隠れてしまう、小学校上がりたての子供のようだ。
クッションも充分なのだけれど、やはりサイズが合わない分居心地が悪そうだ。落ち着きなく身を捩った綱吉は、机上に転がしていたペンを拾い上げるとそれでこめかみを引っ掻き、書き物を始めて三秒で手放した。
転がり落ちそうになったそれを引きとめて、雲雀は苦笑している彼に嘆息した。
「相手を確認しないで鍵を外すのは、感心しないな」
「でも、怪しい奴はここまで上がってこられませんよ?」
エレベーターに残り込む人間は、全てカメラで監視されている。死角に潜りこまれないように各階にも人員を配置して、チェックは厳重だ。
それにリボーンの許可がなければ、この階までエレベーターは上がってこられない。ボタンを押しても反応しないよう、設定に手が加えられていた。
だから決して気を抜いていたわけではないと、彼は言う。リボーンや、このホテルのシステムを信用しているのだと満面の笑みと共に告げられて、雲雀は呆れ混じりに微笑んだ。
ここまで彼に信頼されているあの男は、果報者だ。
少しだけ羨ましく、そして妬ましく思いながら、雲雀は広大な面積を持つ机の一画を占領している、分厚い書籍を指で弾いた。
表装もご大層なそれの表紙には、イタリア語で大きく、法律を意味するローマ字が記されていた。他にも色々な資料が、そこかしこに散らばっていた。
法の抜け道を探すには、まずその法を知る必要がある。そしてどのように解釈され、運用されてきたかを探らなければならない。
ある意味法律家を志すよりも難しい。それを母語とは異なる言語を駆使してマスターしようとしているのだから、尚更だ。
だがこれが出来なければ、マフィアのボスも勤まらない。
「熱心だね」
両手両足を投げ出して机に寄りかかっている男に対して向ける台詞ではなかったが、他に良い言葉が思いつかない。恐らく褒められたのだと解釈して、綱吉はのっそり顔を上げた。
にへら、としまりのない顔をして笑って、顎で机をゴンゴン叩く。
「負けてられませんからー」
「ああ。彼?」
「会ったんですか?」
「うん」
誰を指しての発言か、雲雀は即座に理解して頷いた。綱吉はちょっと意外そうにしてから、目を細め、クスクス笑い出した。
何をやってもダメダメのダメツナが、今や歴々たるマフィアの頂点に君臨しようとしている。勿論そこに座すのは当分先だけれど、最も近い場所に控えているのは間違いない。
もっとも、彼だってやろうと思えばなんだって出来るのだ。それこそ死ぬ気になれば、だが。
綱吉に一番欠けているものは、何かを成し遂げようというやる気。そしてやり遂げる為に努力し続ける根気だ。
ドジで失敗だらけの部下と接しているうちに、綱吉は自分自身を見ている気分になったのだろう。その相手が日本語をマスターすべく猛勉強を開始したと知れば、負けるわけにはいかないと思うに違いない。
最初からそういう面を期待して、リボーンはあの青年を綱吉の傍に置いたのだ。
相変わらず抜け目なく、綱吉を操るのが巧い。
「せいぜい頑張りなよ」
「うっ。わ、分かってますよー、だ」
意地悪く言って手をヒラヒラ振り、雲雀は踵を返した。あっかんべー、と舌を出した綱吉を置いて、ふたり並んでも余裕が充分のソファに腰を下ろす。
やや苦しい腹を気にしながらどん、と居座った彼を見て、綱吉は渋い顔をした。
「そこに居るんですか?」
「君は、僕が何の為に呼ばれたと思ってるの」
「……」
近くはないけれど、遠くはない。ソファは執務机のほぼ正面にあるので、否応無しに雲雀の後頭部が見えてしまう。
揺れ動く黒髪に臍を噛んだ彼を振り返り、雲雀は嘆息と共に問うた。
綱吉に脅迫状が届いたから、予告が現実にならないように護衛をひとり呼ぶことに決めた。リボーンは綱吉に、そう説明した。
最強と謳われるアルコバレーノのひとりである彼が居るのだから、そんなもの必要ないと綱吉は言い張った。だが結局丸め込まれて、巧いこと誘導されてホテルに缶詰と相成った。
部屋は豪華で、綺麗で、立派だった。もっと違う理由で篭もることになったなら、きっと素敵な気持ちになれただろうに。
