神渡 第八夜

「お前らの飼い主、助けてやるからよ」
 どうせ理解出来ないだろうとは思いながらも口に出して告げ、獄寺は右足を前に繰り出した。少し先の地面に置いて踏みしめ、足場が崩れないかを確かめてから左足を前に。そうやって時間をかけて進み、崖の端に至って小石がぱらぱらと落ちていく光景に、彼は目を眇めた。
 犬はまだ唸っていたが、先ほどよりは幾分静かになった。見ず知らずの男に対処しあぐねているのだろう。険しい視線は変わらないが、一刻も早く主を助けたいという思いが働いているのか、鼻を鳴らし、獄寺になにかを訴える。
 落ちぬよう気を払いながら膝を折り、少し濡れている地肌を覗き込む。土が滑り落ちる最中に千切れただろう草の根を掴んで身を乗り出すと、眼下に広がる樹林の一角に、他とは色の異なる箇所があった。
「あれか?」
 地すべりを起こした崖は、さほど高さが無かった。ただ沢田家の屋根より高いのは、間違いない。
 以前、雨漏りの修繕を手伝おうと登って、誤って足を踏み外したのを思い出す。腰を強打して、三日ほど自力で起き上がれなかった。
 あの時の痛みがまざまざと蘇り、完治しているはずなのに背中が疼いた。思わず後ろに手を回して撫で、何事も無いのを確かめてほっと息を吐く。
 じんわりと温い汗が額に滲み、打って変わって咥内が乾いていく。
 犬の吼え声が五月蝿い。早く行けと言われているような気分になって、彼は顰め面で振り返った。
「っ」
 そうして、さっきまでの勇ましさを失い、心細げに身を寄せ合っている三匹を見つけて、彼は息を飲んだ。
「……そうだよな。心配だよな」
 この犬達にとって、あそこで倒れている人物は家族に他ならない。不安にならないわけがなかった。
 獄寺は右手を伸ばし、先頭にいた一番大きな犬の頭を撫でた。甘えては来ないが、その代わりにくぅ~ん、と鼻を鳴らし、縋るような目を投げつける。真っ直ぐな瞳に見詰められ、彼は肩の力を抜いた。
「お前らは、俺を信じてくれるんだな」
 他に頼る存在が無いからかもしれないが、犬たちは今、獄寺が主を救いに来てくれたものと信じている。言葉は通じないが、何故かそう思えた。
 寒風吹き荒んでいた心の中に、ぽっ、と淡い光が灯る。暖かく、優しく、柔らかな輝きに照らされ、獄寺は意を決し、気合の声を発した。
「ままよっ」
 屋根から落ちても、打ち身と打撲だけで済んだ。身体の頑丈さは、折り紙つきだ。
 ぐずぐずしていたら決心が鈍る。彼は両手を思い切り叩き、立ち上がると同時に右足を宙に投げ出した。
 下から吹き上げる風が彼の髪を嬲り、密集する木の枝が串刺しにせんと襲い掛かる。それに屈する事無く、彼は両腕を顔の前で交差させて鋭い先端を避けながら、左足の踵で斜面を削り、勢いを殺しながら滑り降りた。
 犬の声が遠くなる。刹那、斜面から飛び出ていた石に左足を取られ、ガッ、と、つんのめった獄寺はそのまま体勢を崩して前のめりに倒れた。
「ぐはっ」
 両手をばたつかせ、受身すら取れずに顔面から落ちる。だが、覚悟していたよりは痛くない。
 恐る恐る身を起こすと、そこは崩れ落ちた土が降り積もった山の上だった。
 木の根や草や、石ころが混ざり合い、ぐちゃぐちゃになっている。着地点が少しでもずれていたなら、脳天に鋭く尖った枝が突き刺さっていたかもしれない。想像して、ぞっとした。
 寒気が登ってきて自分自身を抱き締め、一瞬だけ何をしにここに降りて来たのかを忘れた。身体中にこびり付いた土を払い除けて、立ち上がる。足場はかなり不安定で、あちこちに空洞があるのか、左足を置いた場所がぼこっ、と凹んだ。
 姿勢を崩し、半身を沈めた獄寺が慌てて右足に重心を移し変える。頭上から犬が吼えて、彼は銀髪に絡んだ土くれを落とし、はっと目を見開いた。
