薬喰

 黒塗りの真新しい膳を挟み、ディーノは真向かいに座る少年にうんざりとした表情を浮かべた。
 堪えたつもりだったが出てしまった溜息が、障子越しに射す光を受けて仄かに色付いたようだった。温かい吐息はゆっくり沈んで、膳に並べられた皿の隙間に落ちて消えた。
 舞い上がった埃が光の中できらきらと舞っている。見蕩れてしまうほどに綺麗な光景に一瞬気持ちを持っていかれて、薄い座布団に正座をした少年は、顔の筋肉に力を入れて表情を引き締めた。
 膝に並べた手で長着をぎゅっと握り締めて、瞬きの回数さえ減らして、ディーノを凝視する。
 突き刺さる視線が痛くて、彼は疲れた顔をして手を横に振った。
「つーなー」
「どうぞ」
「だから、俺は良いってば」
「駄目です。ディーノさんも、好き嫌いしないでちゃんと食べてください」
 弱りきった声で少年の名を呼ぶが、全く相手にされない。逆にぴしゃりと、冷たい口調で言い切られてしまって、掌で指し示された膳に視線を落とし、彼は首の後ろを引っ掻き回した。
 長く伸びた後ろ髪が手の甲に触れて、彼が腕を動かす度に膨らんだり、凹んだりした。艶やかな金髪は陽光をたっぷりと吸収しており、彼の周囲は殊の外明るかった。
 綱吉の髪も色が薄いが、彼程ではない。天地の理を無視して毛先が上を向く不可思議な形状をしているが、毛足は意外にも柔らかく、触れると容易く折れ曲がった。
 琥珀色の瞳は、普段はとても大人しく、謙虚だ。しかし今に限って言えばとても勝気な彩に染められて、頑なだった。
「ツナ」
「ディーノさんも、今は俺の家族なんだから」
 早く食べてしまうように促して、彼はやんわり断ろうとするディーノを無視し、新品同然の膳を軽く押した。
 傷ひとつない一人用の食卓は、素朴な風合いの品だった。何年も使い古している綱吉たちの物とは比べ物にならないくらいに綺麗で、造りもしっかりしている。四隅の脚は猫の足のように丸く、先端が内側に向かって反り返っていた。
 引き出しの取っ手は銀細工で、銀杏の形をしていた。綱吉が動かした際に一緒に揺れて、本来は聞こえないはずの涼しげな音がディーノの耳朶を打った。
 台の上に並べられているのは、小皿が三枚に、椀がふたつ。片方は白飯で、もう片方は味噌汁だった。但しどちらも、時間が経ちすぎた所為で冷めていた。
 小皿の上には焼いた川魚が一匹、そして干し肉を炙ったものが一枚。両者に挟まれる形で、ひと際小さな皿に塩が盛られていた。
 最初は形を整えられていたのだろうが、やり取りの最中に崩れてしまって、すっかり見る影も無い。白色の結晶を下に見て肩を竦めたディーノは、渋い顔をして唇を噛み締めている少年を窺い見て、やおら腕組みを解いた。
 羽織っていた緋色の打掛を広げ、長着との間に空気を送り込む。凛と冷えた冬の気配を懐に抱いて、彼は足も崩し、右膝を起こした。
「ディーノさん」
「いつも言ってるだろう。俺に人の食事は、無用の長物だって」
 食べ盛りの獄寺や山本が見れば、涎を垂らして尻尾を振りそうな食事も、神格者であるディーノには面白みのない、言ってしまえばどうでもよい代物だった。
 神は人間のような食事を必要としない。彼らは大気中に満ちる霊気、神気さえあれば、どのような環境下であろうとも生き長らえることが可能だった。
 そして綱吉も、本来はディーノと同じく食事を必要としない側の存在だった。
 だが彼は人として生まれ、人として育った。命の危機に瀕した際に、雲雀の手によって幾許か特殊な身体へと作りかえられてしまったけれども、そのことに格別不満は持っていない。
