雨滴

 軽やかな鈴の音に心擽られ、綱吉は誘われるままに顔を上げた。
「あ……」
 地表を駆ける熱風が、この一瞬だけは高原の涼やかな風に感じられた。煽られた髪の毛を押さえて右を見た彼は、青色の屋根の軒先に吊るされた白い物に目を留めて、二秒ばかり停止した。
「ツナ?」
「あ、うん。なんでもない」
 隣を歩いていた青年が、足取りの鈍った彼に気付いて振り返る。一メートル少しの距離が開いてしまっていて、姿勢を戻した綱吉は慌てて首を振った。
 小首を傾げた山本は緩慢に頷き、ポケットに押し込んでいた手を引き抜いた。肩に担いだ鞄を叩くようにして撫で、早く帰ろうと急かす。
「うん」
 今度は首を縦に振った綱吉が、歩き出そうとして、直前にまた斜め後ろを見た。前を行く人に気取られないよう、本当に一瞬だけ。
 夏の太陽は沈むのが遅い。授業が終わって直ぐに帰宅する頃は、まだ地平線に沈むなど考えられないような高さにあって、容赦なく大地を焦がした。影は短く、身の丈の半分ほどしかない。
 ただ朱色が西の空一面に広がった後は、暗くなるまであっという間だ。
 温い風が吹いても、もう風鈴の音は聞こえない。最近は騒音だ、なんだと五月蝿いので、設置を控える家が多いのだと、テレビのニュースかなにかで聞いたのを思い出す。
 折角の夏の風物詩なのに、勿体無い。あの軽やかな音のひとつも我慢出来ないほど、余裕が無い人が増えているのだろうか。
 南の空にむくむくと成長中の入道雲に目を遣って、綱吉は右手に握った鞄を前後に振り回した。
「ね、山本」
「ん?」
「明日、もし雨が降ったら」
「うん?」
 歩調を速め、大きな背中を追いかける。距離は直ぐに詰まって、簡単に追い越せてしまった。
 呼びかけに反応した彼が、聞こえて来た台詞にまたも小首を傾げた。左右の眉を真ん中に寄せて、不思議そうに目を細める。
「雨?」
「うん」
「降るのか?」
「ううん」
 手短なやり取りで、綱吉は実に忙しなく首を動かした。振り子のように揺れ動く彼の頭部を面白そうに見詰め、山本は南の空の積乱雲に肩を竦めた。
 あの雲がもっと大きく成長したら、並盛町をゲリラ豪雨が襲うかもしれない。しかしそれは明日の話ではない。
 意味が分からないと素直に降参を表明し、綱吉に続きを促して、彼は短く切り揃えた黒髪を掻き回した。
 頭皮が汗ばんで、髪の毛自体も湿っている。短髪な分、直射日光が突き刺さる面積も大きいのか、日焼けした地肌が少しヒリヒリした。
「ん、と。だから、明日雨が降ったらさ、山本の家、行ってもいい?」
「俺んち?」
 何処まで言ったかを思い出そうと唇を掻き、明るい声を発した綱吉に山本が即座に振り返る。両手を頭上にやっていた彼は、その体勢のまま腰を捻り、隣を行く少年を見詰めた。
 話の脈絡が全く掴めない。何が言いたいのか良く分からぬまま、彼は色よい返事を期待している綱吉から視線を逸らした。
「んー、そりゃ良いけど。え、でも明日は雨じゃないんだろ?」
「うん。だから、もしもの話」
 一寸前の綱吉の返答も含めて、山本は腕を解いて声を高くした。即座に首肯した綱吉が、雨はただの前提だと口ずさむ。
 益々訳が分からなくて、山本は口を蛸のように尖らせた。
「なんだよ、それ。晴れてちゃダメなのか?」
 日暮れまでの時間は、まだまだたっぷり残されている。今から進路を変更し、竹寿司を目指してもなんら問題ない。
 だが綱吉は悪戯っぽく笑うばかりで、山本の提案には首を横に振って返した。
 彼は頬を膨らませて小さく唸り、入道雲の進行速度を想像した。あれが町内を覆い尽くすのに、あとどれくらいの時間が掛かるだろう。気象予報士なら簡単に分かる問題も、専門知識が皆無の彼には難題極まりなかった。
 不貞腐れた山本に目配せして、綱吉は照れ臭そうに鼻を掻いた。目線を浮かせ、スキップまで始めて、とても楽しそうだ。
「ツナ」
「なに?」
「雨じゃなきゃ、どうしてもダメなのか」
「うん。だって、雨じゃなきゃ意味がないもん」
「……明日雨が降らなかったら、どうすんだよ」
「あー」
 しつこく食い下がる山本に、綱吉がこれまでと同じような説明を繰り返す。臍を曲げた山本は更に早口で捲くし立て、拗ねた目で親友たる少年を睨んだ。
 言われて気付いた顔をして、綱吉は首を右に倒した。
「んー……別に明日だけじゃなくても。明日以降の、雨が降った日で」
