青春シンドローム

 ホームルーム終了を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、静まり返っていた教室はにわかにざわつき始めた。
 見るからにそわそわしている生徒らを眺め、教卓に立っていた女性教諭はやや呆れ顔で肩を竦めた。
「気をつけて帰るようにー」
 やや間延びした、あまりやる気が感じられない声で号令が出されて、それまで我慢していた一部の生徒らも、一様にホッとした顔をして嬉しそうに頬を緩めた。騒々しさは一気に増して、ガタゴトと椅子や机が床を削る音がそこかしこから響いた。
 南十字学園、一年一組のツナシ・タクトもまた、急いで引き出しの荷物を取り出して、帰り支度を整え始めた。
「タクト、ワコ、行こう」
 今日は部活がある。演劇部「夜間飛行」は、今のメンバーになって初めての公演を間近に控え、日々の練習にも熱が入っていた。
 廊下側の席から立ち上がったスガタに呼びかけられて、窓際の席に座っていたタクトは手を止めて振り返った。あちらは既に準備を終えたらしく、荷物が満載の鞄を右肩に担ぎ上げていた。
 早くしないと、置いていかれてしまう。
 勿論、一緒に行かなければならないという決まりはない。ただ同じクラスに在席していながら個別行動を取っていたら、仲違いしたのかと邪推されることもしばしばで、そういう周囲の目は少々鬱陶しかった。
「今いくー」
「あ、ごめーん」
 座ったまま伸び上がったタクトの返事に被って、ワコの甲高い声が教室内に響き渡った。
 愛らしい容姿に反して大飯ぐらいの彼女の声は、歌が巧いというだけあって良く通った。一瞬静まり返った教室の空気には気付かず、ワコはスガタのひとつ前の席で首を竦め、小さく舌を出した。
 彼女の手には、一冊の本が握られていた。
「図書室に返してから行くね」
 今日が返却期限なのをすっかり忘れていたと、彼女は照れ臭そうにスガタに言った。
 タクトは遠くの会話に耳を傾けながら荷物をまとめ、仄かに体温を残す椅子を机の下に押し込んだ。鞄を左手にぶら下げながら教室後部を進み、ワコが手にしている本の表紙を覗き込む。
「世界グルメの旅……」
「もー。見ちゃダメ!」
 いかにも彼女らしいチョイスに笑っていたら、拗ねたワコが鞄ごと本を胸に抱え込んでそっぽを向いた。頬を膨らませる彼女に苦笑して、スガタはタクトの右耳を抓んで軽く引っ張った。
「イテ、って」
「遅れるって、部長に伝えておくよ」
「うん、お願い」
 後ろに身体を反らして悲鳴を上げたタクトを無視して、スガタとワコだけがほのぼのと会話を継続する。絡め取られた耳を奪い返そうとタクトは暴れたが、余計に強く抓まれた上に捩じられて、彼は降参だと白旗を振った。
 解放された耳は暫く熱を持ち、じんじんとした痛みをもたらした。
「くー……暴力はんたーい!」
 ワコとは教室で別れ、部室へ向かうべく男ふたりで歩き出しても、まだ痛みは引かない。少し赤くなっている耳を片手で庇いながら口を尖らせたタクトに肩を竦め、スガタはワコにも負けないくらい膨れ面をしている少年に目を細めた。
「一応気にしてるみたいだからね」
「なにが?」
「ワコが」
 色々と省略された短いひと言に、タクトが怪訝に首を傾げた。聞き返されたスガタはそれだけを口にして、鞄を脇に抱え、人でごった返す廊下を足早に進んだ。
 これだけ混雑しているのに、彼は誰ともぶつからない。足捌きは巧みで、人の一歩先の動きを見ている感じだ。
「おっと。ごめん」
 一方の自分はどうかと考えて、タクトは早速すれ違い様に同学年の生徒と肩をぶつけてしまい、通行の邪魔になる右手を下ろした。
