四時間目終了を告げるチャイムが余韻を残して消え行こうとする中、綱吉は膝に置いた鞄の中身に向かって盛大な溜息をついた。
幸福が手を取り合って逃げて行く様が見えるくらいの重苦しい気配に、クラスメイトも気味悪がって近付いて来ない。元々あまり級友と仲が良いとは言えない彼だけれど、例外の山本でさえ、怪訝にしながら自席で首を傾げ続けた。
獄寺は、今日は居ない。彼はいつも気まぐれで、学校に来たり、来なかったり、途中で帰ったりと行動に一貫性がなかった。
京子は既に女子に囲まれており、綱吉の沈痛な面持ちに全く気付いていない。山本も、昼食に誘うべきか否かを迷っているうちに、同じ部活に所属している面々に誘われてしまって、二秒経ってから彼らに頷き返した。
ちらりと綱吉を気にすると、彼はまだ下を向いて、なにやら難しい顔をしていた。弁当を忘れて来たのかと気になったが、声をかけようにも友人の壁が邪魔をして、出来そうにない。
「行こうぜ、ほら」
「分かったって。押すなよ」
今日は野球部の部室で、野球談議に花を咲かせつつの昼休みになりそうだ。ひとり取り残される綱吉に心の中で詫びて、彼は大振りの弁当箱を持ち、仲間に肩を叩かれて廊下に出て行った。
午前の授業が全て終わってから、詰まるところチャイムが鳴り終わってからたっぷり五分が経過したところで、綱吉はようやくハッと息を吐き、諦めの心境で鞄を膝から机の上に移動させた。
振り向いて山本の所在を確認するが、親友の姿はとうにない。女子はグループごとに別れて輪を作っており、男子の半数は食堂か、或いは部室などに出かけて不在にしていた。
ひとりぽつんと取り残されている自分に気付いてほんのり顔を赤らめて、彼は唇を舐めると布製の丈夫な通学鞄を撫でた。
最後に爪で引っ掻いて、開けっ放しのファスナーの隙間から見えるものを恨めしげに睨みつける。
「リボーンの奴、余計な事言いやがって」
腹立たしげに呟き、彼は決心して椅子を引いた。
ガタッ、と勢い良く響いた音に、談笑していた女子の数人が箸を止めて振り返り、或いは顔を上げた。思いがけず注目を浴びた彼は、自分に集中する複数の視線に頬を引き攣らせ、恥ずかしさに耐え切れずにダッ、と駆け出した。
教室を手ぶらで出て行こうとして、敷居を跨いだところで慌てて戻って来る。首を竦めて小さくなった彼に、最初は呆気に取られていたクラスメイト達も、揃ってクスクスと笑みを零した。
顔から火が出そうになって、綱吉はまるで引ったくりでもするかのように自分の鞄を脇に抱え、全力疾走で教室を後にした。
それなりに賑わっている廊下を突っ走り、階段を二段飛ばしで駆け下りる。最後の三段はジャンプして一気に降りて、偶々取り掛かった他学年の生徒とぶつかりそうになった。
「ごめんなさい」
顔も碌に見ぬまま大声で謝って、息を切らせてまた走る。もし風紀委員に見付かりでもしたら、首根っこを引っつかまれて説教部屋へ直行だ。
もっとも、今の綱吉は、自分からその説教部屋、もとい風紀委員長の根城である応接室に向かおうとしているのだが。
「く、うぅぅ」
目的地が目の前に迫って、周囲から人気も途絶えた。昼休みの真っ只中だというのに、応接室がある一帯だけは静まり返り、まるで別の世界に迷い込んだ気分にさせられた。
グラウンドで駆け回る生徒らの元気な声も、聞こえるには聞こえるのだが、どことなく嘘くさく感じられる。
ドアは閉ざされており、中の様子は窺い知れない。巡回に出ているか、屋上で昼寝でもしていてくれればいいのに、と願いながら、彼はそそり立つ壁にも等しい丈夫なドアを恐る恐る、ノックした。
先ずはコンコン、と軽く二度。返事が無いのを訝って、もう一回。
