慶祝

 爽やかな風に乗って小鳥の囀りが聞こえて来た。
 屋上の、給水塔が置かれた一段高くなった場所に陣取っていた雲雀は、耳を楽しませる軽やかな歌声に薄目を開き、身を仰け反らせた。
「ふっ、ぁ……ン」
 自然と欠伸がこみ上げてきて、逆らわずに本能に従って口を開く。瞼の向こうからは眩いばかりの光が燦々と降り注いで、穏やかな陽気は目覚めたばかりの彼に次の眠りを持ちかけた。
 温かな陽射しは心地よく、吹く風も柔らかくて邪魔にならない。運動場から響く声も遠くて、彼の昼寝を阻害する要素にはならなかった。
 気温も高すぎず、低すぎず、丁度良い。絶好の午睡日和に誘われてついふらふらと屋上に出てきてしまった彼は、瞼越しに感じる柔らかな光に嘆息し、この後どうしようかをぼんやり考えた。
 午前の大半を此処で過ごしてしまったために、風紀委員の仕事は溜まっている。草壁は慣れているので放っておいても問題なかろうが、一般生徒らは少々厄介だ。
 彼らはちょっと目を離すだけで、直ぐに増長して付け上がる。弱いくせに群れたがり、集団を形成することで自分が強くなったように錯覚して。
 本質を履き違えている輩を見ると、それだけでむかむかしてならない。
「……面倒だな」
 だけれどこんな快晴の下に居たら、そんな愚昧な奴らなど、どうでも良くなってしまうから不思議だった。
 彼は両手を広げてコンクリートの床に身を投げ出すと、大の字になって晴れ渡る空を仰いだ。
 深く吸い込んだ息を、たっぷり時間をかけて吐き出して、また吸い込む。程よい温さの空気が身体中に染み渡って、古い自分を遠くへ押し流して行くようだった。
 空を泳ぐ雲が気持ち良さそうに笑っている。青と白の鮮やかなコントラストは、嫌いではない。
「ム」
 だけれどそこに無粋なチャイムの音が紛れ込んで、彼はムッと口を尖らせた。
「そろそろ、まずいかな」
 面白く無さそうに呟いて、静かに身を起こす。長く硬い場所に横たわっていた所為か、あちこちの関節が嫌な音を立てた。
 凝り固まっていた筋肉の隅々にまで血液が流れ込み、神経が接続して、動くよう脳が指令を出す。下から迫り上がって来た寒気に身を震わせて、彼は肺に残っていた最後の二酸化炭素を吐き出した。
 一瞬で通り過ぎた悪寒に胸を撫で下ろし、各部位の何処にも異常が無いのを確認して、雲雀は立ち上がろうと身を捩った。
「っ!」
 それを寸前で思い留まったのは、滅多に人が近付かない屋上のドアが閉じられる音がしたからだ。
 一寸やそっとでは壊れないよう頑丈に出来ている扉は、非常に重い。外開きのそれを内側から開ける際は全力でぶつかっていけばなんとかなるが、問題なのは外から中に戻るときだ。
 屋上は高度の関係もあって常に風が吹いている。逆に校舎内は、窓やドアが開けっぱなしにでもなっていない限り、ほぼ無風だ。
 気圧の差もある。出るのは容易く、戻るのは難しい。そしてドアを開けた人間は、無事に出られた安堵に気を緩め、ノブから手を放しがちだ。
 途端に鉄製の扉は風に掬われ、猛烈な勢いで閉ざされる。轟音に、上に居た雲雀まで少し吃驚させられた。
 三時間目がたった今終わったばかりなのは、間違いない。念の為腕時計も確認した彼は、怪訝に眉を顰めて侵入者の気配を注意深く探った。
 昼休みまでまだ一時間も残っているのに、気の早い生徒がサボりに来たのか。好天に恵まれた今日、此処が絶好の昼寝ポイントなのは雲雀が証明している。
 風紀委員長の目の前で授業をエスケープしようなど、片腹痛い。どんな愚かしい奴なのか顔を確かめてやる事に決めて、彼は一度は沈めた腰を浮かせた。
