神渡 第十夜

「十代目」
「そうか、うん。そうか。……いいね、それ。そっか。そういうのは、考えて無かった」
「十代目?」
 獄寺が護符の辻売りを諦めて親元へ逃げ出すか、負けを認めてすごすごと帰ってくるか、そのどちらかしか考えていなかった。よもやこういう結果が導き出されるとは、リボーンや雲雀も想定していなかったに違いない。
 自然と笑いがこみ上げて来て、肩を揺らして両手で口元を押さえ込んだ少年を前に、獄寺は怪訝にしながら小首を傾げた。
 戸惑っている彼に微笑み、綱吉は首を振った。
「あのね、……いいんだよ、それで」
「え?」
「ね、獄寺君。退魔師って、そもそも、何のためにあると思う?」
 胸の前で両手を叩き合わせた綱吉の言葉に、獄寺は答えに詰まって口を尖らせた。
 退魔師。妖や悪鬼といったものを祓い、災いを退け、対価を得る者達。蛤蜊家を中心に統括される、異能集団。
 始まりは、異能者を異端と退ける兆候を嫌い、正当性を主張する為に組織立てられたものだ。その力と技を正しく理解して貰い、偏見をなくそうと各方面に働きかけたのが、最初だ。
 現実には、その理想は半分も成し遂げられていない。蛤蜊家は閉鎖的になり、退魔師も己の利益を優先させて、貧しい者達には見向きもしなくなった。
「ええと」
「俺はね、みんなが平和に暮らせる為にあるんだと、思ってる」
 両手を広げ、無数に刻まれた皺と傷に見入った綱吉が呟く。言いかけた言葉を飲んだ獄寺は、どこか寂しげな綱吉の表情に、心の中で首を捻った。
「平和、に」
「そう」
 曖昧すぎる表現に、獄寺は想像が追いつかない。だけれど綱吉は確信を込めて頷き、拳を握った。
 それを大事に胸に押し当て、目を閉じる。
「退魔師って、結局は人より少し感覚が鋭くて、人が見えないものを視る力の持ち主ってだけ、だよね。他の人達と何が違うのかって、ずっと、俺は考えてた」
 この力は生まれながらにして与えられたものであり、いわゆる天賦の才に等しいものだ。けれど、その他大勢はこの力を有しない。持ち合わせていないのだから、理解も遠く及ばない。
 差別される人も多かったろう。こんな力が無ければ、と思う人も沢山居たはずだ。
 けれど綱吉の考えは、少し、違う。
「これって、要するに、必要だから与えられたって事、だよね。この力があるから、俺には出来る事がある。他の人に出来ない事が、俺たちには出来る」
「……はい」
「それって、凄くない?」
「そ、そうっす、ね」
 急に声を高くし、身を乗り出して来た綱吉に圧倒され、獄寺は頬をひくつかせながら、どうにか頷いた。
 人には成し得ない事が、出来る。故に退魔師は恐れられ、迫害され、同時に尊敬された。特権階級に取り入り、権力を強めるのもまた、造作なかった。
 馬鹿と鋏は使いよう、と言う。退魔師としての能力も、弁えて用いればとても強力な武器になる。
 だが綱吉は、そうは考えなかった。
「だからね、獄寺君。……いいんだ、謝らなくて」
「十代目?」
「だって、君は当たり前の事をしたんだ。あの護符だって、元々は自力で悪鬼を祓えない人たちを守る為に作ったもので、君のやった事は正しい。お金儲けの為に使うべきじゃないんだ、俺たちの力は」
 目の前で力が必要とされている時、これを行使するのは正当な行為だ。なんら恥じ入る事ではなく、むしろ誇るべきではないか。