 ヒリヒリしていたのも、ちょっとずつではあるが落ち着いてきた。部室に着く頃にはすっかり消えていそうだと予想して、心を軽くする。
「待てよ、スガタ」
 そうこうしているうちに青い髪の背中が遠くなってしまって、タクトは二段飛ばしで階段を駆け下り、最後の四段は一気に飛び降りた。
 急に隣に現れた彼に吃驚して目を丸くして、スガタはやがて呆れ調子に微笑んだ。
「怪我するぞ」
「平気だって」
「怪我だけで済まないことだってある」
 調子に乗っていたら、そのうち手痛いしっぺ返しを食らいかねない。
 もっと気を引き締めるよう、声を潜めて告げた彼の凛とした横顔に、タクトは口を尖らせつつも頷いた。
 ただ漫然と学生生活を送るだけだったなら、足を捻ったところでさほど影響はない。せいぜい通学が若干不便になり、体育の授業が見学になる程度だ。
 だけれど、タクトは違う。
 彼が大怪我を負い、自力で立てないような事になれば、敵はここぞとばかりに攻勢を強めるだろう。
 タクトが負ければ、ワコが守る封印は破られる。島に眠る秘密、サイバディがゼロ時間から解き放たれて、世界は混乱の渦に飲み込まれる。
「お前の身体は、お前ひとりのものじゃない」
「……言うなよ、そういう恥ずかしいこと」
 もっと自分を大事にするよう言ったスガタに、タクトはすれ違い様に振り返った女子の視線を感じて背中を丸めた。
 分かっていないスガタにも不思議そうに見詰められて、彼は勝手に赤くなった頬を掻き、気を紛らせようと澄み渡る空に視線を移した。
「んー」
 両手を広げ、気持ち良さそうに伸びをする。つられてスガタも顔を上げ、白い雲とのコントラストが眩しい大空に目を眇めた。
 夏の風が頬を撫でた。微かに潮の香りがする。
「今日も、頑張るぞっ」
 芝居なんて、と思っていた時期もあったが、いざその世界に飛び込んでみたら意外に奥深く、面白い。
 ワコやスガタのように、普段一緒に居るメンバーが、壇上に立った途端まるで別人のようになるのも、大いに好奇心を刺激した。
「まずは、台詞を噛まずに言えるようになる事だな」
「うぐ」
 元気良く吼えたタクトに水を差す台詞を呟き、スガタが意地悪く笑う。ゴチン、と見えない手で頭を殴られた気分に陥って、タクトは一気に萎んで小さくなった。
 台詞を覚え、スラスラと述べるだけでも大変だ。それもただ読み上げるだけではなく、シーンや、演じるキャラクターに合わせて、声や表情に変化を持たせなければならない。
 片方に気を取られたら、片方が疎かになる。もっと登場人物をイメージして、と言われるものの、自分は自分という概念がある所為で、タクトはなかなか部長のお墨付きを貰えずに居た。
 みんなの足を引っ張っている。責められた気がして俯いていたら、見透かしたスガタがくっ、と喉を鳴らした。
「でも、最初に比べれば、上達してきてるよ」
「マジ!?」
 落ち込む事を言われた直後に褒められて、タクトは一気に気持ちを浮上させて目を輝かせた。分かり易い、そして扱い易い彼に心の中で苦笑して、スガタは鷹揚に頷いた。
 早く行こうと、元気を取り戻した背中を押して促し、自分はというと出し掛けた足を戻して進行方向右手へと視線を流す。
「スガタ?」
 颯爽と歩き出していたタクトは、五メートルほど後ろで立ち止まったままの友人に気付いて首を傾げた。
 彼が見ているのと同じものを視界に入れて、嗚呼、と頷く。
 芝生の中庭を望む廊下の一画にはベンチが置かれて、ちょっとした休憩スペースになっていた。傍には自動販売機が一台、柱の影に隠れるようにして設置されている。