暗殺者から身を隠し、挙句勉強に専念できる。これ程素晴らしい場所は他にないと言われても、ちっとも嬉しくない。
その上、当日のお楽しみだと言われた護衛役が、まさか雲雀だとは。
高校卒業と同時にイタリアに渡った綱吉と違い、彼は未だ日本を拠点にしていた。ボンゴレ十代目の守護者というよりは、独自の組織を立ち上げて独自の観点から行動を起こしている。
まさしく雲を体現しているかのような彼とは、もう半年近く接触がなかった。
「これ、絶対落ち着かないって」
姿勢を戻した雲雀に聞こえないよう呟き、綱吉は拳を作って机に擦りつけた。
彼と直接会って話をする機会はめっきり減ったものの、毎年のようにクリスマスカードは届いた。どちらかがどちらかに会いに行くというのも、恒例行事と化していた。
だのに今年はそれがなくて、綱吉はてっきり、彼が多忙を極めているものとばかり思っていた。
諦めはつかなかったが、自分から訊くのもどうかと思って連絡を入れずにいた。そうしたら、まさか当日に本人がやって来るなど。
策略めいたものを感じて、綱吉は手繰り寄せたペンで額の真ん中を小突いた。
リボーンの不敵な笑みが脳裏に浮かんだ。あの男のやる事は、いつだって人の予想の上を行く。
護衛役も獄寺か、山本辺りだと思い込んでいたから、この人選はまさしく想定外だ。
そもそも雲雀は何故、この仕事を請けたのだろう。
「うぅぅ……」
問題を読み返そうとプリントを広げ、長文に目を通すがちっとも頭に入って来ない。唸り声をあげて机に齧りついた彼を盗み見て、雲雀は暇を持て余し、そこにあったリモコンを掴んで持ち上げた。
スイッチは入れず、手でぽーんと放り投げて反対の手で受け止める。お手玉を開始した彼に余計集中力を削がれて、綱吉は恨めしげな視線を黒髪に投げた。
「君は」
「うわ、はい!」
ちょっとはジッとしていて欲しくて念を送っていたら、急に話しかけられて、ビクッとした綱吉は声を裏返した。椅子をガタゴト言わせて仰け反り、倒れそうになったのを堪えて踏み止まる。
跳ね上がった心臓を押さえて息を整える彼を振り返り、雲雀は前髪を掻き上げて肩を竦めた。
「君は、その脅迫状は見てないの?」
「見てないです」
ボンゴレの居城に大胆不敵に届けられた、一通のカード。
綱吉を殺す、と明確に記されたそれを最初に発見したのは、あの金髪の青年だ。
彼は真っ先にリボーンに報告した。こんな文面、とてもではないが綱吉に見せられないという、彼独自の判断だった。
リボーンは狙われる当人を飛び越えて九代目に直接相談して、そこから先は、とんとん拍子に話が進んだ。
ホテルのロイヤルスイートの予約に横槍を入れて部屋を確保し、クリスマスを唯一暇にしていた雲の守護者に連絡を入れる。綱吉を城から引っ張り出してホテルに缶詰にして、ボンゴレの精鋭を各所に配置する。
その手際の良さには、ただ感服するばかりだった。
ただ、あまりにも段取りが良すぎるのが却って不安を呼び込む。
苦笑交じりに言った綱吉に緩慢に頷いて返し、雲雀はホテルに着いてから与えられた情報を頭の中で整理した。
ボンゴレ十代目殺人予告と、日本語を覚えたての新米マフィア。そして奇妙なくらいに用意周到な悪徳家庭教師。
「……なるほどね」
あまりにも都合が良すぎる展開に納得が行って、雲雀は嘆息と共に呟き、天井を仰いだ。
瀟洒なシャンデリアの光が、煌々と光を放って眩しい。目を細め、瞼を閉ざし、長い息を吐いて彼は姿勢を戻した。
黒髪を掻き上げて首を振り、暇を持て余して後ろを窺い見る。話が終わったと早々に判断した綱吉は、手元の資料の熟読を開始しており、彼の動きに全く反応を示さなかった。
真剣な顔をして、脇目も振らない。
十代の頃には目にする機会がまったくと言っていいほど無かった、必死に机に齧りついている姿に相好を崩し、雲雀は右腕を真っ直ぐ伸ばした。左手で肘を掴んで引っ張り、骨を鳴らす。
飛行機の便名や到着時間まで細かく指定された旅路は、なんとも慌しかった。