コンッ、と先に比べれば大きめに響いた音に自分までびくりとして、彼は落としそうになった鞄を胸に抱き締め直した。
それでもまだ返事はなくて、部屋の主が留守にしている可能性はぐん、と跳ね上がった。
「ら、ラッキー」
これで立派な言い訳が成り立つ。緊張で強張っていた頬を僅かに緩め、綱吉は心の中でガッツポーズを決めた。
訪ねて行ったけれど、雲雀は応接室にいませんでした。その事実があるかないかで、帰宅後の彼の運命は大きく変わることになる。
無理難題を突きつけてきた赤ん坊に舌を出して、綱吉は意気揚々と、教室へ戻るべく踵を返そうとした。
「誰」
その彼の幸運を踏み躙って、今になってドアが軋んだ。
誰何の声は不機嫌そうで、それでいて少し、眠そうだった。
「ひぎっ」
応接室に背中を向けていた綱吉は、聞こえた声に短い悲鳴をあげ、持っていたものをぎゅうっと羽交い絞めにした。
鞄の中に収められている物の硬い感触が布越しにしっかり感じられた。角が肘の内側に当たって痛いが力を弱めることすら出来なくて、綱吉は温い汗を大量に流し、ドアの開きを大きくした青年を恐々、振り返った。
彼はとっくに、綱吉の存在に気付いていた。
底が見えない漆黒の瞳に見下ろされて、綱吉は居心地悪げに身を捩った。跳ね上がっていた肩を本来の高さに戻し、気まずそうに俯いて、爪先で廊下に穴を掘る。
もぞもぞするだけで、いつまで待っても喋りださない彼に焦れて、雲雀は少し寝癖が残る黒髪を掻き上げ、その手で開けっ放しのドアを叩いた。
ゴンッ、とひと際大きく、それでいて凄みのある音にビクッとして、綱吉は非常に不自然な作り笑いを浮かべた。
「ど、……どうも」
「お早う」
「おは、よう……ございます」
もうとっくに正午を過ぎて、昼食を食べるのにいい時間帯だ。しかし「こんにちは」ではないのか、とツッコミを入れる勇気もなくて、綱吉は頬を引き攣らせたまま合いの手を返した。
ついでにぺこりと頭を下げて、即座に身体を反転させる。
「ではこれで」
「何処行くの」
「うご」
なんとか誤魔化して立ち去ろうとしたのだが、敢え無く首根っこを引っつかまれて、捕縛されてしまった。踏み出した足を滑らせて何も無い空間を蹴り飛ばし、綱吉は斜めに傾いた体勢を整えようと、じたばた左手を振り回した。
ジャケットを掴まれただけだったので、首が絞まる、という事はなかった。ベージュ色のブレザー様々で、動き回る彼を嫌って雲雀が手を離した途端、彼は暴れ回る心臓を押さえ込み、その場で膝を折って蹲った。
呼吸困難に陥らなかったからといって、辛くなかったわけではない。バクバク言う左胸が苦しくて肩を上下させ、すっかり乱された息を整えていたら、盛大な溜息が頭上から降って来た。
ごん、と頭の天辺に落ちたそれに首をぐらぐらさせて、綱吉は上唇を噛み締め、鼻をぐずつかせて上を向いた。
まだ大したこともしていないのに、既に半泣き状態の彼にぎょっとして、雲雀は益々顔を顰めた。
「どうしたの」
応接室で仮眠を取っていたら、ドアがノックされた。まどろんでいたせいで反応が遅れて、ソファから起き上がってドアを開けたら、立ち去ろうとしている背中が見えた。
特徴がありすぎる髪型には覚えがあって、声を掛けたら大袈裟に反応された。
恐がらせたつもりはなかったのだが、寝起きというのもあって、いつもより目つきが悪くなっていたのは否定しない。廊下に出た時は少し残っていた眠気は完全に消え失せて、雲雀は怪訝な顔をして立ち上がるよう促す。
手を差し伸べられたが、綱吉は首を振った末に自力で起き上がった。
押し潰されて変な形に凹んでいた鞄を撫でて整え、両手でぶら下げて、顔を伏す。俯いて、時々チラチラと人の顔を盗み見る。
