内訌

 風はなかった。
 だけれど確かに、頬を撫でる空気の流れがあった。
 或いは直感だったのかもしれない。ブラッド・オブ・ボンゴレなどというご大層な名前がつけられたものとは、天と地ほどの差があるものだけれども。
「……来るのかな」
 ぽつりと呟き、彼は紙面に突き立てていたペンを置いた。先が潰れてしまわぬよう丁寧に扱って、まだ乾いていないインクが擦れないようにしながら紙を左へと追い遣る。角度を変えて今一度サインの形状を確かめて、机の傍らに控えていた大男へと差し出す。
 草壁は黙って受け取って、天地を正しくして持ち変えると、仰々しく頭を垂れた。
「お疲れ様です」
 先ほどの独り言は聞こえていたはずだが、聞かなかったものとして内々に処理されたらしい。流石に付き合いも十年を越えているので、余計な口出しをして不興を買う愚行はしないよう、心がけているのだろう。
 畏まった彼を一瞥し、雲雀は万年筆をペン立てに戻して肩を竦めた。
「後は任せるよ」
「承知しました」
 恭しい態度で頷いた草壁は、託されたばかりの重要書類をこげ茶色の角盆に載せて両手で持ち上げた。仰々しいポーズを決めて歩き出した彼の背中を見送って、雲雀は役目を終えたインク壷に蓋をした。
 中身が零れないようにしっかりと栓をして、引き出しを開けて定位置に収める。それなりに深みのある、幅広の抽斗ではあるが、あまり使用頻度は高くないようで、奥側半分は空っぽだった。
 手前側ではホッチキスやカッターナイフ等が黒色の仕切りの中で理路整然と並び、次の出番を心待ちにしていた。けれど残念ながら、これから先も当分、彼らの出動はなさそうだ。
 静かに引き出しを戻し、彼はすっかり片付いた机に頬杖をついた。
「ん、喉が渇いたな」
 ひと仕事終えて、肩の荷が下りた。これで今日の午後は、火急の案件が飛び込んでこない限り、ゆっくり過ごせそうだ。
 形良く結んだネクタイの上から喉を撫で、唾を飲んで呟く。椅子を引いて立ち上がった彼は、先ほど感じた奇妙な感覚に心持ち胸を弾ませて、草壁が閉めた扉の向こうに意識を傾けた。
 紅茶にするか、コーヒーにするか。それとも寒い時期だから、甘いココアにするべきか。
 色々と取り揃えられている簡易キッチンへ向かうべく右の踵を浮かせたところで、彼の耳に、ドタドタという激しい足音が届けられた。
 草壁のものらしき叫び声も聞こえた。思ったよりも早い到着に彼は肩を竦め、間もなく開くだろうドアを振り返った。
 そして。
「ヒバリさん!」
 大絶叫と共に、扉が打ち破られた。
 勢い良く内側に開き、行き着くところまで行って戻って来た分厚い一枚板がまた押し返される。荒々しい足取りで中に入って来た青年は、全力疾走の余波かぜいはぁと肩で息をして、ふらついてドアノブにしがみ付いた。
 崩れそうになった膝を叱咤して二本足で体重を支え、後ろから追いかけて来た巨体を拒絶して、開けたばかりのドアを閉める。バタン、と地響きのような音に紛れてしまい、顔を覗かせた草壁の声は、雲雀には聞こえなかった。
 急な来訪に驚いている様子だった。ただあの男のことだから、真っ先に心配したのは茶菓子の用意をしていないこと、くらいだろう。
 何故彼が今日、前触れもなしにやって来たのか。その辺の理由もまた、草壁の中では触れてはならない事、として処理されるに違いない。
 伊達に十年以上、雲雀恭弥に付き従っていない。そしてなまじ十年間、沢田綱吉という人物を間近で見てきたわけではない。
 これまでの喧騒が嘘のように静まり返った空間に、綱吉の荒々しい呼吸音だけが響き渡る。時々大きく肩が跳ね上がるのは、唾を飲み込んでいるからだろう。
 執務室入り口から見て右手に佇んでいた雲雀は、不意に顔を上げた彼に鋭い眼差しを向けられて、怪訝に眉を顰めた。