旅支度をする暇がなくて、着替えさえ持たずに身ひとつで空港に駆け込んだ。ぐっすり眠っている余裕など当然なくて、窮屈な思いをしながら踏んだイタリアの地では、ちょっとの休憩さえも許されずに迎えに来た車に乗せられた。
きっと今頃、事情を知った草壁は日本の空の下で大わらわだ。
なにかと気苦労の絶えない部下を思い浮かべ、雲雀は少しこなれてきた腹を撫でた。
眠気はあるが、今眠ると時差惚けが酷くなる。
「ねえ」
「この判例を巡る法律の解釈は、……え?」
「ルームサービス、頼んでも良い?」
ソファに背中を預けて寄りかかり、視線も向けずに勉強中の綱吉に話しかける。彼は誰が喋っているのか直ぐに理解出来なかったようで、目を真ん丸にして瞬きを繰り返した後、長椅子に埋もれて手を振っている存在を思い出し、頬を緩めた。
「良いですよ。お昼、未だなんですか?」
ペンを置き、机に設置されている電話機を手に取って彼が小首を傾げる。その口ぶりから、綱吉は既に昼食を終えていると予想がついた。
ちらりと目を遣ってつまらなそうに肩を竦め、雲雀は首を横に振って立ち上がった。
幅広の机へゆっくり歩み寄って、渡された受話器を耳に押し当てる。フロント、もといリボーンの元に繋がるダイヤルを押したのは、綱吉だった。
雲雀が彼の家庭教師に頼まれたのは、今日一日が終わるまで、この部屋で綱吉と共に過ごすこと。ただそれだけ。部屋を出ていかない限りは好きに過ごして構わないと、最初に言われている。
室内には大型スクリーンもあるし、風呂もトイレも用意されている。バーを開業できそうなくらいのアルコール類も、別室の一角に揃えられていた。
こんな豪勢な空間を見せられたら、大抵の人間は怠惰な誘惑に駆られ、抗えない。しかし雲雀は、そういったものにほとほと興味がなかった。特に洋酒は好みの範疇に入らないため、見向きもしない。
出立が慌しかった所為で、日本で処理中だった仕事のひとつも持って来ていない。読みかけの本は電子書籍では取り扱われておらず、また、そう簡単に手に入る代物でもない。
つまるところ、彼は手持ち無沙汰だった。
通話を終えた雲雀を見上げ、綱吉は若干渋い顔をした。本気なのかと目で問われて不遜に頷き返し、五分と経たずに鳴った呼び鈴に応じるべく、彼はリビングルームへと出て行った。
そして荷物を引き取って戻って来ると、早速着ていたスーツを脱ぎ始めた。
「此処でやるんですかー?」
「そうだよ」
たちまち綱吉から不満の声があがったが、彼は聞く耳を持たずに袖から腕を引き抜いた。皺にならぬように気をつけながらソファの背凭れに預けて、ネクタイを外す。下に着ていた濃い紫色のシャツのボタンも幾つか外して襟元を寛げて、袖も三重に折り返す。
彼がリボーンに配達を頼んだもの、それは重さが十キロはあるダンベルだった。
続けて靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ捨てた雲雀を見詰め、綱吉は目の前で繰り広げられる異様な光景に溜息をついた。
スラックスの裾も捲くって折り返し、細くしなやかな足首を披露した雲雀は、机に突っ伏してしまった彼にうっすら笑みを零し、真っ先に屈伸運動を開始した。
長旅の影響で凝り固まっていた身体の各部を、順に解していく。腕を回し、足の筋を伸ばし、腰を捻る。関節が鳴る音は次第に聞こえなくなって、代わりに雲雀の呼吸音が、綱吉の鼓膜を震わせた。
スクワット、腕立て伏せ、腹筋と、基礎的な体操が繰り返される。なんだか了平を見ている気になって、綱吉は気持ち良さそうに汗を流す雲雀を物珍しげに眺めた。
一通りストレッチを終えて、ダンベルと一緒に貰ってきたタオルで顔を拭い、彼はじっと見詰めてくる綱吉に小首を傾げた。
「なに?」
「へ?」
勉強に集中していたはずの綱吉が、いつの間にか雲雀ばかり注視している。問われて我に返った彼は、はっとした後顔を赤くして、慌てふためき顔を伏した。
猫背になって俯き、手元の資料に視線を向ける。だがちっとも頭に入ってこなくて、綱吉は火照った頬に手を押し当て、寡黙にトレーニングに励む青年を盗み見た。