 女生徒がふたり座り、仲よさげに談笑している。日向ぼっこついでに時間を潰すにはもってこいの場所だ。
 スガタが注目していたのは、無論、ベンチに座っている女子ではない。
「ちょっと、すまないな」
 昼食を摂ってから、それなりに時間が過ぎている。喉の渇きを覚えた彼が、断りを入れて歩き出した。
「あ、俺もー」
 それに続き、タクトも笑って右手を挙げた。
 白い柱と一体化している自動販売機に近付くと、先客が居た。今年の一年生男子でも指折りの美形と名高いふたりが揃えって現れたのを受けて、穏やかだった場の空気は一気に騒然となった。
 取り出し口に手を伸ばしていた女子が跳び上がり、高速蟹歩きで彼らに販売機を譲った。大袈裟すぎる周囲の反応にタクトは苦笑したが、スガタは慣れているのか堂々としており、鞄から財布を抜き取ると二つ折りのそれを悠然と広げた。
 その仕草ひとつひとつが妙に堂に入っている。こういうところも演技なのかとひとり呟き、タクトはズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
 生活費の大半は寮の、秘密の場所に隠してある。一度に大金を持つとパーッと使ってしまいそうなので、使う分だけをちまちまと持ち出すようにしていた。
「……ん?」
 スガタの長い指がボタンを押して、ガコン、と商品が落ちる音がタクトの鼓膜を震わせた。片膝を折って屈んだ彼が缶飲料を取り出す仕草も様になっており、遠巻きに眺める女子の目はどれもこれもハートマークだ。
 そんな中でひとり、タクトは手をごそごそしながら頻りに首を傾げた。
「タクト?」
 あまり大きくない缶を手に、スガタが気付いて眉を顰める。問いかけられてハッとして、彼は空笑いを浮かべてポケットの内布を引っ張った。
 左右共に引き抜いて、三角形になった白い布から埃やら、塵などを足元に散らす。
「そーいや、昼飯で、全部」
「……そうか」
 仕送りを使い込んでひもじい思いをしなくて済むよう、一日の使用額を定めていたのが仇となった。見事にすっからかんのポケットを見せられてスガタは乾いた笑みを浮かべ、同情を誘って涙目になっている友人の頭をぽん、と叩いた。
 ここで甘やかすと、後日調子に乗ってまた甘えて来る。たまには厳しく接することにして、スガタは奢ってくれるよう強請る少年を置いて廊下を歩き出した。
「スガター」
「これは僕の」
 小型犬のように尻尾を振って、タクトが舌足らずな声で彼を呼ぶ。肩に擦り寄り、ゴロゴロと喉を鳴らすところは、一転して猫のようだ。
 嫌だと言っても聞き入れない彼に呆れつつ、スガタは零さないよう注意しながら銀色のプルタブに指を掛けた。
 少しの力を加えて手前に引き起こせば、梃子の原理を利用して、飲み口の蓋が缶の内側に沈んだ。
「スーガーター」
「こら、危ないだろ」
 腕に抱きついてこられて、スガタはひとくちも飲んでいない飲み物を零しそうになった。慌ててタクトとは反対側に高く掲げて持ち、指先に散った冷たい雫に唇を噛む。
 だが叱られてもへこたれず、タクトは一寸だけ、としつこい。
 缶に印刷された表記を手で包み隠し、スガタは懲りない友人に肩を竦めて距離を取った。
「ケチ」
「今度、なにか奢ってくれるのかい?」
 ひとり冷たい液体を喉に流し込み、食道を抜けて胃に到達するのを待って、失礼な暴言に対して言い返す。鞄を両手で抱え込んだタクトは、彼の物言いにムッと頬を膨らませた後、イーッ、と口を真横に、平らに引き伸ばした。
 今時の小学生でも、そんな顔はしない。子供っぽい彼につい噴き出して、スガタは缶の底で宙に円を描いた。
 沈殿している液体をかき回して、もうひとくち煽る。美味しそうに飲む彼を恨めしげに睨み、タクトは鞄を抱く腕に力をこめた。
