夏時間の庭

 演劇部「夜間飛行」のメンバーには、男子はふたりしか存在しない。
 否、準部員を含めればその限りではないものの、正規部員だけで換算すると、ただふたりのみ、所属が許されていた。
「えっと、次は……」
 部長であるサリナから託されたメモに目を落とし、タクトは左手にぶら下げた紙袋を揺らした。彼の隣には、同じく「夜間飛行」に所属しているシンドウ・スガタの姿もあった。
「ああ、これなら彼処の」
「どれ?」
 手書きのメモ用紙を覗き込んだスガタが、地理に不慣れなタクトにも分かるようにと利き手を伸ばし、人差し指を東に向けた。指し示された方角に顔を向けたタクトは、散々握っては広げて、を繰り返された皺くちゃの紙を半分に折り畳み、該当する建物を見つけて鷹揚に頷いた。
 波止場近くに建てられた小洒落た外観を持つ一軒家の表には、スガタの言う通りの看板が掲げられていた。
「へー。色々あるんだな」
 こんな辺鄙な島なのに、という台詞は胸の奥にしまい込んで、タクトは青い髪を持つ青年の後ろに続き、足早に横断歩道を駆け抜けた。
 そのスガタの手にも、沢山の紙袋、及びビニール袋がぶら下がっていた。
 夜間飛行の部員は、女子が四名、男子が二名。そこに狐の副部長が加わって、六人と一匹で構成されている。もっとも副部長は人間ですらないので、戦力とは正直言い難い。
 そして女子は、団結すると強い。
 信号が赤に切り替わる前に車道を渡り終えて、タクトは肩に重くのし掛かる紙袋の中身に視線を落とした。
 中に入っているのは、島の工務店で購入したトンカチだ。そこに釘と、ネジと、それらを絞める為のドライバーその他云々も詰め込まれている。
 こんなもの、何に使うのかと問えば、大道具を作るに決まっているではないか、と当たり前のような顔をしてサリナに説教されてしまった。確かにそれは正しい答えに思われたが、なにも今、演じる演目も定まらぬうちから購入する必要があるのかどうかについては、教えて貰えなかった。
 それにこういった道具は代々演劇部に受け継がれており、新規に入手する必要もないように思われた。
「税金の無駄遣いだと思うんだけどー」
「何か言った?」
「いや、別に」
 古くなったから、というだけで買い換えたとは思えない。確実に、サリナは今後、タクトにも大工仕事を押しつけようとしている。
 その為にもタクト専用の道具を用意しておこうというのが、あの部長の考えなのだろう。
 思い巡らせているうちに憂鬱になって、タクトは心配そうに声を掛けてきたスガタに力なく手を振り返し、間近に迫った店に通じる道を急いだ。
 此処ではジャージ上下を買わされた。指定されたサイズは、しっかりタクトのものだった。
「部長って、何考えてるんだろ」
 自分を劇団員としてではなく、準部員同様の裏方に徹せさせるつもりなのだろうか。メモ書きに指示された通りの色を店員に用意して貰う間、タクトは天を仰ぎ、顔をヒクつかせた。
 そんな風に色々と打ちのめされている彼に苦笑を浮かべ、スガタは女子部員から押しつけられた買い物の残りを確かめるべく、彼からくしゃくしゃのメモ用紙を引き取った。
 用意を終えた店員が奥から出てくるのを見て、タクトは立ち上がった。預かってきた財布を広げ、領収書を貰うべく若い女性店員とひと言、二言会話を交わす。
 彼らのやりとりを遠くで眺め、スガタは何気なく顔を向けた、店の出入り口から見える景色に表情を曇らせた。
 数人の若い、色黒の男性が、ひとりの女性を取り囲んでなにやら話し込んでいた。
「お待たせ。……どうした?」
 会計を済ませたタクトが戻って来て、険しい顔つきをしているスガタに気付いて声を潜めた。彼が見ている方角に目を遣って、道端で言い争っている雰囲気の男女に口を尖らせる。
 南十字学園の制服を身に纏った女子は、道を塞ぐ男性らに何度も頭を下げると、鞄を大事そうに抱き抱え、一気に駆け出した。
「アイツら」
「止めておけ」
 取り交わされていた会話は、タクト達が居る場所まで響かない。だけれど雰囲気からは、あまり好意的でないやりとりがあったと十二分に伝わって来た。
 派手なシャツを身に纏い、ピアスやタトゥーで身体を装飾した男達は、女子生徒が走り去った方角に向かって頻りになにかを囃し立てていた。何の関係もないタクトでさえ、見ているだけで胸がむかむかする光景だった。