落ち着きの無い動作に痺れを切らし、雲雀は右手を握って持ち上げた。
「うわわ、タンマ。タンマ!」
殴られると勝手に勘違いした綱吉が、途端に悲鳴をあげて身を竦ませた。大粒の琥珀を潤ませて、小ぶりの鼻を膨らませて、がっくり肩を落とす。
ようやく観念したのか、彼は持っていたものを胸の高さで揺らした。
「なに」
「お、お弁当……です」
「それが、なに?」
ただひと言、それだけを告げられても、何のことだかさっぱり分からない。
鞄の中身が弁当だとして、彼はそれをどうしたいのだろう。ひとりで食べるのは寂しいから、応接室で食べても良いか訊きに来たにしては、おどおどし過ぎている気がする。
あまりにも足りな過ぎる情報に肩を竦め、雲雀は廊下の左右を見回した。
寝ていたので気付かなかったが、もう昼休みに入ってからかなりの時間が過ぎているようだった。窓越しに響くグラウンドの声が騒々しくて、彼は紺色のカーディガン越しに腕をさすった。
緋色の腕章が綱吉の視界の端でゆらゆら泳ぐ。遠くに目を遣っている彼を盗み見て、綱吉はずっしり重い鞄の口に手を入れた。
中身を取り出すではなく、出入り口を広げて雲雀の方へと差し出す。
「どうぞ」
言われて視線を下向けた雲雀は、底板の上で行儀良く並んでいるふたつの弁当箱に柳眉を顰めた。
片方は間違いなく、綱吉の分だろう。もうひとつは、この状況から判断するに、雲雀の分か。
しかし、頼んだ覚えはない。食べたいと言った過去は何度かあるが、それらは既に叶えられた願いであり、有効期限もとうに切れている。
事情がさっぱり読み解けなくて、彼は握った手をヒクリと震わせて脇に垂らした。意識して力を抜いて拳を解き、スラックスに擦り付けて皺を押し潰す。
綱吉は動かない雲雀を急かし、両手で広げた鞄を前後に揺さぶった。
角をぶつけられて、雲雀が半歩下がった。綱吉は開いた分の距離を詰め、早く受け取るよう、口を尖らせながら目で訴えた。
「君ね……」
「どうぞ。ふたつとも、食べちゃってください」
「君はどうするの」
それなりに痛かったのを咎めようとしたら、先手を打って綱吉が早口に捲くし立てた。
思いがけない台詞に目を丸くして、雲雀が鞄の中身と目の前の少年とを見比べる。ひとりで食べきるには多過ぎる量だし、彼の口ぶりからして、綱吉はまだ昼食を摂っていないと思われた。
沢田家の弁当は、成長期の男子の為、というのもあって、なかなかに豪勢だ。子供が好きそうな主菜、副菜を彩りよく取り揃え、栄養面にも過分な気配りが感じられた。
何度かご相伴に預かったことがあるし、後ろからいきなり卵焼きを奪い取ったこともある。当時の記憶を振り返って首を傾がせた彼を見上げ、綱吉はすきっ腹を堪えて唾を飲んだ。
それしきで癒されるわけがなくて、逆に余計空腹感が強まった。
こんな羽目に陥った原因を思い出して、臍を噛む。綱吉の家庭教師だと公言して憚らないあの赤子の余計なひと言の所為で、今日一日が何時にも増してダメライフになってしまった。
「兎に角、貰えない」
「いいです、食べてください。俺、今、その、……ダイエット中なんで」
片方だけならまだしも、綱吉の分まで奪い取れるほど、雲雀は強欲ではないし、大食漢でもない。
強い口調で拒否を表明した彼だったが、綱吉も譲れないと踏み止まり、迷った末に大凡有り得ない台詞をぽろっと零した。
ピクリと雲雀の眉が片方持ち上がった。急に押し黙った彼に臆して、綱吉は視線を右往左往させた。
中学二年生にもなって身長百六十センチに届かない彼は、学年でもかなり背が低い方だ。しかも華奢な体格をしており、腕も足も細い。贅肉どころか筋肉さえついていないのではないか、と思えるくらいの脆弱さだ。