 その辺の水道の水も、一応は飲める。島は海に囲まれてはいるけれど、森林が多いので地下水が豊富だ。しかも火山が近いので、井戸を掘れば温泉が出る。
 近くに蛇口が無いか探したタクトだけれど、それらしきものはない。部室のある旧校舎に向かうに連れて人の影は減り、景色は一気に殺風景になった。
「ねえねえ、シンドウ・スガタ君」
「なにかな、ツナシ・タクト君」
 スガタは大金持ちの息子なのだから、缶ジュースの一本くらい恵んでくれても良かろうに。
 開いた距離を小走りに詰めて、手を揉みながら猫撫で声を発する彼は、余程喉が渇いているらしい。低姿勢を極めたタクトに肩を竦め、スガタは缶を揺らして残量を確認した。
 女々しく名前を呼ばれて、爽やかに返してやる。にこやかな笑顔を向けられて、反応が鈍いと察したタクトは口をヘの字に曲げた。
「ケチ」
「今度返してくれるのなら、貸してやっても良いぞ」
「金利は?」
「トイチで」
「むっきー!」
 横柄な態度で不遜に言った彼に、タクトは途端真っ赤になって怒鳴った。両手を振り上げて殴ろうとするが、見越していたスガタに簡単に避けられてしまった。
 つんのめってふらつき、鞄を振り回してどうにかバランスを取って転倒は回避する。
 距離が開いて、タクトは肩幅以上に広げた足もそのままに、餓えた獣のように唸った。
 缶飲料の残りは少ない。あと二口分もないと読んで、スガタは諦めの悪い友人の、燃えるように赤い瞳に嘆息した。
「スガタのどケチ。あー、もう、決めた。今度からお前がピンチになっても、絶対助けてなんかやらないからな」
「それは困るな」
 タクトとスガタ、そしてワコの三名は、今や運命共同体だ。その輪から爪弾きにされるのは嬉しくなくて、スガタは金と黒のコントラストが鮮やかな缶を一瞥し、人を指差している失礼な少年に肩を竦めた。
 たかだが缶飲料ひとつで、ここまで言われてしまうとは。
 それほどに喉の渇きを訴える彼に冷たくするほど、スガタは非人間ではない。仕方が無い、と大仰な素振りで肩を落とし、溜息をついて、近くに来るよう手招く。
「え、マジ?」
 一瞬で表情を作り変えて、タクトは嬉しそうに目を爛々と輝かせた。
 切り替えが早い。嫌なことはさっさと忘れてしまうその性格を羨ましく思いながら、スガタはちゃぷちゃぷ言う缶を彼の方に差し出した。
「けど、良いのか?」
 飲みかけで、しかも量は少ない。
 渇きを潤すには不十分ではないかとの問いかけに、タクトは右に首を傾けた。
「あれ。スガタは、回し飲みナシの人?」
 質問の意味を取り違えたまま、訊き返す。
 緋色の瞳を真ん丸に見開いた彼に虚を衝かれ、スガタはもう少しで軽い缶を落とすところだった。
 慌てて指先に力を入れて握り直し、ドキン、と跳ねた心臓を誤魔化して笑顔を作ろうとする。けれど直ぐには無理で、なんともぎこちない表情になってしまった。
「いや、そういうのじゃ」
「だよなー。ワコも、有りの人だったし」
 否定の文言を吐くのも、どことなくたどたどしくなってしまった。詰まり気味の返答に動揺が見え隠れするものの、タクトは気付く様子もなくあっけらかんと言って、スガタから缶を受け取ろうと右手を浮かせた。
 緩く握っていた拳を広げ、缶の底を包み込もうとする。
「あれ」
 それが空振りして、彼は目を瞬いた。
 何も言わずにスガタが腕を引いて、缶飲料も引っ込めてしまったのだ。空気を握り潰した手を開閉させて、タクトは押し黙った友人を怪訝に見詰めた。
「スガタ?」
「ワコと?」
