寓話

 鳥の囀りが聞こえる。
 歌っている。楽しげに、枝で羽根を休めて。
 銀の尾羽根は艶やかで、シルエットも美しい。
 果たしてあれは、なんという名の鳥だっただろう。村長達がよくあれを指し示し、何がしだと呟いていた気がするが、なかなか思い出せない。
 声は低く、穏やかで滑らかだ。
 鳥の声というものはもっと甲高く、姦しく、耳障りなものだと思っていたけれど、あれはどうにも違う。羽根の鮮やかさも目を見張るものがあるが、何を置いても真っ先に心惹かれたのは、その声だ。
 穏やかで波がなく、落ち着いていて耳に心地よい。人の神経を逆撫でせず、逆に落ち着かせてくれる。
 何を歌っているのだろう。歌詞は聞いた事がなくて、なにやら謎かけのように不思議なメロディーを重ねていた。
「んんー……?」
 面白いのだが、どことなく不気味だ。このまま耳を傾けていたら呪われてしまいそうな気がして来て、知らぬ間に全身に鳥肌が立っていた。
 冷える。寒い。
「ん、む……ふ?」
 むずがって鼻から息を吐き、眩しい光を避けて顔を背ける。だが太陽からは逃げられない。追いかけて来た光を嫌って手を翳すが、防ぎきれない。このままでは瞼が焼け焦げてしまう。
 もんどりうって仰け反れば、硬い枕元に額が激突した。
「ぐっ」
 クッション不十分な寝床で呻き、彼はのろのろと首を起こした。
「いっつ、ぅ」
 囀りは聞こえなくなった。
 ぶつけたばかりの場所に手を当てて、かぶりを振って残っていた睡魔を蹴散らす。うつ伏せのまま奥歯を噛み締めると、追い払ったはずの眠気が戻って来て欠伸が誘発された。
 自然と目尻に涙が湧いて、大きく開けた吸い込んだ空気は朝の陽射しを受けて少し温かった。
 噛み砕き、飲み込んで、胸元に抱きかかえていた枕の存在を今頃思い出す。もう一度寝てやろうと顎をそこに沈めると、遠くから呆れ混じりの溜息が聞こえた。
「ン?」
 上掛けの布団は腰の辺りに蟠っており、背中は丸出しだ。昨晩、着の身着のまま潜り込んだのを思い出し、彼は寒さを訴える身体を丸めて目頭に指を押し当てた。
 溜息がまたひとつ。
 発生源は、自分ではない。
「……んん?」
 指をそのまま上にやって、眉間の皺を揉み解して首を傾げる。Gかと思って恐る恐る視線を浮かせていけば、床にそそり立つ長い脚が真っ先に見えた。
 磨かれて艶めいた靴は、幼馴染みのあの男のものではない。膝まである長いコートは、日々多忙を極めて忙しく動き回っている男の趣味ではない。
 思い当たる節はひとりしか出てこなくて、彼は夢うつつの心境のまま、はて、と頭にクエスチョンマークを生やした。
「起きた?」
 投げつけられた質問の声は、柔らかなテノールだ。
 夢に聞いた鳥のさえずりと全く同じ質感にホッと安堵の息を吐き、彼は寝癖が酷い頭を右手で抱え込んだ。
 まだ夢の続きに居るのかと思ったが、触れたものはちゃんと暖かく、爪を立てれば相応に痛い。
 ずるずると羽織っていた布を足元に落として身を起こすと、コートを羽織った男の全体図が視界の真ん中に現れた。
 ややくすんだ感のある銀の髪に、不遜に歪められた唇。呆れ混じりの眼は澄んだ朝の空気を思わせた。
「不法侵入だぞ」
 後頭部をガシガシに掻き回しながら、寝起きの低い声で凄みかける。そう広くない部屋には粗末なベッドがひとつに空っぽの棚がひとつ、出入り口の扉の反対側に小さな窓がひとつあるだけだ。