「そうだ」
 上から見た時、倒れている男性は殆ど動いていなかった。犬の呼びかけにも反応は見られず、生きているのか、死んでいるのかの判別もつかなかった。
 もし絶命していたらば、どうしようか。獄寺の所為ではないのに、自責の念が浮かんで消えていった。
「いた」
 ぐるりと三百六十度見回し、彼が最初に倒れて落ちた場所から右手の下方に人の足らしきものを見つけた。空洞に足を取られぬよう注意しながら駆け寄り、傍でしゃがみ込む。左半身が土に埋まり、顔面蒼白で血の気は無かった。
 最悪の結果を想像して、身構えてしまう。だが彼の緊張が伝わったのか、背の低い骨っぽい男は唇を僅かに開閉させ、絞り出すように呻き声を発した。
 瞼は依然固く閉ざされたままだが、意識を失っているだけで命までは奪われていない。それが分かっただけでも朗報で、獄寺は沈みかけた気持ちを奮い立たせ、男に被さる土を大急ぎで払い除けていった。
 露になった服装から、やはり山で獣を狩る猟師と思われた。鉄砲は離れた場所に、細長い銃身の頭だけが突き出た状態で埋もれていた。
 毛皮の上着に手甲で、動き易いように装備が色々と工夫されている。口の周りに髭を生やし、太い眉は真ん中で繋がっていた。
 縦よりも横に恰幅の良い男を苦労して抱え上げ、どこかに異常が無いかをざっと目視で確かめる。寒いのか時折ぶるぶると震える以外、変なところは見付からない。打ち所が悪く気を失っているだけで、出血も顔と手に擦り傷がある程度だ。
 ただ着衣の下、或いは内臓がどうなっているかまでは、この状態では分からない。
「俺は、治癒術は苦手なんだよ」
 ひとり嘯き、彼はぐったりしている男の上半身を起こすと膝で支え、両肩を握った。
「よっ」
 雲雀や山本の見よう見まねで覚えた気付を施し、男の身体に活を入れる。これで巧くいけば良いが、結果がどう転ぶかの保証はしかねた。
 犬の吼え声が聞こえなくなった。どうしたのかと顔を上向ければ、崖から覗き込んでいた獣が三頭とも姿を消している。視線を左右に流して探すが、見える範囲に気配は感じなかった。
 逃げたのか。だが、忠誠心高い犬が、主を見捨てて去るとは考えづらい。
「うぅぅ……」
「お、気がついたか」
 頭上にばかり気をかけているうちに、手元から声がした。急ぎ俯いて、顔を顰めている男を覗き込む。
 閉ざされていた瞼が何度かヒクヒクと痙攣し、窄められた唇から深く長い息が漏れる。表情は苦痛に歪んでいたが、血の気が戻って幾らか肌色は赤みを帯びていた。
 自分の倍以上の年齢の男を抱きかかえ続ける趣味はなく、彼はそっと猟師の男を地面に横たわらせた。その上で傍らに手を置き、息を殺して様子を見守る。
 獄寺が固唾を飲む前で、男はゆっくりと目を開き、瞬きを繰り返した。
「大丈夫か」
「う、……こ、こは……」
 掠れる小声が紡がれて、聞き取ろうと獄寺は顔を寄せた。自分が崩落に巻き込まれた記憶も飛んでしまっているのだろう、男は状況が理解出来ていないようだった。
 どう説明すべきか。獄寺は返す言葉に迷い、銀の髪を掻き上げた。
 その瞬間だった。
「う、うあ、うわああああぁあぁ!」
 突然男が目を見開いたかと思うと、獄寺を突き飛ばさんばかりの勢いで身を起こし、腰を抜かしたままザザザ、と地面を削って後退した。
 いきなりのことに面くらい、咄嗟に反応出来ない。右手を頭にやったまま硬直した彼の前で、男はみっともなくガタガタ震えて涙ぐみ、痛むだろうに体を丸めて小さくした。
 子供のように嫌々と首を振り、はっと我に返った獄寺が近づこうと身を起こすと、途端に聞き苦しい喚き声を撒き散らした。
「おい、こら」
「来るな、来るなぁぁ!」
「待てって、俺は別になにも」
「鬼だ、鬼が出たぁ!」