 屋上への侵入者は、どうやらひとりらしい。話し声は一切聞こえてこなかった。
 リラックスする場所を見つけられずにいるのか、あちこちうろうろしている。屋上に出る扉と、それを囲む建物の周囲をぐるぐる回っているので、雲雀の現在位置からでは頭すら見えない。
「……?」
 彼が居る給水塔の傍へは梯子を使わなければ登れない高さで、しかも建物に足場が固定されていないので、余程跳躍力がなければ到達は難しい。雲雀には容易だが、他の軟弱な人間にはまず無理だ。
 だから一般生徒の多くは、真っ直ぐフェンスを目指した。
 屋上の端、そこは陽射しを遮るもののない晴れやかな空間だった。
 今は二年の山本武が飛び降りを計った後に、古びていたフェンスは全部取り払われ、頑丈なものに交換された。安全面は大きく向上したが、それが理由で、本来立ち入り禁止のここに忍び込む輩が増えたのも確かだ。
 あと数分で授業と授業の合間に設定された、短い休憩時間が終わる。どの学年の生徒かは分からないが、此処から教室棟にはそれなりの距離があった。
 始業のチャイムが鳴る前に戻れるわけがない。となれば遅刻は確実で、それは雲雀には許しがたいことだ。
「まったく」
 自分がちょっと顔を晒さないだけで、在校生はすぐに気を緩める。まったくもって、油断ならない。
 悪態をついて腰に手を回し、彼は隠し持ったトンファーに指を添えた。引き抜いて軽く振るだけで、伸縮式のそれは鋭い銀光を放った。
 滑り止めのテープを巻いた横棒を握り締め、一歩前に出て姿勢を高くする。
「あっ」
 声は、斜め下から響いた。
「ん?」
 覚えのある弾んだボーイソプラノにびくりとして、彼は危うく愛用の武器を落としそうになった。
 右足を繰り出したポーズのまま凍りついて視線を下方、やや左よりに動かす。建物を一周してようやく其処を離れた少年が、雲雀の方を向いて目を輝かせていた。
 この中学校にあって、雲雀を見かけてそんな表情をする人物はひとりしかいない。
「君は」
「ヒバリさん、みーっけ」
 呆気に取られている雲雀を他所に声を弾ませ、彼はその場で嬉しそうに飛び跳ねた。
 まるで五歳児だ。ぴょんぴょん跳ねる姿はウサギのようで、重力を無視して逆立った髪の毛が、動きに合わせてひょこひょこ揺れた。
 秋の味覚、栗を思わせる髪色は生まれつきで、染めているわけでも、ましてや脱色しているわけでもないらしい。先祖がイタリア人だという話を聞いた時に、妙に納得したのを不意に思い出した。
 人を指差して笑う綱吉に肩を竦め、雲雀は握ったままだったトンファーを急ぎ収納した。
 両手を空にして、右手を前後に揺らす。後退するように指示を出して、素直に従った彼が作り出した空間を前に、雲雀は力を抜いて息を吐いた。
「わっ」
 予備運動もないままに二メートル近くある落差を飛び降りて、無難に着地を決める。いきなり目の前に人が降って来た綱吉は目を丸くして、浴びせられた風に絶句してよろめいた。
 特別なにかされたわけでもないのに、ひとりふらついてその場にしゃがみ込んだ彼を怪訝に見て、雲雀は遅れて背中に着地した学生服を撫でた。
 肩に羽織ったそれの形をサッと整え、右手を差し出して綱吉を起こしてやる。膨れ面をしている彼につられて眉間に皺を寄せるが、手を握り返された途端、どうでも良くなってしまった。
 引っ張り挙げてもらって、綱吉はズボンに散った細かい砂埃を払い落とした。
「吃驚した」
 呟いて、やや恨めしげに雲雀を睨む彼だけれど、大きすぎる琥珀の目はどれだけ眼力強めたところで迫力に欠けた。恐くないどころか、逆に可愛らしくて、雲雀は不遜に笑んで彼の頭をくしゃくしゃに撫でた。
