神渡 第九夜

 道の両側で対になっているそれにも、白い綿雪が降り積もっている。綱吉は恐る恐る右手を伸ばすと、赤ん坊ほどの大きさの石の頭をそっと撫でた。
 雪を払い落とし、うっすら刻まれた男性像に微笑みかけて、手を合わせる。反対側の女性像にも同じようにして、彼は誰も来ない道の真ん中で膝を折った。
 腰を浮かせてしゃがみ込み、膝を抱いて南を向く。
 この道祖神が、並盛村の内と外を区切る、いわゆる境界線だった。
 村の入り口を守り、疫病や災厄を追い払う役目を担うもの。誰が、いつ、此処に祀ったのかははっきりとしない。ひとつ確かなのは、綱吉が産まれるよりずっと前から、この男女対の神は里を守ってきた、という事だ。
 綱吉はこの境界線の手前で、随分と長い時間、座り込んでいた。
 昨日も、一昨日も、彼は此処にいた。此処にいて、帰ってくるのを待っていた。
「……もう、帰って来ないのかな」
 持たせた食糧も、路銀も、長旅に耐えられるものではなかった。装備も、この季節には少々心許ないものだった。
 諦めてさっさと帰ってくるか、それとも己の負けを認めようとせずに意固地になって、里への帰還を先延ばしにするか。
 可能性は半々だった。
 獄寺が身を寄せられる場所は、此処か、もう一カ所しかない。そのもう一カ所に行かせる為に仕込まれたのが、今回の策略だ。
 だから綱吉の狙いが達せられたなら、獄寺はもう二度と並盛には戻らない。どれだけ村の入り口で待ったとしても、無駄だ。
 それなのに、どうしても足が向いてしまう。待たずにはいられない。
 矛盾しているのは自分でも良く分かっている。こうなる事が綱吉の望みだった筈なのに、今は違えてくれはしないかと願っている自分が居る。
「ぐちゃぐちゃだよ」
 重ねた手の甲に額を押し当て、彼は弱々しく首を振った。瞼を閉ざして視界を闇に染め、重く長い溜息を零す。
 病床に伏す彼の母親に、ひと目だけでも息子と会わせてやりたかった。この傲慢で、身勝手な綱吉の願望を知らず、獄寺は旅立っていった。
 言うべきだったのか。一から全部説明して、里帰りを勧めるべきだったか。
 だが鬼の里に入れば、獄寺は二度と人里には戻れない。ビアンキが奈々にだけ打ち明けて帰って行った、その配慮を踏みにじることにもなる。
 どうすれば良かったのだろう。
「帰って……来ないかな」
 視線を持ち上げ、峠道の向こうに目を凝らす。しかし未だ動くものは現れず、ただ冷たい風が吹き荒れて木々を波立たせるばかりだ。
 いつの間にか綱吉の肩や頭にも雪が降り積もっていた。彼は凝り固まった関節を鳴らして立ち上がり、身なりを整えて肩を落とした。
 これで良いのだ。そう自分に言い聞かせ、一抹の寂しさと切なさ、心苦しさを誤魔化す。
 獄寺の為を思って起こした行動だ、他に術が無かったのも嘘ではない。獄寺に傍に居て欲しいというのはただの我が儘で、彼がいない事で感じる物足りなさもいずれ薄れて消えるだろう。
 彼がどれだけ綱吉を好いていると訴えようとも、綱吉はその想いに応えられない。嬉しいのに、その倍の申し訳なさが募った。
 自分には雲雀がいる。自分にとって最愛の人は彼ひとりで、他で代替が利く事は永遠に有り得ない。
 その反面、雲雀以外の存在が己に対して恋心を抱くのを、心地よく感じていた。
「俺は、最低だ」
 好きな人がいるのに、こんな感情を抱くなど。
 雪が溶けて濡れた大地に踵を突き立て、苛立ちを露わにして叫ぶ。
 ならば今回の事は、その罰が当たったのだ。顔を歪めて泣きそうになる弱い心を懸命に奮い立たせ、綱吉は顔を乱暴に擦り、思い切り叩いた。
 乾いた音を幾度も響かせ、深呼吸をして胸の中を冷やす。雪の勢いは日暮れが迫るにつれて、少しずつ強まろうとしていた。この様子では、夜も降り続くに違いない。
「友達、として、なら……好きだったんだ」
 雲雀とのような関係にはなれなくても、獄寺と一緒に居るのは好きだった。彼と下らない話をして、馬鹿みたいな悪戯をして、笑いあうのは楽しかった。
 雲雀や、山本とはまた違った関係を築いていけるような気がしていた。だがそれも、最早叶わぬ願いだ。