最初に折り曲げた袖が伸びて、手首に被さってしまっていた。だけれど雲雀は気にする様子もなく、床に顔を向けて一心不乱に腕立て伏せを続けた。
綱吉がこんなにも視線を浴びせかけているのに、見向きもしない。
はっ、はっ、と吐き出される熱の篭もった息遣いを聞いているうちに、段々変な気持ちになってきて、綱吉は椅子の上で困ったように身じろいだ。
「うぅぅ……」
なんだか、とてもいけないものを見ている気がした。
そもそも綱吉は、雲雀がこんな風にトレーニングに励むところを、産まれてこの方見た事がなかった。
「ヒバリさんでも、やるんだ」
こういう体操は了平や、山本の十八番だ。彼らは今でも、身体が鈍るのは嫌だと言って、日々の鍛錬を欠かさない。一緒にどうかと何度か誘われたが、彼らの体力は底なしなので、凡人の綱吉では到底ついていけなかった。
丁寧に断りを入れた過去を思い出して、彼は本格的に勉強を諦め、頬杖をついた。
「手が止まってるよ?」
腕立て伏せをひと段落させた雲雀が、身を起こしてタオルを手に言う。ぼんやりしていた綱吉はそれで我に返り、苦虫を噛み潰したような顔をして両手を膝に下ろした。
汗だくの雲雀の背中には、水分を吸って湿ったシャツがべったり張り付いていた。突き出た肩甲骨の輪郭がくっきり現れており、ただそれだけなのに妙な気恥ずかしさを抱いて、綱吉はもぞもぞと身をくねらせた。
左右の膝をぶつけ合わせて、背中を丸くして小さくなる。
「暑い」
呟き、雲雀は拭いきれなかった汗を床に垂らした。シャツの感触が不快なのだろう、襟元を一層広げ、最終的にボタンを全部外してしまう。
「ひゃっ」
上半身裸になった彼を目の当たりにして、綱吉が甲高い悲鳴を上げた。
咄嗟に持ち上げた両手で顔を覆うが、合計十本の指が全て開いているので隙間だらけだ。
なにも今日初めて見るものでもなかろうに、思春期の少女のように恥じらいでいる
「どうしたの」
意地悪く問いかけてやれば、彼は途端に右往左往して、真っ赤になって俯いた。頭の天辺から湯気を立てている。ずっと座っていただけなのに、彼の方も随分と暑そうだ。
面白くてくっ、と喉を鳴らし、雲雀は汗臭いタオルで首筋を拭って右肩を軽く回した。
時計の針は、いつの間にか午後四時を指し示そうとしていた。
「……俺、初めて見たかも」
「うん?」
裸体を彼の前に晒した過去は、それこそ数え切れない。だというのに綱吉は、遠くを見据えながら不思議な事を口にした。
突発的な記憶喪失になったのかと疑った雲雀だけれど、彼はそういう意味ではないと怒鳴った後、数秒間黙り込んだ。
おずおず伸ばされた指は、床に詰まれたダンベルに向いていた。
「これ?」
まさかダンベル如きを見た事が無い、と言うのか。手に取って上下に揺らした彼に、綱吉はフルフルと首を振った。
「違いますってば」
いくら綱吉でも、それくらい知っているし、使ったことだってある。懸命に身体を鍛えようと頑張ったものの、結局目に見えるほどの変化は得られなかった。
昔に比べれば多少マシになっているとはいえ、いつまで経っても骨格は貧相なままだ。こればかりは生まれつきの問題なので、どうしようもない。
父親である家光は骨太なのに、よりによって母である奈々に似てしまった。それで親を怨むつもりはないが、悔しいのは確かだ。
せめてあと十センチ、否、五センチだけでも構わない。背丈があったなら、もうちょっと見栄え良かっただろうに。
守護者の面々と並ぶと埋もれてしまう自分を思い出して、彼は引き締まった体躯を惜しげもなく披露する雲雀に鼻を膨らませた。
「ヒバリさんって、着痩せするんですね」
細身なのに、しっかり筋肉がついている。無駄を削ぎ落とし、必要な分だけを選別して身に纏っているので、外見に寄らず彼はがっしりしている上に、体重もそれなりに。
彼に軽々と抱えあげられた過去を振り返り、綱吉は切なさと遣る瀬無さに遠い目をした。