その彼の、どこにダイエットの必要があるのか。これ以上体重を減らせば、命の危険さえ付きまといそうなものを。
むしろ逆に太るべきだ。綱吉だって、ちっとも男らしくない自分の肉体を常々気にしていた。
女子が聞いたら怒り出しそうな発言に溜息を零し、雲雀は額に掛かる前髪を掻き上げて後ろに流した。
「沢田綱吉」
いい加減、本当のところを説明するように。名を呼ぶ声にそういう意味合いを含ませた彼に肩をビクつかせ、綱吉は観念したのか、腕を下ろして項垂れた。
また黙り込まれてしまって、遅々として進展を見ない状況に、雲雀は苛立たしげに床を踏み鳴らした。
上履きの底がパンッ、と小気味の良い音を響かせる。平手打ちにも似た音に頬を引き攣らせ、綱吉は蜂蜜色の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。
ただでさえボサボサの頭をもっと酷いことにして、弱々しく頭を振った後、天を仰いで背筋を伸ばす。
やがてまた前のめりに背中を丸め、彼はボソボソと語りだした。
曰く、始まりは昨日の夕飯時だった、と。
「今ってほら、朝早くとか、夜はちょっと冷えますけど、昼間って暖かいじゃないですか」
「ん? うん」
急に話題を変えた彼に目を眇め、雲雀はそれがどうしたと言いかけた自分を押し留めた。相槌を打つに留め、腕を組んで聞く体勢を作る。
茶々が挟まれなかったのに安堵して、綱吉は鞄を膝の前でぶらぶらさせた。
「天気もいいし、紅葉が始まったら綺麗だね、とか。そんな話をしてて、お昼に外でお弁当を広げる話に、なんでか、なって」
最初は、小さな子供達が公園でピクニック気分を味わうだとか、そういう流れだったように思う。そうしたら奈々が、綱吉も外で弁当を食べたりするのか、と訊いてきた。
賑やかな食卓を囲み、聞き役に徹していた彼は、いきなり話を振られて面食らった。
箸で抓んだコロッケを取りこぼしそうになって、慌てて口に放り込んだ後、咀嚼しながら頷いて返した。噛み砕いて飲み込んで、口の中を空っぽにしてから、もう一度「たまに」と声に出して答えた。
何処で、と重ねて訊かれたので、真っ先に思い浮かんだ屋上と返して、ふと思い浮かんだ横顔に、箸の先を舐めた。
「でも屋上って、まあその、あれじゃないですか。ヒバリさんの」
「僕?」
「お昼寝場所」
丁寧に言おうとして語頭に「御」をつけてみたところ、なんだか可笑しな感じになってしまった。失敗だったかと心の中で愚痴を零して、綱吉は怪訝にしている雲雀に苦笑した。
学内には応接室以外にも、いくつか雲雀のテリトリーが存在した。
本来は公共の施設であるはずの学校を、風紀委員は我が物顔で独占していた。けれど誰も、雲雀の狂犬ぶりが恐くて注意しない。それで増長して、彼の傲慢さは日増しに強くなっているようにも見受けられた。
そんな彼の支配領域に、無断で立ち入ろうものなら、どうなる。見付かり次第咬み殺されて、鳥の餌にでもされるのがオチだ。
「ふぅん?」
なかなか興味深い発言を聞いたと、雲雀は生まれつき細い目をもっと細めた。
うっかり言わなくて良いところまで口にしてしまったと気付いた綱吉は、ビクリと震えた後、誤魔化しに手を振った。此処に弁当がふたつある理由を、間を省略して叫ぶ。
「ですから、あの。屋上で俺と一緒に、食べてください!」
「……なにをどうしたらそうなるの」
いきなり結論だけを告げられて、雲雀は呆れ混じりに頭を下げた彼に問うた。
行楽日和が続く秋の過ごし易さを語り合っているうちに、弁当の話になり、弁当を何処で食べるかの話になって、そこからどう飛躍すれば、雲雀と屋上でランチ、になるのか。