 押し潰されるのを嫌った綱吉が慌てて逃げて、広がったふたりの空間に四時間目開始のチャイムが走り抜けていった。
「あ」
 途端に綱吉が目線を持ち上げ、間抜けに口を開いた。
「遅刻だよ」
 なにも朝、正門が閉まってから学校に来ることだけが遅刻ではない。さっさと教室に戻るよう促すが、両手を結び合わせた彼は、なかなかその場を離れようとしなかった。
 手の形が、まるで神に祈るようだ。雲雀が胸の前で組まれた細い指の一本一本に見入っている間、綱吉は静かに深呼吸を繰り返し、五度目を数えたところでぐっと腹に力をこめた。
「自習、ですから」
 嘘ではない。だから信じて欲しい。
 そう訴える眼差しを正面から浴びせられて、雲雀は続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
「ああ、そういえば」
 今日の朝、教員のひとりが、子供が熱を出して病院に運ばれたとか言って、急遽休みを申請していた。第二学年のどこかの組で担任を務める女性教諭だから、綱吉のクラスの教科を受け持っていても、なんら不思議ではない。
 思い出して納得しかけた雲雀だったが、自習とて、ひとつの授業だ。
「だからって此処に居て良い理由にはならないよ」
「うぐ」
 すかさず言い返せば、綱吉はぐうの音も出ないのか押し黙った。
 亀のように首を引っ込め、ただでさえ低い背丈をもっと低くして小さく、丸くなる。もぞもぞと動き出した指を左右小突き合わせては、時々上目遣いに人の顔色を窺って、身を捩る。
 だが矢張り、立ち去ろうとはしなかった。
「沢田」
「分かって、……ますよ」
 急かすとようやく、渋々といった顔で頷くが、帰りたくない、という雰囲気はありありと感じられた。
 尖った唇が、まるで槍かなにかのようだ。拗ねている綱吉の頭をもうひと撫でして上向かせ、雲雀は隙だらけの額を思い切り、指で弾いた。
「あで」
「誕生日おめでとう」
「ふわわ、わっ」
 無防備だったところを襲われて、直撃を食らった綱吉が後ろに仰け反ってたたらを踏んだ。赤くなった額を両手で庇い、鼻を膨らませて不満を露わにする。
 直後向けられたひと言に、彼は怒っていいのか、笑っていいのか分からなくなってしまった。
 足元までもが浮ついて、巧く立てない。崩れた重心を懸命に支えながらぎこちないステップを踏んで、叩かれてもない耳まで真っ赤に染める。
 二度目の尻餅だけは回避したかったのだが、その願いは叶わなかった。
「い、った~~」
 尾てい骨を強かと打ち付けて、痺れが足の先まで突き抜けた。ゾクゾクと来る寒気に身を震わせて悲鳴をあげたら、右手を伸ばした状態で停止していた雲雀がぷっ、と噴き出した。
 誰の所為でこうなったと思っているのだろう。喉を鳴らして楽しげに笑う彼を恨めしげに睨み、綱吉は痛む箇所を両手で支えて身を起こした。
 まだ笑っている雲雀に肩からぶつかって行って溜飲を下げ、鼻を鳴らして腕を下ろす。
「痛む?」
「腫れたらどうしてくれるんですか」
「引くまで撫でてあげる」
「……もう平気です」
 尻だけ巨大な化け物になった自分を想像して言ったら、雲雀は軽口を叩きながら手を伸ばして来た。なにやら怪しげな手つきを見せられて、身の危険を感じた綱吉は慌てて後退した。
 迫り来る右手を払い除け、本気で残念がっている彼に肩を落とす。
「おめでとう」
 俯いたところを狙い澄ましたようにまた言われて、パッと顔を上げた時にはもう、雲雀の顔はいつもの無表情に戻ってしまっていた。
 意地悪く細められた瞳が、どうにも腹立たしい。綱吉が逐一過剰に反応して、色々な動きを見せるのを楽しんでいるのだ。