 両手を広げて力説する綱吉の言葉が、獄寺の心にするりと忍び込む。とくん、と高鳴る胸に唇を戦慄かせ、彼は利き手を握り締めた。
 持ち得る力を最大限に生かし、困難に直面している人々を救う。それは決して簡単な事ではない。だが、獄寺はやってのけた。
 誰かに頼る事なく、ひとりで。
「俺は、そんな」
「凄いよ、獄寺君は。……君は、強いね」
 綱吉はまだ言いたそうな獄寺を制し、首を振り、春の日射しを思わせる柔らかな笑みを浮かべた。
 ふわりと沸き起こった温かな香りに瞠目し、獄寺は全身の毛が逆立つ感覚に見舞われた。鳥肌が立ち、直後に身震いが起こる。胸の中で堪えきれない感情が爆発寸前まで膨らんで、言い表しようのない衝動に駆られた。
 これまでにも何度か、回数は少ないが色々な人に褒められて来た。しかし綱吉から貰った今のひと言が、どんな賞賛よりも輝かしく、誇らしい。
「十代目」
 歩き出した綱吉の華奢な背中に見入り、呼び止める。左足を前に繰り出していた彼は雪の中を振り返り、小首を傾げた。
 そんな些細な仕草ひとつにとっても愛らしく、微笑ましい。
「なに?」
 道の真ん中で立ち止まったまま微動だにしない獄寺を怪訝に見詰め、綱吉は話の先を促した。
 綱吉という存在を産み出した奈々、そして天上の神々にどれだけ感謝しても、し足りない。そうして彼と自分を引き合わせてくれた、気まぐれな運命というものにも、獄寺は万謝の念を抱いた。
 これまで様々な苦難に遭遇し、振り回されて来た。しかしそれも、綱吉とこの里で巡り会う為の試練であったのなら、理解出来る。
「俺、十代目と出会えて、凄く幸せです」
「う……ん?」
 急に真面目な顔をして断言した獄寺に、綱吉は不思議そうに琥珀の目を丸くした。
 一秒ごとに変わる表情は、見ていて飽きない。人を幸せにする笑顔と、家族や仲間を大切にする心、決して折れる事の無い信念。
 その全てに焦がれる。憧れる。
 尊敬する。
 愛おしく思う。
「俺、十代目の事」
 胸に手を押し当て、張り裂けそうな鼓動を律して抑え込む。だけれど口火を切った言葉は制御しきれず、溢れ出す思いは止められない。
 完全に振り返った綱吉が、途切れた言葉の先を想像して頬を赤く染める。ぶわっ、と跳ね放題の髪の毛が一層膨らんでいく様を見詰め、獄寺は一歩、前に出た。
「え……あ、獄寺君?」
 圧倒されて動けないでいる彼を見下ろし、唇を真一文字に引き結ぶ。強い決意を秘めた眼差しから目を反らせず、綱吉は困った様子で胸元を掻きむしった。
 逃げようとしてか、おたおたと揺れる肩を捕まえて、獄寺はビクリと身を強張らせた綱吉の琥珀に自分の姿を大きく映し出した。
「俺、十代目の事が……」
 熟れた林檎よりも真っ赤になった綱吉に迫り、ありったけの想いを伝えようと口を開く。呼吸が自然と荒くなり、吐き出した熱を鼻先に浴びせられた綱吉が咄嗟に目を閉じた。
 小柄な身体が震えるのを掌から直接感じ取り、獄寺の中の獣が蠢き出す。
 もし、今此処で綱吉が拒まなかったら、構わないだろうか。幸いにも村の入り口には他に人の姿もなく、誰かに見付かって咎められる事もない。
 長く蓋をして鍵を掛け、閉じこめていた欲望が急にむくむくと沸き起こり、生唾を飲んだ獄寺は怯えて小さくなっている綱吉の姿を脳裏に焼き付け、淡い紅色の唇に視線を集中させた。
「十代目」
 桜の花びらのようなその唇が、雲雀、もしくはディーノのそれと重なり合うところなら、何度か目撃してきた。