「帰ろう」
 太陽は厚い雲に遮られて姿は見えない。地上に届けられる光も僅かで、一寸ずつ弱まり始めていた。
 夜の到来は駆け足で、ぼうっとしている間に周囲が真っ暗闇になってしまう事も、充分起こりえる。南の端から北の端まで帰らなければならない綱吉にとって、のんびりしていられる時間はもう残されていなかった。
 今日も無駄足だった。明日は、天候次第では此処に来られないかもしれない。
 道祖神の頭の雪を払い落とし、濡れた指を擦り合わせた彼は北方に目を向けた。
「……うん。帰るよ、今から」
 伝心で届けられた雲雀の、帰宅を促す言葉に、声に出して頷いて返す。蜂蜜色の髪をひと撫でして、彼は両腕を真っ直ぐ上に突き上げた。
「よーっし」
 走って帰ろう。坂道を下るから、転ばないように注意しながら。
 そう決めて、気合いの声を発して袖を捲る。そうやっても、綿入れはすぐに元に戻ってしまうのだが気にせず、綱吉は琥珀の目を爛々と輝かせた。
 その耳に、
「……あ」
 サクッ、と地面に積もる雪を踏む音が届いた。
 自分のものではない。獣のものでもない。
 一瞬跳ねた心臓を元の場所に押し込んで宥め、紺の綿入れの上から胸を撫でた彼は息を呑み、緊張に乾いた咥内に大量の唾を呼び込んだ。
 寒い筈なのに汗が滲み、顎を伝って雪と一緒に落ちていく。まさか、という思いと、そんなわけがないという否定の心が同時に沸き立ち、互いの領分を争って喧嘩を始めた。
 激しく脈打つ心音を耳元に聞きながら、瞬きを忘れた瞳が訴える痛みにはっとする。
「……」
 この季節、最後の行商にと村々を訪ね歩く人も居る。だから、そうではない可能性の方がずっと高い。
 けれど連日の期待と、落胆とが入り交じり、今度こそ、という想いが膨らんでいく。
 これが外れだったら、金輪際彼を捜し求めるのは止めよう。獄寺が戻ってこないのは、彼が独自の幸福を見つけたという事だ。そこに綱吉が介入する隙は、一分として残されていない。
 振り返って、そこに立っている人が彼ではなかったら。
 だけれど、本当に彼だったら。
 どんな顔をして良いのか分からなくて、綱吉は早く振り向きたいのになかなか動けなかった。泣き笑いが混在する表情を持て余し、溢れ出す色々な感情に身の置き場を探して右往左往する。その間にも足音は近づき、道の真ん中に突っ立つ存在に気付いたのか、急に止まった。
「……っ」
 息を呑む気配が伝わってくる。どくん、と一際強く心臓が鳴り響き、今にも砕けてしまいそうだった。
「じゅ……」
 聞き慣れた、それでいてここ暫くは聞くのが叶わなかった声がする。綱吉は瞳孔さえ見開いて虚空を凝視し、半端に開いていた口からはっ、と息を吐いて急ぎ閉ざした。
 ぐるぐると渦を巻いていた様々な想いが、言葉が、一遍に溢れ出してしまいそうだった。両手を重ねて厳重に蓋をして、何度も瞬きを繰り返して白昼夢に踊らされているのではないと確かめる。
 堪えきれない涙が目尻に浮かんで、鼻の奥がつんとした。
「十代目」
 心待ちにしていた呼び声に、胸が弾む。雲雀と再会したあの夜にも通じる喜びに総毛立ち、彼はその場で飛び跳ねて爪先で着地した。
 くるん、と軽業師も顔負けの素早さで反転し、南に向き直る。顔を綻ばせ、頬を紅潮させた綱吉は、直後。
「すみませんでしたあっ!」
 勢い良く頭を下げた獄寺に、かけようとしていた言葉を忘れて目をぱちくりさせた。
「……え?」
「申し訳ありません、十代目。俺は、……俺は、右腕失格です!」
 顔を下向けたまま叫ばれて、面食らった綱吉は、彼を迎え入れる準備万端だった両腕を持て余し、気まずげに脇に垂らした。
 背中に回して結び、視線を左に流す。わざとらしい咳払いをすると、漸く顔を上げた獄寺が心底済まなさそうにもう一度頭を下げた。
 出立の日から比べると、少し痩せたように思う。むしろ、表情が窶れている。
「なに、さ。どうしたの、急に」
 他にもっと掛ける言葉があるだろうに、何も思い浮かばなくて至極平凡な台詞しか出てこない。それも妙に素っ気なくなってしまい、内心反省しながら、綱吉は獄寺に琥珀の目を向けた。