男としてのプライドを徹底的に破壊された日だった。思い出すだけで胃の辺りがしくしく痛む。
「君の方がよっぽど細いだろう」
「ほっといてください!」
何故綱吉が胸を掻き毟っているのかも知らず、平然と言い放った雲雀に、彼はやけくそ交じりに怒鳴った。
いきなり声を荒げられて、雲雀が面食らって目を丸くする。肩で息をした綱吉は、まるで分かっていない彼に舌打ちして、居住まいを正し、デスクに頬杖を着いた。
目に見えるくらいに盛大な溜息をついた彼に眉目を顰め、雲雀は肌を伝う汗を丁寧に拭いていった。
「ヒバリさんも、ちゃんとトレーニング、してるんですね」
「するよ?」
気持ちを改め、最初の質問に立ち返った綱吉が顔を上げて呟く。雲雀は即座に首肯して、汗に湿った前髪にタオルを擦りつけた。
適度な運動により体温が上昇しているからだろう、彼の周囲には陽炎のような湯気が立ち上っていた。
「当たり前だろう」
しれっとした顔で言い返されて、綱吉は口をもごもごさせた。
そうは言われても、どれだけ記憶を漁っても、彼が修練を積み重ねている思い出がひとつも出てこない。学生時代の雲雀は応接室か屋上か、はたまた学校内を巡回しているかのどれかで、道場に通っている様子も見られなかった。
了平や山本のように運動部に所属しているわけでもなく、時間の使い方としては風紀委員の仕事をしているか、寝ているか、喧嘩をしているかのどれかだ。
彼の運動能力は当時から群を抜いていた。その卓越した技はあのリボーンを唸らせた程だけれど、それだってどこで磨いたのか、思えば綱吉は教えて貰っていない。
「ホントですか?」
「本当だよ。きちんと身体を鍛えていないと、思う時に思うように動けないのは、君だって承知しているだろう?」
疑いの眼差しを投げるが、雲雀は淡々としており、表情に変化は見られなかった。嘘をついている、という感じではないけれども納得しかねて、綱吉はぶすっと頬を膨らませた。
頬杖を解いて腕組みをして、背凭れに身を預けて椅子をギシギシ言わせる。不満顔の彼に苦笑して、雲雀は湿ったタオルを半分に折り畳んだ。
それなりに時間が過ぎたが、夕飯までにはまだかなり余裕があった。
今日と言う日が終わるまでは、あと八時間ばかり。どうやって残りを過ごすかを考えて、雲雀は綱吉を手招いた。
「と言うより、日々の鍛錬なんて人に見せるものでもないだろう。それはやって当たり前のことであって、他人に自慢するものじゃない」
毎日、朝と、夜。起床後と、就寝前に。
風紀委員長として下を引っ張る立場にあった彼だから、そういう地道な積み重ねをしていると人に知られるのは面白くなかったのかもしれない。
意地っ張りで格好つけたがりの一面を思い出して、綱吉はようやく満足がいったのか、頷いた。
そして椅子を引いて立ち上がり、その場で怪訝に眉を顰める。
「なんですか?」
「折角だし、手合わせしてよ」
「……俺が、ですか?」
「他に誰がいるの」
訊くのではなかったと、聞いてから綱吉は激しく後悔した。
ひとりでストレッチを続けるのに飽きた雲雀の要望には、とてもではないが応えられない。頭に手をやって首を振った綱吉にむっとして、彼はいいから、とせっついた。
「ホテルが壊れますよ?」
「手加減はしてあげる」
多少は頑丈に出来ているだろうが、そもそもホテルとは人が寝起きする為の場所で、汗臭く組み手をする場所ではない。
加減はすると言われても、やりあっているうちに互いに興奮して、うっかり本気を出すような羽目に陥ったら目も当てられない。
それで城の一部を破壊した経験があるだけに、綱吉は丁重な断りの文言を連ねて雲雀を落ち着かせ、椅子に戻ってこめかみを小突いた。
「まったく、もう」
面白くないと拗ねてしまった雲雀に肩を竦め、手元にあったモニターのチャンネルに手を伸ばす。試しに電源を入れて大型スクリーンに映像を映し出すが、心惹かれる番組には行き当たらなかった。
雲雀を退屈させない方法が見付からない。タイムリミットである日付変更までの残り時間を数え、彼は項垂れた。
憂鬱だと顔に書いている綱吉を見詰め、雲雀は湿って重いシャツを雑に折り畳んだ。