 怒号と共に入って来たところからして、機嫌はあまり宜しくないようだ。温厚な性格をしている彼にしては珍しいと思いつつ、雲雀は右手を腰に据え、いつまでも入り口を塞いでいないで、こちらに来るよう手招いた。
「どうしたの、今日は」
 その上で来訪の用件を問うた彼をキッと睨み、綱吉は握った拳を振り翳した。
「どうしたもこうしたもないでしょう!」
 空気を殴りつけた彼の罵声に眉間の皺を深め、雲雀が口を尖らせる。左手の人差し指を耳の穴に突き刺した彼の、無言の抗議にも腹を立てて、綱吉はその場で地団太を踏み、後方のドアを力任せに叩いた。
 本人も痛かったようで、膨れ上がっていた怒気が、一瞬だけ萎えた。
「だから、どうしたの」
 あんなひと言では、綱吉が怒っている理由など分かるわけが無い。説明を求めた雲雀を力いっぱいねめつけて、彼は大股で部屋の中央へ歩み寄り、置かれていた重厚なソファにどっかり腰を下ろした。
 不機嫌そうに膝の上で両手を組み、親指を絶えず動かしてちらちらと人の様子を窺い続ける。
 自分からは教えるつもりはない、というポーズに、雲雀は嘆息した。
 心当たりは幾つかあった。そのうちのどれか、が原因である可能性が高いのだけれど、果たしてどれが相当するのかについては、ノーヒントなので予想がつかない。
 下手にハズレを引き当てでもしたら、綱吉の機嫌は余計に悪くなること請け合いだ。
 彼が唐突に訪ねてくる、そう直感したまでは良かった。残念ながら頭に思い浮かべた候補のうち、どれひとつとしてピンと来るものがなくて、迂闊に口を開くのもままならない雲雀は、最後の手段として黙り込んだ。
 立った者と座った者と、無言の睨み合いが十数秒間続いた。
「……どういうことですか」
「だから、何が」
 先に痺れを切らしたのは、ソファで貧乏揺すりをしていた綱吉だった。
 辛抱が足らないのは昔からだ。久方ぶりに部屋に流れた音声に心持ちホッとして、雲雀が右の掌を上にして問いかける。綱吉は肩幅に足を広げ、結んだままの手をそこに落とした。
 背筋を伸ばした彼の動きに合わせ、天を向いて逆立った髪の毛がそよそよと揺れた。
 豊かに実った小麦畑を思わせる色合いは、遠く離れた異国の島を否応無しに思い出させた。
 ヨーロッパの穀物庫と言わせしめる程の広大な農地を有するシリチア島は、地中海に浮かぶあの交通の要所というのも相俟って、紀元前の頃より幾多の戦乱を経験してきた。度々支配者が変わり、その都度富を貪る強欲な権力者の暴挙によって、島民は長く迫害され続けてきた。
 それ故に、彼の島の人々の団結力は強い。余所者を認めず、内に篭もり、ひたすら圧政に耐える。我慢強く、寡黙で、何よりも誇りを大事にする組織は、そういう地盤だからこそ生まれたのだろう。
 だからシチリアから遠く離れた日本で生まれ育った綱吉には、本来マフィアに備わっているべき重要な要素が、幾つか欠けていた。
 忍耐力もそのひとつだ。
 早々に白旗を上げた彼に肩を竦め、雲雀は甘そうな琥珀色の瞳に相好を崩した。
 が、途端に般若の形相で睨み返されて、彼はムッと下唇を突き出した。
「どうしてなんですか」
 堂々巡りの問いかけがまたも繰り返されて、鬱陶しくて仕方が無い。答えて欲しければ、きちんと主語、述語を使ってちゃんとした文章を作り上げるべきだ。
 中学時代の彼の国語の成績を思い出して、雲雀は疲れた形相で顔を伏した。
 額に手をやって短くした前髪を掻き上げる。涼しげな、見ようによっては冷たく感じられる黒光りした双眸に見据えられて、綱吉は座ったまたじたばた足を動かし、己の膝を殴った。
「だから」
「はっきり言いなよ」
「年末年始の!」
「……?」
 じれったく言葉を切った綱吉を急かし、腕を組んで胸を反らす。居丈高に構えた彼を恨めしげに見やって、綱吉は広げた手をソファの座面に沈めた。
 身を乗り出した彼の気迫の篭もった眼差しとは対照的に、雲雀は不思議そうに目を丸くした。
「年末?」
 考えていたのとはまるで異なる話題を提示されて、思考が一旦停止した。