「心が篭もってません」
 ぷーっ、と風船のように頬を膨らませてそっぽを向いてやるが、それも彼には面白いらしい。嫌味のつもりで言ったのに通じていなくて、綱吉は悔しげに地団太を踏んだ。
 ひとり挙動不審に動き回る彼に苦笑して、雲雀は細い肩をぽん、と叩いた。
「沢田」
「ヒバリさん」
 今日初めての朗らかな笑顔を向けられて、綱吉は膨れ面を解いて目を輝かせた。
 しかし。
「僕の前で授業をサボろうだなんて、覚悟は出来てるんだろうね?」
「えーっ」
 にっこりと告げられた内容に、彼は瞬時に、素っ頓狂な声をあげた。
 背伸びをして拳を振り回し、駄々を捏ねて煙を吐く。
 折角授業がなくなって、自習になって、獄寺や山本たちを振り切って雲雀を探しに来たのに、この扱いは酷い。彼は自分に会いたくなかったのか、と目で訴えれば、雲雀は意味深に口角を歪めた。
 不遜な態度を向けられて、綱吉はぐっと息を飲んだ。
「仕方が無いね。誕生日だから特別に、許してあげる」
「えっ」
「プレゼントだよ」
「え……」
 耳から入って来た情報に踊らされて顔を綻ばせた瞬間、奈落の底へ突き落とすひと言を告げられて、綱吉は唖然となった。
 総毛立ち、零れ落ちんばかりに目を見開いて凍りつく。
「え?」
 声を弾ませたかと思えば絶句して、目を瞬かせた後はカクン、と首を右に倒す。
 雲雀は大道芸人の小芝居を見ている気分で彼の変化を見守り、こみ上げる笑いを懸命に咬み殺した。
 今日は十月十四日。沢田綱吉の、十四歳の誕生日。
 その記念日に対する贈り物が、遅刻を見逃してやるという温情だと、雲雀は言う。
「えー!」
「五月蝿い」
「あいたっ」
 順序だてての整理が終わった頭がようやく弾き出した結論に、彼は学校全体に響き渡りそうな大声をあげた。
 直後に痛い一撃を食らって、彼は涙目で目の前の青年を睨んだ。
「そんなー」
 一年に一度しか来ない誕生日、そして十四歳のそれは一生で一度きり。今日が来るのを綱吉がどれだけ待ち望み、期待に胸膨らませていたかを知らないから、雲雀はこんな酷いことが言えるのだ。
 ぶすぶす黒い煙を吐いて口を尖らせた彼に肩を竦めて嘆息し、雲雀は目に見えて落ち込んでいる少年の頭を撫でた。
 最初の頃に比べればずっと優しく、丁寧に。しかし梳いている途中で絡み合った毛先に指が引っかかり、痛がった綱吉は下膨れた表情で顔を上げた。
 ぶすっとしてはいるものの、見た目の愛らしさの影響が大きすぎて、雲雀の頭には可愛いという形容詞しか出てこなかった。
 随分と毒されつつある。自分でも馬鹿だと思いつつもどうしようもなくて、彼は開き直ってこの心境を受け入れた。
 蹲った綱吉に潤んだ瞳で睨まれて、少しだけ胸が高鳴った。
 もっと意地悪をしたら、次はどんな顔をするだろう。どこまでやったら泣いて、どうすれば笑うかを色々とシミュレートしているうちに、顔が勝手に緩んでいった。
「うぅぅ」
 雲雀が自分を玩具に色々妄想しているとも知らず、綱吉は低い声で唸って鼻を膨らませ、悔し紛れに彼の長い脚を殴った。
 手痛い一撃を臑に受け、さしもの彼もその場でよろめいた。
「沢田」
「ふーんだ」
「まったく。……冗談だよ。なにが欲しいの?」
 声に出してそっぽを向いた可愛らしい恋人の横顔に目を細め、呆れ交じりを装って問いかける。パッと表情を花開かせた綱吉が振り返るのに、ものの一秒も掛からなかった。
 これだから、一瞬たりとも目が離せなくて困る。彼が織り成すあらゆる表情をこの目に収めるにはどうすれば良いか、真剣に考えてしまいたくなって、雲雀は自重を働かせてわざとらしく咳払いをした。
