摂生

 頭がくらっと来て、気がつけば目の前に天井があった。ふらついた際に踏み止まれず、派手にすっ転んだのだと気付いたのは、本能的に頭を庇って打った肩が激痛を発した所為だった。
「あ、れ?」
 自分でも吃驚してしまって、声が裏返る。どうしてこんなことになったのか、さっぱり意味が分からない。
 起き上がろうとしたらまた眩暈に見舞われて、敢え無く冷たい床に逆戻り。しかしひんやりした感触が思いの外気持ちよくて、つい大の字になって寝転がりたくなった。
「ちげー、だ、ろ……っが!」
 眠るならベッドの上だ。こんな硬くて居心地の悪い寝床で休むなど、御免被る。
 うっかり目を閉じかけた己を叱責して声を荒げた彼だったが、残念ながらどれだけ奥歯を噛み締めようとも、身体は命令を聞いてくれなかった。
 腕も、足も、まるで頑丈なロープで雁字搦めにされたように動かない。御伽噺にあるガリバー旅行記の、小人の国に迷い込んだ巨人の図が思い浮かんで、彼は顔を引き攣らせた。
「なんで、だ?」
 訳が分からない。混乱する頭で懸命に考えるが分からず、彼は仰向けのまま長い息を吐き、知らぬ間に汗だくになっている自分に気がついた。
 肌にまとわりつく布地が嫌で首を振るが、振り解けない。脱ぎ捨ててしまいたかったが、身体が思うように動かない所為で叶わなかった。
 苦労して額に手を押し当てると、熱い。ただ触れた手が熱いのか、額がそうなのかについては、区別がつかなかった。
「……んだ?」
 どうやら熱があるらしい、というのは分かった。だが原因がさっぱり不明だ。さっきまで――少なくとも五分前まではなんともなかったはずだ。
 が、じっくり思い返してみれば確かに、寝起きは最悪だったし、ちょっと怠いと思っていた。食欲もなくて、冷えた牛乳を飲んだら気分が悪くなって吐いた。
 トイレで苦しい思いをしたのを思い出し、腹を撫でる。幸いなことに胃袋は正常に活動しており、こちらから不快感がやって来る、という事はなかった。
 ただ頭が重い。体も重い。出来るなら動きたくない。
「ち、っくしょ」
 ふっと気が遠くなり、目の前が真っ暗になった。それを寸前で踏み止まり、歯軋りして床を殴る。腹筋に渾身の力を込めて上半身を起こそうと足掻くが、達成される前に集中力が切れて、カクン、と力が抜けた。
 結局仰向けからうつ伏せに体勢が変わっただけに終わった。顔面直撃を避けて庇った肘がヒリヒリと痛い。
 夏休みに入り、学校に行かなくてよい日々が続いていた。外は茹だるような暑さで、毎日冷房を入れてガンガンに冷やした部屋で過ごしていた。
 食事はさっぱりとしたものが中心になり、必然的に栄養価が偏った。起床が遅い日は、面倒臭くて朝食を取らないこともあった。
 不摂生が祟ったらしい。開けっ放しの窓から流れ込む熱波が容赦なく彼の身体を責め立て、身体中の水分を搾り出そうとしていた。
「うぅぅ……」
 ゴミ屋敷になる前に片付けをしようとして、この有様だ。珍しく外気と同じ気温の中で過ごしていたら、冷房に慣れ切っていた身体が拒否反応を起こした、その辺りだろう。
 熱い。身体が重い。だるい。
 三つの単語が頭の中を駆け巡り、彼は鼻を大きく啜り、肩を怒らせた。
 両腕に力を込め、匍匐前進の要領で身体を前に運ぶ。せめてベッドに移動だけでも果たしたくて、彼は真っ赤になりながら、のろのろとベッドルームを目指した。
 後ろの方で猫の鳴き声が聞こえたが、構ってやる余裕など、彼には残っていなかった。
 