 枕元に置かれた小さなテーブルには、冷たそうな水が入ったグラスが置かれていた。昨晩にはなかったので、彼が持ち込んだものだろうか。
 不躾に不満を声に出された男は右の眉を僅かに持ち上げるだけに留め、肩を落として嘆息し、ポケットに捻じ込んでいた右手を音もなく伸ばした。
 一瞬殴られるかと思ったが、違う。変に跳ねた前髪を指で弾くだけに終わらせて、彼は意地悪く目を眇めた。
「不法侵入は、君の方」
「は? 何故俺が」
 下向いた指で赤くなっている額を小突かれて、彼はムッと口を尖らせた。しかし男は冴え冴えとした表情を崩さず、もう一発同じ場所に一撃をお見舞いして、静かに腕を引いた。
 顎を引いて唸り、彼は下唇に牙を衝き立てた。
 まるで警戒心むき出しの犬だ。全身を毛羽立てて尻尾を雄々しく跳ね上げている姿を想像して、男は苦笑と共に目を細めた。
「まだ寝ぼけてる?」
 瞳を泳がせ、窓に目を遣った男の動きを追い、彼は唾を飲んで後ろを振り返った。
 簡素な作りの、無味乾燥とした部屋だ。調度品の類は一切置かれておらず、寝て起きるスペースが確保されているだけの、質素極まりない空間だ。
 此処が自分の部屋でないのは、一目見れば分かる。だが頭の中で現在地としての認識が出来ていなかった彼は目をぱちくりさせ、間抜けに開いた口を慌てて閉じた。
 カクン、と顎の骨を鳴らし、ベッドサイドに佇む男を呆然と見上げる。
「なるほど」
「理解してもらえたようで、なにより」
 納得だと頷いた彼を見て、男が肩を竦めた。
 しかしさっさとベッドから退くように促されて、彼は渋った。
「もう朝だろう。ならば俺が此処を去らねばならない理由はない」
 朝なのだから起き上がり、身支度を整え、仕事に行くべきだ。だのにまるで見当違いな事を口にして、彼は余り柔らかくない枕を抱き潰した。
 意味が分からないと男は眉を顰め、ふふん、と勝ち誇った顔をしている彼に疲れた表情を向けた。
 ベッドは、夜眠るための場所だ。そして今は朝だ。
 ベッドに用が無いのは、男も同じ。
 言いたい事を大雑把に推測して、男は銀髪を掻き上げてゆるゆる首を振った。
「アラウディ」
「僕は、駒鳥の付添い人になるつもりはないんだけど」
「?」
 彼が、呆れ果てている男の名前を呼ぶ。もっとも、それが本名ではないというのは、彼も承知していた。
 そもそも、“ヒバリ”などという冗談もほどほどにして欲しい名前をこの男に与えたのは、他ならぬ彼だ。男がいつまで経っても名乗ろうとしないから、こちらで勝手につけただけの話だ。
 そんな彼は舌の上を軽やかに滑った音色に笑顔を浮かべたが、淡白な表情を崩さない男から投げ返されたひと言に、不思議そうに小首を傾げた。
 大きめの瞳をきょとんと見開いて、実年齢にそぐわない幼い顔を作り出す。
「そういえば、今日はどうしたのだ」
 来るという話は聞いていなかった。だから驚きもしたし、夢かと勘違いもした。
 足に掛かっていた布団を脇に追い遣り、彼はぐーっと伸びをして窓の外に顔をやった。陽射しが穏やかに地上を照らしている。風はなく、気候は穏やかだ。
 ただこの数日ずっと雨が降っていないので、地面は乾燥して空気は埃っぽかろう。外に出る際は、砂まみれになるのを覚悟しなければいけない。
 とはいえ祭りが近いからか、人々は多少の天候不良もさほど気にしていない。雨雲だってたまには仕事をサボりたいと、ここの村の連中は朗らかに笑い飛ばしてしまう。