 自分だって、彼らのように綱吉を抱き締めたい。くちづけたい。
 もっと触れたい。
 我慢が限界を超える。彼は本能の赴くままに、ずずい、と身を乗り出した。
「じゅ――」
「はい、そこまで」
 蛸の口のように唇を窄ませて尖らせ、熱い接吻を期待した彼の手の中から、突如温もりが消えた。
 同時に聞こえた冷たい、背筋を凍らせるに充分な声色に、高まっていた心も体も急速に冷えていく。耳覚えのある淡泊で、抑揚に乏しい口調からして、相手の機嫌が悪いのは明らかだった。
 空振りした両手で己の胸を叩いた獄寺が、嫌な予感をびしばしと感じながら恐る恐る目を開けた。夢であればいいのに、とどれだけ願ったところで無駄で、彼の前方には想像した通りの人物が、つい今し方まで彼の腕の中に居た綱吉を抱き抱え、立っていた。
「よ、……よう」
「やあ、生きてたんだ」
 頬をひくりと痙攣させた獄寺が、どうにかこうにか右手を軽く持ち上げて精一杯の挨拶を送る。横抱きにしていた少年を地面に下ろした雲雀は、さらりと皮肉を口ずさんでから、気まずげにして赤くなっている綱吉の鼻を抓んだ。
 痛がって首を振った恋人を笑い飛ばすが、視線を持ち上げた時にはもう、彼の表情からは綱吉に向けられるような優しさが、一切合切掻き消えていた。
 睨まれて気圧した獄寺は、内心忌々しい人物の登場に舌打ちした。
「う、うっせーよ。ああ、生きてるさ。お生憎様、ぴんぴんしてるっての」
「そう、ならいいや。それで、ちゃんと稼いで来てくれたんだろうね」
「どきっ」
 効果音を自分で口にして、両手を胸に押し当てた獄寺の反応から、結果は楽に想像出来る。勝ち誇った笑みを浮かべた雲雀に地団駄を踏み、彼は負け惜しみに罵声を上げた。
「てめーこそ、どうなんだよ!」
 獄寺が売りに回るべく託された枚数の、倍以上が雲雀の手元にはあった。それを全部売却して、尚かつ獄寺よりも早く里に帰っている。どこぞの路上で二束三文の大安売りでもしたのではないか、と声高に主張する彼に、雲雀は肩を竦め、わざとらしい溜息を零した。
 黒濡れた髪を掻き上げ、見下した視線で獄寺を射抜く。
「ぬぐ」
「どこぞの馬の骨と一緒にしないでくれるかな」
「誰が馬の骨だよ!」
 握り拳を振り上げて怒りの声を発する獄寺を無視し、雲雀は綱吉の髪に散らばる雪の結晶を丁寧に払い除けた。寒さで赤くなっている耳朶も労るように撫でて、両手でそっと包み込む。
 そのまま挟まれてぐりぐり回されて、綱吉は堪らず爪先立ちになって首を竦めた。
「ヒバリさん、痛い」
「冷えてるね。ずっと外にいたから」
 心配する優しい声に反して、今度は頬を抓まれて横に引っ張られる。さりげなく叱られている綱吉を雲雀越しに見て、獄寺は聞こえた台詞にはっとした。
 村に帰る道をとぼとぼと歩いていたら、入り口に綱吉が居た。彼を見つけた瞬間は、なんという奇跡だろうと天にも昇る思いになったが、まさか綱吉は長い間彼処でひとり、待っていてくれたのだろうか。
 雪がしんしんと降り続く、この寒い中を。
 想像すると胸がじんわり温かくなって、不意に涙が出そうになった。感動に瞳を潤ませる獄寺に気付き、雲雀が至極嫌そうに顔を歪め、綱吉に近付かせまいと間に割り込んで右腕を牽制に伸ばした。
「十代目、俺は幸せ者です!」
「五月蠅いよ、君。綱吉も、ほら、さっさと帰るよ。日が暮れてしまう」
