夏風邪

「うぅ、あづぅい……」
 寝苦しさに喘ぎ、胸を掻き毟って綱吉は呻いた。着替えてから一時間も経っていないのに、既に寝間着は汗でびしょ濡れだった。
 襟元を広げてみるが効果は薄く、睫にまで迫った汗を腕全体で拭い取る。そのまま右腕を頭上に落とし、彼は恨めしげな目を天井に向けた。
 締め切った窓の向こうから、蝉の声が遠く微かに響いてくる。分厚いカーテンを閉めて、照明も消してあるので、部屋の中は昼であるに関わらずかなり薄暗かった。
 絶対的に足りない酸素を舌で掻き集めて唾と一緒に飲みこみ、胸を浅く上下させて心を鎮めようと試みる。だけれど室内に漂うむっとした熱気が、彼の集中を悉く阻害した。
 部屋の気温は見えないが、外よりもずっと蒸し暑いと思って間違いなかろう。屋内であるに関わらず室温が異常に高い。その中で、彼はベッドで横になっていた。
 頭に敷いた枕はぶよぶよして、寝返りを打つ度に形を変えた。最初は氷枕だったのだが、今ではすっかり水、否、ぬるま湯枕だ。
「は、ひぃ、ふー……」
 苦虫を噛み潰したような顔をして、窄めた口から息を吐く。それも稀に見る熱を持っており、唇の内側を程よく焼いてくれた。
 眠りたい。が、眠れない。こんな最悪な環境で熟睡できる人間は、余程鍛錬が行き届いているか、それとも鈍感かのどちらかだろう。
 両腕を広げて大の字になり、ふぅふぅ言いながら足で布団を蹴る。薄手のタオルケットを下に滑らせると、胸の辺りがほんの少しだけ涼しくなった。
 ただそれも一瞬で、じきに分からなくなってしまった。
 腹を冷やして寝たから、こんな事になったのだ。熱帯夜の寝苦しさに負けて、窓を開けたまま布団も被らずにいたら、早々に喉に変調を覚え、次に発熱が続いた。
 咳やくしゃみは出ないし、鼻水もさほど垂れないので呼吸は楽だが、動くと眩暈がして、体の節々が痛んだ。
 同じ環境で眠っていたリボーンはすこぶる元気で、呆気なく風邪を引いた綱吉を指して修行がなっていない、と笑った。油断していたのは本当なので、反論出来なかったのが悔しくてならない。
 もっとも、喉の痛みが酷くて、最初から喋れるような状態ではなかったのだけれど。
 馬鹿は風邪を引かないというのに、なんたることか。先ほど奈々に渡された体温計を枕元に見て、彼はだるさに負けて目を閉じた。
 熱など測るのではなかった。余計に辛さが増しただけで、何の役にも立たなかった。
「うぅ、死ぬ……」
 掠れる声で呟いて、横になったまま仰け反って湿っぽいシーツから背中を浮かせる。身体を置く場所を少しだけ右にずらした彼は、たったそれだけの作業で息を切らし、鼻を啜った。
 涙目で天井を見詰め、その先にある空調を睨み付ける。こんな時くらい冷房を入れて欲しいのに、薄情なリボーンは許してくれなかった。
 但しその時は、窓は開いていた。閉めたのは綱吉だ。
 平気だと思っていたのだが、予想は簡単に覆されてしまった。後悔ばかりが胸を過ぎり、苦しくて仕方が無い。
 だが窓を開けるべく立ち上がろうとは、少しも思わなかった。
 空気の通り道を作れば、この無駄に高い室温も少しは落ち着くだろう。劇的な変化は望めずとも、濁りきった空気は綺麗になって、多少なりとも過ごし易くなる筈だ。
 それが分かっていながら、彼は外部との接点を作ろうとしなかった。
「ふは、……ン」
 ぱくん、と空気を噛んで飲み込み、吐き出す。疲労感でいっぱいの頭を左右に振って、耳の後ろから響く水音に舌打ちする。
「俺の、馬鹿」
 今日一日様子を見て、明日になっても熱が下がらないようなら病院に行こう、という話になった。
 もっとも、もし無事下がったとしても、明日遊びに行く予定は中止せざるを得ない。海ではしゃいで、ぶり返すことになったら目も当てられないからだ。
 奈々やリボーンの言い分は痛いくらいに分かる。だからこそ体調を今以上に悪化させる事になろうとも、綱吉は窓を閉めて鍵を掛けた。