 怪訝そうに呟き、小首を傾げて口を閉ざす。考え込んでしまった彼に苛立ちを深めて、綱吉はもう一発、今度は背凭れ部分を肘で殴った。
 座っている自身が重石になって、ソファ自体は傾かない。だが上にいた人間は、柔らかい座面に膝を立てていたのもあって、容易くバランスを崩してつんのめった。
 顎から沈んだ綱吉の手が、ぱたりと力なく落ちていった。二十四にもなって情けない様を晒した彼を笑う気にもなれず、雲雀は溜息を連発させて、今年最後のスケジュールを脳裏に呼び出した。
 大晦日から元日にかけて、彼は日本で、盛大な宴を催す予定でいた。
 風紀財団の幹部に始まり、土台を支えている末端の構成員も全て招待する。既に会場は確保しており、招待状も出した後だ。面倒臭い事務仕事は草壁の十八番で、特に五月蝿く言わずとも動いてくれるので有り難い限りだ。
 宴の主催は当然雲雀で、主賓も、来客も、全て風紀財団に関わる人間で統一させていた。慰労の意味合いが大きいので、関係者以外は基本、立ち入り禁止だ。
 故にボンゴレに属する沢田綱吉には、招待状は出さなかった。
 招待する道理もない。だから伝えてもいなかった。
「俺、聞いてません」
「言う必要なんてないだろう?」
 綱吉はイタリアマフィアのボンゴレファミリー十代目で、雲雀は風紀財団の首魁だ。籍を置く組織からして違う。
 両者は協力関係にはあっても、依存はしない。介入も許されない。
 さらりと言葉を返した雲雀に頬を膨らませ、綱吉は身を起こしてソファの上で正座した。狭い場所で小さくなって、不貞腐れた顔をして、大粒の目を横に平らに引き伸ばす。
 面白い顔だが、笑ったら引っかかれるどころでは済みそうにない。
 咳払いをして誤魔化して、雲雀は喉の違和感を思い出してネクタイを捩じった。
 結び目に指を入れて緩め、呼吸を楽にして襟の内側に指を入れる。喉仏を撫でた彼は、綱吉が部屋に来る前に何をしようとしていたのかも思い出して、爪先で床を叩いた。
 歩き出した彼を目で追って、綱吉は背中を丸め、ソファに寝転がった。
 足を下ろし、肘掛けに両手を添えて、間に顎を置く。だらしなく身体を斜めに崩した彼を横目で見やり、雲雀は執務室の片隅に設けられた簡易キッチンに手を伸ばした。
 もっともキッチンとは名ばかりで、単に湯を沸かすポットと、陶器のカップその他諸々が集められただけの空間でしかない。
 彼は湯の残量を確かめると、再沸騰のボタンを押して戸棚のガラスを横に滑らせた。
「それに、僕だって君の年末の予定、聞いてないよ」
 応接セットに背を向けて、ふたつ揃いのカップを選んで取り出す。
 自分ばかりが責められるのはアンフェアで、少しだけ言葉に棘を潜ませて言い返す。
「空っぽです!」
 瞬間耳を劈く大声にびくりとして、彼は高価な茶器を取り落としそうになった。
 青い尾羽の鳥の絵柄が可愛らしいカップをお手玉して、身を屈めた雲雀が顔を歪めて振り返る。冷や汗を流した彼が見たのは、起き上がって鼻息荒くしている綱吉の姿だった。
「から?」
 頭の上を駆け抜けて行った台詞に目を瞬き、予想外の返答に唖然とする。
 から。空。
 予定は真っ白。
 つまるところ、フリー。
 正月とは本来、年に一度何もしないで過ごす晴れの日だ。竃も休めて、火を焚かない。だからおせち料理なるものが出来た。
 ところが近年はなにかとイベントが盛り沢山で、これを機会に騒ぎたい馬鹿が増える。ドンちゃん騒ぎをするのにも理由が必要で、正月はそういう連中の格好のターゲットにされた。
 マフィアにもお祭り好きがいる。しかもボンゴレには、あまり趣味が宜しく無いボンゴリアンパーティーなるものが伝わっていると聞く。
 そういう組織が、よりによって十代目を参加者から弾くだろうか。
 分からない顔をしていたら、綱吉が頭に血を登らせてソファの上で飛びあがった。