 危害を加えるつもりはない、そう訴えようとした矢先に男の口から吐き出された言葉に、獄寺は瞠目した。
 二百年前、この近隣の山々は人の立ち入らぬ場所だったかもしれない。しかし歳月が過ぎるに従って、人間は生活範囲を広げた。山を切り開き、田畑を作り、少しでも実り豊かな場所を求めて奥へ、奥へと。
 蛤蜊家の結界が作用しているとはいえ、迷い込んだ人間が隠れ里に暮らす鬼たちの姿を目撃している可能性は、充分考えられた。
 一瞬、降って沸いたように怒りが生じた。お前達人間が勝手なことを言って、なんの罪も無い鬼を嫌うから、彼らは争い合うのを拒んで自ら身を引き、隠れ里に引き篭もったというのに。
 鬼達の生まれ故郷を奪ったのは、人間だ。その上で尚、唯一残された場所にまで入り込み、その益を奪い取ろうというのか。
 人間は傲慢で、愚かで、弱く、醜い。いっそ滅びてしまえばいい。
「……ちがっ」
 初めて鬼の側から人間を見た自分の、胸に溢れ出した感情の大きさに戸惑い、獄寺は甲高い悲鳴を上げた。
 確かに人間は卑小で、卑怯で、高慢ちきでいけ好かない連中も多い。だが、だからといって見捨てて良い命でもない。鬼の里の生活を脅かしているのが人間だとしたら、彼らを守る為の結界を施しているのもまた、人間だ。
 多少の見てくれの違いがなんだというのだ、お互いに心あるもの同士、話をして分かりあうことだって出来るはずなのに。
 不意に綱吉の顔が思い浮かんだ。彼は獄寺を異端と知った上で、受け入れてくれた。
 綱吉のような人をもっと増やしたい。その為にはまず、鬼と人の血を半分ずつ継いでいる自分が、行動を起こすべきではないのか。
 瞬きの間にも満たない短い時間で、様々な思いや考えが渦巻き、流れていった。圧倒されて茫然自失として、獄寺は彼方から聞こえて来た犬の声に脳天を思い切り殴られた。
 がんっ、と来て、遅れて背中に衝撃が来る。言わずもがな、後ろから体当たりされたのだ。
「どぅわ!」
 避ける暇も構える猶予もなく、まともに食らった。膝立ちだったので呆気なく倒れ、顔面から木屑が埋まる土に突っ込む。その上から犬に乗られて、尻尾を振られた。
 飼い主の無事に喜ぶのは構わない。崖を滑り降りることが出来ず、迂回して下ってきた努力も認める。
 しかし、だからと言って人を蹴り飛ばして良いわけがない。
「てめーら! 退け、こらっ」
 勢いつけてがばりと起き上がり、頭にあった前脚を弾き飛ばして拳を突き上げる。舌を出した犬が慌てて四方に逃げて、すぐまた戻って来て後足で立って人の背中に寄りかかって来た。
 一番小柄の犬が、ぽかんとしている猟師の男の顔を舐める。
「お、鬼……」
「うっせーよ」
「ひいっ」
「心配しなくても、捕って食ったりしねーって。お前みたいな不味そうなおっさん、食ったら腹壊すに決まってんだろ」
 ぶっきらぼうに言い放ち、獄寺はじゃれ付いてくる犬を押し退けて涎のお陰でべったり張り付いた前髪を掻き回した。
 銀色の髪は、見慣れぬ者には奇異に映る。それを今更とやかく言うつもりはない。鬼と呼ばれたのも、半分その血を引いているのだから、厳密に言えば獄寺も鬼の端くれだ。否定できない。
 だからと言ってこうも大っぴらに恐れられるのは、正直我慢ならなかった。
「鬼じゃ、ないのか?」
「否定も肯定もしねえ。つか、知りもしねーで勝手に区別すんじゃねえ。んで、おっさん、怪我はねーのか」
「あ、ああ……いてっ」
 どっちつかずの返答を口ずさみ、論点をすり替えて顎をしゃくる。呆然とした男は慌てたように頷こうとして、不意に襲って来た痛みに仰け反った。
 伸びた右足を抱えようとして、手が中途半端なところを泳ぐ。獄寺は右の眉を軽く持ち上げ、男ににじり寄った。
