不意打

 薄ぼんやりした意識が、ふわふわと覚束ない足取りで空を漂っている。
 矛盾だらけであるが、その表現が彼の状況を一番的確に示していた。
 頭が重く、足が軽い。不安定に揺れて、何度も転びそうになる。目に見えるのは景色と呼べるものではなくて、周囲には何もない。強いて言葉で表すとすれば、其処は雲海のど真ん中だった。
「う……」
 遠くで雷鳴が轟き、頭痛を誘発する。苦悶に顔を歪めて呻き、額を伝う汗の不快感に奥歯を噛み締める。
 それが、不意に止まった。何か、とても軟らかいものが肌を掠め、汗を拭い取っていった。
 前髪を払い除け、労わるように撫でてくれる。人肌の温もりなど気持ちが悪いだけだと思っていたのに、妙に心地よくてならなかった。
 四肢の強張りを解いて息を吐き、身体を楽にする。頭痛はいつの間にか消えていた。
「……う、ん……」
 咥内の唾を飲み込んで喉を鳴らし、もぞりと動く。不安定だった足元が急にしっかりした気がして、彼は恐る恐る瞼を開き、見えた天井に瞠目した。
 数秒間瞬きを忘れて見入り、はっ、と息を吐いて右腕を動かすべく力をこめる。
「う……」
「駄目ですよ、起きちゃ」
 しかし、思うように動かない。肩まで覆い隠す布団一枚を押し退けるのも苦痛で、呻いていたら横から声が飛んできた。
 中学生にしては少しトーンの高い、ボーイソプラノ。未だ変声期を迎えずにいる知り合いなど片手で余る程しかなくて、雲雀は当たりをつけ、身を捩った。
 夢の中で見たのと同じ真っ白い天井には銀色のレールが何本か走っており、同じく白い清潔なカーテンが無数の襞を作ってぶら下がっていた。彼が横たわるベッドを取り囲むようにして広げられて、窓から吹き込む風を受けて時折楽しげに踊った。
 濡れタオルを額に押し当てられて、べしゃっ、と来た感触に顔を顰める。上から覗き込んできた少年の顔は、心持ち楽しげだった。
「沢田綱吉」
「シャマル居ないんで。そのまま、ちょっと待っててくださいね」
 ぶっきらぼうに名前を呼べば、彼は返事もせずにそう言って、雲雀を残してカーテンの外に出て行った。
 シャッ、とカーテンレールが涼しげな音を立て、白い布の揺れが大きくなった。開けた空間から室内の様子が見て取れて、此処が並盛中学校の保健室である確信を抱き、雲雀は額に張り付く濡れタオルを鬱陶しげに押し退けた。
 額に滑りを残し、それはゆっくりと枕に落ちて行った。既に生温くなっていた布の残した水分が不快で、首を振って枕カバーに押し付ける。とても簡単な作業であるのに、終わる頃には息が切れて、雲雀は霞む視界に眉を寄せた。
 なにかがおかしい。そもそも、自分が何故此処に居るのかが分からない。
「あー、もう。ヒバリさん、何やってるんですか」
 誰も居ない保健室を横断して戻って来た綱吉が、姿勢を替えた雲雀を見つけて甲高い声をあげた。その音がまた頭痛を引き起こして、苦しげに顔を顰めると、気付いた綱吉が慌てたように口を塞いだ。
 どこか怯えた顔をして、恐々とベッド脇まで戻って来る。突き刺さるような激痛をやり過ごした雲雀は、不安に彩られた琥珀の瞳に、小首を傾げた。
 吐く息が熱く、喉が焼けるようだ。身体も重く、鉛を括りつけられているみたいに動きが鈍い。何故こんなことになっているのかさっぱり想像がつかなくて、不思議そうにしていたら、綱吉の手が伸びて落ちた濡れタオルを拾い上げた。
 雫が垂れて、床に落ちた。枕の上のシーツにも、オネショしたような染みが出来上がっていた。
「大丈夫ですか?」
「なに、が」
 呼気が咽頭に引っかかり、巧く発音できない。自分の声ではない気がして目を見開いた雲雀に肩を竦め、綱吉は持って来たものを差し出した。見えやすいように顔の前に掲げられたのは、体温計だ。
 年代物の、水銀を使用した細いガラス棒。
