ゲームの規則

 白熱する試合に、陽射しは燦々と降り注ぐ。
 風は殆どなく、開始直後は暖かい程度で済んだグラウンドも、時間を経る毎に気温を上昇させていった。
 歩くたびに乾いた砂埃が舞い上がり、汗ばんだ肌に絡み付いて不快感が増す。顎を伝う水滴を、落ちる直前で拭い取って、タクトは大きく息を吐いて体操服の襟に指を入れた。
「あっちぃ……」
 低く唸り、反対の手を団扇にして風を作る。しかしこの程度では、バクバク言う心臓を宥めるなど到底不可能だ。
 声が聞こえたのか、一塁ベースを守るマリノがじろりとタクトを睨む。だがその彼女の首筋にも、水晶球にも似た汗の雫が輝いていた。
 初回こそは元気が良かったチームメイトの声にも、疲労感が滲み出ていた。唯一元気なのはフェンスの向こう側に陣取るギャラリーで、その大半が女子だった。
 今や学内の人気を二分する、と言っても過言ではないタクトとスガタのふたりが、揃って球技大会に出場しているのだ。カメラを握り締める女生徒もそれなりの数にのぼって、事ある毎にシャッターが押されてフラッシュが瞬いた。
 試合の邪魔になるから止めるよう、何度か注意の声が飛んでいるに関わらず、だ。自分ひとりくらいなら構わないと思っている生徒が、思いの外多い。
「それにしても、マリノちゃんってスポーツ万能なんだってね」
「試合中よ。話しかけないで」
 体操服を整え、アンパイアの試合再開の声を合図にタクトは帽子を被り直した。盗塁を狙い、リーチを大きく取るものの、ピッチャーの牽制球が頻繁に飛んできてなかなか次に進めない。
 マウンドのピッチャーが振り向き様にボールを投げるたびに、タクトは一塁に駆け戻らされた。
 ボールをキャッチしたマリノが、仏頂面でタクトの肩を叩く。ミットの中から白球を引き抜いた彼女は、にこやかに話しかけるタクトにつっけんどんな態度を貫き、投手へボールを返した。
 愛想の悪い彼女に肩を竦め、タクトは空っぽの二塁ベースを見詰めて右足を前に繰り出した。
 投手が構える。タクトは更に前に出る。
「おっと」
 三歩目を踏み出して身構えた途端、ひゅっ、と風が唸るのが聞こえた。
 慌てて一塁に戻り、爪先で白いベースを踏む。直後、ぽん、とマリノが彼の肩を叩いた。
 一番打者で、しかも天性の運動神経を持っているが故にか、タクトの出塁率は他のメンバーに比べて圧倒的に高かった。敵チームも充分警戒しており、お陰で彼に向けられる牽制球は、誰よりも圧倒的に多かった。
 もっとも出塁率の高さだけが、原因ではなさそうだが。
「鬱陶しいなー」
 一度の出塁で、牽制の回数が十回を越えるのだから、異常だ。バッターボックスに立っているシモーヌが退屈そうにしているのが、この位置からでも分かった。
 バットを構えて立っているだけの彼女からは、やる気のやの字も感じられない。勝つつもりがあるのかと少し腹立たしく思いながら、タクトはベース脇の地面に爪先で穴を掘った。
「そうね」
 いきなり声がして、吃驚した彼は目を丸くして顔を上げた。
 見ればマリノがじっと彼を見ていた。ミズノと同じ色の瞳は、双子の妹とは違ってやや険がある。
 警戒感丸出しの彼女に屈託なく微笑んで、タクトは人の顔を睨んでいるマウンド上の投手に肩を竦めた。
「なかなか、試合が進まないわね」
「そうだな」
 あまりの牽制球の多さに辟易しているのは、タクトのチームメイトも同様だ。横に長いベンチに腰掛けたスガタは、帽子を被ったまま額に手を翳しているワコの呟きに頷き、面白く無さそうに一塁ベース上に目を向けた。
 ついでにそのもっと向こうに陣取っている姦しいギャラリーも視界に入れて、最後に深々と溜息をつく。