 綱吉は、食事は好きだ。たとえ口にしたものが何の役目も果たせずに排出されるとしても、皆と囲炉裏を囲み、話に花を咲かせて過ごす時間は大事だった。
 人である母がひとり寂しく食事をする現場を見て、自分に出来ることはなにかを考えた結果でもある。彼は当分、余程沢田家の財政が苦しくならない限り、これを改めるつもりはなかった。
 昔は綱吉と母である奈々、そして雲雀の三人だけだった食事も、いつの間にかひとり増え、ふたり増え、賑やかになっていった。山本は特に良く食べるので、奈々は作り甲斐があると喜んでいる。
 しかし彼女の表情がたまに優れない事があって、綱吉はずっとそれが気がかりだった。
 原因は分かっている。
 夕餉の団欒時を狙ってひょっこり顔を出すディーノは、先にも言ったように食事を必要としない。だから彼は毎回、懇切丁寧に、奈々の手料理を断っていた。
 彼のために彼女が用意した分は、いつも山本か獄寺の胃袋に収まった。男連中はそれで満足していたが、紅一点である奈々はこれがあまり嬉しくない様子だった。
 折角丹精込めて作ったのに、食べて欲しい人の口に入らないのは、哀しい。食べ残すわけではないので良いではないか、という意見は、彼女にとってなんら救いにはならなかった。
 是が非でも、ディーノに奈々の手料理を。
 これ以上母を哀しませたくない息子がそう決意し、強硬手段に出てから、かれこれ一刻以上が経過していた。
 ディーノは基本的に仕事を持たず、日がな一日のんびりと、自堕落に過ごしているからまだ良いが、綱吉には彼にしか出来ない仕事があった。それを無視しての長時間の睨み合いに、周囲もあまり良い顔はしない。
 だがこれと決めた彼が誰よりも頑固で、押しても引いてもぴくりともしないのも、皆分かっていた。
 今もまた、南に面した座敷の障子越しに、人の気配が感じられた。中を窺っているが、入ってくる様子はない。
「恭弥の奴、さっさと連れ出してくれりゃいいのに」
 一応角の柱の影に隠れて、気付かれないようにしてはいるようだけれども、ディーノにそんな小細工は通用しない。人が持つ魂にはそれぞれに異なる波長があり、同じものはひとつとしてない。ましてや神の位を捨てて人の身に落ちるのを望んだような存在だ、ディーノが悪態をついた相手の波長は、誰よりも特殊だった。
 嘗ての親友にして、今は義理の息子である人物の名を口にした彼に、綱吉は途端にむっとして、広げた手で畳を叩いた。
「ディーノさん」
 舞い散った埃を払い除け、睨みを利かせて箸を取るよう強要する。どうあっても譲らない彼に苦笑を浮かべているうちに、外にいた人物は立ち去ってしまった。
 頼みの綱に袖を振られてしまって、ディーノはちょっとだけ泣きたくなった。
 沢田家の家計は、正直なところ、今も尚苦しかった。
 冬に入り、農作物は降り積もる雪に邪魔されて育たない。夏から秋の間に収穫しておいた分だけでは、成長期真っ只中の若者の胃袋を満たすのに充分でなかった。
 しかも今年は、秋の初めの収穫の頃に大火事があり、刈り取り前の稲田が悉く灰になってしまった。
 生活が苦しいのは、なにも綱吉の家だけではない。並盛の里全体が、今年の冬は厳しい生活を強いられることになる。
 餓えはしないが、腹いっぱいになるのは難しい。真綿で首を絞められるような重圧が、里の空を覆っていた。
「気持ちは重々有り難いんだが、俺はやっぱり、いいよ」
「駄目です」
「無理しなくていいんだって。俺の分まで作ってたら、春になる前に米が尽きるだろ?」