 くすんだ銀髪を掻きむしった青年が、綱吉の視線を浴びて眉間の皺を深め、困った様子で目線を外へ流した。ひび割れた唇を舐めて二度ほど肩で息をして、担いでいた葛籠を外して両手に構え持つ。
 それは、綱吉が作った護符が入っていたものだ。これを全部売りさばき、金に換えて来る事。それが、綱吉が彼に課した表向きの命令だった。
 綱吉が見守る前で、獄寺は紐を解き、おずおずと蓋を外した。差し出され、背伸びをして前のめりに覗き込んだ綱吉の目に、葛籠の底が映し出される。
 何も入っていない。空だ。
「あれ?」
 予想と違う結果に驚き、綱吉は素っ頓狂な声をあげた。
 甲高い彼の声に、獄寺が益々気まずげにして目を逸らす。ずずい、と綱吉が顔を寄せても、彼は足踏みの末に回れ右をしようとした。
 これまでは綱吉が近付こうものなら、歓喜の雄叫びを上げて飛びかかって来たというのに。その度に雲雀の拐に打ち倒されて、巨大なたんこぶを作っていたのが、まるで嘘のようだ。
「獄寺君?」
 いったいどういう心境の変化なのか。不可思議なものを見る目を向けて小首を傾げていると、彼はこめかみから首の辺りにまで汗の粒で肌を濡らし、突然口をヘの字に曲げて荒っぽい鼻息を吹いた。
 それがまた、いきなり泣きそうなところまで歪んで、綱吉を混乱させる。獄寺は元々、綱吉に次ぐ豊かな表情の持ち主であったが、未だかつて無い変わりっぷりに、戸惑いは否めなかった。
「ご、ごくでらくん……?」
「すみませんでした、十代目!」
 冷や汗を流して頬を引きつらせた綱吉の目の前で、獄寺はまたしても直角に腰を曲げた。このまま膝を折り、街道のど真ん中で土下座さえしそうな雰囲気に、さしもの綱吉も慌てた。
 さっきから彼は、その言葉ばかり繰り返している。護符は全部売りさばいて来たのに、いったい何を謝罪する事があるのか分からなくて、綱吉は若干憤然としながら、胸を反り返らせた。
 髪に絡んだ雪の結晶を抓んで潰し、ひとり落ち込んでいる青年を改めて見詰める。獄寺は厳しい視線におずおずと顔を上げ、手の中の葛籠を片付けて懐に抱え込んだ。
「その、俺、実は……なんていうか」
「うん」
「十代目のご期待に、まるでお応え出来ませんでした」
「……ん?」
 早口に捲し立てられた台詞に、綱吉は頷きかけて右の眉を持ち上げた。
 獄寺は、今回の一件で綱吉達が仕組んだ裏の目的を知らない。だから今言われている期待とは、即ち護符を現金に換えて来る、という意味合いと思われた。
 しかし先程見せられた葛籠の中は、見事に空っぽだった。一枚も残っていなかった。それはつまり、あれだけ大量にあった護符を一枚残らず売り遂げたという事にならないか。
 だとしたら、獄寺がこうも頭を下げなければならない理由はない。分かり掛けて、また分からなくなって、綱吉はこめかみに指を置いて眉間の皺を深くした。
 そんな彼の表情を読み取ったのだろう、獄寺は言い辛そうに二度、三度咳き込み、濡れた口元を拭って喉を撫でた。
「その、実は」
「うん」
「俺、その……」
「獄寺君?」
「すみませんでした!」
「だーかーら!」
 もう謝らなくて良いので、話を先に進めて欲しい。苛々が限界を超えて、その場で足を踏み鳴らして頭から煙を吐いた綱吉に尻込みし、獄寺は唇を噛んだ。
 空っぽの葛籠を爪で引っ掻き、半泣きの表情で深く息を吸う。
「その……俺、実は、なんて言うか、俺、……十代目の事、少し、ほんの少し、ですけど、あの、えっと」
「獄寺君」
「十代目のこと、疑いました」
 言いにくそうに言葉を濁し、こんな状況になっても言い逃れしようとする彼に、綱吉は厳しい口調で名を呼んだ。
 瞬間、堪えきれずにぽろりと零れた言葉に、綱吉の方が驚き、目を丸くした。
 だが獄寺は気付かず、頻りに自分の髪を掻き回しながら、思い浮かぶ事柄を上手に説明しようと言葉を探し、左手を無駄に宙に漂わせた。
 瞠目する綱吉を余所に、彼は時折唇を噛んでは大きく息を吐き、首を振って頬を引っ掻いた。