「俺、無茶苦茶! 頑張って! 休み、もぎ取ったのに!」
 一言一句区切りながら声を張り上げる綱吉の目は、感極まったのか次第に潤んでいった。
 年末年始の二日間を休むために、彼がどれだけ苦労したかは想像に難くない。超多忙を極める十代目は、毎日が戦場だった。
 学生時代ののほほんとした生活が懐かしいと、過去に幾度となく愚痴を聞かされている。けれど彼は絶対に諦めなかったし、投げ出したりはしなかった。
 もっとも意気込みはよくとも、彼の頭ではどうにも仕事が追いつかない。
 故に毎年のように冬の休暇を仕事で潰して、雲雀を呆れさせた。
「連絡が何もなかったから」
 そんな事が四、五年続いたものだから、今年もそうなると思い込んでいた。なにより去年まであった、「正月はどうやって過ごすのか」という問いかけが、今年はどれだけ待っても来なかった。
 だから綱吉の予定はもう埋まってしまっているものと判断して、雲雀は自分の計画を立てた。
 宴を実施するのに、早く決断してしまいたかったのもある。無論、ボンゴレからの横槍が、この段階で入っていたならば、風紀財団主催の盛大な催しは中止か、延期になっていただろう。
「休み取るのに必死だったから、それは」
「先にひと言、そう言ってくれればよかったじゃない」
「確実に取れるようになってから、連絡したかったんです」
 去年も一昨年も、綱吉は失敗している。折角雲雀が用意してくれたおせち料理も、旅行の計画も、全て直前でキャンセルになった。
 彼は特に怒らず、理解を示してくれたけれど、落胆振りは容易に知れた。
 そのうち呆れるだけでなく、見捨てられるのではないかと思うと恐かった。だから今年はぎりぎりまで粘り、年末進行の予定が立ってから伝えようと、そう決めていた。
 だというのに、雲雀は先に財団の予定を入れてしまった。
 状況は多少違うが、昨年までと立場が逆転した。ひとりで過ごす正月ほど味気ないものはなくて、綱吉は膨れ面でソファに腰を沈め、膝を寄せて丸くなった。
 拗ねている青年に肩を竦め、雲雀は握りっ放しだったカップを棚に置いた。
「勝手だね」
「ヒバリさんこそ」
「僕がどんな思いで年を越して来たか、よく考えるといいよ」
「…………」
 静かに、けれど刺々しい口調で言われて、綱吉は即座に反発した。
 だが彼の言い分も重々承知しているので、強く言い返せない。雲雀だって忙しいのに、毎年律儀に、綱吉の為だけに予定を空けてくれていたのだ。
 それを綱吉は、自分の都合で台無しにしてきた。
 怒らせた。
 不愉快だと告げるオーラを敏感に感じ取って、綱吉は膝の間に顔を埋めた。
 同じ失敗は今度こそ繰り返さないと決めていたのに、雲雀の方か休暇の終了を告げられてしまった。
 行けなかった温泉に行って、美味しい料理を食べて、夜遅くまで飲み明かして、温かな腕に包まれて至福の眠りに就く。その辺にいる呑気なカップルならなんの障害もなく出来る事が、彼らにはとても難しい。
 もう長いこと肌を触れ合わせていないのさえ思い出して、綱吉は鼻を愚図らせ、目を閉じた。
 今年はのんびり出来ると喜んでいたら、家庭教師役の男から嫌味を貰った。風紀財団は年末年始も忙しそうなのにな、という他愛もないひと言が引っかかって直ぐに調べさせたら、リボーンの言う通りで。
 寝耳に水の事実に唖然として、いてもたってもいられなくて飛び出して来てしまった。
 戻ったら説教が待っている。それを考えるだけでも気が重いのに、ここにきて雲雀まで不機嫌にさせてしまった。
 袋小路に突入した途端、反発する心は一気に萎んだ。枯れた花のようにくたっと折れ曲がって、頭を垂れて土に還るのを待つばかり。
「まったく」
 いつから綱吉の方が一方的に物を言ってくるようになったのか。形勢が逆転した明確な時期は、雲雀にも分からない。
 昔はこちらが何も言わない限り動こうとせず、言っても怯えるだけの受身だった彼が、十年で随分と変わった。それが良いのか、悪いのかについては、判断に困るのだけれど。