 水銀の有毒性は言うに及ばず、割れ易いガラス管を使用しているのもあって、危険だと今はもう殆ど見かけなくなった物が、まだこんなにも身近な場所に隠れていた。
 次の予算で、保健室の備品を補充するよう進言しよう。そう決めて、雲雀は渡されたそれを顔の前で振った。
 細長い管に目盛りが刻まれ、少し丸くなった下部に赤色の水銀が沈殿している。
「えっと、分かりますか?」
「知ってる」
 長い間沈黙して動かずに居たら、勘違いした綱吉が手を伸ばして来た。取り返そうとする動きを弾いてピシャリと言い、雲雀はいがらっぽい喉に臍を噛んで被せられていた布団を下に押し退けた。
 結んでいた筈のネクタイはなく、半袖のシャツもボタンが幾つか外されていた。広げられた胸元に風が紛れ込んで、形の崩れた襟に彼は眉目を顰めた。
「あ、それは俺が」
「……?」
「苦しいかな、と思ったので外しました」
 自分でやった記憶がなくて怪訝にしていたら、綱吉が横で手をもじもじしながら言った。小声で謝られて、雲雀は肘を引いてベッドに突き立てると、上半身を起こして首を振った。
 軽々出来ると思っていたものが、そうならない。動かす度に関節がギシギシと嫌な音を立てて、油の切れたブリキ人形になった気分になった。
「君が?」
 体温計を見ながら呟き、襟を広げて右脇に押し込む。戻した肘を体に押し付けると、ひんやりしたガラスの感触は、あっという間に消えてなくなった。
 左手で上腕を押さえ込んで後ろを向けば、自分が寝ていた場所がしっとり濡れているのが見えた。
「え?」
 どうやら聞いていなかったらしい綱吉が、琥珀色の瞳を大きく見開いて右に首を倒した。あどけない、とても中学生には見えない仕草に頬の筋肉を緩め、雲雀は膝を立てて座りを安定させた。
 窓の外からは、体育の授業らしき声が聞こえた。壁時計も、五時間目が始まって半分過ぎた辺りを指していた。
「授業は」
「あ、あぁ」
 喉の痛みを押して問うと、綱吉の視線が浮いた。
 風紀委員長の前で堂々と授業をサボるとは、良い度胸だ。瞬時に顰め面を作った雲雀に睨まれ、彼は頬を掻いて顔を背け、いきなりベッドサイドに両手を衝きたてた。
 ギシ、とパイプベッドが音を立てた。片側が沈んだ気がして雲雀がぎょっとする中、彼は斜めに突き刺さっていた体温計をいきなり引っこ抜いた。
 それなりに頑丈に作られてはいるだろうが、ガラス製品だ。もっと丁寧に扱って欲しくて、雲雀は肩を落とし、神妙な顔つきを作った綱吉を窺い見た。
「三十八度六分、です」
「……」
「本当ですって。ほら」
 サボりを誤魔化すべく声を大にした彼の言葉など、到底信用出来ない。疑惑の目を向けられた綱吉は口を尖らせ、嘘ではないと主張し、雲雀に体温計を返した。
 が、細かい目盛りを読もうとしたところで頭がくらっと来て、雲雀は座っていられず、ベッドに舞い戻った。
 眩暈を覚えて倒れた彼に目を見開き、綱吉は呆れ半分、困惑半分の表情を浮かべた。
「疲れてるんですよ」
「これくらいの熱で」
「駄目です、じっとしててください」
 風紀委員長が熱ごときで倒れて寝込んでいると知れたら、校内を荒らす不良たちに笑われる。そんな悔しい思いはしたくなくて、無理をして身を起こそうとした雲雀だったが、すかさず伸びてきた綱吉の手に肩を押さえつけられ、叶わなかった。
 腕力の差は歴然としているのに、高熱の所為で勝てない。並盛中学校最弱の彼にまで楽々と動きを封じられたのはショックで、雲雀は自分の体調不良具合を思い知り、忌々しげに唇を噛んだ。
 綱吉の言う通り、此処で落ち着くまでじっとしているしかなさそうだ。ふらふらの状態で不良にかち合い、負けるよりは、ずっといい。
 諦めて大人しくなった雲雀に胸を撫で下ろし、綱吉は役目を終えた体温計をケースに戻した。そして乾きつつあるタオルを取り、濡れてしまったシーツを撫でる。