 ズボンの汚れを払い落として意気揚々と立ち上がった綱吉は、紅潮した頬を嬉しげに緩め、広げた両手を胸の前で叩き合わせた。
「あの、今日の夜なんですけど。実は俺ん家でパ……」
「断る」
「まだなんにも言ってないじゃないですかー!」
 ゴム鞠のように跳ねる彼の声を皆まで聞かず、雲雀はきっぱり、言い切った。
 内容は容易に想像できた。パで始まる単語など、そう多くはない。しかも今夜と時間が指定されているのだ、パーティー以外であるわけが無い。
 欲しい物を訊いておいて、あっさり掌を返した雲雀に怒鳴り、綱吉は鼻息を荒くして奥歯を噛み締めた。
 もっとも、この返答はある程度予想していた。まさか一秒たりとも迷ってもらえないとは、夢にも思わなかったが。
 ちょっとは考えて欲しかった。所詮はその程度なのかと哀しくなって、綱吉は握り拳を上下にブンブン振り回した。
「僕に群れろって?」
「でも、でも。俺の為なら少しくらいは」
「嫌だ」
「ヒバリさんのケチ」
 是が非でも呼びたい綱吉と、何が何でも行きたくない雲雀の話し合いに、妥協の余地は無い。睨み合いは結局綱吉が先に音をあげて、降参だと両手を高く掲げた。
 みんなと一緒に祝って欲しかったのだが、期待するだけ無駄だった。
 もっとも雲雀が登場したら、他のメンバーが全員凍りつきそうな気もした。
「……気を遣ってくれた、わけないよな」
 今度は雲雀が腕を組んで、そっぽを向いてしまっていた。不満げにしている彼を盗み見て、綱吉はちらりと思い浮かんだ想像を、首を振って否定した。
「ぶぅ」
 膨らませた頬を一気に凹ませて豚のように鳴き、彼は何もない空間を蹴って雲雀に背中を向けた。
 姿勢を戻した雲雀は腕を解き、拗ねている後姿に苦笑して前髪を掻き上げた。
「で。何が欲しいの?」
「今夜俺ん――」
「それ以外で」
 質問に瞬時に振り返った綱吉が声を高くするのを遮り、雲雀はそれだけは断固として拒否すると言い放った。
 張りのある、そして厳しい声色に鼻を膨らませ、どうやっても最後まで言わせて貰えない綱吉は地団駄を踏んで金切り声を上げた。
 黒板を爪で引っ掻いた時の、あの不快感が蘇って、雲雀は彼の顔の真ん中にある突起物を抓んで右に捩じった。
「ふぎゃ」
 サムターンではあるまいに、そんなところを捻ったところで、綱吉の心は開かない。もぎ取られる恐怖に負けてじたばた暴れだした彼に肩を竦め、雲雀は何も言わずに手を引っ込めた。
 ひと際赤味を増した鼻を両手で包み込み、綱吉は牙を剥いて狼藉を働いた男を威嚇した。
 折角の誕生日だというのに、お目出度い雰囲気がちっとも感じられない。本気で彼に好かれているのかふと不安になって、綱吉は頬を膨らませ、口を尖らせた。
「沢田?」
「今日くらい、大目に見てくれてもいいじゃない」
 ぼそりと呟かれた声は、途切れ途切れに雲雀の耳にも届いた。
 俯いてしまった彼の白い項に見入り、すっかりいじけてしまった恋人に目を細める。
 この辺りで飴のひとつでも与えてやろうかと考えて右手を伸ばし、華奢な身体を抱き寄せようとしたところで。
「もういいです!」
 叫び、綱吉はくるり、と反転した。
 紺色のベストからはみ出たシャツの裾が、ふわりと浮き上がって沈んだ。踏み潰された上履きの踵が見えたのはほんの一秒足らずで、直ぐに丈が長めのスラックスに隠れてしまった。
 風を受けてそよぐ髪は、豊かに実る稲穂のようだった。
「沢田」
「ヒバリさんなんか、……いいです!」
 一年に一度きり、そして一生で一度だけの記念日を、綱吉はずっと心待ちにしていた。胸を時めかせ、楽しみにしていた。