思いも寄らなかった提案に眉目を顰めた彼を上目遣いに窺って、綱吉は膝をもぞもぞさせた。
こうしている間も時間は過ぎ去っていく。残り僅かとなった昼休みを気にして、彼は晴れ渡る外に目を遣った。
「ですから、なんていうか。屋上はヒバリさんがいるから、勝手に入れないって言ったら、じゃあヒバリさんに許可を貰えばって、言われて」
奈々は雲雀の事をあまりよく知らない。
そして雲雀は雲雀で、奈々の前では猫を被っている。窓から入って来る癖に、綱吉の母親の前では行儀よい好青年を演じるものだから、彼女はすっかり騙されて、彼を綱吉の良き先輩と信じて疑わない。
そんな訳で、奈々は雲雀ならばきっと、正直に言えば許してくれるに違いない、といつもの呑気さを全開にして言った。嬉しそうに手を叩いて、行動に移すのは早いほうが良いとさえ口にした。
確かに冬の足音は駆け足で迫っており、テレビでは連日のように、各地で初雪や初霜が観測されたと伝えていた。
本格的に寒くなる前に、かといってそれがいつになるのかなど誰にも分からない。善は急げとも言う。だったら明日、丁度天気も良いと言っていることだから。
矢継ぎ早に提案して、息子の返事も待たずにサクサク決めていく母の顔は少女のように愛らしくて、とても楽しそうだった。だからそんな事はしたくない、とはどうしても言えなくて、綱吉は夜眠って朝起きた時、彼女がこのやり取りを忘れてくれているように切に願った。
しかし物事は、そう巧くはいかなかった。
世の中、そう都合良く物事は回らない。奈々はいつも以上に張り切って早起きをして、いつも以上に豪勢な弁当をふたつ、用意してくれた。
残ったおかずは子供たちの昼食になるという。どうせなら全部そうしてくれて構わなかったのだが、満面の笑みを浮かべて手渡してくれた奈々には、どうやっても言えなかった。
綱吉の落胆は、それだけに留まらなかった。
「ヒバリさんって、嫌いなものとか、ありますか」
「パイナップル」
「それは、……嫌いとはちょっと、違うんじゃ」
けだるげにしている彼の質問に即答した雲雀は、言うと同時に思い浮かんだ珍妙な髪型の男の顔を力いっぱい噛み砕いた。擂り潰して粉々にして、唾と一緒にペッと吐き出す。
彼が誰を思い出しているのかを瞬時に悟って、綱吉は苦笑した。
横道に逸れてしまった話を戻し、改めて弁当入りの鞄を見下ろす。そろそろ腕が痺れてきたが、廊下に下ろすのもなんだか憚られて、彼は引き揚げて胸に抱えた。
クッションを抱き締めるように両手で支えて、顔の前に来た鞄の端に顎をちょん、と乗せる。子供じみたポーズにうっかり笑いそうになって、雲雀は慌てて気持ちを引き締めた。
「で、それが何?」
「ああ、まぁ……入ってるかもしれなかったんで」
「パイナップルが?」
「それは入ってないんで、安心してください」
綱吉も心持ち、あの黄色い果物が苦手だった。昔はそうでもなかったのに、今は忌避して出来るだけ視界に入れないようにしている。
フゥ太も好きじゃない、とはっきり声に出したので、以後沢田家の食卓にあのフルーツは並ばなくなった。
そういう家庭の事情は隅に置いて、綱吉は強張りを解いて頬を緩めた。気の抜けた顔をして肩を竦め、雲の少ない青空を窓越しに見て、舌を出す。
「そんな訳で、……食べてください」
「屋上で?」
「ビニールシートもあります」
言って、綱吉は弁当箱の片方を端に寄せた。下敷きにされた水色のシートが見て取れて、覗き込んだ雲雀は、準備万端な彼の母親に嘆息した。
「とっくに食べたとかだったら、どうするつもりだったの」
「えっ」