 条件が緩んで、山本は心持ちホッとした。が、何故雨の日限定なのかは依然分からなくて、不機嫌にしていたら、様子を窺っていた綱吉が急に噴き出した。
 前触れもなくげらげら笑い出されて、そんな変な顔をしたつもりのない山本は慌てた。
「ツナ?」
「うぅん、なんでもない。なんでもないけど、あはは」
「なんだよ、もう。言えよ、言えってば」
 顔の横で手を振って誤魔化そうとする彼の顔は、まだ笑っていた。琥珀色の目を細めて、腹を抱えて苦しそうにしている。
 ひとりで笑っている彼が一寸悔しくて、山本はせっついて肘で小突き、そのまま彼に乗りかかっていった。
 二十センチ近くも上背がある彼に斜めに抱きつかれ、押し潰されそうになった綱吉は咄嗟に腰を沈めて踏ん張った。が、彼は遠慮なしにぎゅうぎゅう押してくる。
 このままでは路上に張り倒されかねない。迫り来るアスファルトに恐怖を覚え、彼は嫌がって大きく身を捩った。
「山本!」
「うりゃ。そら、言わないとこうだぞ」
「ひゃはっ、や、ちょ……分かった、言う。言うから!」
 それでも振り払えず、あまつさえ脇腹を擽られ、綱吉は甲高い悲鳴をあげて白旗をあげた。涙目で訴えて止めてもらい、息を切らしてぜいぜいと肩を上下させる。
 胸を撫でてバクバク言っている心臓を宥め、彼は目を輝かせている親友に渋い顔をした。
「さ、ツナ。大人しく白状しろ」
「分かってるよ、もー」
 力技で来られたら、綱吉が勝てるわけが無い。分かってやっている山本を軽くねめつけて、彼は長い息を吐いた。
 いざ語ろうとしたら、照れが入る。言い渋っていたら、今度は真後ろから抱きつかれた。
「ツナー?」
「ぎゃっ」
 ずっしり圧し掛かられて、変な声が出てしまった。大仰に肩を竦めた彼を笑い飛ばし、山本は華奢な肩に腕を回した。
 離れて欲しいのに逆に密着してくる彼を振り返って、綱吉は若干頬を赤らめて口を窄めた。
「ほーら」
 恥ずかしがっているのに気付いていながら無視して、山本は彼の太腿を膝で押した。
「うぎゃ。うぅ、……だからさ、雨って、嫌じゃない?」
「ん? ああ、そうだな」
 綱吉が、山本を背中に担いだまま歩き出す。離れてくれるかと少し期待したのだが、山本は綱吉の足を挟む格好で蟹股になり、よたよたと彼にしがみ付いたまま前に進んだ。
 時折後ろから蹴られつつ、綱吉は言葉を選び、呟いた。
「だからさ、早く晴れて、山本が元気になるようにって」
「うん? 俺、元気だぜ」
「違うよ。山本、雨の日ってなんか、落ち込んでるってのとは違うけど、ちょっと元気ないから」
 今の話ではない。そう言って、綱吉は肩越しに後ろを見た。
 指摘された彼は眉間に皺を寄せ、綱吉を解放した。こめかみに指を置いて考えるが、覚えはない。ただ言われてみると、そんな気がしてくるから不思議だった。
「だから、えっと、まぁ、早く晴れますようにーって」
「俺んち?」
「うん。てるてる坊主、作りに行こうかなって」
 はにかんだ綱吉が、言うほどの事でもなかっただろう、と舌を出す。
 風鈴の隣にぶら下がっていた白い人形を見て、ふと思っただけだ。その日まで秘密にしておきたかったのに、言わされたのが面白くないのか、彼は赤い顔を隠してそっぽを向いた。
 夕焼けにはまだ早い。蜂蜜色の髪から覗く朱色の耳に目を細め、山本は幾らかの驚きを隠し、微笑んだ。
「なんだよ、そんな事」
「む……」
「だったらさ、雨の日に来るより……あ、いや。やっぱ雨の日で」
「山本?」
 てるてる坊主は雨が止むように祈るものではなく、雨が降らないよう祈るものだ。だから晴れている日に来て欲しいと、そう言いかけて、山本は首を振った。
 怪訝に声を高くした綱吉に目尻を下げ、人好きのする笑顔を浮かべる。手を伸ばして爆発している頭に触れると、汗を掻いた毛先が指に絡みついた。
 まるで離れて行かないでと言われているようで、嬉しくなった。
「帰ろうぜ、ツナ」
 すっかり止まってしまった足を繰り出し、彼は綱吉を追い越した。呵々と笑い、夏の空を仰ぐ。温いが心地よい風が吹いて、彼は深呼吸した。
 野球が出来なくて、鬱陶しくて嫌だった雨の日の楽しみが増えた。それに、外がじめじめしている中で、自分だけが陽だまりのような笑顔を抱き締められる。
 なんというご褒美だろう。
 振り向けば、小首を傾げた綱吉と目があった。まるで分かっていない様子に苦笑し、山本は、
「楽しみだな!」
 大声で叫んだ。

2010/07/12 脱稿