 よくよく見てみれば、男の右足が倍近くまで腫れ上がっている。これでよく今まで痛みに気付かなかったな、とあきれ返りそうになる有様で、獄寺は泣き喚いて痛がる男の前で渋い顔をし、首の後ろを爪で引っ掻いた。
「参ったな」
 打撲にしては酷いので、折れているのかもしれない。聞き苦しい悲鳴に耳を押さえた彼は、視線を巡らせて立ち上がった。
「ひっ、ひぃ、ひぃぃぃぃ」
「うっせえよ、おっさん。見捨てねえから、少し黙ってろ」
 それを、置いていかれると思ったらしい。男が無我夢中で手を伸ばしてきて、獄寺の足を掴んだ。力なく引っ張られ、犬にまで前を塞がれ、彼は腰に手を当てて盛大に肩を落とした。
 落ちている枝の中から手頃なものを選び、葉の落ちた木々にしがみ付いている蔓草の中でも頑丈なものを集める。
「ちょっと痛いぞ」
 警告をして、男の右足に添え木をして動かないよう蔓草で縛って固定する。動かした瞬間、男は白目を剥いて泡を噴いた。気絶をしなかったのは、山の男の根性といったところだろうか。
 こんなことなら、もっと医術書に目を通しておくべきだった。シャマルの小屋に乱雑に積まれていた書籍を思い出し、舌打ちする。肩で息をして鼻水を垂らす男を前に置いて、獄寺は南の空にある太陽を仰ぎ見た。
「里はどっちだ」
 とても自力で歩けそうにない男を、此処に捨て置くつもりはない。担いで降りるしかなく、獄寺は自分の体力と男の体重を重ね合わせ、こめかみの鈍痛を堪えた。
 山本に習って、もうちょっと腕力と脚力をつけておくべきだった。好き嫌いを言わず、今度からは出されたものは残さず食べようと心に決める。
 男が弱々しい動きで山の麓を指示すので、獄寺は覚悟を決め、男に背中を向けて屈みこんだ。肩に担いだ荷物と、男の鉄砲や諸々の装備品は、躾が行き届いている犬の背に括りつけて預ける。
「すまねぇな、若いの」
「くっ、のやろ……」
 謝られても嬉しくなくて、獄寺は男を背中に負うと、腹の底から声を絞り出して立ち上がった。
 よろめき、右に左にふらついてから、どうにか持ち堪えて冷や汗を拭う。首に絡んだ男の手は細かく震えており、まだ獄寺が怖いのだというのが、言葉にせずとも伝わってきた。
 複雑な気持ちになる。別に好かれたいとも思わないし、嫌ってくれても構わない。だが、今暫くは我慢してもらいたい。ここで下手に暴れられたら、共倒れになる危険性が高い。
 男も分かっているのだろう。時折道を指で示す以外、ずっと無言だった。
 小休止を挟み、奈々が持たせてくれた食事の残りをふたりで分けて胃袋を満たす。男が持っていた食糧は、崖滑りの際に失われて見つけられなかった。
「ったく、なんだってこんな奥深くまで」
「鬼の、な」
「あぁ?」
「鬼の角を煎じて飲めば、万病に効くって聞いてなぁ」
 日が暮れる前に里に辿り着かなければ、夜の移動は危うい。体力の回復を待たずに男を担ぎ、歩き始めて暫くした頃。愚痴を零した獄寺の背中から聞こえて来た声に、彼は思わず負ぶったものを落としそうになった。
 唖然として、歩みが止まる。先導役を買って出ていた犬が、開いた距離に気付いて高く吼えた。
「鬼の角が、なんだって?」
 産まれてこの方聞いた事の無い話に呆気にとられ、目を真ん丸くした獄寺に男は気まずげに頭を垂れた。
 獄寺を鬼と勘違いし、あれほど怯えていたくせに、よりによって彼は鬼を狩ろうとしていたのだ。見た目は厳ついが意外に小心者の男に苦虫を噛み潰したような顔を向け、獄寺はどうしたものか、と溜息をついた。
 彼の脱力具合は、背負われている方にも伝わる。やがて男はぽつり、ぽつりと話し始めた。
 村に奇妙な病気が流行り出したのは、今年の夏が終わる頃だった。それまで元気だった者がある日突然生気を失って床に伏し、痩せ細って譫言を口にして、中には気が狂ったように暴れる者もいたという。
