天使の宿り木

「冗談よ」
 そう言ったワコが、磨りガラスの向こうで呆れたように手を振った。
 見事に踊らされたタクトは、右に、左に忙しなく視線を泳がせて、真っ赤に染め上がった顔と熱を持て余して恥ずかしげに身を捩った。
 彼女が脱衣所を出て行くのを待って、ガクリと膝を折って湯の中へ舞い戻る。足を寄せて三角座りをして、口元まで湯船の中に沈めてぶくぶくと息を吐く。
 耳まで赤くなっている彼を横目で窺い見て、スガタは堪えきれずにぷっ、と噴き出した。
「冗談に決まってるだろう」
「…………」
 クスクスと声を零し、肩を震わせて湯を波立たせた彼を睨んで、タクトは目の前に広がる爽やかな光景に唇を尖らせた。
 見事に遊ばれてしまった。笑いたければ好きにすればいい、と悔し紛れに呟いて、両手でお湯を掬って自分の顔にぶちまける。
 大量の雫を散らした彼に目を眇め、スガタは前髪から滴り落ちようとしている雫に焦点を移し替えた。
 遠くの景色がぼんやりと靄掛かったようになって、向かいに居たタクトの輪郭までもがあやふやになった。
 その彼が左右の手を重ね合わせ、さながら揉むように指を絡めて握り締める。
「くらえ!」
「うわっ」
 気付くのが一瞬遅れて、スガタは彼の手元から立ち上った水柱に咄嗟に腕を持ち上げた。
 しかし防御は間に合わず、敢え無く水鉄砲を喰らって、顔の右半分が水浸しになる。毛先から垂れ下がる雫の量も半端ない程に増えて、肌を滑り落ちて行く温い感触に、彼は奥歯を噛み締めた。
 悪戯が成功したタクトは、涼しげな表情を一変させたスガタを指差し、嬉しそうにケラケラ笑っていた。
「へへへ。ざまーみろ」
「ほう? 良いのか、タクト。王であるこの僕に、こんな事をして」
「……あれ?」
 勝ち誇ったように胸を張った彼を前に、スガタが静かに呟く。そのあまりにも不穏な気配に一抹の不安を覚え、タクトは頬を強張らせてヒクリと筋肉を痙攣させた。
 スガタの様子がおかしい。
 たかが顔に湯をぶちまけられた程度で、こんなにも人は怒るものだろうか。しかし彼から立ち上るオーラは他ならぬ怒り一色に染まっていて、タクトは薄ら寒いものを感じて、己を抱き締めた。
 さっきまで心地よく温泉に浸かっていた筈なのに、今は極寒の地に素っ裸で放り出された気分だ。浴槽で膝立ちになって首を振った彼は、広い浴槽でスガタとの距離を取るべく後退を計り、三歩目に至ること無く、伸びてきた腕に捕縛された。
「うわ」
「悪い子には、お仕置きをしなければいけないな」
「ちょ、ちょっと待てって。お前、急にキャラ変えんな!」
 手首を握られ、引っ張られる。つんのめったタクトはバランスを崩し、スガタの胸に顔面から突っ込んで行った。
 鍛え上げられた胸郭に鼻を潰され、瞬間的に仰け反って逃げようとしたが、片腕を囚われたままなので巧くいかない。しかも残る腕で腰を拘束されて、身動きすら取れなくなってしまった。
 それでも抗って暴れるが、水飛沫と湯気が大量生産されただけに終わった。
 上半身が斜めに傾いているので、体勢は危うい。支えがなければ、あっという間に水面に真っ逆さまだ。
 耳朶にスガタの吐息が掛かる。熱い。妙な緊張感に包まれて、タクトは身動いで水中を漂っていた左手で彼の脇腹を掴んだ。
 一寸だけ力を加えて押し返せば、意外なことに彼はあっさりと離れていった。
「スガ、タ?」
「タクト、お前」
 それが逆に怪しくて、怪訝に名前を呼んで唾を飲めば、俯いた彼が僅かに声を上擦らせた。
 南十字島の温泉は、無色透明だ。少しだけそれっぽい匂いがするけれど、殆ど気にならない。
 透明度の高い湯は波を打ち、ゆらゆらと揺れて中にある物の形を歪に変えていた。
「……なに」
 沈黙が不安を呼んで、タクトは息を呑んだ。
 怯えた感のある彼に視線を移し替え、スガタは柳眉を寄せて険しい表情を作った。
「お前、……勃ってないか」
「へ?」
 一瞬何を言われたのか分からなくて、タクトは目を点にした。
 再び下へ降りていったスガタの視線に応じ、タクトもまた俯いた。お互いに膝立ちで、肩幅に脚を広げた状態で停止している。激しかった波は次第に落ち着き、穏やかさを取り戻しつつあった。
 視界を邪魔していた障害物が取り除かれた先で待っていたのは、男のシンボルとも言うべき大事な器官だった。
「――ヒイッ!」
 今になってようやくスガタの発言の意味を理解して、彼は左手を下向けて頭の先まで湯船に沈めた。
 ドボン、と勢い良い音を残して消えたタクトに唖然として、スガタは二秒してからハッと息を吐き、空っぽになった利き手を嵐に襲われた浴槽に突っ込んだ。
 赤い髪の人魚姫を水中から引きずり出して、犬のようにブルブル首を振った彼から飛び散る雫に顔を顰める。
 スガタの腕を振り払ったタクトはぜいぜいと全身を使って息をして、茹で上がった蛸のような赤い顔でかぶりを振った。
「これ、これは、ちっ、ちがっ」