 淹れ立てのコーヒーから立ち上る芳しい香りを楽しみ、雲雀は嘆息した。
 足音を立てないようにして、待ち望んだ飲み物を手に、応接セットの傍へと舞い戻る。
 完全に落ち込んで、不貞腐れている綱吉の足を蹴って、彼が顔を上げる前に隣の狭いスペースに腰を落とす。
 若干幅が足りなくて、隙間を広げようと身を捩っているうちに、綱吉は逃げるようにして離れて行った。
「なにするんですか」
「ん」
 テーブルの対岸にはもうひとつ、一人掛けのソファが置かれていた。そちらは無人で、座るに充分な空間が確保されていた。
 なにもわざわざ狭苦しいところに潜りこまずとも良いものを。声を大にして叫んだ綱吉にある種の憐憫の目を向けて、雲雀は左手に持っていたカップを差し出した。
 眼前に突きつけられて、ぶちまけられる恐怖に負けた彼は、大人しくそれを両手で受け止めた。
 地面から顔を出した穴ウサギが、鼻をひくひくさせている。写真のような絵柄に思わず見蕩れてしまって、ハッと我に返った彼は温かい匂いに唾を飲み込んだ。
 どうやら自覚ないままに、喉が渇いていたらしい。鼻腔を擽る甘いチョコレートの香りに心惹かれ、彼は濃い茶色の液体に唇を寄せた。
 息を吹きかけて湯気を追い払い、ひとくち、啜る。
「大体君は、計画性って物がなさ過ぎる。自分の仕事量と、一日に捌ける量がちゃんと分かってないから、こんな事になるんだよ」
「ぐ」
「昔から、試験前になって慌てて勉強を始めるような子だったしね。そんな悪足掻きをしたところで、身に着かないことくらい、いい加減理解すれば?」
 刹那、三十センチほどの距離を挟んで隣に座った雲雀が、ソファの上で身じろいで言った。
 長い脚を見せびらかすように組み、尻を浮かせて居心地の良い場所を探し出して座り直す。震動が伝わって来た綱吉は、喉を焼いた熱い液体に噎せて咳込んだ。
 続けざまに発せられた嫌味がチクチク刺さって、まるで針の筵だ。しかもどれもこれも真実なので、下手に反論も出来ない。
 ぐうの音も出なくなった彼を横目で盗み見て、雲雀は砂糖もミルクも入っていない、苦いだけのコーヒーを啜った。
 息継ぎの合間に脚を組み替え、左を上にしてつま先をブラブラ揺らす。綱吉は愛用のカップを両手で包み込むと、悴んだ指に熱を伝えて、時間をかけて強張りを解いていった。
 ふたりして他所を向き合い、言葉を交わしもせずに沈黙を保つ。
「だって……」
 それを破ったのは、またしても綱吉だった。
 カップの縁を親指で擦り、表面に残っていた唇の跡を掻き消して、俯く。波紋を描く水面に自分の顔を映し出した彼は、続かなくなった言葉を捜して視線を泳がせ、左に首を回した。
 雲雀がじっと、涼やかな目で彼を見ていた。
 目が合ったと知り、彼はふっ、と表情を和らげると共にコーヒーに口をつけ、左肘を引いて背凭れに引っ掛けた。背中を倒して身を預け、斜め上の天井を仰いで脚の上下を入れ替える。
 ズズズ、という音を聞いて、綱吉は居た堪れない気持ちになった。
「君の部下にならなくて正解だったよ」
「守護者のみんなは別に、部下とか、そういうのじゃ」
 獄寺達は仲間だと言い張る綱吉だけれど、実際のところ、現状の彼らはほぼ綱吉の手足だった。
 仕事が遅く、なにかとミスの多い綱吉を補佐し、時には職務を代行して、昼夜を問わず世界各地を駆けずり回っている。その辺のサラリーマンよりもよっぽど多忙な日々を送っている彼らを順に思い起こし、綱吉はその輪から外れた青年を盗み見た。
 皆に申し訳ないと常々思いながら、結局仲間の手を煩わせてばかりの毎日だ。若い頃から組織を率い、頂点に君臨していた男がもし傍に居てくれたらと思うことも、多々あった。
 だけれど雲雀には、直接きっぱりと、御免被ると言われてしまっていた。
「意地悪」
「……なに?」