 ひとりが罹り、命が潰えると次に移る。だから病人は常に村で、ひとりだけ。
 順序には統一性がなく、老若男女関係ない。体力の無い者が罹れば、一晩でぽっくり逝くこともあったそうだ。
 皆が、次は自分の番かと怯えて過ごした。そうしてついに、男の女房が倒れた。
 貧しい村で、効果があると聞いた薬は高くて手が出ない。医者に頼ったが、原因はさっぱりだ。途方に暮れて、日に日に窶れていく女房の顔を眺めるだけの時間を過ごしていたところ、旅の男に鬼の妙薬の話を聞いた。
 鬼は人よりも生命力に優れる。その角には、生命力の源が宿る。だからこれを粉にして飲ませれば、たちどころに回復するだろう、と。
 鬼の隠れ里が近くにあるという話は、昔話に伝え聞いていた。完全に信じたわけではないが、藁にも縋る思いで鉄砲を持ち、犬を連れて此処まで来たら、地すべりに巻き込まれてしまった、と。
「……出鱈目だな」
「やっぱ、そうか」
「当たり前だ。そんな話、聞いた事ねーや」
 鬼の里に居た頃も、父の屋敷に居た頃も、沢田の家で世話になっていた頃にだって。
 手に入る限りの鬼にまつわる記述や文献を紐解き、調べていた獄寺だが、角に薬効があるなどという例は一行として見なかった。もし本当なら、今すぐ自分の額に埋もれている分を引っこ抜いてやりたいところだ。
 もっとも、鬼の生命力が逞しいのは本当なので、そこから連想した輩が居たのかもしれない。
「しっかし、それ、本当に疫病か?」
 聞けば聞くほど妙な話で、獄寺は痺れる腕を叱咤して男を担ぎ、平坦に近付きつつある山の斜面を下った。先を行く犬が、何かを見つけて吼えた後、元気いっぱいに駆け出す。太陽は西に傾き、稜線に掛かろうとしていた。
「村だ」
 里の景色が遠方に見え始め、獄寺はほうっと、安堵の息を漏らした。

 その日は朝から冷え込みが激しく、日の出の時を待たずして雪が降り始めた。
 それは風に揺れてはらはらと散る儚い淡雪ではなく、土に触れても直ぐには溶けない大粒の綿雪だった。
「積もりそうだな」
 霜の降りた道をしゃくしゃくと踏み進み、綱吉は灰と白の中間の色をした空を仰ぎ呟いた。
 頬に触れた氷の結晶が、体温を感じ取ってじわじわと溶けていく。まるで空が流した涙だと、顎に向かって流れ落ちていった雫を拭い、彼は引き結んでいた口元を綻ばせた。
 足取りは重く、鈍い。けれど歩みを止める事なく、村を南北に横断する道を真っ直ぐに突き進む。
 同行者の影はない。一昨日は雲雀が、昨日は山本がつき合ってくれたけれど、あの二人も押し迫る年の瀬と新年の準備に忙しく、今日はどうしても暇を作れなかった。
 一通り自分がせねばならない事を済ませた綱吉は、昼餉を終えるとすぐに身支度を調え、屋敷を出た。九十九折りの階段を下り、薄ら寂しい色合いが目立つ里を通り抜ける。何処の家からも白い煙が天に向かって伸びており、寒さを嫌って外で遊ぶ子供の数も少なかった。
「りんとてしゃんしゃん、しゃんしゃらり……うーん」
 不意に思い浮かんだ言葉を口遊み、どうも調子が出なくて途中で止めてしまう。道端に転がっていた大きめの石を飛び越えた彼は、雲雀手製の藁草履で地面を削り、後ろを振り返った。
 紺絣の袷の襟を握り、格好が何処も乱れていないのを確かめて小さく舌を出す。肩を竦めてひとり笑みを零した彼は、少しだけ小走りに、雪が降り続く中を駆け出した。
 枯れ色の草の上には既に白い固まりが出来上がり、その上に更なる雪が降り重なっていた。
「は……」
 吐く息は白く濁り、一瞬のうちに霧散して消え失せる。両手の指を擦り合わせて熱を呼び込んだ彼は、笹川の大きな屋敷の前を通り過ぎようとして、庭にいた了平に見付かって手を振られた。