 鍵を外しておいたら、入って来てしまう。部屋の主に断りもなく、玄関も通らずに、それも土足で。
「タイミング悪すぎ、だよ」
 恨み言を繰り返し、水枕の上で頭を上下に振る。途端に眩暈に襲われて、彼はきつく瞼を閉ざし、眉間に皺を刻んだ。
 折角約束を取り付けたのに、台無しにしてしまった。きっと怒っているだろうし、呆れているだろう。メールで明日行けなくなった旨を伝えた後、返事が無いのが良い証拠だ。
「ヒバリさん……」
 少しでも心配してくれていたら、嬉しいのだけれど。ささやかな願いと共に鼻を鳴らし、小声で名を呼ぶ。緩く握った右手で布団を叩けば、長く沈黙を続ける携帯電話が衝撃で揺れた。
 海辺を颯爽と走るバイク、その後部座席に収まる自分。随分前から光景を脳裏に描き、現実のものとなるのを夢見てきた。
 やっとそれが叶うと思った矢先の発熱で、あまりにも空気の読めない自分の身体を引きちぎって投げ捨てたくなった。
 もう一発布団を殴り、彼は脱力して静かに目を閉じた。
 夏風邪を引いた綱吉が眠っていると知っているからか、いつもは五月蝿い子供達も、今日に限って静かだった。遠慮して公園にでも遊びに行っているのだろう、リボーンも伝染ったら困ると部屋を出て行って久しい。
 そう広くもなく、しかし狭くも無い部屋でひとりきり。
 居候が増えてめっきり騒がしくなった沢田家が、こんなにも静かなのはいつ以来だろう。
「だる……」
 呻くように囁き、寝返りを打って再び天を仰ぐ。左肘を折って額に落とした彼は、視界が闇に染まるのを待って長い息を吐いた。
 ぐっすりとは眠れそうにないけれど、少し眠ろう。そう決めて、鳴らない携帯電話を探し出して右手に握る。
 夢うつつの境界線は直ぐに訪れた。
 目覚めているのか、それとも眠っているのか、自分でも分からない非常にあやふやな場所を、綱渡りしながら進んでいく。左右どちらかに落ちれば奈落の底に等しい泥のような眠りに辿り着けると思うのだが、どちらに転べばいいのかも、はっきりしなかった。
 息苦しくて、肌を伝う汗の感触にさえ不快感が募る。落ちた、と思ったらまた水面に戻されてしまって、泳ぐことも、溺れることも出来ない。
 これだったら無理に眠ろうとせず、大人しく起きて横になっている方が良かった。腹の上に移動させた手でタオルケットを握り締める。触れ合った肌が熱を持っており、自分の体なのに気持ちが悪かった。
 全身を使って息を吐いて、吸う。暑くて仕方なくて、せめて温くなった水枕だけでも交換して欲しいと願い、綱吉は何度目か知れない寝返りを打った。
「う、……ん」
 口を閉じたまま声を漏らし、顎を引く。ふわりと、風が彼の頬を撫でた。
 窓は閉まっているし、空調は動いていない。廊下に通じるドアは開けてあるが、そちらから流れこんできたとしても、こんなに軽やかで、心地よいものにはならない。
 カーテンがレールの上で踊っている。シャラシャラと留め具が擦れ合う音が鼓膜を打ち、綱吉は戸惑いに瞳を揺らした。
 接着剤でも塗られたのか、瞼がなかなか開かない。そうこうしているうちに蝉の声が近くなって、彼の汗ばんだ肌に何かが触れた。
 温い。だが自身の体温よりも低いからか、さほど不快には思わなかった。
 労わるように何度も額を往復するそれは、張り付いていた前髪を払い除けてくれた。続けて押し当てられた布で汗を吸われて、表面温度が一層下がった。
 呼吸が楽になって、喉の痛みが引いていくのが分かった。
「う……」
 奈々だろうか。そういえばそろそろ寝間着を交換する時間だったと、ぼんやりする頭で考えながら、綱吉は触れて来る指に意識を集中させた。
「どうして窓、閉めてたの」
「ぅえー……?」
 質問の声が奈々にしては低い。彼女まで風邪をこじらせたのかと、彼は平素では考え付かない勘違いをして、目を閉じたまま笑った。
 ぺちぺちと手の甲で頬を叩かれて、答えを急かされる。綱吉はゆるゆると首を振り、どれだけ言っても玄関を使ってくれない恋人の顔を思い浮かべた。