 どうしたのかと問えば、鋭い眼差しと共に言葉足らずの疑問をぶつけられた。海を思わせる深い青い髪から覗く瞳があまりにも尖っていて、タクトは気圧されて半歩下がり、自分の失言に気付いて視線を泳がせた。
 ワコは、スガタの婚約者だ。
 それは親同士が決めた、島の古い因習に基づく約束でしかない。スガタ本人はそう言っていたが、彼からはあの少女を愛おしみ、慈しんでいる空気が十二分に感じられた。
 そこへ横から割り込んできたのが、他ならぬ自分。背中にひやりとしたものを覚え、タクトはドクドク言う心臓を制服の上から押さえ込んだ。
「あの、いや。別に変な意味じゃ」
「分かってる。ただの回し飲みだろう」
 それが間接キスに当たるのは、その時は深く考えなかった。ワコが当たり前のように差し出すものだから、タクトもつい、何も考えずに受け取って飲んだ。
 敵のサイバディが作り出した、ゼロ時間に展開した幻の世界でのことだ。
 自分たち以外誰も居ない世界は、現実ではなかった。だけれど、ゼロ時間の中での出来事自体が幻だったわけではない。
 厳しい視線に晒されて、タクトは右往左往しながらスガタを窺った。もじもじと胸の前で指を絡め、突き詰めて考え過ぎている彼に愛想笑いを浮かべて首肯する。
「そうそう。ただの、回し飲み」
 それ以外の意味はなく、それ以上の意図はない。
 頬をヒクつかせて頷いたタクトを暫くじっと見詰めて、スガタは数秒後、長い息を足元に向かって吐いた。
「本当に良いのか?」
「……え?」
「平気なら、やらないでもないが」
 嘆息に紛れこんだ囁きに、タクトはきょとんとした。ずり落ちそうになった鞄を急いで肩に担ぎ、スガタの手元で揺れる缶に焦点を定める。
 長い指が絡み付いているので、銘柄くらいしか分からない。確か味が何種類かあったはず、と目立つロゴに該当するものを探し出そうとするが、普段口に入れない飲み物なのでピンと来るものには巡り会えなかった。
 ともあれ、分けてもらえるのであれば、ありがたい。
「回し飲みはアリだって、そう言ってるだろ」
 ワコとの件は、許してもらえたらしい。内心ホッとして、タクトは今度こそ譲り受けようと手を差し出した。
 急かす彼に相好を崩し、スガタは少し温くなった缶を揺らした。
「そうか。けど、残念だな」
「スガタ?」
「僕は今から、ナシの人になることにしたよ」
 言うが早いか彼は手首を捻り、炎を象ったロゴが際立つ缶を己の口元に持っていった。天地を逆にして傾けて、残り僅かだった液体を一気に咥内へと流し込む。
 あ、と思った時にはもう手遅れで、タクトは目の前で消えて行く飲み物に呆然となった。
 つい今さっきまで、スガタは回し飲みが平気な人だった。それなのに突然撤回して、分け与えると約束をしたものをひとりで飲み干してしまった。
 手酷い嘘をつかれて絶句して、タクトは拳を握って震わせた。
「スガタ!」
「ン」
 怒声をあげて彼に一歩近付き、奥歯を噛み締めながら今の行為を目で責める。しかしスガタは平然とした態度を崩さず、それどころか怒り狂っているタクトに手を伸ばし、おもむろにピンク色のネクタイを掴んだ。
 きっちり絞めているスガタとは違い、タクトの結び目は緩い。引っ張られてつんのめり、前屈みになった彼は迫り来る人影に竦み、咄嗟に顎を引いて目を閉じた。
 ぶつかる、と思った瞬間。
「ン――んぅ!?」
 くにゅ、と触れた柔らかなものに仰天して、彼は目を見開いた。
 微かに熱い、濡れたその感触の正体が何であるか、頭ではすぐに理解出来ない。けれど本能的に感じ取って、彼は総毛立ち、背筋を震わせた。
 芳しい豆の香りが鼻腔を擽る。非常に近い場所で水が跳ねる音がして、息苦しさに喘いで口を開いた瞬間、生温いものが一気に中に潜り込んできた。