「捗ってないなら、付き合ってよ」
「組み手はご遠慮します」
さっきから溜息をつくか、机に突っ伏すかのどちらかしかしていない綱吉に声をかけるが、先を読んだ彼は早口に捲くし立て、腕を交差させてバツの字を作った。
そこまで嫌わなくても良いものを。少しだけ傷ついた顔をして首を振り、雲雀はそうではない、と呟いた。
予想が外れた綱吉は目を瞬かせ、きょとんと首を捻った。
「汗をかいたからね。洗い流したい」
念入りに身体を解した分、発汗量も凄まじい。近付けばさぞや臭かろう雲雀に頷いて、綱吉はリビングに通じるドアを指さした。
「お風呂なら、あっちの部屋のその向こうです」
さらりと言って、説明を終えて人心地ついた顔をした彼に眉目を顰め、雲雀は口をヘの字に曲げた。
これだけ言っているのに、何故分からないのだろう。相変わらずの鈍感具合に若干腹を立てて、雲雀は腰に手を当て、胸を反らせた。
急に怒り出した彼に気圧されて、簡単に手が届く距離でもないのに、綱吉は臆病風を吹かせて椅子を後ろに引いた。
「え、えっと……?」
そんなに気に触る事を口にしただろうか。分からなくて混乱している綱吉に何度目か知れない溜息を零し、雲雀は左の掌を上にして揺らした。
「君も来るんだよ」
「はい?」
呆れ混じりに告げられて、綱吉は目を丸くした。きょとんとしたまま自分を指差し、鷹揚に頷かれて総毛立つ。
ビクッと椅子の上で竦みあがった彼を笑いもせず、雲雀は早く来いと手招きを繰り返した。
綱吉は慌て、じたばたと身を捩った。
「え? ちょ、一寸待ってくださいよ。俺が、なんで」
運動で心地よい汗を流したのは雲雀だけで、綱吉はその間、基本的に何もしていなかった。この状況に陥って冷や汗はだらだら流れているものの、それだって入浴が必要なほど激しいものではない。
風呂に入らなければならない理由など無いのに、雲雀は断固として綱吉をそこに連れて行こうとする。
「君は、赤ん坊が言った事を忘れたの?」
「赤ん坊って、ああ、リボーンか」
もうとっくにそう呼んで良い外見ではないのだけれど、初対面時の印象が強烈だったからか、雲雀は今でもリボーンの事をそう呼ぶ。一瞬誰の事か分からなかった綱吉は、二度の瞬きの間に思い出して、胸を撫でた。
知り合いで最近赤ちゃんが産まれた人がいただろうかと、てんで見当違いなことを真剣に考えるところだった。
唾を飲んで唇を舐めた彼に肩を落とし、雲雀は苛立ち紛れに前髪を掴んで引っ張った。頭皮に走る痛みで冷静さを保ち、ほんの少し目力を強めて綱吉を射抜く。
見詰められた方はどきりとして、椅子の上で反射的に畏まった。
今日を迎えるに当たって、リボーンから受けた注意点は次の通りだ。
終日、ホテルの部屋からは出ないこと。自分でドアを開けるのも禁止。但し室内に限り、自由に動き回って構わない。
ホテルに損害を与えるような行動はとらない。間違っても逃げ出そうとしない。基本的に何をしても良いが、人として最低限の節度は保つように。
食事は、必要であれば電話で依頼すれば大体の注文は叶えられる。足りない物資も、頼めば持って行く。もっとも、達成不可能な要求は無視をするのでそのつもりで。
そして一番肝心な事。後で合流する護衛とは、着かず離れずの距離を保つこと。
クリスマス・イブの日に殺す、と大胆不敵に宣言した何者かから、今日一日彼を守り通す。それが護衛役としてリボーンに選出された雲雀の仕事だった。
「それで、どうして一緒にお風呂、になるんですか」
「人の話、聞いてた?」
「聞いてます」
頭の両側についている耳は飾りか、とまで言われて、綱吉は頬を膨らませた。
年齢不相応な、子供じみた表情に疲れた顔を向けて、雲雀はこめかみを指で小突き、足元を指し示した。
続けて開けっ放しのドアの向こうを指差す。
「……?」
意味が分からなくて、綱吉は首を捻った。雲雀はまたもや嘆息して、右足で床を蹴り飛ばした。
「僕が風呂に入っている間、君の身に何かあったらどうするの?」