 当時のやり取りを思い出して頬を膨らませ、綱吉は残っていたココアを一気に飲み干した。
 まだ熱かったので、喉や唇が少しヒリヒリした。けれど胸の中に蟠っている圧迫感の方がよっぽど辛くて、彼はボソリと零すと、反応した雲雀から顔を背けた。
 振り上げた踵でソファを蹴り、薄く焼き上げられたカップを押し潰さん勢いで握り締める。
「ケチ。分からず屋。心が狭い。我が儘。自分勝手。裸の王様」
 思いつく限りの悪口を次々挙げて、横から立ち上る怒りのオーラを受け流す。
 綱吉の仕事が遅いのは昔からで、雲雀だって知っていた。彼がボス業を継いだ時、こうなる結果も見えていたはずだ。
 だのに文句ばかり言って、ちっとも手伝ってくれない。風紀財団の助力があれば軽く片付いた仕事だって、それなりの数に登っていた。
「俺だって頑張ってるのに」
 その頑張った結果が、年末年始にもぎ取った休暇だ。
 もっと褒めてくれてもいい。久しぶりに肩を並べて年を越せたかもしれないのに、雲雀は嬉しくないのだろうか。
 好いているのは自分だけの気がして来て、綱吉は悲しくなって鼻を愚図らせた。
 怒り顔が瞬く間に泣き顔に変貌するのを見送って、雲雀は咥内に残る苦味を、少し温くなったコーヒーで押し流した。
 カップに湯を注ぎ足してもいなければ、砂糖を入れたわけでもない。だのに何故か、黒い液体はほんのり甘かった。
「で」
 空になった容器を膝に置き、雲雀は肩の力を抜いた。落とさないように人差し指を引っ掛けて、斜めに傾いたそれを反対の手で弾く。ゆらゆらと当て所なく揺れるそれに目を細め、彼は口角を歪めて笑った。
 不穏な気配を感じ取り、綱吉はソファの上で身構えた。
「その頑張っている君は、此処でいったい、何をしているのかな?」
 冴え冴えとした瞳に見詰められて、綱吉は息を飲み、カップを取りこぼしそうになった。
 午前の分はひと段落したとはいえ、午後の予定はぎっちり詰まっていた。夕食まで手を抜いていられる暇はない。食後も何件か、時差が違う地域との定期連絡があるので席を外すわけにはいかない。
 だが綱吉の現在地は、何処だ。
 ボンゴレのアジトではない。
「ヒバリさんの、馬鹿!」
 遣るべき事を放り出してきた綱吉は、当てこすられて憤慨した。
 そもそも誰の所為でこうなったのか、じっくり問い質してやりたい。雲雀が先走らず、ちょっと確認を求めて来てくれさえすれば、予定がバッティングすることはなかったのだ。
 怒声を張り上げた綱吉が、勢い任せに大事なカップをテーブルに叩き付けた。
 ひ弱そうに見えて、案外頑丈だ。ヒビのひとつも入らずに耐えたカップに肩を並べる格好で、雲雀も手持ちの陶器を置いた。
 馬鹿に馬鹿と言われるのはなんとも腹立たしい。盛大な溜息と共に脱力した彼は、額に掛かる短い前髪を掻き上げ、背筋を伸ばした。
「君は一日サボると、取り返すのに二日掛かる子だからね」
 これ見よがしに嫌味を呟き、両手を広げて背凭れにより掛かる。自慢にも聞こえる彼の言葉に綱吉はぶすっとして、揃えた膝を両手で握り締めた。
「ヒバリさんは」
「僕は今日の分はもう終わったよ」
 悔し紛れに何か言ってやろうとしたら、先手を打たれてしまった。綱吉の反論をあっさり封じ込めた青年は、したり顔をして目を眇め、居心地悪そうに小さくなっている綱吉に意味ありげに微笑んだ。
 誰かと違って優秀だと言いたいのか。胃の辺りがむかむかしてならず、臍を曲げた綱吉の頭をポン、と叩き、雲雀は顎をしゃくって壁の時計を示した。
 日付が変わる深夜零時を区切りとするなら、今日はまだ半分近く残っていた。
 さっさと現実に立ち返り、自分の状況を弁えて職場に戻れ。そう言われた気がしてむすっとした綱吉の頬を小突き、雲雀は呵々と笑って膝を伸ばした。
 上物のスーツの皺を伸ばして立ち上がり、使用済みのカップをふたつ、当たり前のように持って背を向ける。
