薬指の標本

 演劇部「夜間飛行」のメンバーは揃いも揃って美男美女揃い、というのもあって、学内のみならず、学外の人気も凄まじいものがあった。
 何度目か知れない、屋外での活動。皆とお揃いのジャージを身に纏ったタクトが中庭に姿を現した途端、何処からともなく黄色い、或いは野太い歓声が、学校内に木霊した。
「相変わらず、なんというか、みんな暇なんだなー」
 芝生が生い茂る中庭の両側には、白い外観の校舎が軒を連ねていた。各階にはベランダが設けられており、陽射しが心地よいのもあるので、多くの生徒がそこで日向ぼっこをしていた。
 もっとも、彼らの目的がそこで長閑に時を過ごすことであるわけがない。
「ま、いつも通りよ」
 毎回のように大勢の観客に見守れるのは、有り難いのだか、そうでないのだか良く分からない。そもそも人が屈伸したり、ラジオ体操に励んでいたりするところを見て、いったい何が楽しいのだろう。
 人から好かれるのは嬉しいけれど、度を過ぎられると疲れる。ある意味監視されているようなものなのだから、落ち着かなかった。
 ベランダに居並ぶ生徒らを左から右に眺め、タクトは困った顔をして頭を掻いた。
「こーら。そんな顔、しない」
 そこへすかさず、部長であるサリナの叱責が飛んだ。あっという間に距離を詰めて躙り寄り、人差し指を立ててぷんすかと煙を吐きながら、俳優ならば常に人に見られているのを意識して行動しろ、と激しく捲くし立てる。
「いや、俺。演劇部には入ったけど、そこまでするつもりは……」
「ダメ、タクト君。部長には逆らわない方が良いわよ」
 俳優など、テレビの中だけの存在だと思っていた。彼女のあまりの剣幕に頬を引き攣らせたタクトは、後ろから肩を叩いて囁いたワコに何度も頷いて返した。
 サリナはまだ言い足りない様子だったが、このままでは貴重な部活動の時間が削られてしまう。ワコとタイガーの説得に彼女は一応の理解をみせ、渋々承諾してタクトを解放した。
 物静かで知的、というサリナの印象を、百八十度入れ替える必要がありそうだ。
 ようやく解放されたタクトは冷や汗を拭い、眩しい太陽とその下に陣取る生徒らを交互に見て、肩を竦めた。
「タクト」
 名前を呼ばれ、彼は周囲の雑踏を意識の外へ追い払った。
 振り向けばそこには、青い髪をした青年が立っていた。タクトと同じ色のジャージを身に纏っているが、雰囲気は快活なタクトとは違い、心持ち静かで大人しい。
 だが彼に熱血漢なところがちゃんとあって、胸に秘めた思いは誰にも負けないくらいに強いというのを、タクトは知っている。
「やりますかー」
 手招かれ、彼は首を左右に振った。骨をコキコキ鳴らして、南十字島に来て初めて出来た友人の元へ歩み寄る。
 途端に一部から黄色い歓声があがったが、タクトは聞こえなかったフリをした。
「部長、今日は何から」
「んー、そうねえ。とりあえず発声練習に、柔軟でしょ」
 喧騒をシャットダウンした彼らの間には、余所者は易々と立ち入れない空気が出来上がっていた。その輪の中に自然に混ざり、タクトは指折り数えだしたサリナの手元を見詰めた。
 高等部からの編入組であるタクトは、そのずっと前から一緒だったほかのメンバーに比べ、部活動においては色々と遅れていた。
 少しでも早く追いつきたいという気持ちから真剣な表情を作っている彼に、スガタは嬉しそうに目を細めた。
 サリナの指示に従い、夜間飛行の面々はそれぞれ身体を伸ばしても互いの手や足がぶつからない距離を保ち、中庭の芝生に散っていった。
 この中庭は、演劇部の部室から結構な距離がある。部室の近くにも、全員が準備運動をするだけの広いスペースがあるにはあるのだが、奥まっており、日当たりもさほど宜しくない。
 わざわざ校舎の真ん中にある中庭まで出張してくる理由を、サリナはファンサービス、と言った。
「サービス、ねえ」
 応援してくれる人がいるというのは、確かに心強い。こうやって自分たちの存在を主張することによって、夜間飛行の知名度が上がるという恩恵も多大に含まれる。
 俳優なら常に笑顔で、人に見られているのを意識する。サリナの言葉を思い返し、タクトは腹から声を絞り出して息を吐いた。
 腹式呼吸も、未だ慣れない。皆よりも上手に回れるのは、今のところ身体の柔らかさと、機敏さだけだ。
 腹に押し当てていた手を下ろし、肩をぐるぐる回す。次はふたり一組になっての、ストレッチだ。
「宜しく頼む」
「任せとけ」
 そうしてタクトは、当たり前のように近づいて来たスガタに胸を叩いた。
 瞬間、またもやベランダの一部から姦しい歓声が湧き起こった。