 これまでにないくらいに大勢の仲間が集まり、祝福を約束してくれた。リビングに入りきるだろうかと不安になるくらいに、本当に沢山の友人が顔を揃えるはずだった。
 獄寺や山本、京子とハルのみならず、イタリアからはわざわざディーノが駆けつけてくれた。ロマーリオも当然一緒だ。
 シャマルも来る。ロンシャンも参加をすると、呼んでもないのに手を挙げた。居候の子供達も、場を盛り上げるのに一役買ってくれる。
 みんな、綱吉の大好きな人たちだ。
 だからこの輪の中に、雲雀も混じって欲しかった。
 伸びてきた手を叩き落とし、綱吉は目を吊り上げて奥歯を噛み締めた。
 振り向き様に怒鳴って唾を飛ばし、仰け反った雲雀が吃驚仰天している姿に思い切り舌を出す。
 彼が後ろにふらつくのを珍しいだとか、そんな風に思う余裕もなかった。ただ悔しくて、哀しくて、寂しくて、こんな思いやりのない男を好きになってしまった自分がとことん情けなかった。
 堪えていないと涙が溢れて来て、歯を食い縛る。自習時間だからといってうろつかず、教室に戻るよう言われたのも思い出して、その通りにしてやろうと綱吉は右足を地面から浮かせた。
 なにかと忙しい雲雀も、授業中のこの時間帯ならば多少は余裕があるだろうからと、クラスメイトのふたりを振り切って出て来た。
 応接室のドアをノックしても反応がなかったので、きっと此処だろうとあたりをつけて階段を駆け上った。息せき切らして、諦めずに探し回ってやっと見つけた時は、あんなにも嬉しかったのに。
 萎んでしまった心が苦しくて、彼は制服の上からぎゅっと胸を押さえ込んだ。
 それをふわりと、風が包んだ。
「……あ」
「沢田」
 地面と再開を果たした右足が、その場で凍りついた。続けて浮かせようとしていた左足は、接着剤でも使われたのか、ぴくりとも動かなかった。
 上履きから一センチほど距離を置いていた踵が、音もなく沈んでいった。斜めになっていた上半身は静かに後ろに流れて、垂直を通り越して鈍角を作り上げた。
 耳元で囁かれた吐息に、きゅっと、ただでさえ萎んで小さくなっていた胸が引き絞られた。
 溢れ出す切なさで息が苦しい。生まれた瞬間から当たり前に出来ていた呼吸の方法を忘れて、綱吉は瞠目した。
「さわだ」
 紡ぎだされる言葉のひとつひとつが宝石のように輝き、彼らの足元を埋めて行った。
 ヒクリと喉を鳴らし、緊張を露わにした綱吉は、胸に重ねられた手を引き攣らせた。微かな震動を受け止めた雲雀が、後ろからの拘束をほんの少しだけ緩め、仰け反り気味だった彼を真っ直ぐ地面に立たせた。
 ぎゅうぎゅうに小さくなっていた内臓が元のサイズに戻り、本来の活動を再開させた。どっ、どっ、と鳴る心臓だけが、頭の中に引越しでもして来たかのように五月蝿かった。
 雲雀の指が息を飲んだ綱吉の喉をなぞり、顎を撫で、頬を擽り、離れて行く。徐々に遠ざかる体温にゾッとするほどの寒気が走り、綱吉は咄嗟に彼の右手を掴んだ。
 パシッ、と乾いた音が鼓膜を打つ。皮膚を通して全身に広がる他者の熱にハッとして、彼は今し方自分が取った行動の意味に気付き、背筋を粟立てた。
「や、あ。あれ?」
「どうしたの?」
 後ろで雲雀が笑っているのが分かる。顔は見えないのに、彼が今どんな表情をして自分を見下ろしているのか、手に取るように想像できた。
 目を細めて、少しだけ右の口角を持ち上げ気味に。声を立てない忍び笑いは、彼の得意分野だ。
 囁かれて、答えられなくて、綱吉は仕方なく握った手に力をこめた。
「痛いよ」
「お返し、です」