 そんなわけが無いと必死に主張するものの、声が裏返っており、全く説得力がない。両腕を交差させて胸の傷を覆い隠した彼に不敵な笑みを浮かべ、スガタは立ち上がると、座ったまま後ろに下がった彼との距離を一気に詰めた。
 ザッと大量の湯が滝の如く滴り落ちて、横殴りの朝日が彼の裸体を浮き彫りにする。同じ男でもほれぼれするくらいに均整の取れた肉体は、美術の教科書にあるような歴史ある彫像を思わせた。
 うっかり見惚れてしまったタクトの前を塞ぎ、スガタは彼に覆い被さるようにして身を屈めた。
「ワコの裸でも想像した?」
 ガラス越しに挑発行動を取った女性の名前を出され、大袈裟なくらいにスガタの瞳に動揺が走る。咄嗟に首を横に振ろうとした彼の顎を取り、動きを封じ込め、スガタは逃げられない距離から緋色の眼を覗き込んだ。
 燃え盛る炎、或いは空を夕焼けに染める太陽。
 そのふたつを連想させる双眸に自分の姿が映るのを確かめて、スガタは不遜に目を細めた。
「それとも、ジャガーやタイガーと一緒に風呂に入る、僕か?」
 意味ありげな囁きと共に耳朶に息を吹きかけられて、タクトの背中が粟立った。ぞくりとするものが駆け抜けて行って、正面を向いていられない。
「ちがっ」
 どちらでもないと言い張って、立ち塞がるスガタの胸を押し返したタクトが反転しようとして、失敗した。浴槽の底で足を滑らせて、超巨大な水柱を作り出す。
 津波を被ったスガタは呆気に取られて目をぱちくりさせた。
 頭から湯船に突っ込んで行った所為もあるだろう、尻がさながら島のように浮かんでいた。興味をそそられて試しに撫でてみたら、
「勝手に触るなぁ!」
 両手で下半身を覆い隠したタクトが、水面を真っ二つに切り裂いて怒鳴った。
 登場の仕方が、まるで怪獣映画かなにかのようだ。面白くて笑っていたら、今度は掌で掬った湯で反撃されて、スガタは益々声を大きくして彼に手を伸ばした。
 角に追い込まれた彼を難なく捕まえて、先程は触れるだけに終わった尻を鷲掴みにしてやる。瞬間、タクトの肩がビクリと跳ね上がった。
「こら」
「触って良いか?」
「触ってから訊く馬鹿が何処にいるんだよ」
「此処に居るが?」
 嫌みを言ったつもりだったのにしれっと言い返されて、タクトは言葉に詰まって視線を泳がせた。その間もスガタの手は双丘を動き回っており、人の集中力を阻害した。
 濡れた頬を頬に押し当てられて、戯れに耳を舐められる。後からちくりとした痛みがついてきて、咬まれたのだと彼は判断した。
「スガタ、おいってば」
「言わなかったか? お仕置きが必要だって」
 見えないところで身体をいじくり回されるのは、落ち着かない。昨晩の事まで思い出してしまって、彼は不意に下半身に訪れた熱に竦み上がった。
 青い海、もしくは果てしなく広がる大海原を思わせる青い髪を掴んで引っ張ってみるが、スガタはビクともせず、逆に動きを大胆なものに切り替えた。
 足の付け根をまさぐっていた手が太股の外側に回り込んだところで、タクトはぎょっとして湯船の中で飛び跳ねた。
 もっとも彼が動けたのは、たったの数ミリでしかなかった。
「やめ、……っ」
 嫌がって腰を引こうとしたけれど、一歩遅く間に合わない。
 頬を紅に染め、きつく瞼を閉ざして声を殺す彼を楽しげに見詰め、スガタは指先にそっと力を込めた。
 きゅっ、と緩くだが握り締めてやった瞬間、タクトは切なげに睫毛を震わせ、そこに引っかかっていた水滴を頬に零した。
 まるで涙のような儚い輝きに笑みを浮かべ、スガタはその哀れな雫を舌で拭い取ってやった。
「……スガタ」
 苦しげに名を呼ばれて、緋色の瞳を覗き込む。奥底に潜む確かな熱の存在を気取り、彼は蜜に誘われる蝶になった気分で甘い色をした唇にくちづけた。
 触れるだけで離れていった彼を目で追いかけて、タクトは首を振り、弱々しい力でスガタを押した。
「こんな、朝っぱら、から」
「朝も昼も、関係ないだろう?」
 愛しく思うものを愛でるのに、時間など関係ない。あっさり断言した彼に言葉を失い、タクトは意志薄弱な自分を心の片隅で呪った。
 この島に来てから知った感情と快楽が、彼の耳元で甘い囁きを繰り返していた。
 あれだけの時間を過ごしておきながら、まだ足りないと喘いでいる己の浅ましさにもひたすら悪態をついて、タクトは相変わらず人の下半身を好き勝手弄り回している男を睨み、その腕を引っ掻いた。
 突然の反抗に目を見開いたスガタから自身を取り戻して、一歩前に出て彼の胸元に飛び込む。
「タ……」
「全部お前の所為なんだから。責任取れよ、この馬鹿王様!」
 そもそも、最初に反応したのだって。
 思い出すだけで恥ずかしくて、誤魔化しに罵声をあげたタクトが涙目で伸び上がった。
 迫り来る影に怯んだスガタが逃げ腰になるのを追い掛け、自分からその唇に唇を押し当てる。
 彼がくれる柔らかなキスとはまるで違う、雑で荒っぽいくちづけにしかならなかったのを悔しく思いながら、タクトは彼ごと湯船の中にダイブした。
 

2010/11/28 脱稿