「ディーノさんは、そんな事、気にしなくていいんです」
 連日連夜降り続ける雪は、ついに綱吉の腰の高さを越えるところまで育った。里から街道に通じる唯一の道も、先日封鎖された。
 これから三ヶ月ばかり、並盛は外界から遮断される。勿論出ようと思えば出られないことはないが、かなり険しい行程になろう。
 限られた食糧を大事に使わなければいけないというのに、奈々も綱吉も、聞く耳を持たない。必要ないのだからディーノの言葉に甘えておけばいいのに、食事時に来るのであれば輪に混じって食べろ、と主張を改めようとしなかった。
 打開策は幾つかある。最も簡単なのが、ディーノが神社に閉じこもり、こちらへの来訪の回数を減らす事だ。そうすれば奈々も、居ない者の為に作らなくなる。万事解決だ。
 だがそれはそれで、ディーノが寂しい。特に雪が厳しくなってからは、神社に詣でる人の数もぱったり途絶えてしまった。
 誰にも相手にされず、春になるまで忘れ去られるのは辛い。だからついつい、賑やかな沢田家に足を向けてしまって、うっかり長居をして、夕餉まで居座ってしまう。
 曲りなりにも神に向かって命令を下す少年を見詰めて、ディーノはなかなか帳尻合わせが難しい状況に溜息を零した。
 もう昼餉も良い頃合だ。長時間正座を続ける綱吉の足も、そろそろ限界を覚えているだろう。
 自分だけ胡坐なのは良くなかったかと、再び組んだ腕の先から足元を見下ろして、ディーノは膨れ面の綱吉に愛想笑いを浮かべた。
 ぷっくりしている頬に指を置いて、凹ませてみたい。ちょっとした悪戯心が湧き起こるが、今それをやれば、彼は烈火の如く怒る筈だ。
 本気で怒った綱吉は、恐ろしい。奈々もそうだが、沢田家の面々は普段が温厚なだけに、ひと度螺子が外れたらとんでもないことになる。
 遠い昔に親しくした相手も、そうだった。
 綱吉に色濃く引き継がれた面影を辿り、ディーノは頑固さも血筋かと、諦め半分に嘆息した。
 確かに居間に一同が顔を揃えている中で、ひとりだけ箸を持たないディーノは浮いてしまっていた。リボーンは気分屋なので現れたり、出てこなかったりと色々だけれど、彼だって芋煮を抓んで差し出されたら、躊躇もなく口に含んでいた。
 綱吉や山本の膝に座り、供されるものは遠慮なく食す。奈々がディーノに対するほどリボーンの食事に執着しないのは、彼の外見が赤子を模したものだから、という点も大きいようだ。
 神界に居辛くなって出奔し、地上に降り立って早数ヶ月。人間の生活の中に本気で紛れ込もうと考えるのなら、人の生活にもっと親しみを抱き、自分から積極的に参加せよ。そう言われている気がした。
「恭弥を見習え、ってか」
 神という位を、たったひとりの存在の為に易々と投げ打った男の覚悟が如何程のものであったか、強く意識させられた。
 綱吉に聞こえない音量でぼそりと呟いた彼は、正面から斜め下に視線の位置を置き換え、黒塗りの膳と冷えた朝飯を見詰めた。
 陶器の皿は別として、膳も、箸も、椀も、全て新品同然だった。皿も、綱吉達が使っている分の多くは端が欠けてしまっていたりするのだが、此処に並ぶものはどれも形が整っていた。
 ディーノの為に、わざわざ奈々が用意してくれたのだ。
 彼をもてなそう、という母子の気持ちが過分に現れている。分不相応だと照れ笑いを浮かべ、ディーノは袖口から腕を抜き、利き手を前に伸ばした。
 膳の縁をつい、となぞり、手前に並べられた箸を爪の先で転がして、握り締める。
「あ」
 ようやく動いた青年に、綱吉は目を輝かせた。
「ったく。しょうがねーなー」