「十代目は俺の事、要らないんじゃないかって。俺があんまり、人と話すのが得意じゃないの知ってて、嫌がらせで、こんな事させてるんじゃないかって。だって、俺は全然、役に立ってませんでしたから。俺が出来る事なんて、本当にしょぼくれていて、雲雀の野郎に比べたら、それこそ雲泥の差で。十代目にとっても、俺って重荷だったんじゃないかって。そしたら、俺……」
 箍が外れたかのように、獄寺は途端に饒舌になった。
 左手を忙しなく動かし、空を掻いては握り潰す。息継ぎを挟んで思いの丈をありのままにぶちまける彼に、綱吉は慄然とし、やがて我に返って肩を竦めた。
 それはこれまで、獄寺が感じていながらも決して表に出そうとしなかった、彼の弱音だった。
 いつだって思うところはあっても口に出さず、胸にしまい込んでしまう彼の、偽りのない本音だった。
「でも俺は、十代目の為に何か、なんでもいい、したかった。けど、無理でした。俺なりに頑張ってみたけど、でも俺は、本当に、なんにも出来なかった。俺は、これまでずっと、ひとりで生きて来たつもりでいました。だけどひとりきりになって、やっと分かりました。俺は弱い。俺は、自分じゃなんにも出来ない、馬鹿な奴でしかなくて。でも、俺は、認めたくなかった。俺だって頑張ってるし、努力だってしてるのに、なんでみんな、分かってくれないんだろう――て」
 爪を立て、獄寺は己の顔を引っ掻いた。
 止めようとして右手を泳がせた綱吉が、見えない糸に指を絡めとられて動きを止めた。静かに肘を引き、首を振る。そんなことはないと否定してやりたかったが、声は出なかった。
「俺は、……俺は、逃げました。十代目、俺は最低な奴です。十代目の期待に添えなかったのを、十代目の所為にしました。十代目が俺を見限ったとか、そんな風に考えて、俺が悪いって事、これっぽっちも考えなかったんです」
「ごくで……」
「俺は右腕失格です!」
 四度目、獄寺は髪を振り乱して腰よりも低く頭を下げた。
 肩に担いでいた荷物が一斉に下を向き、音を立てて地面に落ちていく。それを降り続く雪が優しく受け止めて、包み込んだ。
 咄嗟に両手を前に出した綱吉は、いつまで待っても顔を上げようとしない獄寺に嘆息し、首を横に振った。
「それで? どうして、右腕失格なの」
 獄寺は帰ってきた、約束通り葛籠の中身を空にして。それは即ち、綱吉の期待に応えたという事にはならないのか。事情の説明を求めた彼に、獄寺は長く伸びた前髪の隙間から、心細げな子供の瞳を揺らめかせた。
 頷いて促せば、彼は居住まいを正し、足許に散らばった荷物に向かって苦渋の表情を浮かべた。
「実は、です」
 そうして彼は、木訥と語り始めた。自分の身に何が起きたのか、どうして護符は尽きたのか、を。
 彼はあの日、母親の元を訪ねようと思って踏み止まり、帰ろうとした矢先に男の悲鳴を聞いた。駆けつけてみれば、鬼の角が妙薬という嘘に踊らされた男がいて、足に怪我をして動けない状態に陥っていた。
 見るに見かねて助け、男を麓の村まで連れて行く最中、どうして無謀な真似をしたのか、その事情を聞いた。
 彼の村は原因不明の奇病に襲われていた。ひとりが罹り、そのひとりが命尽きれば次の誰かが罹る。順番に法則性はなく、薬草も伝統療法も一切効果が無かった。
 町の医者に頼ろうとも、貧しい村だ、高価な薬は買えない。狐狸の類の仕業を疑う声もあったが、これを祓う術師を雇う資金も伝手も、彼らには無かった。
 話を聞いた段階から怪しいと踏んでいた獄寺は、里に入ってその確信を深めた。山間に作られた小さな寒村は、ただ道を歩いているだけでもびりびりと肌を突っ張らせるような、醜悪な気配に満ち溢れていた。
 余所者を招き入れた男を、村人は糾弾した。しかし獄寺は自分の直感を信じ、今罹っているという男の女房の枕元に座した。
「俺は、……いけないと思いながら、十代目の護符に縋りました。俺は、治癒系には疎いんです」
 標的を罠に掛け、絡めとり、始末する。獄寺は攻撃面に特化しているが、その反対に位置する人を生かす術に関しては、まるで無知といっても過言ない程だった。