「お水飲みます?」
「飲む」
 汗をたっぷり掻いているので、水分補給しておかなければ干乾びてしまう。控えめに問うた綱吉に間髪入れずに頷くと、彼は一寸意外そうにしてから急に噴き出した。
 蕾が綻ぶように笑顔の花を咲かせ、何が面白いのかカラコロと軽やかに声を響かせる。
「……なに」
 意味が分からなくて顰め面をした雲雀に手を振って謝罪し、彼は涙も出ていないのに目尻を擦って頬を緩めた。
「ヒバリさんも、ちゃんと人間なんだなーって」
「なにそれ」
「思っただけです。気にしないでください」
 非常に失礼な事を言われた気がした。が、文句を言うのも面倒臭くて押し黙っていると、ご機嫌取りのつもりか、綱吉の手が雲雀の額を擽った。
 滲み出ていた汗を拭い、張り付いていた黒髪を払い除ける。目覚める前に感じた指先と同じ動きに、雲雀はほうっ、と息を吐いた。
「君が運んでくれたの?」
 全身に蔓延っていた倦怠感が僅かに遠退いた。それを少し不思議に感じながら呟くと、今度はちゃんと聞き取った綱吉が目を細め、ゆるゆると首を横に振った。
「山本と、獄寺君にも手伝ってもらって」
「そう」
 相槌だけを返し、雲雀は名前の挙がった二名の顔を順に墨で消していった。
 彼らなら、自分が倒れた事をこれ見よがしに吹聴したりしないだろう。面と向かって人を馬鹿にする台詞なら、吐いて来るかもしれないが。
 そうなったら、その時に対処すればいい。ただあのふたりを、記憶が消し飛ぶくらいに殴り倒すのは、骨が折れそうだ。
「草壁さんには連絡してあります。さっき、来てたんですけど」
 雲雀が眠っている時に保健室を訪ねて来て、綱吉が付き添っていると知って中には入らずに帰って行った。丁度授業が始まる直前だったので、看病を頼みたかったのだけれど、首を振られてしまった。
 綱吉の五時間目は、副委員長の計らいで病欠扱いとなった。雲雀の面倒を診てくれるならサボり扱いにはしない、と草壁に太鼓判を押してもらっている。
 そういう事情で此処に居残っている事を教えてやると、雲雀は目を閉じたまま、興味なさげに頭を揺らした。
「水」
「はいはい」
 欲しいと言ったのにまだ出てこない。短く急かした彼に苦笑して、綱吉は濡れタオルを手に踵を返した。
 開けっ放しのカーテンを抜けて、数歩行ったところで振り返る。雲雀はベッドで大人しく横になって、天井をじっと見上げていた。
「ふふ」
 含み笑いを零し、コップを探して戸棚に歩み寄る。
「ねえ」
「はい?」
 洗って逆さに置かれていた物に手を伸ばそうとしたら後ろから声がかかって、指で引っ掛けて落としそうになった綱吉は、ドキッと声を上擦らせて後ろを見た。
 笑っていたのがバレたかと思ったが、違う。雲雀は相変わらず、天井ばかり見ていた。
「ヒバリさん?」
「君は、どうして僕が倒れたって、分かったの」
 ようやく見つけ出した、保健室で目覚める直前の記憶。応接室にひとりで居た彼を、綱吉がどうやって発見して、仲間を呼んで此処まで運んだのか。
「覚えてないんですか?」
「?」
 素っ頓狂な声に雲雀は目を瞬き、首を倒して棚の前の綱吉を見た。彼は琥珀の瞳を真ん丸にして、直後にまた意味もなく笑みを浮かべ、口元を手で覆い隠した。
 なにが可笑しいのかさっぱり理解出来ず、雲雀は不機嫌に眉を顰めた。
「沢田」
「そっか。覚えてないのか」
 妙にしんみりした声で呟き、綱吉は目を細めた。雲雀が無自覚に、真っ先に自分を頼ってくれたのだと分かって嬉しくて、胸がこそばゆくて仕方が無い。
 まだ分かっていない雲雀に、携帯電話をチェックするように教えてやる。枕元に置かれていた黒い端末を広げた彼は、最後の発信履歴を視野に収め、天を仰いだ。

2010/07/04 脱稿