 ここまでされたら、引くに引けない。それに、寄せられる好意を無碍にあしらえるほど、ディーノは性悪ではなかった。
 片側に向かって徐々に細くなっている二本の棒を掌で転がして、彼は期待の眼差しを浴びながら、それを左手で受け止めた。
 飯も汁も、魚も、時間が経っているのですっかり冷たい。綱吉は思い切って立ち上がると、自分の傍らに添えていた火鉢を押し、ディーノの方へ寄せた。
 太陽の運行を司る神である彼にとっては、陽射しさえあれば事足りる。綱吉の配慮を嬉しく思いつつも、無用だと首を振って、彼はもう一度、箸を右手に戻した。
 同じ所作をあと二回繰り返して、綱吉が座布団に戻るのを待つ。
「夕飯も、食べて行きますよね」
「あ、ああ。そうだな」
 だらしなく座っていたら、その分だけ空気に触れる面積が増えて寒い。足を揃えて正座し、余った裾を引っ張って素足の裏に被せた彼の言葉に、ディーノはハッと顔を上げ、緩慢に頷いた。
 左の膝を叩いて楽な姿勢を作り、食事の邪魔にならないよう打掛を掴んで裾を広げて、彼は寒そうにしている綱吉に、こっちへ来るかと問うた。
 一瞬だけ障子戸に目を遣った綱吉は、鼻の頭を掻き、やんわりと申し出を辞退した。
「そっか」
「それより、早く食べちゃってください。ディーノさんの所為で、全然片付かないんですから」
 残念そうに呟いたディーノを急かして、綱吉は座ったままその場でひょこひょこ飛び跳ねた。巻き込まれて揺さぶられた座布団からは、大量の埃が舞い上がった。
 ちっとも落ち着きの無い彼に苦笑して、ディーノはこの時期としては豪華な部類に入る食事に奥歯を噛み締めた。
 一度は持った箸を置こうとしたら、睨まれた。椀を取って汁を啜ろうとしただけなのだが、彼には伝わらなかったらしい。
「もう。早く」
 食が誰よりも細く、食べるのが遅い綱吉に囃し立てられるのは、どうにも妙な感じだった。毎日彼の隣に座り、適当にあしらって過ごしている雲雀の偉大さが、ほんのちょっぴり分かった気がした。
 冷えてはいても充分食べられる料理を前にして、ディーノは仕方なく両手で箸を掲げ持ち、半眼した。
「…………」
 難しい顔をして眉間に皺を寄せた彼を不思議そうに見詰め、綱吉はようやく茶碗に伸びた大きな左手に胸を撫で下ろした。
 が、安堵出来たのはこの時だけだった。
「……ディーノさん?」
「む、この」
 にこにこしていた綱吉の表情が、次第に怪訝なものに切り替わっていく。口角を持ち上げてひくりと頬を引き攣らせて、彼はディーノが突き崩した白米の山に唖然とした。
 無数の米粒が黒塗りの膳に、そして御納戸色の長着の上に零れ落ちる。いったいどういうつもりなのか、彼は箸の先端を椀に突き刺し、ぐちゃりと掻き回して反対側に白飯を押し出していた。
 何が起きたのか、ちゃんと見ていた綱吉でさえ上手に理解出来なかった。そもそもディーノの、箸の持ち方自体がおかしい。棒が何故二本用意されているのか、その意味を分かっているのだろうか。
 ふたつに分離する箸をひとまとめに握り、小指の側を下にして椀を掻き毟る。その上で箸ごと米を持ち上げようとするが、先端は細いので当然掬いきれず、穿られた穴ばかりが大きくなっていった。
 三つか、四つになったばかりの子供が、見よう見真似で箸を握ったような感じだ。巧く扱えず、四苦八苦しながら米を貪ろうとするものの、大きく開けた口にはほんの少ししか入らない。
 零れる米の量が全体の半分を超えたところで、綱吉はどっと押し寄せた疲れに肩を落とし、額に手を押し当てた。
「あの、う……」