 ワコがスガタ、或いはタクトと組む時もそれなりに騒がしくなるけれど、今回はそれとは別のグループが妙にはしゃいでいる。
「なんだ……?」
 携帯電話のカメラを多数向けられて、流石に気になったタクトは首を傾げた。しかしスガタは慣れているのか、それとも諦めているのか、妙に平然としており、逆に手を振って声に応えてみせた。
「始めるわよー」
 いつまでも賑わい続ける校舎に背を向けて、サリナが宣言する。スガタも姿勢を正し、タクトに向かって小さく一礼をしてからふたり一組の組み体操を開始した。
 互いの手を掴んで引っ張りあったり、背中を重ねて相手を担ぎ上げたり。
 去年までは部員が五人だったから、ひとりはみ出ることになる。その点でも入部してくれて嬉しい、とスガタが言っていたのを、タクトは全員が一斉に同じ動きをするのを見ながら、なんともなしに思い出した。
 続けて片方が芝生に座って足を広げ、もうひとりに背中を押してもらって身体を前に倒す。
「相変わらず、タクトは柔らかいな」
「羨ましいだろ」
「それは、ないな」
 しかしスガタの手を借りることなく、タクトは簡単に額が地面に擦るくらいまで上半身を倒してしまえた。大きく広げた左右の足にも腕を伸ばして、筋肉を解していく。
 これくらいのことなら朝飯前だと嘯いて、彼は得意げに言ってスガタの失笑を買った。
 馬鹿にされた気がしてむっとして、交替の為に立ち上がるべく柔らかな芝に左手を置く。
「いてっ」
 瞬間、薬指の先にチリッとした熱が走った。
 咄嗟に腕を引いて胸に抱きこみ、右手で掌を覆いこむ。突如上がった悲鳴は辺りにも響いており、ワコたちも何事かと振り返った。
 一番近くで聞いていたスガタが代表して彼の手元を覗き込み、薬指の第二関節に赤い筋が走っているのを確認する。
「草で切ったのか」
「みたいだ」
 指と草の縁が触れる角度が悪かったのだろう。皮膚に細い線が走り、間から赤い血が滲み出ていた。
 やり取りは聞こえずとも、額をつき合わせているふたりの様子から、校舎に居た面々も何かが起きたというのは感じ取ったようだ。再び騒々しくなった周囲にスガタはハッとした後に笑顔で手を振って、大事ではないと知らせて彼らを安心させた。
「痛むか」
 その一方で声を潜めて問い、綺麗に整った眉を顰める。
 タクトは逡巡の末、苦笑いで首を振った。
「いや。痛いけど、平気だし。これくらい、舐めてれば治るって」
「貸してみろ」
 これしきの傷、大騒ぎするほどでもない。出血だって酷くないし、放っておけばいずれ痛みも消えるだろう。
 そう言った彼に、スガタは手を差し出した。
 絆創膏でも持っているのだろうか。準備万端な友人に小さな感動を抱き、タクトは何の疑いもせず、彼に傷を負った左手を差し向けた。
 下から掬い取るように握られ、掌が重なり合う。思いの外熱いのに驚いてビクリとした瞬間、タクトの視界に青い影が走った。
 首を前に倒したスガタが、ほっそりとした目を閉ざして口を開く。
「え?」
 呆気に取られたタクトの薬指を、ぬるりとした温かな熱が包み込んだ。
「あっ」
 遠くから見守っていたワコたちを含め、スガタ以外の全員が凍りついた。
「……ン」
 ぴちゃり、という濡れた音は、タクトの耳にだけ響いた。
 一センチ弱の傷を丹念に舐めまわし、スガタが赤い舌を咥内に戻して満足げに微笑む。
 どこかうっとりとした表情で、彼が背筋を伸ばす。刹那、静まり返っていた校舎が爆発したかのように沸き返った。
「へ?」
 タクトが呆然としながら、スガタの唾液が残る指と、彼とを交互に見る。
 その彼は周囲の声援ににこやかに手を振り返しており、タクトは挙動不審に左右を見回した後、はたと我に返って全身を真っ赤に染め上げた。
 ジャガーがぷるぷる震えながら両手で口元を覆っている。ワコはほんのり頬を紅に染め、何故か彼らから遠ざかるべく後退を開始した。
 校舎の一角では騒々しいばかりの歓声があがっており、何事かと校舎内にいた生徒らまで顔を出してくる始末。
「え? あれ。なに。ねえ、今の何。なに、なに?」
 素っ頓狂な声をあげ、動揺激しいタクトが濡れている指を指し示しながら叫ぶ。
 ひとり微笑んでいるスガタと、冷静な顔をしていたサリナは、彼をじっと見てからふと顔を向き合わせた。
「なにって、そりゃあ」
「ファンサービス、でしょ?」
 至極あっさりと告げたふたりに唖然として。
「だからなんのー!?」
 意味が分からなくて大絶叫したタクトに、明確な答えを与えてくれる存在は。
 残念ながら、なかった。

2010/11/26 脱稿