 前に出たがる彼の肩を押し返し、スガタは小さく舌打ちして、男達から顔を背けた。
「スガタ」
「放っておけ。観光客だ」
 あのまま奴らを放っておけば、また同じ事が起こる。
 涙ぐんでいた女子の横顔を思い返して歯軋りしたタクトを制し、スガタは珍しく感情的に、吐き捨てるように言って首を振った。
 南十字島は、本土より遠く離れた南の海に存在している。主な産業は水産と、観光。
 近くに豊かな漁場が幾つも存在しているけれど、今時それだけで島民全てを食べさせて行けるわけがない。
 だから、腹が立つけれど。あの男達のような観光客も、島に金を落とす大事な客。
 奥歯を噛み締めたスガタの横顔を見詰め、タクトはずっしり重くなった紙袋の持ち手を握り締めた。
 観光客。
 外から来た人間。
 余所者。
「……ごめん」
「タクト?」
 何に対して謝罪しているのか、タクト自身もよく分からなかった。けれど言わずにいられなくて口を開けば、案の定スガタに変な顔をされてしまった。
 照れ臭そうに笑い返し、彼はスガタが握ったままのメモ用紙を奪い取り、新しく出来た無数の皺を指で押してのばした。
 これでは、頼まれた買い出しが終わる前に、メモ自体が粉々に砕け散ってしまう。
「さっさと終わらせて、帰ろうぜ」
 見れば、先程の男達はもう波止場にはいなかった。
 港には無数のヨットが停泊していた。その大半が、島の外から来た人間の物だ。
 帰り道、日暮れが迫る海辺の道を歩きながら、スガタはそう教えてくれた。
 船と言えばワタナベ・カナコの大型旅客船が真っ先に思い浮かぶが、もっと小型の船も多数、この南十字島には停泊しているという。この島は珊瑚礁にも近く、ダイビングスポットが点在しているので、それを目的にやってくる人もかなりの数に上る。
 だが昔から島に暮らし、慎ましやかな日々を送る人々にとっては、外からやってきた人間は、島の自然を壊そうとしている風に見えるのだと。
「俺も?」
「いや、タクトは観光客じゃなくて、学生、……だろう?」
 話を聞くうちに段々憂鬱になって、タクトは遠くを見ながら呟いた。そこまで考えていなかったスガタは、少し前の自分の発言を思い返してハッとして、緩く首を振り、確かめるように言葉を紡いだ。
 タクトは何も、島を荒らそうと思ってやってきた訳ではない。だから波止場近くで見かけた男達のように、軽い気持ちで島の人々と接しているわけではない。
 静かに囁かれて、タクトは返答に窮し、真摯な眼差しを投げてくるスガタに苦笑した。
「そう、だな」
「ああ」
 シルシを持っているが故にタウバーンに乗って戦う事になったが、それを除けば、スガタはただの学生だ。
 島出身のスガタやワコと親しくして、仲良くなって、日々を楽しく賑やかに、明るく過ごしている。ただ一時、気まぐれのように島にやって来て其処の住民の生活を荒らしていく連中とは、一線を画している。
 まるで自分に言い聞かせているかのようなスガタの台詞に違和感を覚え、タクトは後方から近付いて来るエンジン音にはっ、と息を吐いた。
 足を止め、黙々と足を前に運ぶスガタに手を振って合図を送る。
「スガタ、バス……」
 学校まではまだ距離がある。このまま歩いて帰っていたら、着くのは日暮れ後だ。
 だのにスガタは呼びかけに応えず、聞こえなかったのか、前を見据えたまま歩き続けた。
 見えていたバス停には誰も居なかった。下りる人もなかったようで、バスはそのまま、道を走り抜けて行ってしまった。
「あー」
 坂道を登って視界から消えた車体に絶句して、タクトは持ち上げた手のやり場に困り、赤い髪をボリボリと掻き回した。
 この時間帯は、バスの本数も少ない。無人の、休憩用のベンチがひとつあるだけのバス停に設置された時刻表は、見事に空白だらけだった。
 スガタは疲れを知らないのか、リズムを崩すことなく足を交互に前に運んでいた。タクトはネクタイに結び目に指を入れて少しだけ緩めると、ガシャガシャ言う紙袋に肩を竦め、大分距離が開いてしまった友人を追い掛けて力強く一歩を踏み出した。
 夕焼けが西の空一面に広がり、太陽は水平線にキスしようと顔を近づけていた。
「スガタ」
「お前は」
 ようやく追いついたスガタに、タクトは声を張り上げた。辿り着いた坂道の天辺で追い抜いて、急に立ち止まった彼に怪訝な顔をする。