 着膨れしている綱吉に反して、彼はこの季節であっても薄着だ。上半身裸で、腹に晒しを巻いただけ。剥き出しの肌は夏場ほどの濃さではないものの、浅黒く日焼けしており、筋骨隆々甚だしく、村の若者の誰よりも男らしい骨格をしていた。
「沢田、また行くのか」
「はい」
「そうか。気をつけて行けよ。暗くなる前には帰るようにな」
「分かってます」
 地面を踏み鳴らして近付いてきた了平に、垣根越しに言われて、綱吉は微笑んだ。目尻を下げて優しい表情を浮かべる彼に対し、了平の面持ちはどこか不安げだ。
 綱吉がここ最近、毎日のように出向いている場所が何処なのか、了平も承知していた。獄寺が里を出てから、既に七日以上過ぎている。持たせた食糧はとうに尽きているだろうし、路銀も使い方次第ではもう底を見ている筈だ。
「まだ戻らないか」
「……じゃあ、俺」
「ああ、待て、沢田」
 ぼそりと呟かれた言葉には返事をせず、綱吉は遠慮がちに頭を下げた。立ち去ろうとして右足を引いた彼を呼び止め、了平は急に懐を探り始めた。
 何重にも巻いて重ねた晒しの中から、やや濁った朱色の粒を取り出す。乾涸らびた表面は皺だらけで、大きさは親指の先より少し大きい程度だ。
「お兄さん?」
「やる。元気になるぞ」
 小首を傾げた綱吉の前で、了平はそれを指で弾いた。
「うわっ」
 急に胸元に飛び込んできた物体に、慌てて両手を広げて受け止める。顔の前にやって閉じた手を広げると、掌に載った小粒の梅干しが転がった。
 塩漬けにした後に天日干しで水分を抜き、からからに乾燥させた一品だ。見るだけで咥内に唾が湧き、溜まらずに呑み込んだ綱吉を見て了平が呵々と笑った。
「良いんですか?」
「ああ。お前の家の味とは、また違うだろうが」
 腰に手を遣った彼に言われて、綱吉は改めて梅干しに目をやった。
 梅の木は、沢田家の庭にも植えられている。それを毎年雲雀が収穫して、奈々が塩漬けにして土用干しし、瓶にまとめて保存している。塩加減は家毎に違うので、普段食べているものと余所の家の物とでは、了平の言葉通り味が少しずつ異なった。
 満面の笑みで頷いた青年に礼を言い、お言葉に甘えて口に含む。唾液に混じって表面の塩が流れ出し、得も言われぬしょっぱさの後にほんのりとした甘みが広がった。
 舌で転がし、奥歯で硬い表面を削りながら笹川邸から離れる。見えなくなるまで了平は垣根の前にいて、綱吉に手を振ってくれた。
 時折振り返って、まだ其処から動かない彼に苦笑しつつ、自分も手を振り返して、綱吉は道を急いだ。
 雪は依然降り続いている。気温は低くなる一方で、桶に入れて外に出していた水が朝には凍っているなど、日常茶飯事となりつつあった。
 並盛村は、冬場になると余所から孤立する。四方を山に囲まれ、街道に出る道は南に一本あるだけ。北に聳える並盛山は結界に囲われて人の侵入を拒み、東西に連なる山々も、冬場に分け入るには非常に険しい。
 街道は雪に埋もれて閉鎖され、外界から並盛に入るのも、その逆も困難となる。それが当たり前だったから、今までは殊更困る事もなかった。
 けれど今年ばかりは、勝手が違う。
「は、あ……寒っ」
 幅広に整地された道を登り、両側に迫る黒々とした森を前に身震いする。笠を被って来るべきだったと後悔しても、今から取りに戻っていては時間の無駄だ。
 両手で肩を抱いて小さくなり、綱吉は後方に広がる里の景色に目を細めた。
 山にかかる鉛色の空から、白い結晶が間断なく降り注ぐ。雲は低く立ち込め、世界が酷く狭苦しいものに思えてならなかった。
 白い息を幾つも吐き出し、綱吉は着込んだ綿入れの袖に互い違いに手を差し込んだ。手首を握り、己の体温で冷えた指先を温める。足許から登ってきた寒気を堪え、僅かに色を悪くした唇を舐めて彼方に目を凝らす。
 彼の足許には道祖神が、草に埋もれる格好で鎮座していた。