 自分はもっと、胸が痛かった。言葉尻に滲ませて不満を吐き捨てて、彼は逞しい胸板に寄りかかった。
 受け止めた雲雀が呵々と笑って、愛おしげに綱吉を支えた。
 今の今まで不機嫌だったのが、まるで嘘のようだ。カラコロと楽しげに笑った綱吉に目尻を下げて、雲雀は雲が泳ぐ大空を仰いだ。
「今夜」
「……え?」
「パーティーが終わる頃」
 聞こえた言葉に一瞬どきりとして、綱吉は雲雀の上腕を掴んで振り返った。
 見上げた彼は立て続けにそう言って人をガッカリさせたが、まだなにか企み事があるのか、不遜な態度を崩さなかった。口角を歪めて鼻を鳴らし、声を潜めて綱吉との距離を詰める。
 吐息が唇にかかる近さに来られて、綱吉はついぎゅっと目を閉じた。
 キスをしたい衝動に駆られて、雲雀は欲望を飲み込んだ。
 ふるりと震える紅色の唇もまた、それを望んでいるというのが分かる。喘ぐように開閉して、隙間から覗いた赤い舌は雄を誘って妖しく蠢いていた。
 このままここで齧り付き、貪り、骨の髄まで吸い尽してやりたい。欲望の丈をぶちまけて、この綺麗な顔を汚してやりたい。
 猛り狂う欲望には限界がなく、一度覚えた蜜の味は往々にして忘れ難い。薄く開かれた瞼の向こうでは、淫靡な彩を纏った琥珀の瞳が、物言いたげに人を窺っていた。
 長い睫が微風に煽られて、なんとも艶めかしかった。
 今此処で彼を食らえたら、どんなにか気持ちが良いだろう。四時間目終業を知らせるチャイムが鳴るには、まだ少し猶予があった。
「ヒバリさん」
「今夜、パーティーが終わる頃。部屋の窓、鍵を外しておいて」
 逡巡してなかなか動き出さない雲雀に焦れて、綱吉が切なげに名前を呼んだ。その音でハッと我に返った彼は、半端なところまでしか告げていなかった内容を再度諳んじた。
 付け加えられた新たな情報に、綱吉は目を瞬かせた。
 艶っぽい雰囲気は綺麗さっぱり消え失せてしまった。高鳴った胸も徐々に収まりつつあった。
 勿体無かったという気持ちを遠くへ投げ捨てて、雲雀は言葉を噛み締めている綱吉の頭を撫でた。
 お楽しみは、十月十四日の最後に。
「君が一番喜ぶものを、部屋に置いていくから」
 耳朶に唇を寄せて囁いて、戯れに柔らかな肌に軽く牙を押し当てる。痛くはなかっただろうに綱吉は大袈裟に身を竦ませて、数秒の間を置いてホッと肩の力を抜いた。
 一番貰って嬉しいものが、夜、自分の部屋に届く。
 想像するだけで胸が時めいて、彼は堪えきれず生唾を飲み込んだ。
「プレゼント?」
 パーティー会場であるリビングには絶対足を向けないけれど、二階の、皆が帰った後の静まり返った部屋になら。
 言葉にされなかった思いの端々を余すところなく受け止めて、綱吉は真っ直ぐ頷いた彼に微笑んだ。
「じゃあ、ちゃんとリボン、結んでくださいね」
「リボン? それはどうかな」
「プレゼントなんだから、リボンは絶対でしょう」
 声を殺して笑い、光景を想像して綱吉は肩を震わせた。思いも寄らぬ一言に雲雀は眉を顰め、はぐらかそうとして失敗した。
 もし結んでおかなかったら、どうなるか。些細な事で喧嘩に発展するのは、先程の事例が物語っている。そういう時間の無駄は出来るだけ省きたくて、彼は嘆息し、抱き締めた小さな愛し子の胸元を撫で回した。
「うひゃ」
「リボンじゃなくて、ネクタイでいいかな」
 急に動き出した彼の手に吃驚して、綱吉が素っ頓狂な声を上げた。
 ビクッとした彼に小さく舌を出し、雲雀はベストの内側に押し込められていた紺色のネクタイを引っ張りだした。
 結び目に指を入れて緩めようとする悪戯な手を掴み、綱吉は口を尖らせつつも、仕方なく頷いた。

2010/10/10 脱稿