犯人はいつ、どこからやって来るかも分からないのだ。雲雀がシャワーを浴びている間に、綱吉の身に不測の事態が起きないという保証はない。
苛立たしげに吐き捨てられた台詞にハッとして、ようやく理解した綱吉は両手を叩き合わせた。が、すぐに渋い顔をして唇を噛み、前方に佇む青年を上目遣いに睨みつけた。
「だからって、別に俺まで入ることは」
「僕ひとりで入っても、面白くないだろう」
語気を強めてきっぱり言い切られて、綱吉は額に手を当てて天を仰いだ。
そういえばこの人は、とても融通の利かない我が儘な暴君なのだった。何事に対しても自分の思い通りに動かしたがって、そうならないと拗ねるわ、暴れるわと、大変だった。
過去から現代に渡るまでに数多く繰り広げられてきた修羅場を思い返し、綱吉は頭痛を堪えて臍を噛んだ。
「それに、さ」
「はい?」
沈痛な面持ちを作っている彼にほくそ笑み、雲雀は目を細めた。不敵なその表情を真正面から見返して、綱吉はややして、嗚呼、と頷いた。
「どうせ君も、僕も、今日一日此処から出られないんだしね」
この広すぎる部屋に、ふたりだけ。そして、呼ばなければ誰も来ない――殺人を予告した犯人以外は。
超高級ホテル最上階のスイートルームで過ごす、クリスマス・イブ。あまりにも出来すぎた展開に、綱吉だって真っ先にリボーンの策略を疑った。
「まあ、そうですけどね」
こんな時でもなければ泊まる事もなかった場所で、最近はすっかり疎かになっていた雲雀とのスキンシップを重ねるのも、悪くはない。
どうせ明日になれば追い出されるのだ。ちっとも頭に入って来ない勉強に無駄に精を出すよりは、何もかも忘れて怠惰に過ごしても、罰は当たらないだろう。
たまの休日を楽しめと囁く雲雀の甘言に五秒の逡巡の後に頷き、綱吉は照れ笑いを浮かべて立ち上がった。
日付が変わろうとしている。
広すぎるベッドに横になって、綱吉は脚で布団を蹴り飛ばした。バタン、と思いの外大きな音が響く結果に陥って、彼は首を竦め、隣にいる人の顔色を窺った。
眠ってはいない。現に彼の瞼は開かれており、黒く冴え冴えとした瞳が綱吉の方を向いていた。
「行儀が悪いよ」
「はぁい」
叱られて、綱吉は肌触りも滑らかなシーツに突っ伏した。両腕両足を伸ばし、スペースを大量に占拠して、クロールをかく。
少しもじっとしていない彼に呆れて目尻を下げて、雲雀は蜂蜜色の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。
ふたりして長風呂を楽しんだ後は、ホテルが用意した豪華な料理に舌鼓を打った。クリスマスだというのに雲雀の為にわざわざ日本食を選んで、日本酒を嗜んだ。
綱吉は元々アルコールにあまり免疫が無く、一寸の量であっという間に酔っ払ってしまった。くだを巻いて雲雀に絡み、ふたりしてベッドに転がり込んで、子供のように戯れた。
こんなにも人目を気にせず、終始べたべたとしていたのは久しぶりだ。
中学時代はそれこそ一日中、一緒にいた。年齢を重ねるに連れてそれが難しくなっていって、寂しさと切なさを同時に抱いていただけに、思わぬプレゼントにすっかり心も体も解きほぐされてしまった。
「来ませんでしたねー」
何年か前に雲雀が贈ってくれた腕時計に目をやって、綱吉が呟く。身を起こして乱れた布団とシーツを整えていた雲雀は、下着ひとつ身につけていない傍らの青年の言葉に不思議そうな顔をした。
「サンタクロースでも待ってるの?」
白い髭に、赤い服を着て、大きな袋を抱えた老人を脳裏に思い浮かべた彼に、綱吉はムッとして首を振った。
仰向けに寝そべったまま雲雀の脛を蹴り、彼から布団を奪い取ってごろん、と寝返りを打つ。
身体を覆っていた羽毛布団が取り除かれて、雲雀は寒気を覚えてむき出しの腕を撫でさすった。
「違いますよ。殺し屋さんが、です」
ご丁寧にさん付けした綱吉が、暗い天井を見上げて言う。照明は最低限に絞られており、長く濃い影が彼の顔の半分を覆っていた。
「君って……」