「この、くそ。こいつ、どうなってやがる」
「ディーノさんって、もしかして。ひょっとして」
 恐る恐る声をかけるが、手元に夢中になっているディーノの耳には届かなかった。
 悪いお手本の典型である握り箸で、食べ物相手に格闘している彼は、神の座にある存在とは到底思えない有様だった。綱吉もあまり行儀が良い方ではないけれども、彼は輪を掛けて酷い。
 掠れた声で呟いた綱吉の声に、この場に居合わせない雲雀が反応して、盛大な溜息をついたのが分かった。
 幼い日のとある大事件により、彼らの魂は奥深い場所で繋がってしまった。その為、心に思ったことが交じり合った精神を通じ、相手にまで伝わってしまう。
 勿論読まれないようにも出来るが、根が正直で嘘が下手な綱吉は、雲雀ほど巧みに心を隠せなかった。
「ああ、……そう、なんだ」
 屋根で雪下ろしの真っ最中だった雲雀が、沢田家に引き取られる前の生活ぶりを綱吉に教えてくれた。霞を食べて生きるのは仙人だが、神は神気を食らって存在を繋ぐ。そして神気には、色はあっても形は無い。
 神気を補充できない場所に出向く時だけ、彼らは固形物に神気を宿らせ、持ち歩いて糧にする。もっともそれだって、人が食する糒に似て、手掴みで充分な代物だった。神社に奉納される神饌だって、彼らはそこに宿る霊気だけを摂取して、肉や魚や、野菜といった食材には一切手を出さない。
 だから神々は、食事をする際に道具を必要としない。雲雀自身、沢田家に来た当初は箸を巧く扱えなかった。
 言われて思い出した綱吉は、目の前で展開されるなんとも言い表し難い惨状に引きつり笑いを浮かべ、膝立ちになってディーノから空に近くなった椀を奪った。
「あ、おい」
「もー、良いです」
 長着や膳だけでなく、手や口の周りにも大量の米粒を張り付かせたディーノが、取り返そうとして腕を伸ばした。
 緋色の打掛が大きく揺れて、彼の肩からずり落ちた。しかし綱吉は椀を大事に抱えると自分の膝に置き、人を指差す格好で握られていた箸も、礼儀がなっていないと言って叩き落した。
 いきなり平手打ちされたディーノは面食らい、ほんのり赤くなった手の甲を唖然と見下ろした。
「ツナ?」
「ディーノさんが、お箸の使い方がなってないのは、よーっく分かりました」
 小魚も身を解すどころか、骨も皮も、なにもかもぐちゃぐちゃだった。猫でも、もうちょっと上手に骨を剥いで食べるに違いない。
 折角奈々が用意した料理もすっかり台無しで、膳の上で波を打つ汁物の残骸に眩暈を覚え、綱吉はひっくり返っていたそれを天地正しい向きに直した。
 一瞬、今後の食事を断る理由にする為に、彼はわざと遣っているのではないかと勘繰りたくなった。
 けれど怒り心頭の綱吉を前にして、ディーノは心底恐縮してみせた。崩していた足も整え、正座をして頭を垂れている。
 悪戯が露見して、叱られるのを待っている子供のようだ。首を竦めて小さくなっている彼の、若干落ち込んだ表情を見ていたら、綱吉は逆になんだかおかしくなって来た。
「まったく、もう」
 神様というくらいだから、物凄く偉いはずだ。だのにディーノには、そういう雰囲気がまるでない。
 神であっても万能ではないのだというのが良く分かって、親近感だけは以前よりもずっと増した。
「良いですか、ディーノさん。正しいお箸の持ち方は、こう」
「……む、難しいな」
「親指は、ここ。魚の解し方は、また今度、教えてあげますね」
 箸の使い方ひとつ知らないディーノに実戦してみせて、綱吉は唸った彼に目を細めた。