 腕組みをし、長い脚も右を上にして組んだ彼は、背凭れに身を預けたまま首を振ると、またもや一塁上に飛んだ牽制球に眉を顰めた。
「しつっこいねー」
 隣に座っているワコが苛立たしげに呟き、痺れを切らして立ち上がった。ベンチとグラウンドを仕切っている柵に両手を置き、身を乗り出す。
 すらりとしたラインを刻む太腿を惜しげもなく晒した彼女に苦笑して、スガタはもうひとつ、溜息をついた。
 球技大会の、他の試合は順調に終わっているようだった。野球だって、この試合ひとつだけではない。
 時間が押しているのは、あちらのチームだって分かっているはずだ。それに帽子があるとはいえ、長時間太陽の下で活動を続けるのは辛い。
 タクトが戻ってきたらたっぷり水分を摂らせることにして、スガタは苛立たしげに人差し指で腕を叩いた。
 退屈だからだろう、タクトは塁上で親しげにマリノに話しかけている。
 そのマリノは少し迷惑そうだが、まんざらでもない様子も窺えた。ふたりの距離が詰まると、都度ギャラリーが沸き立つのもまた、グラウンドに散る選手らの苛々を助長していた。
 試合が無駄に長引いている原因が自分にある事を、タクトは理解していない。
「仲よさげよねー」
 暇を持て余したルリが、ワコの向こうで拗ねて呟く。
 見ていて面白くないのは、誰だって同じだ。
「そうだな」
「あ、また!」
 聞こえたスガタが相槌を打つのに被って、ワコが悲鳴のような声を上げた。一塁を指し示す彼女の腕の動きだけで、何が起こったのかは楽に知れた。
 牽制の多さでこちらを苛立たせて勝利しようとしているのだとしたら、あの投手はよっぽどの策士だ。
 個人的感情に過分に引きずられているタクミ・タケオに肩を竦め、スガタは帽子の鍔を下げ、表情を隠した。
「もー、いい加減にしなさいよねー」
「ほんっと、真面目に試合する気あるのかしら」
 進まない試合に対してか、タクトへの嫌がらせのような牽制球を繰り返す投手に対してか。
 それとも一塁を守備しているピンクの髪の女子に対してか。
 膨れ面の彼女らを横目で盗み見て、スガタはチロリと唇を舐めた。
「まったくだ。……こちらにも少し、牽制が必要だな」
 誰にも聞こえないように彼が囁いた直後。
「あ!」
 グラウンドを見ていたワコが鋭い声を上げた。
 見ればようやくキャッチャーに向かって投げられたボールが、予想外のところへ飛んでいた。
 暴投だ。
「走れ、タクト!」
「よっしゃー!」
 突然動き出した試合に、ベンチはにわかに活気付いた。チームメイトのヒロシが指示を出すまでもなく、タクトは一塁ベースを離れ、二塁に向かって走り出していた。
 ただ、相手チームのフォローも早い。キャッチャーはボールを取り逃がした瞬間にマスクを放り出して、後ろに転がったボールを素早く拾って投球体勢に入っていた。
 自分の失態に悔しげにして、タケオが邪魔にならないよう即座にその場で身を屈めた。
 ショートが二塁ベース上でミットを構える。タクトが辿り着くよりも、僅かにボールの到着が速い。
「いっけー!」
 捕球からタッチに動いたショートの足元を潜り抜けようと、タクトが勢い良く身を滑らせた。スライディングに巻き込まれた土が濛々と煙の如く立ち込めて、ベンチ上から彼の姿を隠してしまう。
 どうなったのか分からなくて、発作的にスガタも立ち上がった。
 賑やかだったグラウンドの周囲もが、固唾を飲んで沈黙を保った。
 アウトカウントは既にふたつ。ここでタクトが進塁を阻止されたら、チェンジだ。
 静まり返るグラウンドの靄は、十秒と経たず消えた。が、誰もがもっと長い時間、そこに土煙が経ち続けたように感じていた。
「アウト!」