 久しぶりに顔を向き合わせた。そんな気になって、タクトは目を瞬かせた。
「お前も、出て行くのか」
「……え?」
 やけに切羽詰まった、苦しげな表情で問いかけられて、彼は目をまん丸に見開いた。上擦ったスガタの声は初めて耳にするもので、そんな声も出せるのかと違うところで感心してしまい、どきりと跳ねた胸にタクトは慌てた。
 紙袋を喧しく鳴らして、唇を無意味に引っ掻いて考える。
「出て行く、って?」
「島を」
「へ? え、あ、あー……え?」
 タクトは、島の外から来た。南十字学園に入学し、そこで三年間の学生生活を送る為に。
 だが、三年経てば。
「お前も、アイツ等と同じか」
 厳しい眼差しにゾッとして、タクトは言おうとしていた言葉を寸前で飲み込んだ。
 下手に茶化して誤魔化せば、きっとスガタは本気で怒る。そういう雰囲気を過分に感じ取って、彼は唇を固く閉ざし、瞬きも忘れて凍り付いた。
 遠く、水面を行く汽船の警笛が響く。ポー、という情緒的な長閑な音色も、彼らの間に張り詰めた空気を和らげるのに、何の役目も果たさなかった。
 たった三日島に滞在するだけの人間と、三年間を過ごす人間と、何が違う。
 結局島に根を下ろし、此処に骨を埋めると誓わない限り、タクトも、あの軟派な観光客も、なんら違いはない。
「スガタ」
「良かったな、タクト」
「え?」
 返す言葉を持たず、ただ震える声で名を呼ぶに留めたタクトを鼻で笑い、不意にスガタが言った。
 横から照りつける西日に顔を向け、彼は自嘲気味に、笑った。
「俺が、ザメクのスタードライバーで」
 彼の手が、制服の上から胸元をまさぐった。その奥に隠されたシルシが何を意味するのかを思い出し、タクトは息を呑んだ。
 王の柱。
 王のサイバディにアプリボワゼする資格を有する、この世で唯一の存在。
 それが、シンドウ・スガタ。
 タクトもが無意識に胸元を掻き毟って、制服のシャツを乱し、ハッとして慌てて皺を押し潰した。
 動く度に紙袋が揺れて、五月蠅い。投げ捨ててしまいたい衝動に駆られて、彼は変わる事のない笑みを浮かべている友人に瞠目した。
「スガタ」
「俺は、この島から出られないからな」
「スガタ!」
 彼もワコと同じく、この島に囚われている。
 彼が受け継いだ王の力は強大で、それ故に島の外には決して出してはならないと昔から言い伝えられていたと聞く。
 だからスガタは、南十字島を出られない。巫女のサイバディを継承したワコが、島を出るのを許されないのと同じように。
 三年間の高校生活が無事に終了したとして、その後は、どうする。
 タクトは島の外の、本土の大学への進学を希望するかもしれない。就職するにしても、島よりも本土の方が職種は幅広く、応募の口も多かろう。
 そしてやがて島の外の女性と親しくして、結婚をして、子供をもうけて。
 未だ遠い未来の、本人ですら考えてもいなかった事にまで言及されて、タクトは唖然とし、若干怯えた顔をして首を振った。
「おいおい、ちょっと待てって」
「お前はいつでも、出ようと思えば島から出られるからな」
「だから、待てって。スガタ、お前、何言って」
「お前が島を逃げ出しても、俺はお前を追い掛けて行けない!」
「っ!」
 不意に叫んだスガタの脇を、水色のワンボックスカーが走り抜けて行く。低い唸り声をその場に残して、規定速度を若干オーバーした車は、瞬く間に彼らの視界から消えた。
 泣きそうなところまで顔を歪めているスガタに言葉を失い、タクトは勢い良くかぶりを振った彼の前で困ったように顔を伏した。
 額に手を翳し、跳ね上がる赤い髪を握り潰す。
 正直明日の事も分からないのに、三年後の事を話に出されても、巧く返事が出来ない。そんな事にはならない、と言うのは簡単だけれど、それでスガタが納得してくれるかどうかは未知数で、タクトは指に突き刺さった己の髪を一本引きちぎり、潮風に流して肩を竦めた。
 はっ、と息を吐いて肩を竦め、無理をして笑みを形作る。
「なに。じゃ、お前ってば、俺がカワイコちゃんと島から逃亡しようとしたら、追い掛けて連れ戻しちゃうわけ?」
「タクト」
「スガタって、そんなに俺の事、好き?」
 冗談めかせて言葉にするけれど、声は微かに震え、上擦っていた。