そこまで気が回るのに、奈々は肝心な事を忘れている。本日の風紀委員長の昼食は、既に購入済みかもしれないのに。
綱吉もそれについては考えていなかったようで、質問に対して素っ頓狂な声を上げた。目を真ん丸に見開いた彼の間抜け面にもうひとつ溜息をついて、雲雀はドアの隙間から応接室内部を見た。
草壁が用意してくれた弁当は、ゴミとして捨てるには勿体無いので、委員会の大食漢にでもくれてやる事にする。
「あ、あー……もう食べちゃいました?」
「ううん、まだ。寝てたしね」
その可能性は考慮していなかったと、綱吉がビクビクしながら問いかけて、雲雀は瞬時に首を振った。
それは嘘ではない。綱吉がドアをノックしなければ、あと一時間くらいは余裕でソファに横になっていただろう。
さほど動いていないに関わらず、空腹だ。パイナップルが入っていないと知って安堵した途端、腹の虫が小さく鳴いたのは、綱吉には聞こえなかったらしい。
「良かった」
見るからに安堵の表情を浮かべ、綱吉が目尻を下げた。綻んだ顔が嬉しくて、雲雀もつられて表情を和らげた。
秋の陽気にも似た朗らかな笑顔に、ふたりして照れ笑いを浮かべて肩を揺らす。先に居住まいを正したのは綱吉で、彼は鞄をまた前に差し出して、雲雀に持たせようとした。
「どうぞ」
「君もじゃないの」
「でももうじき、昼休み終わっちゃうし」
胸に突きつけられて、雲雀は受け取りつつ首を捻った。足を退いて距離を稼いだ綱吉は、賑やかさを増したグラウンドを一瞬だけ気にして、何も巻かれていない左手首を指差した。
つられて雲雀が自分の時計を見て、分針が指し示す角度にムッと頬を膨らませた。
「食べてないんだろう」
「いやですから、ダイエ……」
「骨と皮だけになるつもり?」
そんなのは許さないと息巻いて、雲雀は渡された鞄ごと腰に手を当てて踏ん反り返った。
ただでさえ、今の綱吉は触り心地が悪いのだ。これで尻の肉まで減らされたら、揉むところが無くなってしまう。
あろう事か学校の廊下で怒鳴った雲雀に真っ青になって、綱吉はうろたえながら前後を確かめた。風紀委員を恐がって、一般生徒が殆ど近付かない場所でよかったと、心底思いながら。
誰にも聞かれなかったのに胸を撫で下ろし、綱吉は不満げにしている雲雀に照れ笑いを返した。
「でも、授業が」
食べ切れなければ当然残してもいいし、嫌いなものがあれば箸をつけなくても構わない。
だからひとりで食べてくるようにと言って、綱吉は聞こうとしない。
意地を張り始めた彼に顔を顰め、雲雀は右手に持った彼の鞄を揺らした。
これがなければ彼は今日帰れないのだから、もう一度会う機会は作れる。だが折角の綱吉からの誘いなのに、時間制限を理由に辞退されるのは気に食わない。
臍を曲げた彼に弱り来た表情を向けて、綱吉はチャイムが鳴るまであと何分残されているか、感覚で推測した。
あと十五分あるか、ないか。
今から屋上に出向いて、シートを広げて弁当箱を並べて、食べる雲雀を観察しながら、自分も食事をする。
急いで食べれば、十分もあれば足りるとは思うが、ただ箸を動かしていればいいという問題でもなくて、それが彼の最大のネックだった。
家庭教師の余計な課題を思い出して、綱吉は副菜満載の弁当に思いを馳せた。
あの雲雀と肩を並べて食事するのなら、ついでに彼の苦手な食べ物を調べて来い。それがリボーンの出した指令だった。
この先あれこれと雲雀をこき使う上で、彼の弱みを握っておきたいのだろう。狡賢い赤ん坊のちゃっかりした便乗行為に腹が立ったが、綱吉も少しだけ興味があったので、思わず承諾してしまった。
彼の好物は知っているのに、その逆は、思えば知らないままだからだ。