 毎日を明るく、楽しく過ごして欲しい。贅沢は言わないが、その望みだけは絶対に手放せない。
「パスクア」
「ん?」
 目を凝らせば、窓の向こうで農作業に勤しむ村人の姿が見えた。荒れ放題の痩せた土地だが、それでも先祖代々受け継いで来た地だ。簡単には手放せないし、離れられない。
 あまりにも長く雨が降らないようならば、何か対策を講じる必要がある。治水工事を優先させようか考えていたら、不意に言われた。
 瞳だけを横に流せば、銀髪の男がどこか不満げに背筋を伸ばしていた。
「復活祭がどうかしたか」
「君が、ここいらの祭りは素晴らしいと言うから」
「ああ」
 子供達は翌日に控えた祭りの準備で、朝から大わらわだ。大人たちも皆、気もそぞろに違いない。
 明日の朝は、夜明け前から大騒ぎだ。楽隊が先頭に立ち、普段は教会から出ることのない聖像が御輿に担がれて村中を練り歩く。子供らは積み集めた花を道々に振り撒き、パレードは夜遅くまで続く。
 賑やかで、華やかで、懐かしい。
 町中が、玩具箱をひっくり返したような賑わいに包まれる。
「凄いぞ」
 得意げに言った彼に苦笑を返し、男は此処に来る道中で見かけた花で飾られたゲートを思い返した。
 祭りの話をするだけで、嬉しそうな顔をする。心から楽しみにしている様子が窺えて、こちらまで心が騒ぐから不思議だ。
「ああ、そうだ」
「なに」
「さっきの歌は、なんだ?」
「歌?」
 脱ぎ捨てていた靴を拾い、右から先に履き始めた彼が、不意に思い出して問うた。聞かれた方は怪訝に眉を寄せ、暫く考え込む素振りを見せた。
 あれは本当に夢だったのかと、彼は訝しんでいる男を見上げて己のこめかみを叩いた。
 枝に停まった鳥が一羽、楽しげに囀っていた。低い声で朗々と、不吉で哀しいメロディーを紡いでいた。
「Who killed Cock Robin?」
 繰り返された陰鬱な音色が自然唇から零れ落ちて、彼は自分自身に驚き、目を見張った。
「嗚呼」
 それで気付いた男が、控えめな笑みを浮かべて立ち上がろうとしている彼に道を譲った。
「聞いてたの」
「う、うむ」
 照れが混じった呟きが珍しくて、彼はうっかり動揺を顔に出した。頬をうっすら紅に染めて、目を泳がせて何もない壁に這わせる。
 急に黙り込んだ彼に喉を鳴らし、気を取り直した男は咳払いをひとつ挟んで唇を舐めた。
「Mamma Ocaだよ」
「物騒な歌詞だな」
「そう?」
 各地に伝わる御伽噺だって、どれも残酷だ。
 揶揄した男に嫌な顔をして、彼はベッドから飛び降りて床に二本足で立ち上がった。
「祭り、お前も参加するだろう?」
 不吉な予言を思わせる歌詞は、綺麗さっぱり忘れることにする。歌が聴けたのは良かったが、次があるならもっと楽しいものがいい。
 腰に手をやって胸を張った彼に、逡巡の末に首肯して、男は寝癖だらけの彼の髪に手を伸ばした。くしゃくしゃになっているものを掻き混ぜて、もっと酷い有様に作り変えてやる。
「気が向いたらね、ハプティ・ダンプティ」
「なんだそれは?」
「壁から転げ落ちて割れてしまった間抜けの名前」
「う、ん?」
 意味が分からずに首を捻り続ける彼を置いて、男は先に立って歩き出した。立て付けの悪いドアを潜り抜け、廊下へと足を踏み出す。
 馬鹿にされたのだけは理解して、彼はプンスカと煙を噴き、後を追いかけて駆け出した。

2010/11/22 脱稿