 道具を正しく持って、正しく扱ってこそ、食事は楽しいものになる。あんな風に乱暴にされたら、折角美味しく料理された食べ物も、味気ないものになってしまいかねない。
 諭すように呟いて、綱吉はディーノから奪った椀に残っていた白飯を、器用に箸で掻き集めた。
 落ちてしまった分は、流石にもう食べられない。冬場の餌に苦労しているだろう鳥たちに分けてやる事にして、彼は確保したひとくち分を摘み取り、顔の前に持っていった。
 飯粒の塊が崩れもせずに二本の棒に挟まれている光景に、ディーノは感心したように何度も頷いた。
「へえ」
「じゃあ、ディーノさん」
「ん?」
「はい。あーん」
「あん?」
 器用だと褒めてやろうとしたところで水を差され、ディーノは顔の前にずい、と寄せられたその米飯に目を瞬かせた。
 近いところから遠くへと焦点を調整し、ぼやけていた綱吉の輪郭を鮮明にする。真顔の彼は可愛らしく小首を傾がせて、金魚のように口をぱくぱくさせた。
「あ、あーん?」
「そう。ほら。あーん、ってして?」
 何をどうして良いのか分からなくて、目を点にした彼に再度言って、綱吉は身を乗り出した。
 動きを真似て口を開くべきか、否か。困っているディーノの頭上でなにやら大きな物音がしたけれど、綱吉は気付かないまま柔和に微笑んだ。
「ほら、早く」
「ああ、あー……んぐ」
 急かされて仕方なくディーノは口を開き、ちょっとだけ前に身体を傾けた。すかさず綱吉が箸ごと押し込んで、唇が閉ざされる前に素早く引き抜いた。
 後に残された米の塊を噛み砕いて、仄かに香った甘味に、彼は驚きを露わにした。
「あれ、美味い」
「でしょう?」
 自分が育てた米でもないのに得意げに言って、綱吉は飛び散っていた米粒を拾い上げた。
 このひと粒にも、神様が宿っていると聞く。穏やかな笑みを浮かべた彼の横顔を見詰め、ディーノは白飯が通り抜けていったばかりの喉を撫でた。
 違和感は強い。だが耐えられないほどの苦しさではない。
 綱吉が喜ぶのなら、今晩からでも膳を囲む輪に加わっても良いかもしれない。そう思わせるに十分なひとくちだった。
 ただ、それにはひとつ問題がある。箸だ。
「ああ、でもツナが全部食わせてくれるんなら関係ないか」
「はい?」
 細長い棒二本だけで魚を身と皮と骨とに分解し、芋の煮っ転がしを食べやすい大きさに切り分け、米粒の集合体を巧みに掬い上げて口に運ぶなど、ディーノには難しすぎる。とてもではないが、一朝一夕で身につけられるものではない。
 だから、出来る人に頼る。槍玉に挙げられた綱吉がぎょっとして素っ頓狂な声をあげるのを見て、顎に手をやった彼はしきりに頷き、長着に隠れた細い腰や、捲れた裾から覗く白い脚を舐めるように見詰めた。
 ふくよかな唇に、弾力たっぷりの尻。甘く色付いた声と熱に潤んだ瞳も同時に思い浮かべ、彼は湧き出た唾を音立てて飲み込んだ。
「んー、いや。どうせなら飯よりも、ツナが食いたいな、っていうか」
「へ、変な事言わないでください!」
 なにやら急に雲行きが怪しくなったのを感じ取って、座布団を蹴って立ち上がった綱吉は、折角拾い集めた米を彼目掛けて放り投げた。しかし節分の鬼ではあるまいし、ディーノはそれくらいではへこたれない。
 悪巧みを思いついた顔をして、じりじり後退する綱吉を追いかけ、金髪の青年が立ち上がる。
 舌なめずりした彼に怯え、壁際に追い込まれた綱吉が心の中で助けを呼んで悲鳴をあげた。
「つーなー」
 楽しそうに笑ったディーノの後頭部に雪かき用の長板が叩き込まれるまで、あと、五秒。

2010/11/07 脱稿