だけれど通学路を道行く最中、段々気が重くなってきて、学校に着く頃には溜息のオンパレードだった。
天邪鬼の雲雀が、綱吉と一緒に弁当を広げてくれるかどうかだって、保証はなかった。まず誘うところから始めなければいけないと気付いた時には、奈々の好意がずっしりと重くて逃げ出したくてならなかった。
雲雀にひとりで食べてもらって、後で弁当箱を回収した時に食べ残しを調べて、それを彼の苦手な食べ物として報告する。
そうすればリボーンの課題もクリアした事になるし、全く箸をつけないで持ち帰るわけでもないので、奈々を哀しませずに済む。綱吉も、雲雀の前で余計な醜態を晒さずに済む。
一石二鳥どころか、三鳥だ。
正直、彼を前にして楽しく食事が出来るとは思えない。緊張してガチガチになって、味覚も麻痺して、美味しいのかそうでないのかの判別もつかなくなってしまう。
過去の経験を振り返って冷や汗を流し、綱吉はそろり、左足を持ち上げた。
「五時間目、何?」
「ふえ?」
「五時間目の授業。あと、担当」
「え、あ、……理科の。根津、先生」
普段、担任を含めて教員を全て呼び捨てにしている綱吉は、うっかり尊称を忘れてしまいそうになって、後から取ってつけたように言い足した。
しかし雲雀はあまり気にする様子を見せず、なにやら考え込んで顎を撫で、ふっ、と笑った。
「アレね。いいよ、後で言っておく。君は風紀委員の大事な仕事を任せられたってことにしておけば、あの人も文句は言わないだろうし」
「……へ?」
「ほら、おいで。屋上に行くんでしょ」
雲雀の頭の中では、問題は解決したらしい。さらりと言われて面食らった綱吉は、理解が追いつかないまま腕を取られて引っ張られ、つんのめった。
倒れそうになったのを踏み止まって、目を真ん丸に見開く。足で蹴ってドアを閉めた雲雀は、意味深に笑って口角を持ち上げた。
「食べるんでしょ」
「あ、でも。あの」
「なに? 僕と一緒に食べたくないの?」
「それはその、そういう……」
彼と居られるのは、少なからず嬉しい。それは否定しない。だがどうしても、まだ慣れない。
口篭もった綱吉に眉間の皺を深め、彼は綱吉の腕を握る位置を少し、下にずらした。
ブレザーの上から軽く揉むようにされて、弱い電流が走った彼は身じろいで顔を顰めた。
袖から覗く手首、そして掌。
五本並んだ指のうち、薬指だけを摘み取られて、綱吉はハッと息を吐いた。
「行くよ」
指の腹を捏ねられて、なんだかくすぐったい。進行方向に向き直った雲雀の背中を見上げて、綱吉は三秒ばかりの間をおき、照れ臭そうに微笑んだ。
腕をいきなり、強引に握られて引きずられるのは、恐い。だけれどこれは、恐くない。
未だ肌と肌を重ね合わせるのに慣れられずにいる綱吉に配慮して、気遣ってくれたのが嬉しい。
「怒られたら、ヒバリさんの所為ですからね」
根津はねちっこい。陰湿な中年男の顔を思い浮かべ、綱吉は前を行く背中に軽口を叩いた。
「そんな事にはならないよ」
雲雀は自信ありげな顔をして言って、ふたり分の弁当が入った大きな鞄を肩に担ぎ上げた。綱吉がするよりもずっと様になったポーズを決めて、階段をゆっくり上り始める。
秋空は快晴。風は弱く、陽射しは温い。
外で弁当を広げるには最適の、絶好の行楽日和だ。
「紅葉見に行きたいなー」
「行く?」
「良いんですか?」
「期末テストの成績がよければね」
「それ、紅葉終わっちゃってますよー」
足取りも軽く、気がつけば普段よりも会話が弾む。昨日までよりもずっと自然なやりとりが交わせるのが楽しくて、雲雀はぶすっと頬を膨らませた綱吉を振り返って笑い、屋上に通じるドアを開けた。
2010/11/21 脱稿