 噎び泣きながら綱吉に抱きつこうとする獄寺を制し、雲雀は苦笑する綱吉の右肩を押した。促されるままに歩き出し、三人横一列になって村に続く道を下っていく。
 灰色の雲はすっかり空を覆い尽くし、里の景色も枯葉色から白に移り変わろうとしていた。未だ焼け跡が残る一帯も、このまま雪に包まれて春の到来までしばしの眠りに就くのだろう。
 曇る息の行方を眺め、綱吉はふと思い出し、雲雀を挟んで反対側にいる獄寺に身を乗り出した。
「今度、さっきの話、もっと聞かせてね」
「はい、勿論です」
「あと、獄寺君、これから三日くらいは凄く忙しいと思うから」
 覚悟しておくように、と笑みを含んだ声で言われ、獄寺は意味が分からずきょとんと首を傾げた。
 左右で展開する会話を聞くとも無しに聞きながら、雲雀は肩を竦めて前髪を梳き上げた。次第に暗さを増す村の景色に、遠く霞んで人の姿を見出して合図を送る。
 駆け寄って来る人物に、三人は揃って足を止めた。
「おーい」
「山本」
「お、獄寺。あー、そうか、それでか」
「んだよ」
 右手を左右に高く振りながら近付いて来た青年に、綱吉は目を丸くし、獄寺は不躾な視線にぶすっと頬を膨らませた。
 下からねめつけてくる彼を呵々と笑い、納得だと両手を叩き合わせた彼の前で、雲雀だけが何故か顔を背けた。
「いや、さ。さっき、雲雀の奴が急に、すんげー勢いで飛び出してったから」
「ほ?」
 綱吉と一緒に獄寺を出迎えていたのかと、お気楽調子の青年は胸の前で腕を組んでうんうん、と頻りに頷いた。が、若干頬を赤く染めている雲雀を間に置いた両名は、山本の想像が正解にはほど遠いと知っているだけに、互いの顔を見合わせて、直後噴き出した。
 獄寺を出迎えに、ではなく、綱吉を獄寺から引き剥がしに行ったのだ。綱吉の状況は、伝心で包み隠さず伝えられている。獄寺が興奮に鼻息粗くし、飛びかかる寸前まで行っていたのも、雲雀には見えていたはずだ。
 どうりで絶妙な瞬間に出て来られたわけだと、絡繰りを知って獄寺が悔しげに唇を噛む。綱吉は様子が変だからと心配して、わざわざ駆けつけてくれた山本に軽く頭を下げて、小さく舌を出した。
「早く帰ろうぜ。おばさんが、夕飯作って待ってる」
 今来たばかりの道を早々に戻り始めた山本が言った。久しぶりの温かな食事を想像して、獄寺の咥内で勝手に唾が湧き出す。
 舌なめずりした彼を綱吉が笑っていると、先頭を行く山本が思い出して肩越しに振り返った。
「なあ、どんなだったんだ?」
「なにが」
「村の外だよ。あちこち回ったんだろ、聞かせろよ」
 肘で獄寺を指し示し、顎をしゃくって話を強請る。先程綱吉に聞かせた内容を、そっくりそのまま伝えるのは癪だし面倒で、彼は素っ気ない様子で首を振り、渋った。
 けれど山本はなかなか諦めようとせず、綱吉も巻き込んでどうにか話を聞かせてくれるようしつこく頼み込んだ。
「いいじゃねえか、ちょっとくらい。なあ、ツナもそう思うだろ」
「うん。みんなも聞きたがると思うな」
 綱吉ひとりに聞かせるのなら大歓迎だが、無関係の連中にまでほいほいと語る旅の記憶は存在しない。むすっと頬を膨らませて拗ねる彼に嘆息し、雲雀は見えてきた屋敷を指で指し示した。
 つられて細長い指の向かう先に目を遣った三名は、垣根の前で手を振っている二人組に自然と笑顔を浮かべた。
「お兄さんに、京子ちゃん」