「だ……て、ヒバリさん、入って……」
「入ったら駄目なの?」
「かぜ……、うつ、る」
 喋ると喉が痛い。必然的に声が間延びして、音も掠れてガラガラだった。
 最後は辿々しく、拗ねながら呟いた彼に、質問者は盛大な溜息をついた。がっくり肩を落としている姿がなんとなく想像できたが、真っ先に思い浮かんだのは奈々ではなかった。
 此処に至ってやっと、彼は頬を撫でてくれた手の持ち主が母親ではないと気付いた。一瞬にして血の気が引いて、火照って赤かった顔が一気に青白くなった。
「え……」
「伝染らないよ。それより、こんなに空気の悪い中にいたら、治るものも治らないだろう?」
「ひっ」
 絶句していたら、いきなり鼻を抓まれた。真上に向かって引っ張られて、水枕から頭を浮かせた綱吉は顔を引き攣らせた。
 短い悲鳴をあげて、長く閉ざしていた瞼を開く。揺れるカーテンが奥に、その手前に白い学生服の袖が見えた。
 緋色の腕章の文字を読み取るまでもなく、綱吉は自分の鼻を捩じっている不法侵入者の声を心の中で叫んだ。
「ひふぁっ」
「まったく」
 呂律が回らぬまま声にも出して、直後に解放された。ドスン、とベッドに身を沈め、涙目の綱吉は懸命に働かない頭を働かせた。
 部屋の窓は閉まっていた。ガラスが割れた音はしなかった。呼び鈴も鳴っていない、そもそも雲雀は玄関から沢田家に上がりこんだことがない。
「熱、何度?」
「なんで……」
「何度?」
「三十八度六分、です」
 絶句していたらしつこく訊かれて、渋々答える。枕元で寝転がっている体温計を拾った雲雀は、予想以上に高い数値に、面白く無さそうに口を尖らせた。
 身を起こそうとしたら、降りて来た手に腹を押され、ベッドに戻された。下半身を覆っていたタオルケットを引き揚げられて、肩までしっかり被せられた上に、隙間も出来ないように端を背側に押し込まれた。
 暑い。ただ窓が開放されたからか、どうにか我慢できそうだった。
「どこ、か……ら」
「隣」
「え?」
 綱吉の部屋の窓は、鍵が掛かっていた。カーテンも閉められて中の様子を窺い知ることさえ出来ず、かといって正面突破を試みても、家人に、特にリボーンに追い返されてしまいかねない。
 夏風邪はこじらせると長引く。他人に伝染すわけにはいかないので、見舞い客は全て断るよう、綱吉も奈々に頼んでいた。
 窓を割って中に侵入したら、後々綱吉に迷惑がかかる。連絡を受けて訪ね来たものの入れそうになくて、大人しく帰ろうかと諦めかけた矢先。
 雲雀の目に、見事に開け放たれた窓が映った。
「となり、って……」
 ひんやり冷たいものを感じ、綱吉は首の力だけで頭を持ち上げた。限界まで目を見開いて、廊下に続く扉を凝視する。
 記憶にあるよりもずっと大きく開け放たれて、見える範囲が広がっていた。
「……うそ」
「残念でした」
 呆気に取られて呟けば、頭上の雲雀が勝ち誇った顔をして笑った。そして湿っぽい髪の毛をくしゃくしゃに掻き回して、綱吉をベッドに縫い付けた。
 隣の、奈々たちの寝室の窓が開いていたのだ。そちらを使えば、確かに玄関を経由せずとも綱吉の部屋に回りこめる。子供たちはいないし、奈々やリボーンも一階だから、隣室は無人だ。
 そんなところまで頭が回らなくて、致命的な見落としに落胆し、綱吉は奥歯を噛み締めた。
「ひどい」
「なにが。そんなに僕に会いたくなかった?」
「ちっ、ちが、う……もん」
 首を振り、手を伸ばす。小指を掴むと、雲雀が笑った。
 逆だ。会いたかった。だけれど会えば我が儘を言ってしまうし、迷惑もかかるから、必死で我慢していたのだ。
 それなのに彼は、人の努力を嘲笑い、裏技を駆使して来てしまった。
 病気になると心細さと人恋しさが増す。不安だった気持ちを見透かされた気がして少し悔しくて、綱吉は鼻を膨らませた。
「タイミング良過ぎ、だよ」

2010/07/04 脱稿