 薄ぼんやりした光が見えた。
 そう思った時にはもう、光は眩いばかりに輝き、目の前に迫って、あっという間に追い越していった。
 咄嗟に両手で顔を庇い、視覚を封じ込めて瞳を守る。いったい何が起きたのかと驚く心臓を宥め、呼吸を鎮める。振り返って光の行方を追いかけるべく閉ざした瞼を持ち上げたところで、彼はハッと目を覚ました。
 一瞬にして精神と肉体が重なり合い、現実が落ちてくる。前触れもなしに突如目覚めた彼を見下ろしていた人物は、一寸ばかりぎょっとした後、柔和な笑みを浮かべて肩を竦めた。
「起きた?」
 優しく問いかけられて、彼はぽかんと間抜けに口を開いた。
「え……」
 自分の部屋の、見慣れた天井があった。自分で潜り込んだ記憶はないが、慣れたセミダブルのベッドに横たわっているのだと知って、驚きが隠せない。
 顔を覗き込まれて、彼は動揺に瞳を揺らした。
「十代目」
「良かった。大丈夫?」
 影を落とした少年の笑顔の意味が分からず、困惑に眉を顰める。綱吉は意識を取り戻した獄寺にホッと安堵の表情を浮かべ、素早く身を引いてベッド脇から退いた。
 サイドテーブルに置いてある丸盆から何かを持ち上げて、蓋を外して中身を引き抜く。白い、片側に向かうに連れて細くなった棒状のものを差し出され、獄寺は面食らった。
「測って」
「十代目」
「倒れたの、覚えてない?」
 熱があるのだと暗に示され、そういえばそんな気がすると、巧く整理がつかない記憶に首を振る。新品の体温計を受け取ったはいいが、脇に挟むのか、それとも口に咥えるのか分からなくて困っていると、綱吉は笑いながら自分の腋を指し示した。
 頷き、獄寺はまだフラつく頭を枕に埋め、丸首の襟を引っ張った。
「……着替え」
 今身につけているものも、記憶の最後にあるものと違う。ボソリ呟けば、聞こえた綱吉が肩を揺らした。
「ごめん。箪笥、勝手に開けた」
 色々ごちゃごちゃしていたが、綱吉の部屋ほど酷くはなくて、探しやすかった。あまり申し訳ないと思っていない声で言われて、獄寺は緩慢に頷き、続けて首を横に振った。
 それくらいは構わない。そう態度で告げて、気怠さを訴える頭を指の背で小突く。
「十代目は……」
「瓜が居てくれて良かったよ」
 そしてふと脳裏を過ぎった疑問を舌に転がせば、全てを言い切る前に振り向いた綱吉が感心したように呟いた。
 この場に居ない獄寺の同居人、ならぬ同居猫は、そういえば何処へ行ったのか。朝に餌をやってそれっきりで、時計を見ればもう夕方に近い。
 綱吉の独白の意味も分からなくて怪訝にしていたら、思考を中断させる電子音が響いた。
 音の発生源を探して視線を泳がせ、自分の左脇からだと思い出して手を伸ばす。引き抜いた体温計の、小さな画面に数字がくっきり浮かび上がっていた。
 頭の中で読み上げて、彼は失笑した。
「何度?」
 綱吉も興味津々に顔を寄せてきて、獄寺は頬をヒクつかせて体温計を掲げた。
「三十八度六分、です」
「……不摂生過ぎ」
「イテ」
 笑いながら言ったら、即座に額を叩かれた。枕から浮かせていた後頭部をクッションに沈め、獄寺は、しかし笑うしかないこの状況に喉を鳴らした。
 そんなに高いとは思っていなかったが、認識した途端に倦怠感が増した。
 関節が痛いのも、頭がぼーっとするのも、全て身体が無理をしないように防衛本能を働かせている為だ。自覚症状が全くなかった獄寺を休ませるためには、高熱を出して意識を飛ばすくらいしか道がなかったに違いない。
「駄目だよ、獄寺君。ひとり暮らしなんだから、もっと用心してないと」
「はい……」
 綱吉に説教されて、大人しく頷いて返す。いつもならなんだかんだと反論を企てるくせに嫌に素直で、綱吉は意外そうに目を丸くし、直後はにかんだ。
 実際、獄寺も自分の不甲斐なさにかなり落ち込んでいた。ひとりでも平気だと息巻いていたくせに、熱を出して倒れてしまって、綱吉に迷惑を掛けてしまった。
 今回は偶々彼が気付いてくれたから良いものの、そうでなかったら床で干乾びていた。乾物と化した自分を想像して鳥肌を立てた彼は、汗ばんだ肌を拭い、目を瞬いた。
 そういえば、何故綱吉は気付けたのだろう。
「十代目」
「瓜を褒めてあげてね」
「どういう……」
「あと、ごめんね。鍵なかったから、壊した」
「はぁ」
 一番の功労者は瓜だと、嵐の炎を身にまとった子猫を思い浮かべた綱吉が笑う。もっともあの奇妙な動物は、猫ではなく豹なのだが。
 事態が飲み込めずに生返事ばかり繰り返す獄寺に目を細め、綱吉は体温計を引き取ってケースに戻した。入れ替わりにタオルを持って、獄寺の額や、首を丁寧に拭っていく。
 着替えるか聞かれて、獄寺は首を振った。
「窓から飛び出したんだろうね。瓜、俺ん家着く頃にはヘロヘロだった」
 あの子猫サイズの獣は、獄寺の嵐の炎を糧に生きている。その供給が止まれば、活動を停止せざるを得ない。獄寺が高熱に倒れたと見るや、勇敢な匣兵器はマンションを飛び出し、助けを求めるべく沢田家を一直線に目指した。
 弱りきった瓜の姿に、獄寺に何かあったと直感的に悟った綱吉は、一路マンションを目指し、床に突っ伏す獄寺を発見した。
 大雑把に事の顛末を教えられ、獄寺は首を探った。銀のチェーンにぶら下がった指輪の輝きに、感謝を込めて目を閉じる。
「すみません、十代目。有難う御座いました」
「ううん。ていうか、俺、実際は何もしてないし」
「え?」
「言われて買い物に行ったくらいで。あ、お粥あるよ。食べない方がいいような気はするけど」
「?」
 てっきり食べるよう強く勧めてくるかと思いきや、綱吉は何故か目を泳がせ、言い難そうに告げた。
 胸の前で人差し指を小突き合わせた彼の顔色の悪さを暫く窺って、おおよその事情を察した獄寺は汗を吸って重いシャツの襟を引っ張り、脱力した。
 綱吉はこの家の鍵を持っていない。否、宿主以外誰も持っていない。それなのに玄関を開けて、綱吉は当たり前のように此処に居る。まさか窓から入り込むなどという無謀な真似はしないとの前提で、彼は沢田家に暮らす別の人物を思い浮かべた。
 彼女の作ったものなら、綱吉が勧めないのも当然だろう。
 鍵も、彼女の手に掛かれば何の役にも立たない。きっとドアごと交換せねばならぬはずで、管理人にどう説明しようか苦慮し、彼は笑った。
「いえ、十代目。食べます」
「えっ。だってビアンキが作ったんだよ」
「不摂生が祟ったんで。今は少しでも何か胃に入れたいんです」
 言えば綱吉は案の定素っ頓狂な声をあげ、仰け反った。彼の正直すぎる反応に目尻を下げて、獄寺は笑って力強く頷いた。
 それで腹を壊し、トイレの世話になろうとも、多分今回ばかりは許せる。
 そんな気がした。

2010/07/04 脱稿