真剣な表情をしている彼に絶句して、雲雀は口元を手で覆い隠した。唖然としているその姿に不満顔を向けて、綱吉は下半身にシーツを巻き付けた状態で起き上がった。
雲雀の裸体が薄明かりに晒されて、まるでギリシャ彫刻のようだった。
まともに見てしまい、顔を赤らめた彼に苦笑して、雲雀は揃いの腕時計を顔の高さで揺らした。
「もう来てるじゃない」
「は?」
時計の針は、間もなく午前零時を指し示す。予告状にあった期日は、間もなく終わりを迎える。
しかし綱吉の元には、リボーンなどの顔見知りしか訪ねてこなかった。
ルームサービスを届けに来たホテル従業員への応対は、全て雲雀がした。綱吉は遠くから見ていたけれど、彼らの行動にもなんら不自然なところは見受けられなかった。
結局、これだけ大騒ぎを起こしておきながら、犯人は姿を現さなかった。
肩透かしだったと呟いた綱吉は、雲雀の返答に怪訝な顔をした。口をヘの字に曲げ、顰め面を作る。
面白い表情になった彼を小突き、雲雀はまだ分かっていなかったらしい綱吉に、どう説明するかで暫く迷った。
「来たって、……いつ?」
綱吉は雲雀とずっと一緒にいた。少なくとも彼がこの部屋に入ってからは、視界に入らない場所にいた時間はほんの僅かしかない。
たった数秒間で敵を倒し、排除し、片付けを終えるなど、無理な話だ。
ベッドで正座をした彼から布団を奪い返した雲雀は、腰元を覆い隠しながら疲れた様子で首を振った。
「どうして僕が今日、予定が空いていたか分かる?」
「ほえ?」
唐突に全く別の話題を振られて、綱吉は目を丸くした。
世の中はクリスマスだ。街は華やかに彩られ、人々は大切な相手との夜に心を躍らせている。
綱吉だって、今はそうだ。彼とこうしてベッドの上で語らいあえるなど、昨日では思いもしなかった。
それもこれも殺人予告を送って来た輩と、早急な対応に打って出たリボーンと、急な呼び出しに応じてくれた雲雀のお陰。
再び横になった彼の髪を梳いてやり、雲雀は静かに返事を待った。
「それは、……なんでですか?」
「君にフラれたから」
「え!」
何も思い浮かばなくて、綱吉は頬に溜め込んだ息を吐き出して聞いた。途端、信じられない一言が降ってきて、彼は勢い良く身を起こした。
信じられないと目を丸くして、呆気に取られて深淵よりも深い闇色の双眸を見詰める。雲雀は穏やかに微笑み、間抜け顔を晒した彼の鼻の頭を弾いた。
「フラれたって、なんですか、それ。俺は知りませんよ」
仰け反って衝撃を受け流した綱吉は、ニ発目を警戒して両手で顔を覆いながら牙を剥いた。高らかに吼えて、唾さえ飛ばす。
夜中であるに関わらず大声を出した彼を宥め、雲雀は不敵に笑んだ。
「カード、送ったんだけど。返事が来なかったから」
「カード?」
「そう」
日本から、イタリアへ。クリスマスの少し前に間に合うよう余裕を持って、雲雀はメッセージカードを送った。
しかしそれは、綱吉の手元まで届かなかった。
初耳だときょとんとしている彼の、あまりの物分りの悪さに閉口して、雲雀は頭を掻き回した。
自分で言うのは気恥ずかしいし、なんとも馬鹿らしい。出来るものなら自力で気付いて欲しかったのだけれど、どうやら物事はそう巧く運ばないものらしい。
超直感ももう少し多機能だったら良かったのに。そんな事を考えて肩を竦め、彼は諦めて膝を叩いた。
招き寄せて、抱き締める。腕の中に閉じ込めた最愛の存在に、触れるだけのキスを贈る。
くすぐったかったのか身を捩り、綱吉は嬉しそうに笑った。
「ヒバリさん」
ちゅ、と自分からも唇に触れて、恥ずかしげに頬を染める。十代の頃から変わっていない愛らしさに安堵して、雲雀は細い肩を押し、彼をベッドに縫い付けた。
手をぎゅっと握って束縛し、真上に覆い被さる。
ふたつ並んだ時計の針が、同じタイミングで午前零時を告げた。
「君を、――咬み殺しに来たよ」
あの日本語が一寸だけ読めるイタリア人の青年も、今頃はサンタと共に夢の中だろうか。
皮肉を込めて囁いた雲雀にハッとして、綱吉は直ぐに気の抜けた笑みを浮かべ、小さく舌を出した。
2010/12/20 脱稿