 いつものように軽口を叩こうとして失敗している彼を見て、少しだけ冷静さが戻って来たスガタは乾いた唇を舐め、口元を手で覆い隠して後からやってきた羞恥心に顔を赤くした。
 照れるタイミングが可笑しい。これだから島育ちは、と内心呟いて、タクトは足許の空気を蹴り飛ばした。
 スガタは島から出られない。タクトは、やろうと思えばいつだって出て行ける。
 だけれど此処を去ろうという気は、今のところ、彼には無かった。
「なあ。やっぱ次のバス、待とうぜ」
 立ち尽くす彼の手を取り、引っ張って、タクトは行き過ぎた道を指さした。坂の中程に設けられたバス停のベンチは、相変わらず無人で、静まりかえっていた。
 振り向けば太陽が水平線に頬を寄せていた。あと三十分もしないうちに、大海原というベッドに横たって完全に眠りに就いてしまうだろう。
 島の道に、街灯は少ない。ハブも出る。夜道は危険だ。
 促され、スガタはつんのめった末に右足を前に出した。タクトに導かれるままに歩道を戻り、島民の大事な足であるバスを待つべくベンチに腰を下ろす。
 時刻表を確認中の彼から重い荷物を受け取って、スガタは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「心配しなくても」
「タクト?」
 ワコを島から出す為に、タクトは綺羅星十字団のサイバディを全て破壊すると約束した。
 そこにスガタの解放も含めるのに、彼はなんの躊躇も抱かない。
「……出来るかどうか」
 目を合わせもせずに告げられて、スガタは微笑んだ。遠くに視線を投げて、諦めを覗かせる。
 そんな彼を横目で窺い、タクトはむっと頬を膨らませた。
「遣る前から諦めるのは、男じゃない」
「タクト」
「俺はやる。そう決めた。でも、俺ひとりじゃ出来ないかもしれないから」
「……タクト」
「スガタにも、手伝って欲しい」
 振り向き、逆光の中でタクトが呟く。
 差し出された手に暫く呆然として、スガタはややして、利き腕を持ち上げた。宙を漂い動かないでいる手を強く握り締めて、控えめに微笑む。
 思いの外柔らかく、そして嬉しげな表情にうっ、と息を詰まらせ、タクトは赤い顔を夕日で誤魔化し、急いで彼の隣の空きスペースに腰を下ろした。
「ったく。これだから、島育ちのお坊ちゃまは」
「すまないな。ああ、そうだ」
「ん?」
 不器用なくせに格好つけたがりで、一人前にプライドだけは高くて、融通が利かない。
 呆れ調子で手をひらひらさせたタクトを遮り、スガタは目を眇め、背中を丸めて頬杖をついた。
 余裕を取り戻した顔をして、隣に座る赤髪の青年に屈託無く微笑む。
「俺はお前の事を、相当気に入っているぞ」
「――はい?」
 言いながらタクトの、細くしなやかな手をなぞり、薬指をぎゅっと握りこむ。
 一瞬何を言われたのか分からなくてきょとんとして、数秒の間を挟み、タクトは目を見開いた。
「お、お前っ……馬鹿!」
「馬鹿とは失礼だな。訊かれたから正直に答えただけだ」
 好きか? とタクトは少し前に彼に問うた。
 その答えだと嘯かれて、タクトは夕焼けに染まるどころではないくらいに頬を朱に彩らせ、ガタッ、と音を響かせてベンチから立ち上がった。
 ついてきたスガタの白い手を振り払い、湯気を噴く頭を振り回して何もない坂道を突如駆け出す。
「何処に」
 遅れて身を起こしたスガタに答えず、彼は砂浜に続く石段を慌ただしく駆け下りていった。砂浜に下り立ってからやっと手を振って、バスが来たら教えてくれるように叫ぶ。
 距離がありすぎて、お互いの表情は見えない。海風に攫われそうな声を拾い上げて、スガタは肩を竦め、大声張り上げて承諾の意を伝えた。
 こんなにも大きな声を出すのは、久しぶりだ。
 妙に清々しい気持ちになって、満足げに頷く。
「人の気も……」
 そんな彼を知らず、タクトは砂を踏みしめ、空気を蹴り飛ばした。
 奥歯を軋ませ、暮れゆく西の空を睨み付ける。
 ワコやスガタは、島に囚われて此処から離れられない。
 ならば、自分は。
「出て行けるわけ、無いだろ」
 ひとりごちて、腕を前に突き出す。
 殴ろうとしたのは、何か。
 自分を絡めとり、鎖に繋いでしまったのは、なにか。
 声に出し、言葉にするのが怖くて、タクトはやけくそ気味に、押し寄せる波に向かって雄叫びをあげた。

2010/11/23 脱稿