 まだ陽も高い時間帯だというのにぞわぞわっと悪寒に襲われて、タクトは発作的に、そこにあったものをがむしゃらに掴んだ。
 力一杯握り締めて、爪先立ちになって距離を取ろうとするが、追いかけて来たそれに呆気なく捕らえられる。息を吸えばその度に強い匂いが咥内に広がって、飲み干せない程の液体がいっぱいに溢れた。
 くにゅり、と舌が柔らかなものに擦られる。正体不明のそれに臆してかぶりを振るが、それが出来たのは頭の中の自分だけであって、身体は脳の命令に背き、まるで動こうとしなかった。
 口の中でぐちゅぐちゅと掻き回される液体には、明らかに唾液でないものが混じっていた。吐き出そうにも唇を塞がれていて、出来ない。
「んぅ――」
 しかも咥内への侵入者が、これを奥へ、奥へと追い遣ろうとしていた。飲むように強要して、好き勝手に暴れ回り、蹂躙し、タクトから呼吸の全てを奪い尽くす――
 掴んだものに爪を立て、タクトはかぶりを振った。
「っ」
 勢いに任せて噛み付いて、束縛が緩んだ隙を狙って急いで逃れる。息苦しさから解放されて、酸素を吸い込もうとした瞬間に口の中にあったものまで一緒に飲み込んでしまう。
 人肌に温められた液体の苦味に閉口して、タクトは痛がって口元を押さえ込んでいる男に目を白黒させた。
 スガタの唇から、黒っぽい液体が滴り落ちていた。
「お、おま、……って、にがっ!」
「だから平気かと訊いただろう」
 噛まれた舌の痛みを堪え、スガタが喉を押さえ込んだタクトを呵々と笑う。
 間接キスではなく、直接キスで飲まされた液体の正体を今になってようやく悟り、スガタが揺らす空き缶の表記を見て確信を得る。
 ブラックの文字に、タクトはうげ、と顔を青くして舌を出した。
「欲しがってたから分けてやったのに、失礼だな」
「っていうか、お前。おま……今!」
 涼しい顔をしたスガタが笑ったまま言って、楽しげなその表情にタクトは怒鳴った。
 問題なのはそこではない。だのにスガタは全く問題にしようとしない。ただひとり、タクトだけが耳まで真っ赤にして、またしても人を指差した。
 慌てふためいている彼を面白そうに眺め、スガタは顎に垂れたコーヒーを手の甲で拭った。そして、まるで見せ付けるかのようにそこに舌を這わせた。
 チロリと唇を舐める、その赤い物体の動きに騒然として、タクトはヒクリ、頬を引き攣らせた。
 口移しで飲まされたコーヒーの苦さなど、もうどこかに吹き飛んでしまった。後にはスガタから与えられた熱と、彼とのキスで響いた卑猥な水音が、尾を引く形で残された。
 舌で舌を舐められ、擦られ、擽られ、啄まれ、吸われ、絡め取られて。
 到底言葉では言い表しようのない苦いキスを思い出して顔を引き攣らせ、タクトは不敵に笑んでいる、友人の筈の男に首を振った。
 後ろを振り返り、誰にも見られていなかったかどうかを確認する。挙動不審な彼にクッ、と声を漏らし、スガタは遠くに向かって手を振った。
「あっれー。スガタ君と、タクト君。どうしたの?」
 図書室に寄ってから行く、と言っていたワコが、ふたりの姿を見かけて駆け足で近付いて来ていた。その隣にはミズノの姿もあり、女子ふたりの登場にタクトは竦みあがった。
「ちょっとね。ああ、タクト。喉が渇いたなら、いつでも言ってくれ。飲ませてやるから」
「え、えぇえ、遠慮しまーっす!」
 遅刻組に追いつかれてしまったスガタが飄々と言って誤魔化し、じりじりと後退しているタクトにいきなり言った。
 事情が分からない女子が不思議そうにする前で、彼は大袈裟なくらいに跳び上がり、踵を返して逃げ出した。

2010/12/18 脱稿