「笹川の」
 綱吉と獄寺がほぼ同時に声を発し、進路は誰が言うでもなしにそちらにずれ動いた。右腕を下ろした了平は、綱吉が会った時とは違って上にきちんと長着を羽織り、帯を締めていた。
 伽羅色の小袖姿の京子が、旅装束のままの獄寺の袖を引いて注意を呼び込む。綱吉にも負けず劣らずの大きな瞳を輝かせた彼女は、ふわふわの髪の毛を肩の上で踊らせながら、期待の眼差しで口を開いた。
「ねえ、獄寺君。村の外って、どんなだった?」
「またかよ」
 山本にも聞かれた事を彼女にまで言われて、獄寺は悲鳴に近い雄叫びをあげた。
 腕組みをした了平もが京子に倣って頷き、今すぐ教えるようせっついてくる。ただ流石に、雪が散る屋外で長時間喋るのは難しく、嫌がる獄寺と強請る三者の間に割り込み、雲雀は了平の額を代表として軽く叩いた。
「今日はもう遅いし、明日、うちに来なよ」
「うむ、そうだな。確かにお前の言う通りだ」
 痛くはなかったが少し驚いた了平が、渋々といった様子で引き下がる。が、これには獄寺が反発した。
 何故自分の都合を、他人である雲雀に勝手に決められなければならないのか。牙を剥いて威勢の良い声を張り上げた彼に向き直り、雲雀は腰に手を遣って肩を落とした。
「綱吉が言っていただろう。君は暫く、忙しいよ」
「……なんでだよ」
「並盛の里から外に出る人間なんて、滅多にいないからだよ」
 雲雀が見据える先には、笹川兄妹の家族らしき人々までもが、物珍しそうな顔をして立っていた。ひとりが屋内に呼びに戻り、その三倍を引き連れて外に出て、またひとりが余所の家に、という風に、連鎖反応でどんどん広がっていく。
 呆れ口調の雲雀の横顔を見上げ、まだ良く分からない獄寺は首を傾げた。
 不思議そうにしている彼に目を細め、綱吉が彼の肩を後ろから叩いた。
「だからね、獄寺君。みんな、君の話を聞きたがるよ」
 雲雀は瞬地を使って移動したので、村の人々は彼が出かけていたのを知らない。だが獄寺は、旅姿で村の外に向かって歩いていった。皆、これを目撃している。
 彼が帰ったと知れれば、土産話を聞きたい人々はこぞって沢田家を訪れるだろう。
 忍び笑いを零す綱吉の言葉に絶句して、獄寺は慌てた様子で山本を振り返った。頭の後ろに両手を遣っていた彼は、目が合うと白い歯を見せて楽しげに微笑んだ。
「それくらい、いいだろ。どうせお前、いっつも暇そうにしてんだし」
 山本や了平達程度ならば断り切れるが、日頃からあまり言葉を交わした事のない人にまで徒党を組んで迫られたら、さしもの獄寺も拒絶し続けるのは無理だ。
 これ以上村での自分の立場を悪くしない為にも、此処は大人しく、差し支えのある部分は省いて皆に聞かせてやる方が、後々面倒にならずに済む。
 明日からの己の状況を想像して、獄寺は痛む額に手をやってがっくり肩を落とした。
「みんな楽しみにしてたんだよ」
「十代目」
「ね?」
 里に産まれた者の多くは、里から出る事なく一生を終える。だから旅芸人一座がやってきた時も、あんなに村は沸き返ったのだ。
 村の人々は農作業に忙しく、自由な時間などあまり作れない。だから自分の知らない事を見聞きした人の話に耳を傾け、豊かだけれど狭い里に無い情景を想像し、追体験し、旅をした気分に浸るのだ。
 獄寺の帰還を心待ちにしていてくれた人が大勢居る。綱吉の言葉に彼は目を瞬き、頬を紅潮させた。
「はい」