 手持ちの呪符では、とても女を救えない。しかし綱吉の筆により産み出され、清涼な並盛山の霊気に触れた護符であれば、話は別だ。
「俺は護符を女の周囲に張り巡らせて、一晩待ちました」
 そうして夜中、草木も眠る丑三つ時。ついに女の身体から、彼女を蝕んでいた悪鬼が護符の霊力に耐えきれずに姿を現した。
 後は獄寺の領分である。日が暮れきる前に仕組んだ罠に悪鬼を誘い込み、捕縛し、滅する。退魔師として独り立ちを許されるどころか、破門されている彼だけれど、実力は折り紙付きだ。
 消し炭となった悪鬼から解放された女は、翌朝には自力で起きあがれるまでに回復し、すっかり元通りの生活が送れるようになった。
 悪鬼が消え去り、村には活気が戻った。
「でも、完全に気配が消えたわけじゃなかったんです」
 村を取り巻く空気には、僅かな濁りが残された。獄寺が滅したのは、あくまでも人に害を及ぼすまでに成長を遂げた、何者かの悪意の塊だ。
 原因を取り除かなければ、いずれまた同じ事が繰り返される。そして獄寺が調べた結果、事の発端は村を作る際に何の断りもなく山を削られた、土地神の怒りだと判明した。
 村の原型は、都での権力争いに破れて此の地に逃げ延びてきた人々の作った隠れ里だった。故に、土地のしきたりを知らず、山の神への拝謝も疎かにしがちだった。
 勝手に移り住み、土地を荒らされた神の怒りも尤もである。が、既に何百という世帯が暮らす村で、今更全員出て行けとも言えない。
「それで、どうしたの?」
 言葉を切った獄寺に先を促し、綱吉は道祖神の頭を撫でた。
 獄寺は深く息を吸って吐き出し、申し訳なさそうにしながらもどこか嬉しげに、頭を掻いた。
「余所者の俺が言えた義理でもないんですが、村の連中に、今からでも遅くないから山の神を祀る祠を作るよう、進言しました。後は、……すみません」
「うん?」
「祀ったところで、すぐに怒りが治まるとも思えなかったんで。十代目の護符を、その、使って」
「……ああ」
「村に結界を、張りました」
 言い難そうに口をもごもごさせる彼に丸い目を向けて、綱吉はすぐに柔和な笑みを浮かべた。
 あれだけ大枚の護符も、村の一軒ずつに配布した上で、周囲を取り巻く境界線の各所に貼って回っていったのでは、すぐに尽きてしまうだろう。
 申し訳なさいっぱいの表情で、叱られるのを覚悟して硬く目を閉ざした銀髪の青年を見詰め、綱吉は肩を竦めた。
「獄寺君」
「勝手なことをして、すみませんでした」
 重ね重ね謝罪を口にする彼の額を小突き、目尻を下げる。視線だけを上向かせた青年は、予想に反して優しい表情を浮かべている綱吉に見入り、頬を朱に染めてはっと顔を逸らした。
 あの護符は、金に換える目的で獄寺に委ねられたものだった。しかし、村の貧しい状況を見て、とてもではないが口に出せなかった。
 村人は、村の窮地を救ってくれた獄寺に感謝を表明し、涙を流して喜んだ。沢田家で、奈々が毎日作ってくれた物とは比べ物にならない質素な食事を、供してくれた。
 ただそれは、彼らが本来冬越えの為に蓄えておいた食糧の一部であり、それも正月用の大切な品々だった。
 あの村は、並盛の里に比べると耕地も少なく、水はけも悪く、とても恵まれているとは言い難かった。日々食いつなぐのも精一杯だというのに、村の救世主だからと獄寺をもてなし、彼らにとっては贅沢極まりない食事を、沢山用意してくれた。
 だからこそ、言えなかった。護符の代金を支払えなど、口が裂けても。
 結界の施術を終えても、ずっと村に留まって欲しいと言われた。生まれて初めて、獄寺は人に頼られた。信頼され、求められた。
 けれど彼は頷けなかった。今回の一件を片付けられたのは、自分だけの力ではないと分かっていたから。
「恥を忍んで、帰って来ました」
 獄寺は当初の目的を果たせなかった。稼ぎはほんの僅かでしかなく、損失の方がずっと大きい。
 それでも彼は、何も言わずにいるのは卑怯であると考えた。正直に告白し、相応の懲罰を受ける覚悟で、里に帰ってきた。
 緊張に全身をがちがちにした彼を見上げ、綱吉はふっ、と気の抜けた笑みを零した。
「そっか」