「だから君は、今日の分の仕事を後ろ倒しにするといいよ。年末の休みを使えば、帳消しに出来るだろう」
 そうしてなんでもないように告げて、振り返りもせずに歩き出した。
 頭の上を流れて行った台詞が誰に向かって発せられたものなのか、それすらも上手に理解出来なかった綱吉は、通り過ぎて煙の如く消える寸前だった言葉を慌てて引っ張り戻し、少ない脳みその中に押し込んで攪拌させた。
 言葉のひとつひとつを細切れにして飲み込み、活性化した体細胞が発する熱に汗を流す。
「え?」
 皮肉や嫌味が常套句と化している雲雀の、遠回しすぎるアプローチに気がついた時にはもう、彼は部屋を出て行った後だった。
 静かに閉ざされた扉を呆然と見送って、綱吉はソファの上で丸くなり、暫くして幸せそうに頬を緩めた。

 キッチンに向かって歩いていた雲雀は、向かいからやって来る草壁に気付き、足を止めた。
 用無しとなったカップをふたつ、顔の横で揺らした彼の合図に歩調を緩め、草壁もまた廊下で立ち止まり、手にしていたものを厳かに差し出した。
「あと、夕飯も頼むよ」
「……宜しいので?」
「向こうが何か言って来たら、遅れた分は風紀財団が責任を持って片付けると伝えて」
 銀の取っ手がついた長方形のプレートには、保温用のケープに包まれたティーポットに砂時計、空のカップがふたつと、焼き菓子の詰まった大皿が順序良く並べられていた。
 砂時計の残りはあと僅かだから、随分と用意周到だ。
 出て行くタイミングを窺っていただろう男の苦労に思いを馳せて、雲雀は手にしていたものを一旦プレートに置き、そのすべてを引き取った。
 両手が空になった草壁が、今度は雲雀の運んで来たものを手元に引き寄せる。
 淡々と、抑揚なく告げた雲雀の口調からは、感情が読み取り辛い。ただ長年の勘で、機嫌は上々と判断し、草壁は一寸遠慮がちに主人たる青年を見詰めた。
「なに?」
「ああ、いえ。てっきり喧嘩なさっていたのでは、と」
「どうして?」
 怒鳴り込んできた時の綱吉の気勢は、凄まじかった。彼に殴り破られたドアは半壊状態で、つい先ほど修繕の人間を呼んだばかりだ。
 こういう事は過去にも何度かあった。あのふたりが取っ組み合いの喧嘩を始めた場合、最悪屋敷の屋根が吹き飛ぶのも覚悟しなければいけない。
 ところが今日は随分と静かだった。綱吉の怒鳴り声は何度か廊下にも響いてきたものの、大出費を覚悟していた損害は玄関のドアひとつで済みそうだ。
 どうやってあの綱吉をいなしたのか。少なからず興味が沸いて問うた草壁だったが、返って来た雲雀の答えは、彼の予想をはるかに越えていた。
 不思議そうに聞き返されて、草壁はぎょっとした。
「どうしてと、言われましても。沢田さんは随分とお怒りのようでしたし」
 雲雀も気が長いほうではない。売り言葉に買い言葉で、直ぐに手を挙げたがる。
 過去の経験から殴り合いの喧嘩に発展すると読んでいた草壁にとって、部屋を出て来た雲雀がこんなにも穏やかな表情をしているのは予想外だった。
 怪訝に聞き返された草壁はしどろもどろに言葉を操り、小首を傾げている主人の後方に続く廊下を窺った。
「そう?」
「私にはそう見えましたが」
「いつもあんなじゃない。ああ、それから年越しの祝宴、三日に先送りできるかな」
「は? それはかなり難し……いえ。調整してみます」
 着々と準備が整いつつある祭事の突然の延期要請に、草壁は目を点にした。が、じろりと睨まれて慌てて言い直し、咳払いをして居住まいを正した。
 彼の返事に気を良くして、雲雀はずっしり重いプレートを抱えて踵を返した。飲み頃になっただろう紅茶を抱えて、意気揚々と歩き出す。
 草壁が見た綱吉は、今すぐにでも雲雀に殴りかかっていきそうな形相だった。それをいつも通りと断言した雲雀の懐の深さに感嘆してよいのかも分からず、彼は長いリーゼントを揺らし、言いつけられた手厳しい命令に頭を悩ませ、低く唸った。

2010/11/20 脱稿