 しっかりと頷き、その場に居合わせた全員のうち、雲雀以外の笑顔を呼び込む。笹川兄妹に別れを告げて歩き出した彼らは、見慣れている筈なのにどこか新鮮な雪の景色に見入りながら、九十九折りの石段をゆっくりと登っていった。
 そして、
「あ」
 最後の一段を登り終えた獄寺が、寒さに身震いしたところで急に甲高い声を発した。
「どうしたの」
「いや、えっと……一枚、残ってました」
 触れた袖の内側でかさかさ言う感触に小首を傾げた彼は、振り返った綱吉に向かって、引き抜いた音の正体を揺らして見せた。
 いつからそこに入っていたのか、皺だらけのくしゃくしゃの護符に、先に門を潜った山本までもが戻ってきて、肩を竦めて呆れ返る。
「貰っとけば?」
「うん。お守り代わりに持っててくれても」
 幼馴染みの提案に頷き、綱吉は遠慮がちに言った。
 見た目はすっかり見窄らしくなってしまったので、今更売りに出す事も出来ない。御利益自体に変化は無いので、これから先何かあった時に、彼の役に立つだろう。
 もっとも、さほど大きな効用は望むべくもないが。
 綱吉の言葉に獄寺は暫く考え込み、不意に後ろを振り返った。
 灰色の度合いが濃くなった雲に遮られ、いつもは稜線が綺麗に連なる山々も霞んで、殆ど見えない。その先に続くのは、彼が旅をして巡って街道、そして村や町、並びに彼の母や姉が暮らす、鬼の里。
 黙り込んだ後ろ姿を眺め、綱吉は背に回した両手を結んだ。爪先から上ってくる寒気がそろそろ限界で、指先は悴んで感覚が鈍い。
 じっとしていられなくてもぞもぞしていたら、気付いた雲雀に背後から抱き抱えられてしまった。
「寒い?」
「ん、平気。ヒバリさん、あったかい」
 自分たちだけに聞こえる声で会話し、綱吉からも甘えて彼に擦り寄る。衿に頬を寄せると、大好きな彼の匂いがいっぱいに鼻腔に広がった。
 そうしている間に、自分自身に向けて何かを呟いた獄寺が、懐を探って違う呪符を一枚取り出した。
「獄寺君?」
「そうですね。十代目の御利益、お借りします」
「ん?」
 呼びかけに振り向いた獄寺は、雲雀の腕にすっぽり包まれている綱吉を見ても、あまり機嫌を損ねなかった。妙にこざっぱりした顔をして、静かに微笑む。
 彼の呼気を浴びせられた真っ白い呪符が、まるで意思を持っているかのようにむくりと起きあがり、翼を広げて切っ先鋭い嘴を天に向けて突き立てた。
「隼」
「はい」
 雲雀のような小鳥とは違い、獄寺はこの獰猛な猛禽類を式神として使役する。綱吉の声に深く頷き、彼は青灰色の羽毛を持つ鳥に、先程の皺だらけの護符を差し出した。
 主に従順な態度を見せ、隼は四つに折られた紙を咥えると、長い翼を広げて風を招き寄せた。
「行け」
 短い命令を受け、隼が飛び立つ。降り続く雪を切り裂き、高く、高く。
 東に進路を取ったそれは、程なくして綱吉達の視界から姿を消した。
 何処へ、等と野暮な事は聞かない。獄寺も何も言わなかった。
 あれはいずれ、彼の願い通りに退魔師の結界の遙か上空を抜け、とある里のとある女性の許に舞い降りるだろう。彼と同じ名前を持つ鳥の来訪に、彼女もきっと喜ぶに違いない。
 情景を想像し、綱吉は寂しさを嬉しさで上書きし、微笑んだ。
「おかえり、獄寺君」
 思い切って顔を上げ、告げる。
 彼は気の抜けた表情をして、はにかんだ。
「獄寺隼人、只今戻りました」

2010/09/23 脱稿