 止まっていた時を動かしたのは、塁審の怒号だった。
 タクトの足はベースに到達していた。だがタッチの差で、間に合わなかった。
 振り上げられた審判の右腕に、片方のチームは沸き返り、もう片方のチームはがっくり項垂れた。
「あー、あぁ」
 ルリが見るからにガッカリした様子で天を仰いだ。一方ワコは、眉間の皺をそのままに、更に身を乗り出して口を尖らせた。
 彼女が何を気にしているのか、スガタも即座に理解した。
 タクトがベース上で倒れたままなのだ。
「どうしたんだろう」
「タクト」
 土煙の中から現れた彼は、左足を抱えてベンチに背中を向けていた。表情は分からないけれど、なかなか起き上がらないところからして、足でも捻ったのだろう。
 彼の異常に気付いたマリノ、ミズノ、それにタイガーの三人が二塁ベースへと駆け寄っていく。ワコも心配そうにしながら、ベンチの中をうろうろし始めた。
 その横を抜け、スガタは無言でグラウンドに足を踏み出した。
「スガタ君?」
 黙って歩き出した彼に首を傾げ、ワコが手を伸ばそうとして途中で止めた。彼が真っ直ぐに二塁上の、タクトの元を目指して歩いているのが分かったからだ。
「タクト君、大丈夫?」
 ミズノの声が彼の耳にも届いた。蹲ったタクトは、大丈夫だと愛想よく返事をしつつも、赤くなった左膝を抱えて苦悶に満ちた表情を作った。
 スライディングの後、二塁手の足に踏まれた。スパイクでなかったのは幸いだが、小石を咬んだ靴裏に皮膚が削られて、土汚れの下からじんわりと赤い血が滲んでいた。
「立てる?」
 マリノもしゃがんでいる彼を見下ろして問いかける。その右隣で、帽子を胸に抱いたタイガーがはっ、として背筋を伸ばした。
 スガタが道を塞いでいたミズノの肩を掴み、そっと横へと押し出す。
「スガタ」
「大丈夫か、タクト」
「ああ、悪い。ちょっと肩、貸してくれるか?」
 女子の手を借りるには、身長差があるのもあって心許ない。ナイスタイミングで現れた頼れる友人に彼は顔を綻ばせ、彼は傷を負った脚を庇いながら右腕を伸ばした。
 スガタは集まっている女子と、そしてギャラリーとを順に見て、最後にタクトだけに向かって微笑んだ。
「仕方が無いな」
 そう囁いて、スッと音もなく屈みこむ。空の両手を広げてタクトへと腕を伸ばして、そして。
 きょとんとする彼の背と腰に腕を回し、一気に抱き上げた。
 重力から解放され、ふわりと浮き上がった自分に驚き、タクトは目を見開いた。
「――え? って、おい。ちょっと!」
 肩を貸してくれるだけでよかったのに、あろうことかスガタは同い年の男子である筈のタクトを軽々抱えあげた。俗に言う姫抱っこをされた方は瞬時に顔を真っ赤にして、どうにか逃げ出そうとじたばた暴れ始める。
「動くな。落ちると危ない」
「いや。いや、待てって。別に俺は!」
 大体、膝をちょっとすりむいただけだ。骨が折れたわけでもなく、痛みもそのうちに消えてなくなる。
 こんな風に大袈裟にされる覚えはなくて、タクトはスガタの後ろ髪を掴むと、下ろすよう訴えて力一杯引っ張った。
 だのにそれを涼しい顔をして受け流してしまった彼は、唖然とする残りの女子らにもにっこり微笑んで、おもむろにベンチに向かって歩き出した。
 重いだろうに足取りに乱れはなく、悠然としている。
「うわぁ……」
 ベンチで見守っていたクラスメイトらも唖然として、近付いて来る彼らに顔を引き攣らせた。
「下ろせ。下ろせってばー!」
 ひとり楽しげにしているスガタと。
 必死に喚き散らしているタクトと。
 彼らを収めたこの日の写真は、後日南十字学園で、高額で取引されたという。

2010/12/08 脱稿